――寂しい?――

寂しい夢なんて見たことはないわ、あの日から。
私が死ぬ夢を見たあの時から
だって私は気付いたんだもの
ああ、私は寂しい思いなんてしなくていいのね?
なんて‥‥


――だから私はもう、一人の夢なんて見ないの‥‥――


 
塩味を含んだ風が髪をかき乱す。それに気付いて直そうと手を上げると先に伸びてきた細い指先が彼の髪を梳いて整える。ん?とうめいて彼はその手の主を探した。真上から覗き込んでいるのは娘の顔。彼に気付いて娘はにこりと笑みを浮かべた。そして、彼自身も自分の頭の下にある柔らかい物が娘の膝である事を悟った。
「ヘル‥‥。ああ、ごめん居眠りしてたんだね。久々の家族サービスで疲れたかな。ふぁ‥‥」
「あら‥‥じゃあもうこのまま帰りましょうか? お父様」
「ううん、楽しみにしてたんだろ?ヘル。‥‥闇野君とフェンリルは?」
「ヨルムンガンドとお兄様なら入場料を確認しに行きましたわ。そんなに長くは眠っていらっしゃらなかったのよ、お父様」
「それなら良かった。ボク達も行こうか」
「はい♪」
立ち上がって手を差し伸べると娘は嬉しそうに彼の腕にしがみ付いた。他人から見ればその姿は親子には到底見えない。いっても兄妹か、恋人か‥‥。しかしそんなものはどうでもいい。照れた様子もなく、彼は娘を連れてアクアリウムの入り口に近付く。自動券売機の傍で彼の息子とそれに抱えらた犬――実はその犬も息子なのだが――が自動券売機の上の看板を見つめている。
「闇野君、いくらだい?」
「あ、父様‥‥。土曜日なので今日は千八百円だそうです。けれど‥‥」
「けれど?」
「兄さんが‥‥ペットの同伴はどうも駄目みたいなんですよね」
「‥‥」
ペット扱いされて犬、フェンリルががんっ!とショックを受けた顔つきになる。しかし人間から見ればどう見たってペットなので仕方がない。それは仕方がないなぁとロキは言いかけるが娘は納得の行かない顔つきだ。
「せっかく家族揃ってアクアリウムに来たのに、お兄様だけ入れないなんて可哀相‥‥」
「ん〜、ようはペットに見えなければいいんだよね♪。こっちにおいで♪フェンリル」
「うん♪ダディ♪。でもどうするの?」
「ボクが抱えてる時だけぬいぐるみに見えるように魔法をかけるんだよ♪。大体アクアリウムの中は暗いから大丈夫♪。入場料も浮くしね♪」
彼の言葉に息子二人が陰で嫌そうな顔をしたが彼は構わず券売機に一万円札を入れて三人分のチケットを買った。それが配られると諦めのため息をついて息子、闇野は父と姉の後からアクアリウムの中に入った。外の海が見える大きな窓を右手に見ながら薄明るい館内を進むとすぐに円筒の水槽がある。歓声を上げて姉が駆け寄ったそれには銀色のうろこをきらめかせた魚の大群が一方向に向かって泳いでいた。
「見て見て♪お魚よ♪」
「ただ銀色なだけなのに綺麗ですね‥‥。ん‥‥?これはもしや‥‥鰯ではないですか‥‥?」
「そうみたいだね、カワハギもいるよ。近海の海の魚じゃないかな?」
「どれがカワハギ?お父様」
「あれだよ。茶色い平たい魚だ。あ、ちょうどこっちに向かってくる」
「わぁ♪可愛いお魚♪」
可愛い♪と姉に称された魚を見て闇野はやはり調理方法を思い浮かべてしまった。此処まで来ると病気かもしれない。兄の方を盗み見るとダディ♪あれは?と媚びつつもよだれが出そうになるのを堪えているのが見て取れる。
「こ、此処はもうやめて先に進みましょうよ、姉さん! ほら、魚屋さんに行けば見れるでしょう?」
「え?でも‥‥魚屋さんのお魚は動いてないわ‥‥」
「ふふっ見ててさばきたくなっちゃった?闇野君。行こう、ヘル。この先には大水槽があるそうだよ」
「大水槽?♪どんなお魚がいるのかしら♪」
「えっと、パンフレットによるとコバンザメやエイ、鰯にウツボ‥‥といろいろいるみたいですよ、姉さん」
「頑張って全部探さなきゃ♪ね?ヨルムンガンド」
反射的にええ、と頷いて闇野はふと我に返る。全部って一体何種類くらいいるのだろう‥‥。というかどのくらいで姉が満足してくれるのか‥‥。先に進む父と姉の背を追いかけて走って行った闇野は不意に立ち止まる。先程までの薄明るい通路とは違う、その先はまったくの暗闇に包まれた通路だった。先に行った二人の姿すら見えない。不安に竦んだ足はまったくいう事を聞いてくれそうにない‥‥。
「闇野君?」
「ヨルムンガンド!」
うずくまる闇野の耳に父の声は遠く、姉の声は近く聞こえた。そっと優しい手が触れる。姉は自分のために駆け戻って来てくれたのだ。大丈夫?と問う視線がやや病的に彼を心配している様子をうかがわせる。
「私がアクアリウムに行きたいって言ったから? だから無理してたの?ヨルムンガンド」
「いえ、魚は平気ですよ。此処は見ててとても綺麗ですし。でも、暗闇はやっぱり‥‥。姉さんも父様も見えなくなって‥‥少し思い出してしまいました‥‥。もう大丈夫です、行きましょう、姉さん」
立ち上がって笑いかけると不安そうに見ていた姉の顔が笑みに揺るむ。そして姉は先程父にしていたように闇野の腕に自分の腕を絡ませた。
「先に行ってごめんなさい♪一緒にいきましょう♪」
「姉さん!? は、恥ずかしいですよ‥‥」
「いいじゃない?姉弟なんだからさ。ほら、大水槽はそこにあるよ」
「わぁ♪」
歓声を上げて駆け出すヘルに半ば引き摺られて闇野は淡い蒼にライトアップされた巨大な水槽に駆け寄る。吹き抜けになった上には別の通路があるようで建物二階分よりも大きな水槽が堂々と聳え立っていた。その中をある物は優雅に、ある物はせわしく、たくさんの魚達が泳いでいる。
「あれは何!? 大きな魚のお腹と背中に小さなお魚がついてるわ!」


「コバンザメじゃないかな? コバンザメ同士がくっついているのが一般的だけどたまに別の魚も居るみたいだよ」
「じゃああのひし形のひらひら泳いでるお魚は!?」
「あれがエイですよ、姉さん。ほら、あっちの銀色の群れはさっきもいた鰯です。鰹も居ますね、それともマグロなんでしょうか‥‥? 姉さん、これは全部見るのは困難ですよ‥‥」
「でも綺麗よ!ちゃんと全部見たいわ!」
「大水槽もいいけどヘル、此処にへばりついてたら全部は見れないよ? 此処には他にもいっぱい水槽があるんだ、閉館までに全部見れるかな?」
「時間が余ったらまた此処に戻ってくればいいよ、ヘル。次の水槽に行こう」
弟と兄の諭しには拗ねていたヘルだが父親の優しい申し出には素直に頷いて歩き出した。次はエスカレーターに乗って上に進む。その天井もトンネル上の水槽だ。わぁ♪ご機嫌を直した歓声を上げてヘルは首を上に向ける。そのまま仰け反りそうで闇野は慌ててその背を押さえた。
「でも、何で急にアクアリウムに行こうなんて言いだしたんです?姉さん」
「貴公が居たのが海だったから」
「え?」
「お兄様が囚われてた場所は行けないから分からないけど、貴公の囚われてた海の中なら、此処にくれば貴公の気持ちを分かってあげられる気がしたの」
「優しいね、ヘルは。ボクは、そんな事今まで思いもしなかったよ」
「だって、だってヘルはわがままだったのですもの‥‥。だから、ヘルだけじゃなくてお兄様もヨルムンガンドも辛かったって、今からでも分かってあげたいの」
「ありがとうございます、姉さん。でもね、私の居た海はこんなに綺麗な蒼じゃなかったですよ。ただただ暗くて、冷たくて、魚も誰も来ない‥‥。あの時は本当に辛かったから、姉さんはそんな思い知らなくていいんです」
――でも、私は貴公の辛い思いも知りたいわ‥‥――
そんな言葉を拗ねた表情に浮かべてヘルは闇野を見上げた。そんなヘルに失笑しながら闇野はさらに言葉を続けた。ありったけの愛情を姉に向けて。
「私もね、正直もう分からないんですよ、姉さん。あの海は辛かったけど、この海には姉さんがいて、兄さんも父様もいて、暗いけど冷たくてなくていろんな魚がいて‥‥。だからもうあの海は思い出せないんです。だから、今はこの海を一緒に楽しんでください、姉さん」
「‥‥うん♪。ヘルは何も知らないからいろいろなお魚を教えて頂戴ね♪ヨルムンガンド」
「わ、私も詳しくないですよぉ‥‥父様ぁ」
「いいじゃない?闇野君。パンフレットがあるでしょ? 色々教えてあげなよ」
「もちろんお父様にも教えていただきますわ♪」
逆の手にヘルは彼の腕を絡み取る。おいおい、と彼がバランスを崩すのも構わず両の手に力を込めてヘルは次なる水槽に向かった。水槽の中では、閉じ込められた沖縄の海が、その海よりも蒼いコバルトスズメを住まわせて待っていた。


 館内中の水槽を周り、館外に設けられたペンギンやアシカの居る施設も回り尽くすとヘルはまた再び大水槽を希望した。水槽の向こうでは同じように優雅に、せわしく魚達が泳いでいる。この海ならば中に入っても気持ち良いでしょうね、と呟く闇野にふっと笑いかけたヘルは水槽に両の手を付けたままその視線を下ろす。
「満足したかい?ヘル。‥‥!ヘル!?どうした?」
「!いけない!ダディ!今何時?」
「え?五時前‥‥。そろそろ閉館かな?」
黄昏症候群(トワイライトシンドローム)だ!ヘル大丈夫!?」
「へ?」
「へ?ってまさか忘れてたわけじゃないですよね‥‥?ロキ様。ヘル姉さんは黄昏症候群(トワイライトシンドローム)、黄昏時になると体が睡眠状態になってしまうんですよ! 大丈夫ですか?姉さん」
水槽に手をかけたままヘルは座り込み、フェンリルと闇野の問いかけにわずかに頷く。そういえばそうだった気がする‥‥、そんなとぼけた事を思いながらロキは闇野にフェンリルの体を渡し、ヘルの肩に手をかける。
「起きられるかい?ヘル」
「うん‥‥でも、帰るまでもたない‥‥」
「闇野君手伝って。ボクがおぶってあげるから、もう少し頑張って、ヘル」
「ごめんなさい、お父様。ヘルはまだわがままね‥‥」
「子供は親にわがまま言うものさ。さ、よっと」
首にヘルの細い手がまわされ、自分の手は後ろのヘルの体にまわして彼はヘルの体を背負った。人一人背負ったとは思えない。やけに軽過ぎる体重が彼の背にかかる。
「軽いなぁ、またご飯を残したんだろ?ヘル」
「だって、食べきれなくて‥‥。ごめんなさい、せっかくヨルムンガンドが作ってくれたのに」
「いえ、少し減らしますね?姉さん」
「駄目だよ、闇野君。ちゃんと食べないと病気だって治んないだろ? 早く元気になって、そしたらまたこの大水槽を見に来るんだ、ヘル」
「‥‥じゃあ約束ね、お父様。また此処に連れて来てくれるって‥‥」
「ああ、約束だよ」
「ふふっ、お父様の背中なんて久しぶり‥‥。子供の頃に戻ったみたい」
――まだまだ子供だよ――
笑いを含んだ言葉にヘルも背中で少しだけ笑った。その笑い声は、すぐに安らかな寝息に変わったけれど。


「ロキ様、ロキ様、お疲れになられたのならベッドでおやすみになられませんと」
え?と自分の掠れた声が耳に入った。呆然とした頭で自分の手を、姿を見やる。小さい、まだ小学生くらいの子供のものだ。
「あれ?‥‥今日、ボク何してたんだっけ‥‥」
「‥‥まゆらさんと兄さんと私と四人でリニューアルした水族館に行ったじゃないですか、ロキ様。大丈夫ですか?何処かご加減でも?」
「あ、そっか‥‥まゆらと行ったんだ‥‥。どうりで、リアルな夢だと思った」
「‥‥?夢ですか?」
「あ、ううん、なんでもない、おやすみ」
「?おやすみなさいませ?」
――じゃあ、夢の中で約束した相手は、現実ではまゆらなんだね――
そう、あれは夢の話。だって娘は、もう居ないのだから‥‥。黄昏の中で、永遠に眠っている。もう、腕を組んでアクアリウムに行く事もない。
「あれ?でも、まゆら大水槽なんて気に入ってたっけ‥‥。まっいっか! まゆらの事だから明日には忘れてるだろう」




 ねぇ、父様。ヘルは良い子に一人で待ってるでしょう? 一人で、今も夢を見ているの。父様と兄様とヨルムンガンドが行った場所を、ヘルの場所を譲ったあの子と行った場所を。ヘルは病気だから、今は黄昏の中で一人で眠っているの。だからね?父様。この病が治ったら、そうしたら約束通り、『もう一度』あのアクアリウムの、大水槽の前に一緒に行ってくださいね‥‥。それまでずっと、ヘルは良い子で眠っていますから。

黄昏症候群(トワイライトシンドローム)

終わり


あとぐぁき
 今回初の原稿なし!打ち込みです(いつもは紙に下書きしないと書けない)やれば出来るもんだなぁ。時間勿体無いしできるだけこっちに慣れねば‥‥。
そしてー!〆切まであと4日♪
ぎりぎり間に合って良かった‥‥これでオレサマ的ノルマ達成‥‥(かいほー感‥‥)今回の書き下ろしの最後の品になりました〜♪。
 こちらは紗彩サマ♪への2000HIT記念♪ロキ一家のほのぼの話です♪。依頼受けた時にはロキサマとやみのっちだけだったのにいつの間にか兄さんまで‥‥(ほろり)ちなみに犬のセリフが少ないのはえあがダディモードの犬嫌いなのと一度の会話でまともに書けるのが三人までだからです‥‥(ほろり)書き下ろしの「こちら黄昏通信局♪」でやみのっち→フェンリル兄と来たので最後はロキサマだぁ!!と思ってたのに父娘より姉弟になっちゃいました‥‥(大汗)ちなみに舞台は締め切り6日前にしてたつみんと青褐っちと決行した大洗アクアワールドツアーで行った新生大洗水族館(内輪ネタ)です♪。他にもカワハギ唇どアップとかまんぼうと戯れるたつみん(謎)とかペンギンを締めるえあと嘴を引き抜こうとするたつみんとか色々おもしろい写真もあったのですが今回はまじめに‥‥。余裕全開だったらおまけにアクアワールドレポも付けます!(付けられるよう努力します‥‥(ぐはっ))こんな姉さんと弟チックSSですがよろしければ貰ったって下さい〜紗彩さん〜(ほろり)

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