落ちる砂
満ちる月
広がる不満
水晶で、窓ガラスで、その瞳で、
僕を遠ざける砂時計、月……そして君

これは嫉妬だ――

砂時計

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 僕ら皆、君のことが大好きなんだ。

 その言葉が嘘であるはすがなかった。抱きしめてくれるジェームズの全身。ローブの端をしっかと掴むピーターの両手。しきりに頭を撫でてくれるシリウスの右手。その温かさが、夢であるはずがなかった。

 リーマスは幸せだった。これ以上にないくらい幸福だった。涙が止まらなくて、リーマスは初めて涙が悲しみ以外でも流れることを知った。子どものように泣いて、その間ジェームズの手が背を撫でていてくれた。ひとしきり泣いた後、リーマスは友人達に言った。


「君達を信じる。だから、絶対に暴れ柳を越えるようなことはしないで欲しい」


 彼らに知られて、それからの満月は嘘をつかなくてもすむようになった。勿論3人以外には相変わらずだったけれども、それでもリーマスは心の荷が軽くなったように感じた。3人は決まってリーマスが放課後医務室へ行く前に、リーマスに会いに来るようになった。しかし医務室までついてくることはしなかった。教師達に知られてはいけないからだ。リーマスの秘密を知っているということは、彼らだけの秘密だった。それがリーマスのここでの生活を守るためだと、分かっていたからだ。

 彼らには分かっていた。しかしそれでもどうしようもない感情が、彼らの中にあることをリーマスは知っていた。だからあの時、釘を射すようにあの言葉を言ったのだ。彼らは優しい。きっと友人があの屋敷で独り、自らの身体を傷つけて、そうしてここに帰ってくるのを待つだけの現状に不満を持っているだろう。しかし彼らにはどうしようもないことだとリーマスには分かっていた。友だからこそ、彼らを危険な目に合わせたくない。人狼は危険なのだ。それは疑う余地もないことだった。そして変身した時に起きたことは、例え意識がなくても全て自分の責任だ。

 そう、あれも僕の姿だ。

そして危険だからという理由以上に、あの姿を3人に見て欲しくなかった。彼らを信じている。見られたからといって、彼らは離れたりはしないだろう。

 でも、見られたくないんだ。

一番顔に出る――と最近気が付いた――シリウスが、リーマスが思った通りの感情をちらつかせながら、医務室へ向かうリーマスを見ていた。リーマスはそれに対して、唇だけで“ごめんね”と言った。

 いつものように医務室を訪ねる。マダムがいるはずの事務室へ顔を出すと、そこにマダムはいなかった。代わりに事務室の椅子でリーマスを待っていたのは闇魔法に対する防衛術の教師、リオン・グリスだった。怪我でもしたのだろうか。

「……グリス先生?」

 マダムは、と訊く前にリオンが振り返って笑いかけた。

「あぁ、リーマス。待っていたよ。今日はマダムが出張なさっていてね。急な事だが、大きな争いがあったらしい。救護の手が足りないそうだ。明日の朝には間に合うということだが。君に謝っておいて欲しいとおっしゃっていた」

 こんなことは初めてだった。しかしリーマスも外の状況を知らないわけではない。大きな争いがあってもおかしくない状況なのだ。ここにいるとそんなことも忘れてしまいそうだけれども。

「今日は私が屋敷まで一緒に行くよ。準備はいいね」
「はい」

 一瞬、マダム以外の人がついてくるのはおかしいと思ったけれども、教授陣はすべてリーマスのことを知っているのだから、別におかしなところはない。この教師の自分への接し方があまりに他の生徒と同じだったから、錯覚してしまったのだろうとリーマスは思った。

 医務室を出て、暴れ柳への道を歩き出す。一歩踏み出した次の瞬間、リオンの手が自分の手に触れて、リーマスは咄嗟に身を硬くした。それに気付いたリオンは、すぐに手を離してしまった。リーマスはこの教師が気分を害したのだと思って戸惑った。何と言えば良いだろう。ちょっと驚いただけだと言えば、信じてもらえるだろうか。リーマスはとにかく何か言わなくてはと思って、怖かったけれどもリオンを見上げた。リオンは優しく微笑みかけるだけで、別段気分を害しているような様子はみられなかった。リーマスは何も言えなくなってしまった。俯いてリオンから目を反らすと、リオンの手が再び伸びてリーマスの手を捕まえた。マダムのように柔らかな手ではなかったけれど、その手は大きくて、とても温かかった。

「手を繋ぐのは好きではない?」

 リオンが静かに訊いた。

「え……、いいえ。ただ僕、その……慣れていないので」

 何となく間の抜けた答えだと思って、リーマスは赤面した。リオンはただ頷いて、リーマスの隣を、手を繋いだまま歩いた。暴れ柳はいつものようにビュンビュンと音をたててがむしゃらに枝を振り回していた。その前に立ち止まって、リオンは杖を取り出すと、暴れ柳を鎮めた。柳の下を通って、2人は叫びの屋敷にたどり着く。階段を上りながら、リオンはずっとリーマスの手を握っていた。やがて部屋に着くと、リーマスは1人で部屋の中へ入る。その背に、リオンの声が届いた。

「リーマス。1つ教えてあげよう。私には人狼の友人がいた」

 リーマスは驚いて振り返る。深い闇の中で、リオンはただ微笑んでいた。

「君もここで友を得る。とても大切な、生涯に渡る友人を」

 その予言めいた言葉は、リーマスの心を乱した。

「……先生……?」

 もしかしたらこの教師は知っているのではないだろうか。彼らがリーマスの秘密に気付いたことを。漠然と、リーマスはそう思った。呆然としているリーマスを見つめ、リオンはやはり優しく微笑んで続けた。

「占い学の教師ではないけれどね。これは当たるよ、リーマス」

 重い扉の閉まる前に、リオンの手がそっとリーマスの髪を撫でていった。


 リーマスはその夜夢を見た。普段は満月の夜のことなど覚えてもいないのに。その夜、リーマスは確かに、夢の中で自分の側に一匹の黒豹がいるのを見た。満月に照らされたその黒く美しい獣は、慈しむようにリーマスの頬を舐めた。


 次の日マダムが迎えに来た時、リーマスの自傷は普段よりも明らかに少なかった。


 あれから3ヶ月が過ぎて、ジェームズは何となく彼がこう言ってくることを、心の隅で願っていた。それはとても卑怯なことだと、ジェームズは思っていた。しかしジェームズは決して自分の口からそれを言うことはできなかったのだ。彼はまたぐるぐると考え込んでしまい、その迷路から抜け出すことができなくなってしまっていた。

「次の満月。リーマスについて行こう。透明マントを使えば気付かれない」

 部屋には他の2人の生徒もいたけれど、その2人はすでに寝入っていた。天蓋を降ろして、ジェームズはシリウスのベッドの上に座っていた。潜めた声が、やけに耳に響く。

「駄目だ。リーマスに言われただろう。絶対に暴れ柳を越えるようなことはしないで欲しいと」

 僕は卑怯だ。

 本当にそう思った。シリウスにこの話題を振らせたかったのだ。自分の頭の中を整理するために、彼を利用している。しかし不思議なことだとジェームズは思う。何故自分はシリウスに出会ったのだろう。彼がいなければ、ジェームズはこうして自分を作ることさえできなかっただろう。ジェームズには彼が必要で、人の出会いが運命ならば、ジェームズは余程幸運だったに違いない。

「リーマスは怖いんだ。僕達に狼の姿を見られるのが。まだ僕達が、自分から離れると思っている。まだ僕達を信用していない」

 そうだ。その通りだと思う。しかし、ジェームズは言い返した。

「でもそれを責められるか? リーマスはそうやって生きてきたんだ。たかが知り合って1年半の僕らに、彼の領域に踏み込むようなこと、できるわけがない」

 苛々した様子を隠しもしないで、シリウスは応える。

「じゃあ、いつまで待てば良いんだよ。どれだけ過ごせば許される? 最初から踏み込むつもりで声をかけたんだろう! 違うのか?」

「違わない。僕らはもう踏み込んだ。でもこれ以上は踏み込めない。これ以上リーマスを傷つけることはできない!」
「そんな中途半端で終わるのなら、どうして最初に話しかけたりしたんだよ!」

 ジェームズは唇を噛んだ。シリウスはジェームズの中で対立する2つの考えの一方を、完全になぞっていた。まるで姿の違う自分と話しているようだった。

 確かにシリウスはリーマスに話しかけることを戸惑った。踏み出したのはジェームズの方だ。シリウスは自覚のできないところで感じていたのだろう。一度踏み込んだら、砂時計の砂が落ちることしかできないように、進み続けるしかないということを。

 否!
 何か他にもあるはずだ。何か、一番良い方法が。

 しかし何故か心臓が早鐘のように打ち、ジェームズを急がせる。ここを平和だと感じる。しかし完全に安らいだと思ったことは一度もない。グリフィンドールかスリザリンか。ダンブルドアかヴォルデモートか。どちらの側か中立か。この学校の中にも、そんな考えが浸透している。早いものは入学前から、心を決めている。

 そうだ。僕はリーマスを渡したくない。
 僕と一緒に進んで欲しい。
 確信が欲しいのだ。早く!

頭の中で落ち着けという声が聞こえた。しかしジェームズの鼓動はどんどん加速していく。その時ジェームズは思った。自分は悩んで、シリウスは決断した。2人の答えは同じだ。きっと、これが正しい道なのだ。

「……行く。君と一緒に行く。僕はリーマスから離れない。それを分かってもらうんだ」


 後悔しても、遅いのだからね。


消え入りそうな教師の言葉が、ちくりと胸に突き刺さった。


 リーマスはいつものように、夕方になるとマダム・ポンフリーに手を引かれて、暴れ柳への道を歩いていった。雪の上に足跡が残り、2人の吐く息は雪のように白かった。

 ピーターを交えた3人は、透明マントに隠れて先に暴れ柳の側で2人が来るのを待っていた。雪の上に足跡が残らないよう苦心して、一歩一歩足跡を消しながら来たのだ。

 マダムが杖を振った。暴れ柳はピクリと痙攣すると、やたらに振り回していた柳の枝を止めて、本当に普通の柳のように大人しくなった。リーマスとマダムが柳の下を通って奥へ消える。ジェームズが透明マントの中で頷くと、3人は揃って走り出し、リーマスとマダムの後を追った。


 とても不謹慎だけれど、僕らはその時興奮していたのだと思う。
 知恵の実に手を出した時、アダムとイブも同じように感じたのだろう。
 背筋を駆け上がる背徳感と、それに勝る高揚感。
 いま正に罪を犯そうとしているこの時の言えようもない感覚は、
 確かに人を地の底へ引きずり落とすものとして魅力的で、
 どうしようもなく強力なものだった。
 しかし、誓っても良い。
 僕はこの時自分が罪を犯していると知っていた。


 柳の下を抜けると、そこには最近ホグズミードで噂の広まっている『叫びの屋敷』があった。所々崩れかけた屋敷からは、時折何か不気味な声が聞こえるという。そんな噂を知っているのはジェームズ達が既にホグズミードへの抜け道を見つけて町に出入りしているからだ。勿論ジェームズ達はその声の主を知っていた。ただダンブルドアはこれを利用してこの屋敷には恨み深い霊がいるのだという噂を故意に流して、人を近づけさせないようにしていた。一ヶ月周期では流石に不審がる人間もいるだろうと思ったが、あたりに広がる森の、木々が風でぶつかり合うその音は、恨み深い幽霊の悲鳴のように聞こえなくもなかった。それで、上手く騙されているのだろう。

 リーマスとマダムは屋敷の2階へ上がっていく。そしてある部屋の前でマダムが立ち止まり、リーマスだけが中へ入った。3人はマダムの足元をどうにかして通り抜け、リーマスと共に中へ入った。

「リーマス、それでは明日の朝に会いましょう。……気をつけて」
「はい」

 マダムが扉の鍵を閉めた。鉄製の、重たい扉だった。何も知らないリーマスが、部屋にある粗末なベッドへ近づく。ベッドの縁に辿り着くと、リーマスはマフラーを解き、ローブを脱いだ。そしてネクタイを解き、シャツのボタンを上から順に外していく。

 その時ピーターの足が小石を蹴った。

「……誰か、いるの?」

 ジェームズ達は顔を見合わせた。そして仕方がない、と透明マントを脱ぐ。

「リーマス、僕達……」

 リーマスの顔から、残っていた少しばかりの血の気さえ引いた。

「どうして……」

 咄嗟にジェームズが口を開く。

「ごめんよ。でも僕ら……」

 リーマスはさっと格子のはめられた窓に目をやった。雪を降らせていた雲が薄くなっている。戸惑うジェームズ達を無視して、リーマスは解いたネクタイをベッドの足と、自分の手にきつく縛り付ける。

「逃げるんだ!」
「リーマス! 聞いてくれ、僕らは……」
「早く! 死にたいのか!」

 雲が切れて、月の光が力を持って部屋に差し込む。

「ヒッ!」

 ピーターが息を詰まらせた。リーマスの白い手を、顔を、人ではないものの毛が覆っていく。

「早……く……」

 次に聞こえたのは、獣のうなる声で、リーマスの声ではなかった。

 大きな音を立てて、ピーターが腰を抜かして床に転がる。ジェームズはその音で何とか自分を取り戻した。既にリーマスは人ではなかった。ベッドにくくりつけられたネクタイを引き千切ろうともがいている。引き千切った後、どうするのか。答えは簡単。人狼はまず人を狙う。ここには3人も獲物がいるのだ。

 つまり、僕らだ。

 ジェームズはさっと杖を取り出し『アロホモラ』を唱えて扉を開ける。

「シリウス!」

 片手にピーターを引きずり、呆然と立ち尽くしてリーマスを見ているシリウスを呼ぶ。布が千切れる音。うなる獣の声。

「シリウス、早く!」

 ほとんどピーターを投げ出すようにして外へ出すと、ジェームズはシリウスの両肩を掴んで部屋から出る。嫌な音がして、ネクタイが千切れた。そして尋常でない脚力をもって、銀の狼が扉へ向かってくる。飢えた獣の鼻先で、ジェームズは必死になって扉を閉めた。しばらく扉へ体当たりする音が聞こえ、狂ったように咆える声が屋敷中に木霊した。爪で扉を引っかく音に、ピーターが震えて泣き出した。ジェームズとシリウスは扉を背で押さえながら、どちらも震えていた。息が凍るようだ。それは決して外気の寒さのせいではない。

 妥協は一切許されない。

ジェームズは目の前が真っ暗になった。


 僕は悩んで、シリウスは決断した。
 でも僕は十分に悩んだだろうか。
 後悔しないくらいに。


扉の側から、狼の気配が消えた。しかしその晩中、ずっと獣の悲鳴のような叫び声が聞こえていた。

 そして一晩中、ジェームズ達はその場か離れることができなかった。何も考えられず、ただ何もかもに見放されたような気分になった。

 ジェームズの頭に1つだけ浮かんだのは、自分がこの手で、リーマスを闇に引き渡したという、途方もない絶望感だけだった。

 もう――戻れない。


 これは嫉妬だ

 醜い僕を遮断する
 君と僕とを引き離す
 すべてのものに対しての

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