| 盈 | 満 | 之 | 咎 |
夏休みだというのに、早朝からあっちでバタバタこっちでバタバタ。小さい体で行ったり来たり。まったく、ご苦労なことで、と足音だけを聞きながら太刀守 馨は心の中で呟いた。しかし夏休み真っ只中というのに朝も早くから起きて朝食まで摂っている自分もご苦労なことで、という状況にいるのだろう。登校日でもないのに制服を着て、バタバタと動き回る小さな怪獣を待ち続けること30分。その間にした欠伸は15回だ。
何らしくないことしてんだかな……。
外はすでにコンクリートの照り返しによって茹だるような暑さ。ちらりと外を見るだけで、日の光で目が焼けそうになる。それに比べてここ、馨の自宅は全室冷房が効いていておまけに少し薄暗い。家の中にさえいれば、年中同じ気温で快適に暮らせるのだ。学校が長期休業ならば、お義理で登校する必要もない。暑さや寒さで目が覚めることがないのなら、一日中ベッドでゴロゴロしていればいいのだ。
それなのに。リビングにコの字型に配置されたソファに寝転がっていた馨は、また大きく欠伸をした。腹筋を使って起き上がると、壁掛け型のプラズマテレビのさらに上に掛けてある時計を目にした。7時15分。健康的過ぎて涙が出る時間だ。これがもし女友達と遠出するというのなら、この時間に起きて着替えるのもやぶさかではないのだが。
「早くしろよ、神無。出発するぞ」
一緒に出かけるのがはとこの小学生だと思うと、何の喜びもない。おまけに登校日でもないのに自分は制服を着ているのだ。一体何が起こったのだ、と自身に問いかけたくなっても当然だろう。
「五月蝿いな、もう少し。あと包むだけだよ……よし、行くぞ、馨」
いつもなら家政婦のおばさんしか入らない太刀守家のキッチンから、小さな怪獣が風呂敷に包まれた箱を持って出てきた。馨のはとこ、太刀守 神無が朝からバタバタと動き回っていた理由がその箱の中にある。馨は目の前に立つ神無を箱ごと複雑な気持ちで見下ろした。
「お前、本当に付いてくるのか?」
昨日も同じことを尋ねたが、昨日の時点では今日になったらこの小さなはとこの気が変わるのではという期待を持っていた。今朝だって、起きてキッチンに立っている神無の姿を見るまではそんな期待を持っていた。しかし神無が自分よりも早く起きて昼食用の弁当を作り始めてからは、そんな期待も薄れてしまっていた。そして今、準備万端の装いで自分の前に立つ神無を見て、昨日からの淡い期待は粉々に砕かれ、風に流されて綺麗に消え去っていた。だから先の言葉は最後の確認というより、はとこの酔狂さに呆れて漏れた言葉だった。
「何だよ、今更。こうして弁当まで作ったんだぞ、絶対行く。馨の応援なんかしないけど、相手校の選手を見ておきたいじゃん。T校って結構良い選手出すって評判なんだぞ」
可愛さの欠片もない神無の答えだったが、馨は返って安心した。いかにも武道マニアの言いそうな返事だ。何なら試合代わってやろうか、と言いたい言葉を呑み込んで、馨は両手を挙げて降参のポーズを作った。ここで言い争いになれば勿論馨の分が悪い。いいや、取っ組み合いになっても馨の分が悪いに決まっている。時間もないし、この辺で手を打っておくべきなのだろう。
「あぁ、そう。分かった、分かりました。とにかく行こうぜ。俺だけ遅れていくわけにいかねぇし」
そう言われれば神無にも反対する理由はない。かくして馨は夏休みに入って橙を強くした茶色の髪と、耳には銀のピアス、仕上げにN高校の夏服といういでたちで太刀守の専属ドライバーの運転する車に乗り込んだ。その隣には神無が檸檬色のキャミソールに紺色の綿のハーフパンツという格好で、風呂敷に包んだ二段重ねの重箱を抱えて座った。
太刀守 馨がガールフレンドとのデートでもないのに、夏の日に早起きをした理由は何だろうか。馨の通う私立N高等学校は自由な校風が売りの高校である。生徒は部活動に縛られず、小学校から大学までほぼエスカレータ式のため学業のみに縛られることもない。自由な校風が売りというのだから勿論部活動には生徒の意思で自由参加なのである。現に馨は部活動には所属していない。だがそうして生徒に部活動参加を強制させないため、N校は創立以来特に運動部に関して目立った成績を残すことが出来ていない。部活動なんて趣味の範囲でやれば良い。それほど熱中することでもあるまいというのが馨の考えであり、学校側も馨と近い考えなのだろう。
しかし実際部活動として活動を許されている団体は、もっと違った考えを持っているのだ。やるからには高校時代に少しでも実績を上げたい。馨にしてみれば大笑いの考えだが、特に他校からも弱小のレッテレルを貼られているN校の運動部は毎年部員集めと壮大な目標を立てることに熱中している。
剣道部もその例に漏れない。N校の剣道部は部員数5名。一時期は部員数も10名を超えていたが、紆余曲折があり団体戦に出るにもギリギリの人数というところまで追い込まれている。今年の途中からでもいい、新入部員が欲しいと来年卒業の部長が考えるのも無理はないだろう。だが、新入部員を入れるためにはいかんせん部としてのインパクトが足りない。そこで部長は捨て身の作戦を立てたのだ。八王子のT高等学校剣道部は長い歴史があり、優秀な選手を育てている高校でもある。そこに交流試合を申し込んで、団体戦で勝てば部活の知名度も上がるというもの。幸い部長個人はなかなかの実力を持つ剣士。弱小のN校と交流試合ということになれば、T校は手を抜いて新入生でメンバーを揃えるだろうと踏み、勝ち抜き戦ならこちらにも勝ち目があると少々卑怯な思惑でもって、顧問の中谷先生を通して試合を申し込んだのだ。
T校は実力校の余裕でもってN校の申し出を受け入れた。しかしここで部長の思惑が大きく外れたのである。武士道の精神を重んじるT校は弱小校相手にも誠実であった。事前に知らされた対戦メンバーは2年生を中心とした発展途上中の実力メンバーだったのだ。焦ったところに不幸が重なった。部長とともに3年間剣道部を支えてきた副部長が試合の1週間前になって突然夏風邪で倒れたのだ。
5人いなければ団体戦は成り立たない。しかしそこで何故馨に白羽の矢が立ったのか、部長は言葉を濁して語らなかった。確かに馨には長く続かなかったが剣道の経験があったし、腕もなかなかのものである。しかし本人は学校でそれを語ったことはなかったし、助っ人といえど剣道の団体戦なんて暑苦しいものに参加するのは嫌だった。大体助っ人である馨が試合に勝ったとして、その実績でもって新入部員を勧誘するのは詐欺ではないか。馨はしつこく助っ人の依頼をしてくる部長にそう言ったが、剣士としての誇りも男の面子もかなぐり捨てて泣きつく部長にとうとう折れた。今回限り、と強く念を押してT校剣道部との交流試合に参加することとなったのである。
試合は勝ち抜き戦なので、先鋒、次鋒、中堅、までを正規の剣道部員とし、副将に部長が入る。部長が頑張って勝ち抜けば助っ人である馨の出番はない。もし部長が負けたときは主将の馨が戦うことになるのだ。なるべくは剣道部員が頑張って勝ち抜くという約束なので、もしもの時はお情けで一人くらいは勝ち抜いてやろう、と馨は思っていた。
車の中で神無に危ないからと指摘され、馨は渋々耳につけていた銀のピアスを外した。交流試合の会場は八王子市の体育施設だ。太刀守の運転手はうまく裏道を使って渋滞を避け、時間前にその施設に車を到着させた。馨は車を家に帰し、神無を伴って試合の行われる体育館へ移動した。だが体育館に近づくにつれ、馨は部長の泣き落としに負けたことにたいする後悔が強くなっていくのを感じた。
「何でただの交流試合にこんなに人がいんだよ……」
会場となる体育館の周りには、明らかに剣道の試合を見に来たと思われる人の塊。選手の父兄や高校のOBらしき男性達。そしておそらく、というか十中八九T校の応援に来たのだろうという女子高生までいる。馨にとって幸いなことに、今目に入る範囲では馨の知り合いはいなそうだ。
「だからN校の試合じゃなくて、T校の試合を見に来てるんだろ」
周囲を必死で確認する馨の隣で、呆れたように神無が言った。そんなことは分かっているのだ。弱小N校の応援をしに来る奴なんていないことぐらい。だが馨のガールフレンドはなにもN校のみに存在するわけではない。ついでに言うなら、同級生だけとも限らないのだ。うっかり剣道の試合になんて出ているところを見たれたら、後で何を言われるか分からないではないか。
そんな馨の心情を知らない神無は、立ち止まってそのまま回れ右をして帰りそうな馨の背を押し、会場となる体育館へ馨を連行した。体育館に入ると、左右の壁面にある2階の観客席には、すでにちょろちょろと人が座っていた。特に左右のどちら側がT校の応援席というわけではなさそうだが、どちらの応援に来たのかなんて雰囲気で分かる。
「でもさ、ここで馨が勝ったら、ちょっと気持ち良いかもね」
少し興奮した様子で言った神無に、馨は思わぬことを聞いたと目を眇めた。そんな英雄じみた行為、格好悪くてできるわけがないではないか。とにかく馨は下手に目立たず、なるべく正規部員を立てた試合をして迅速にこの交流試合を終わらせたいのだ。
「馬鹿言うなよ。俺はただの助っ人。人数合わせなんだからな」
馨がそう言うと、神無はどこか不満そうに口を尖らせた。何を期待しているのだか分からないが、名門校の2年相手にちょっとかじっただけの馨が簡単に勝てるわけがない。
「太刀守!」
N校側となる体育館の正面から名前を呼ばれて、馨は神無に向けていた目を上げる。そこにはすでに剣道着に着替えたN校の剣道部員が、顧問の中谷と一緒に馨を待っていた。馨は軽く手を挙げてそれに答え、改めて神無の方を見やった。
「うっす! 神無、お前観客席にいろよ。ったく、これだけ多いって知ってれば、保護者を連れてきたのになぁ」
先程の馨の発言に何故か不満を感じたらしい神無は、ここにきてさらに立腹した様子を見せた。涼しい顔をして子供は子供扱いされると怒る、と馨は内心そう思ったが、思っただけに留めておいた。
「馬鹿馬鹿しい。馨よりあたしの方が強いし、馨以外の奴でも同様! あたしの心配より自分の心配しなよ。へっぽこな試合したら許さないからな!」
どう許さないのか、なんて聞く必要もなかった。神無は小さな右足で、馨の左足を思い切り踏みつけたのだ。つまり神無の言うところの“へっぽこな試合”をすると、これ以上の目に合わせてやるからという脅しだ。幸い神無の体重は軽く、靴は平べったいサンダルだったので、ヒールの踵で踏まれる痛みに比べればなんてことはなかった。だがそれでも試合を控えた選手に対して、あまりの暴挙ではないだろうか。それも怒るのを見越して暴言を吐いた自分が文句を言うことではないのかもしれないが。
「くそ餓鬼……」
これくらいは許されるだろう、と既に観客席へ上がるために身を翻していた小さな怪獣の背を見ながら馨は小さく呟いた。
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