いつか星空の下で
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ほう、という吐息の白い煙が空に吸い込まれて消えた。授業でもないのに羽ペンとインクを持ち出して、外で星図を描くなんてナンセンスだ。こんな寒い夜に。ジェームズはそうぼやきながらも正確に、素早く星図を描き終えて早々にリーマスの横に寝転がった。リーマスはジェームズのように素早く描けなかったので、空と星図とを何度も見比べながらゆっくりと課題をこなしていた。ジェームズとリーマスはホグワーツ城の北の塔に、シリウスとピーターは南の塔に座って空を見上げていた。全員星図用具を持っていたが、これは別に授業で出た課題ではない。この4人だけ、という状況でも容易に想像がつくだろうが、これは悪戯がバレた罰なのだ。
リーマスはふと星図を描く手を止めて、南の塔の方角を見た。風に乗って、微かにシリウスの声が聞こえる。彼もとっくに星図を描き終えて、どうやらピーターに指導しているようだった。何を言っているのかはっきり聞こえないが、断片的な声の抑揚でそうと分かる。いつもの情景だ、とリーマスはこっそり笑った。なんだかんだ言ってもシリウスはピーターを見捨てたりしないし、どんなに厳しく言われても、ピーターはシリウスを一番頼りにしている。
「この罰の目的はきっと僕らに風邪をひかせることだよ」
出し抜けに、ジェームズが起き上がってそう言った。その不満げな口調と裏腹な口元の笑みにつられて、リーマスも笑い返す。
「まさか。僕とピーターはまだしも、君とシリウスは風邪なんかで大人しくなるとは思えないもの」
リーマスの言葉に、ジェームズはわざとらしく目を丸くした。
「僕、その点は結構繊細だよ。シリウスについては君の意見に賛成だけれどね」
そうかな、とリーマスは笑って誤魔化した。ジェームズはそんなリーマスの反応には頓着しないで、ローブの中をごそごそと探ると、どこにどうやって入れていたのか、バタービールの瓶を2本取り出した。そして杖を一振りして瓶を温めると、リーマスに1本分けてくれた。リーマスは素直にそれを受け取る。
「ありがとう。その様子だと、シリウスも向こうで同じ行動に出ているんだろうね」
リーマスが瓶の熱で手を温めている間に、ジェームズは早速瓶を開けてバタービールを一口飲んだ。
「だろうね。2人で用意したから。いいじゃない? 先生公認で夜更かしできるんだもの。お供を連れてこなくちゃ勿体ないよ」
くすくすと笑って、リーマスもバタービールを飲んだ。あまり感じていなかったけれど、外気で随分体が冷えていたようだ。バタービールの熱が喉を伝って胃に落ちると、同時に全身に広がった。これは勿論ノン・アルコールだけれど、それでも体を温めるには一番の飲み物だと思う。味も甘いし――シリウスなんかは甘すぎると言うけれど――リーマスの好みだった。
ジェームズは一定の間隔でバタービールを口に運んだ。リーマスは黙って星図を描きながら、体が冷えたと感じたときにバタービールを口にした。そうしてようやくリーマスも星図を描き終え、リーマスは星図用具を脇に置いて、残ったバタービールを煽った。あまり夜更かしするわけにもいかないので、この課題には制限時間が設けられていた。時間がきたらフェルチが呼びに来るだろう。リーマスもジェームズも時計は持っていなかったけれど、制限時間までまだ間があることは何となく分かっていた。
やがてジェームズがバタービールを飲み終えて、空になった瓶を置いた。しばらく彼はリーマスがバタービールを飲み終えるのをじっと見詰めて待っていた。リーマスがその視線に居心地の悪い思いを感じだしたとき、丁度リーマスの瓶も空になった。それを待っていたのだろう、ジェームズに小さく名前を呼ばれて、リーマスはジェームズと向き合った。
今日は新月だったから、ジェームズの眼鏡には星のきらめきがたくさん映っていた。ジェームズはとても真剣な表情で、リーマスの右手の上に、そっと自分の左手を置いた。
「黙ってやったら君が怒るだろうと思ったから言うよ、リーマス。僕らは君と一緒に、満月の夜を過ごせるようになる方法を見つけた。それを実行する。すぐにとはいかないけれど」
その宣言めいた告白に、リーマスの心臓が大きく跳ねた。
「脱狼薬のこと?」
眼鏡の奥にあるジェームズの瞳から、目を逸らしたいと思いながらも、それと相反する魅力でそれができないでいるリーマスは、小さく震えながら言葉を返した。
「いいや、それもやるけれど、今までずっと研究されていてもなお完成していないものだからね。僕らがやろうとしていることよりも、もっと時間がかかると思う」
その通りだった。長い間、多くの人が脱狼薬の研究をしてきている。その多くの人は大概、自身が人狼である場合が多いのだ。リーマスももっと薬学が得意であれば、自分の身を使って薬の研究をしたかったけれど、どうやらそれは叶いそうになかった。授業の課題すら満足にこなせないのだ。脱狼薬の研究なんて夢のまた夢。しかし、現在人狼に対して考えられている措置は、隔離か脱狼薬しかない。他に、というジェームズの真意がわからないリーマスは、それでも言っておかなければと思うことをジェームズに言った。
「ジェームズ、危険なことはして欲しくないよ」
予想されていた言葉だったのだろう、ジェームズは悠然と微笑んで返した。
「危険だと思うよ。僕らはアニメーガスになる」
思わぬ単語に、リーマスはひゅっと息を呑んだ。“動物もどき――アニメーガス――”。その身をある定められた動物へと変化させる。変身術の中で最も危険で難しい魔法だと言っても過言ではない。意識までも動物へと変化してしまい、元に戻れない可能性まで示唆され、実際に戻れなくなった魔法使いも少なくないだろうと考えられている。そういう魔法なのだ。
「ジェームズ! アニメーガスは違法だよ。とても難しくて危険だから、法律で禁じられたんだ。僕は君達にそんなこと、して欲しくない」
他愛ないイタズラをして、そうしてこんな課題を罰として言いつけられることとは訳が違うのだ。
「それは分かっている。君が望まないであろうということは。それでも僕らはやる。僕らは、君を引っ張り出した。その責任を取りたい。何より、僕ら自身の気が済まない。一番辛いときに、君を1人にしておくなんて。ただ君が帰ってくるのを、眠れずに待っているだけの夜にはもううんざりなんだ」
リーマスは何としてでもジェームズを説得しなければならないと思った。彼は自分達のためだというけれど、リーマスは思うのだ。
僕がいなければ、アニメーガスになろうなんて考えなかったはずだ。
結果的に、リーマスのためになることが分かっていてやるのだ。リーマスは、自分のためにそんな危険は犯して欲しくなかった。
「ジェームズ……、何かがあってからでは遅いんだよ」
言い募るリーマスに、ジェームズはすっと視線を逸らした。そして同じように、話題も微妙に逸らして質問してきた。
「君は、3年になってから、シリウスが常に同じ本を読んでいたのに気付いていたかい?」
この手で騙されないようにしなければ、とリーマスは自分に言い聞かせた。ジェームズは回り道をして相手を煙に巻く話術が得意だ。本人のその気がないとしても、話題が変われば要注意なのだということをリーマスは知っている。
「……うん。大きな本でしょう? とても難しそうな」
用心しながら、リーマスはとりあえずその話題に乗ったふりをした。ジェームズは相変わらずリーマスから視線を逸らしたまま、空の星を見ていた。しかし話題が逸らされたと思ったのはリーマスの勘違いだったらしい。ジェームズが次に口にしたことは、アニメーガスの話題のままだった。
「あれはアニメーガスについて書かれた古い本だ。君が言ったように、アニメーガスはとても危険で難しい魔法だ。理論が確立されていないんだよ。今アニメーガスになっている人達も、あの理論を個人適用ではなくて、一般化しようとしている。それはまだ実現していない。あの本も、書かれている理論はあくまで個人の適正に依存すんだ」
シリウスがそんな内容の本を読んでいるなんて、リーマスは思いもしなかった。しかも3年になってからずっと、だ。しかし、いくらシリウスが一生懸命だったからと言っても、リーマスはアニメーガスを認めることはできない。
「じゃあ、なおさら危ないよ。その理論に適していない人はすべて失敗するっていうことだろう?」
ふむ、とジェームズは頷いた。
「あの本の理論をそのまま使えば、そういうことになるね。シリウスはそのことにあの本を一度読んで気付いた。なるべく安全にアニメーガスになるには、理論を組み立て直す必要があるんだということにね。そして彼は理論を組み立て直すことに必死になった。1人で」
そこで意図的に、ジェームズはリーマスの方を向いた。その視線と、最後の言葉に驚いて、リーマスの警戒心が少し緩んだ。
「1人で?」
「そう。僕にも言わずに」
事も無げにジェームズは言ったけれど、それはリーマスにとってそれほど軽く流せる言葉ではなかった。
「……君達は、お互いのことは何でも知っていると思っていた」
驚愕に目を見開いたままのリーマスに、ジェームズは微苦笑して言った。
「それは誤解だよ、リーマス。僕とシリウスは違う人間だもの。確かに僕らはお互いのことを、他の人より多く知っているかもしれないけどね。それでもすべて知っているわけではない。リーマスだけが知っているシリウスだっているはずなんだよ」
「そんなこと……」
ないよ、と言おうとしたリーマスに、ジェームズは黙って首を横に振った。
「シリウスは理論がまとまってから、僕にアニメーガスのことを打ち明けた。理論がまとまらなかったら、結果を出すまで、打ち明けることはしなかっただろうね。彼は君に似ているよ、リーマス」
その時のジェームズの顔は実に複雑そうだった。嬉しそうな、でも少し寂しそうな顔。リーマスは直視できなくて目を逸らせた。
「シリウスが僕に?」
有り得ないという響きを持った呟きがリーマスの口から漏れた。ジェームズはそれに益々寂しげな色を濃くして言った。
「自分は危険でも構わないんだ。他の人が安全で、幸せなら」
リーマスは息を呑んだ。確かにその高潔さはシリウスの中にあるものだと思う。しかし。
「僕はそんな人間じゃあないよ」
吐き捨てるように言ったリーマスは、そのまま俯いた。丸くなった背に、ジェームズはそっと手を置いて、ついには後ろから覆いかぶさるようにしてリーマスの背を包んだ。
「君は知らない。僕は知っている。君のことは、君の知らないことをたくさん」
背に響くくらいに近くで呟かれた言葉に、リーマスの体が痺れる。自分が危険でも構わないという高潔さと優しさは、シリウスと同じようにジェームズにもあるものだとリーマスは思う。彼の言うとおり、ジェームズはリーマスの知らないリーマスの姿を知っているのかもしれない。だとしたら、リーマスはジェームズの知らないジェームズの姿を知っている。それとも、ジェームズは既に知っているのだろうか。自分の中の高潔さや誇り高さ、そして深遠なまでの優しさを。
「……リーマス、特別に教えてあげよう」
ジェームズはリーマスの背に覆いかぶさったまま再度呟いた。
「何?」
ジェームズのくすりと笑った吐息が、リーマスの項を掠めていく。
「シリウスはね、とっても優しい奴なんだよ」
笑いを含んだその言葉に、思わずリーマスも微笑んでいた。
「……知っているよ」
酷く回り道をして、やはりリーマスはジェームズに説得されてしまったようだった。
「うん。じゃあ、忘れないで」
「うん」
忘れない、とリーマスは思った。この温もり。ジェームズの強引なところも、シリウスの不器用な優しさも、ピーターの細かな心遣いも、そしてそれに負けてしまう自分の情けないところも。忘れないでいようとリーマスは思った。
「こうしよう、リーマス。僕はシリウスの組み立てた理論を見たけれど、あれは大人の魔法使いでも完成させることは難しい。シリウスのおかげで危険性は少なくなったけれどね。だから、3年だ。3年以内に完成できなかったら、僕らはアニメーガスになるのを諦める。だから3年、黙って僕らのやることを見逃して欲しい」
そんなジェームズの譲歩案に、リーマスはしばらく考え込んだ。もう流されてしまって止めることは不可能だと心の中では分かっていた。そしていくら彼らが天才と呼ばれていて、しかもシリウスが理論を組み立て直したからといって、アニメーガスの難易度はあまりに高い。3年という期限付きできっぱりと諦めると言ってくれるのなら、リーマスもまだ我慢できるだろう。
「……3年、だね。今日から3年。絶対に、約束して」
正直3年後には彼らの方が諦めて、この話は終わりになるだろうとリーマスは思っていた。しかしジェームズはリーマスの許可を得ると、とても不敵な笑みを浮かべて言った。
「約束するよ。シリウスの名誉に賭けて。ピーターの友情に賭けて。そして、僕の誇りに賭けて」
そう言うと、ジェームズの視線が星空を滑った。そして視線の止まった先にはシリウスが、ジェームズの誇りが夜空に輝いていた。
「僕は不可能を可能にする男だ」
自信ありげに微笑んだジェームズに――ピンと跳ねたその髪に――思わず顔を強張らせたリーマスは、やはり2年に縮めて欲しい、と言いかけた。けれど南の塔からシリウスの「終わったぞ!」という叫びが聞こえて、その煩さにフェルチが飛び出してきたので、星空の下の約束はそのまま契約の印を押された状態になってしまった。リーマスが彼らの挑戦の結果を知るのは、約束の3年という期限よりもずっと早い、5年生の8月になるのである。