扉の前で

---------------------------------------------------------------------------------

 リリーはもうたっぷり15分も、ある研究室の前を行ったり来たりしていた。幸い他に誰も通らなかったが、もし誰かが見ていたら自分は相当な不審人物だっただろうと思う。リリーは研究室の扉を見上げた。木製の板切れに金文字で「Lion」と書かれている。そしてリリーは何度目か分からない溜息をついた。何もこんな相談事で、単に教科担任でしかない教師のところに来ることはない。寮監の先生がいるではないか。彼女の方が歳も上だし、きっとこの質問をするには適任だろう。それも15分ずっと思っている。それなのに、リリーは一向にこの研究室の前から離れることができないでいる。

 リリーは扉の正面に立ち止まった。金字の「Lion」という文字をじっと見詰める。今にもその文字が動き出すのではないかと、リリーは少し期待した。マグル出身の彼女にとって、2年目とはいえこのホグワーツでの生活は驚くことばかりだ。何が起きても不思議ではないのに、実際遭遇すると驚いてしまう。1年の頃は魔法使い出身の友人に笑われたものだ。リリーはそんなことを思い出しながら、ゆっくりと腕を上げて握り拳を作った。この15分の間に、もう4回ほど同じ動作をしている。しかし拳が扉に当たる前に、4回とも手を引っ込めてしまっていた。今回もそうなるだろうと心のどこかで思いながら、リリーは拳をゆっくり扉に近づけた。触れるか触れないかのところで、拳は止まった。重い息を吐いて、今日はもう帰ろう、とリリーは思った。

 カサリ。

その時背後でした音に、リリーの全身が上に引っ張られるようにして硬直した。その拍子に少し前に体が傾いて、構えていた拳がゴツンと研究室の扉に当たってしまった。

「はい?」

 酷い音のノックに、中から律儀に返事が聞こえた。リリーの頭に一気に血が上る。

「あの! ……リリー・エヴァンスです。グリフィンドールの」

 段々と語尾を小さくして、リリーは告げた。背後でした音の正体は小さな鼠だった。誰かのペットかもしれない。リリーは大きく舌打ちしたい気分だった。ノックだけなら、急いで立ち去ってしまえば気のせいだと思ってくれたかもしれないのに、思わず返事をして名前まで名乗ってしまった。恥ずかしさに顔から火が出そうだ。

 小さな鼠に完全な八つ当たり感情を抱いていつまでも入ってこないリリーに、中の教師は穏やかに告げた。

「入っておいで、リリー。私に用事だろう?」

 すみません、間違えましたなんて言えるわけがない。それこそ全身が爆発するくらい恥ずかしい。リリーは覚悟を決めて15分の壁を乗り越えた。扉を開けると、部屋の一番奥で椅子に座った教師が微笑んでいた。リリーの緊張も、ほんの少し緩和した。

「どうした、リリー。レポートのことかい? 今回の課題はそう難しくなかったはずだが?」
「はい……あの、いいえ」

 結局どっちなのだ、とリリーは自分に呟いた。もう頭を抱えたい。いいや、いっそのこと泣き出したい。質問した教師はリリーを混乱させてしまったようだと分かると、すまなそうに頭を掻いた。

「あぁ、ごめんよ。少し座ったらどうかな。紅茶を入れてあげよう。それで、もし私で良いのなら相談に乗るよ。レポートのことではないようだね」

 見事に言い当てた教師にドキリとした。

「どうして?」

 弱々しく尋ねる。そんなに顔に出ていたのだろうか。それともこの教師は魔法使い、いや、その通りではないか。どうもマグルの考え方が抜けない。訂正、人の心を覗けるような魔法が使えるのだろうか。

「何となくね。違ったかな?」
「いいえ!」

 リリーが必死に首を振ると、教師は笑みをますます深くした。その笑顔を見て、リリーはぼんやりと綺麗だなと思った。男性には至極不適当な言葉かもしれないけれど、顔の造りがというわけではなく、その空気がとてつもなく澄んでいるように感じられたのだ。

「さぁ、紅茶をどうぞ」

 差し出された紅茶に、喉のカラカラだったリリーは速攻で口をつけた。そしてその勢いのままに教師に切り出した。

「先生、私、時々夢を見るんです」

 しまった、ストレート過ぎたとリリーは思った。紅茶もミルクティーにしてくれればこんな失敗はしなかったのに、と理不尽なことを考えたリリーに対して教師は案外何の抵抗もなく応じてくれた。

「そう、どんな夢だい?」

 今度はそう、ミルクを常温にして置いておくくらい慎重に。

「その……、普通の夢ではないんです。妙にリアルで、目が覚めてベッドの上に居るのが不思議なくらい」

 しまった。そんな修飾語はいらない。少なくとも、レポートではそんな言葉は入れないはずだ。もっと具体的に、どう普通でないのかを説明しなければ。リリーは手元の紅茶がぐるぐると渦を巻きだしたように感じていた。上手く説明しようと思えば思うほど、何も言えなくなる。

「リリー、肩の力を抜いて。息を吸ってごらん」

 もう全身がぐるぐると揺れているように感じていたリリーは、ただ教師の言葉に従って息を吸った。すると体の中で暴れて回っていたものが、すっと外に出た。魔法みたい、とリリーは思った。ちらりと教師の手元を見るが、杖は握っていない。

「落ち着いたね? 大丈夫、まだ少し、魔法使いの感覚が分かっていないのだろう。強い力を持て余しているようだね。それで? それは怖い夢なのかな?」
「いいえ。ただ日常のことで、特にホグワーツでの」

 教師の言葉に気になる部分があったが、リリーはとりあえず最後の問いにだけ答えることにした。リリーの答えに教師はつっ、と顔を動かす。リリーがその視線を追うと、教師の視線の先には何も入っていない鳥篭があった。教師はゆっくりと顎を撫でて、しばらく何か考えていた。その横顔を覗き見るようにしながら、リリーはそんなに悩むような問いだったろうか、と考えた。それは、リリーにとっては非常に大きな問題なのだけれど。

 教師は考え込んでいるようにも見えたし、全くの上の空のようにも見えた。夜の闇の色に近い瞳は、鳥篭の中をじっと見つめている。そうしていると、まるで鳥篭の中に何かいるように思えてくる。中の鳥はお使い中だろうか。この奇妙な沈黙に耐えかねて、リリーはその鳥の話をしようと口を開きかけた。そこでタイミングよく――いや、悪いのかもしれない――教師がリリーの方に再び顔を向けた。

「うん。それで君は、どうしてそんなにその夢のことを気にしているのかな」

 先程の沈黙は全く意味がなかったのだろうか。開きかけた口をどうしてくれるのか。リリーは間抜けに開けた口にわざとらしく紅茶を持ってくる。このタイミングでお茶を口にするなんて最低だ。紅茶を口に含むと頭がクリアになって分かった。リリーは緊張していたのだ。他の教師に比べて若い、リリーの父親よりも若いがしかし大人の男性教師と面と向かって話しているこの状況に。相手が教師という肩書きを持っていなかったら、3分でさよならしてしまいたい状況なのだ。しかし話し始めてしまったのだから仕方がない。途中から逃げ出すなんて情けないこと、リリーにはできない。

「……先生。正夢って、何回も続くものでしょうか」

 おずおずと曖昧な問いかけをしたリリーに、教師は目を丸くした。曖昧過ぎて分からなかっただろうか。レポートのように、会話においても曖昧さを排除したほうが相手に伝わり易いということは知っている。でも、発しては消える言葉に対して慎重になるのは当然のことではないか、とリリーは心の中で必死に弁解する。何となく掴み所のない教師は、今度は目を細めてリリーに微笑みかけた。

「リリー、それは予知夢と言うのだ。魔法使いの中でもその力を持つ人は稀だが、君がそうなのだね。昔からかい?」

 予知夢? 予知夢と言っただろうか。リリー自身、一番可能性が高いと思っていた言葉だ。そうではないかと思っていたけれど、そうでなければ良いと思っていた答えだった。リリーは心が重くなった。

「いいえ。昔は本当にぼんやりとした夢が年に1回くらいでした。ホグワーツに来てから夢もはっきりとして、その……当たる回数が多くなりました。偶然だと思っていたのですが、他の夢とは全く違うので分かるんです。本当に、現実みたいなんです」

 教師のはっきりとした言葉で、偶然である可能性はなくなってしまった。

「全て当たった?」
「いいえ、夢とは少し違っていたり、時には全く違うこともあります」

 ここで教師が初めて紅茶を口にした。教師は紅茶を一口飲んで、ふうと息を吐く。

「そうだな、月にどれくらい見るか分かるかい?」
「えぇ、2回くらいです。当たるのは、2ヶ月に一度くらい」

 そこまで機械的に答えて、リリーは自分が酷く落ち込んでいることにようやく気付いた。あの夢がすべて偶然だったら、自分と妹の関係が悪化した原因も他にあると考えることができたのに。リリーはホグワーツに入学してから、妹との関係が上手くいかなくなっていた。リリーの方は、昔と同じように妹とお喋りして、買い物に行って、時には同じベッドで夜更かしして過ごしたいと思っていた。しかし妹がリリーを避けるようになったのだ。妹は魔女であるリリーを、まるで悪魔の手先のような目で見るようになった。魔法使いとしてホグワーツで学ぶことはリリーにとって大きな誇りであった。しかしそのことによって失った妹との繋がりは、リリーの足枷になったのだ。

「……馬鹿みたいだと思うんですけど、いつか誰かが死ぬ夢を見るんじゃあないかって。そうでなくても、何か恐ろしいことを。怖くなって……」

 口にしたら、本当に怖くなってリリーは震えた。魔法なんて、使えないほうが良かったのではないだろうか。もっと普通に妹と仲が良いまま過ごす道だってあったはずだ。そんな考えが頭をよぎった。

「リリー、それは当然のことだよ。もう少し早く相談してくれてもよかったくらいだ。それで占いの本をずっと読んでいたのだね?」

 この教師がよく図書館に来ることは知っていたけれど、まさかリリーの読み漁っている本のことまで知っていたなんて。リリーは顔が赤くなった。他の人間相手だったらプライバシーの侵害だと憤慨しただろうけれど、リリーには何となく分かっていた。この教師だって、リリーがごく普通に趣味の本を読んでいただけだったら、さほど気にもかけずにいてくれただろう。リリーの様子がおかしいのを察して、少し気に留めていてくれたに違いない。そういった気遣いのできる教師なのだ。だからリリーはこの教師のところに相談に来た。そうだ。最初から分かっていたことだった。

「はい……何か分かったらと思って」

 もはや何の緊張もいらなかった。ただ素直に、就寝前に神に告白する時と同じように素直に、リリーは教師に答えた。

「他に誰かに話した?」
「いいえ。気味悪がられるのではないかと思って。私だって、他人から今日怪我をすると言われて、その通りになったら嫌ですもの」

 そうなのだ。その考えをもっと以前から持っていれば、不用意に夢のことを口にして妹を怖がらせたりはしなかっただろう。気味が悪いと、避けられたりはしなかった。ずっと、仲の良い姉妹でいられたのに。

「先生は、気味悪くないですか?」

 震える声で、リリーは若い教師に尋ねた。魔法使いにとっても希少な能力なら、もしかしてここでも自分は異端なのではないだろうかとリリーは考えずにいられなかった。妹を失って、ここで教師や友人まで失ったら、リリーは行くところがなくなってしまう。捨てられた飼い猫のように、生きる能力など何も持っていないのだ。まだ誰かの庇護が必要だった。

 教師はゆっくりと首を横に振った。単にリリーを慰めるための嘘ではない。子どもというのは大人の嘘には敏感なのだ。教師の笑顔に裏はなかった。

「リリー、人は自分の理解を超えるものにこそ恐怖を覚える。私には君が理解できるよ。君の能力もね。だから怖くない。私を信じて、これから私の言うことを守れるかい?」

 素晴らしい教師だな、とリリーはこの時初めて思った。例え相手が子どもであっても、人と人との関係として、信頼するということがどういうことなのかよく理解していた。多くの大人は、いつの間にかそれを忘れてしまうというのに。

「はい」

 自分も忘れないようにしたい、とリリーは思った。どうすれば忘れないでいられるか、という問題は後回しだ。とにかく今は忘れないようにしたいという思いを大切にしたい。教師はその落ち着いた色の瞳を輝かせて、リリーに言った。

「ありがとう。それではまず1つ。君はその夢が現実ではないことを知らなくてはいけない。君の見る予知夢は、様々ある未来のほんの一面でしかないのだ。ごく僅かな確率で、それが現実になることはあるが、夢を見た段階でそれが現実で、もう変えられないものであると思ってはいけない」

 リリーは頷きながら言葉を返した。

「変えられる可能性があるということですね」

 教師はにっこりと微笑んだ。そしてまた紅茶を一口、口に含んだ。

「そうだ。そして、これはとても苦しいことだが、君はその能力についてどんなに親しい友人にも話してはいけない。君が危惧しているようなことは、残念ながら現実に起こることだよ。特に君も、君の周りもまだ幼い。君は全てを隠して、周りの人達を助けてあげなくてはいけない。例えば君の友達のマリアが階段を踏み外す夢を見たとするね? 君はその日彼女に気をつけてあげていなければいけない。そして何も起こらなかったらそれで良い。もし何か起きて、彼女を助けることができれば最高だね。でも、もし何か起きて彼女を助けることができなかったとしても、それは君の責任ではない。ただ君は、他の人よりも少し余計に、周囲に気を配るようにするだけだ」

 リリーは教師の言葉を呑み込み、何か答えようと口を開けて、しばらく言葉が出なくて静止した。何も誤魔化さない教師の言葉は、あまりに現実的過ぎたのかもしれない。少し、ショックだった。一度口を閉じて、もう一度しっかり教師の言葉を考えてからやっとリリーは返事をした。

「……難しいです。でも、努力します」

 特に悪い事が夢の通りになって、それを自分のせいでないと考えることは難しいだろう。しかし夢の通りにならなくても、悪い事が起きて自分がその近くにいた時、自分の責任を考えないでいることはできないはずだ。結局リリーにも、この教師にも、できることとできないことがある。それをわきまえなければいけないのだ。そしてきっと、リリーは夢のおかげで自分にできることを増やすことができるのだ。少しだけ、気が楽になった。きっと妹とのことも、できることを考えた方が、ずっと効率が良いはずだ。思わず肩に力の入ったリリーだが、それを見た教師はさらに言葉を加えた。

「気を張らなくて良い。それがやがて自然になるよ。そして君は他人を気遣える素敵な女性になるだろう。いつか、まだ先のことだと考えているかもしれないけれどね。いつか君が、この人しかいないという男性に出会ったら、そして結婚を決意したら、彼には伝えなさい。そして一緒に乗り越えてもらいなさい。強い、賢い女性になりなさい、リリー。君はその力を持っている」

 自分には過ぎる言葉だと思ったけれど、そう言われて悪い気はしなかった。むしろその通りになれるような気がした。そして本当にまだ早いと思ったけれど、未来への憧れに、リリーは教師に向かって問いかけた。

「先生……。いつか、結婚相手のことを夢見ることがあるでしょうか」

 そう言えば未婚なのか既婚なのか聞いたこともなかった教師は、そのどちらともとれるどこか悪戯めいた微笑をたたえてこう答えた。

「そうだね。でもそれはきっと恋の夢で、予知夢ではないよ。前者の方が、何倍も幸せに感じるだろうからね」

 リリーは胸がじんわりと温かくなるのを感じた。その教師の言葉は魔法のようで、これも魔法の世界の人だからこそなのかしら、とリリーは思った。もしかしたら、自分もいつか誰かにそういう言葉の魔法をかけられるようになるかもしれない。最後の紅茶を飲み干しながらリリーは、そうだとしたら、ホグワーツに来た価値はそれだけで十分にあると感じたのだった。

Top