迷宮の入り口

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 それは特に青天の霹靂、というほどの出来事ではなかったのだけれど、やはりリーマスの心にそれと同程度の衝撃を与えた。それは結果的にそうなったことであって、ONがスイッチ1つでOFFになるという急激さはみられなかった。ただフェードアウトするようにゆっくりとONがOFFに移行していった、という感じに似ているとリーマスは思う。
 初めは1人だった。それが4人になって、そして今は全体で5人だ。しかし4人のときと違って、5人はいつも一緒というわけではなかった。2人と3人だったり、1人と4人だったり、とにかく色々な形態になって、しかし一番多いのは1人と4人で、次に多いのは2人と3人。以外に多いのは1人ずつ、という形態だった。それでも皆おおむね楽しく時を過ごしていたし、リーマスが不満に思うようなことなんて何一つない、と言っても良かった。初めに1人だった時と、今1人でいるときとは明らかに違っているからだ。

 現に今いるこの場所だって、初めにリーマスが1人だったときには決して踏み入れることのなかった場所。それどころか、こんな場所があるなんて全く知らなかった。4人になって初めて教えられた秘密の場所。そこに訪れることができるというだけで、とてつもなく幸福なことだった。

 それなのに、リーマスは盛大な溜息で小さな白い花を揺らす。伸ばされた足先には泉がきらきらと太陽の光を反射し、僅かな風にも水面を波立たせていた。膝の上には数枚の紙。手本のように形の綺麗な文字が並んでいるその紙を見詰め、リーマスはまたひとつ溜息をついた。


 これは宿題にしようか、リーマス。


 文面を読んだだけで、穏やかな教師の微笑む姿が目に浮かぶ。少し悪戯めいた笑みを浮かべながらこの言葉を書いたであろう教師は、非常な難題をリーマスに与えた。教師がそう思っていないことは分かっているが、リーマスがそう感じるであろうことを教師は知っているはずだ、とリーマスは確信している。この課題に比べたら、学校で出る山のようなレポートに唸っていた方が何倍もマシだと思ってしまう。けれど、これはリーマスにとっても是非解いてみたい問題であって。だからこうして溜息をつきつつも考えているのだ。

「何、読んでんだよ」

 背後からの声に驚いて、リーマスは吐きかけた溜息に思わず声を乗せてしまった。

「わぁ!」

 咄嗟に手紙を手で覆い隠せたことは上出来と言うべきなのだろうか。いつの間にか背後に立っていたシリウスが、座っているリーマスの頭の上から手紙を覗き込んでいた。リーマスが見上げると、ずっと下を見詰めていたリーマスには空が眩しすぎて目がチカチカした。

「……ラヴ・レターか?」

 おかげで影になったシリウスの顔がまともに見られなかった。頭もくらくらして、笑いを含んだ声に一瞬何を言われたのか分からなかった。シリウスはぼんやりしているリーマスのおでこをポンと叩いて、隣に座り込んだ。ようやく何を言われたのか思い出したリーマスは、シリウスの顔を見て不満げに唸った。

「違うよ。それより、その顔はどうしたのさ。唇が切れているよ。また喧嘩なのかい?」

 リーマスは手紙を畳みながら言った。隣に座ったシリウスは、額に擦り傷、そして頬に痣を作ってさらに唇から血を流していた。見ているだけで痛いのに、シリウスは血の付いた唇を自分の舌でペロリとなぞって何でもない顔をしている。そして傷のことではなく、リーマスの指摘に少しだけ顔を歪めるとこう言い返してきた。

「また、って。そんなにしょっちゅう喧嘩しているわけじゃあないぜ。君が廊下で転ぶ回数よりは少ない」

 言われて咄嗟にリーマスは頬が赤くなる。確かにリーマスは時々何もないところで転んでは膝に傷を作ったり、手を捻挫したりしている。しかし、と憮然となり、リーマスは自分のローブを捲くってハンカチを取り出した。その間にもシリウスの唇からは新しく血が流れ出していた。

「僕だってそんなにしょっちゅう転んでいないよ! とりあえずこれで押さえて。医務室へ行く?」

 リーマスがハンカチを押し付けると、シリウスは驚いたように目を丸くしてただハンカチを受け取った。呆然としているシリウスに、見詰めるためにハンカチを渡したわけではないと思ったリーマスは、シリウスの手からハンカチを奪うと、自分でシリウスの唇にハンカチを押し付けてやった。リーマスの行為に、シリウスはやっと痛そうに顔を顰めた。そしてまたリーマスからハンカチを受取り直すと、ようやく自分で唇にハンカチを押さえつけて血を止めようとした。

「行かない。今行ったら、奴らとまた鉢合わせだから。唇を切っただけだしな」

 痛そうな顔などすぐに引っ込めて飄々と言ったシリウスに、リーマスはとても不満を覚えた。リーマスが怪我をしたときは酷く心配するくせに、自分が怪我をしたときは心配させる隙を与えないなんて卑怯ではないだろうか。手鏡を持つような習慣でもあれば、今シリウスがどんな酷い顔をしているのか見せてやるのに。

「痣だってできているよ」

 自分の頬を指して場所を示すと、シリウスが苦笑した。

「顔ばかり狙いやがるから。……ごめん」
「何で?」

 彼に謝られることなど何もないはずだ。シリウスと喧嘩をして傷を加えたのはリーマスではないのだし、血を押さえるために渡したハンカチは半ばリーマスの押し付けだ。

 分からない、という顔をしたリーマスに、シリウスはまた苦笑した。

「血、見るの嫌いだろ? 手紙を読んでいたみたいだし」

 邪魔した、と言ってシリウスは立ち上がった。ごめん、の意味はリーマスの1人でいる時間を邪魔したことと、それに。

 血を、見るのが嫌いだから? 僕が?

それは、確かにその通りだと思う。言われて気付いた。リーマスは血を見るのが嫌いだけれど、それは特に満月の夜を思い出し、自分の傷跡を思い出すからであって。だからこそ何も言ったことが無くても、シリウスはそれを察してくれていたということなのだろうか。

「これもらうな。後で僕のと交換しよう」

 そう言ってひらひらと一見無造作にハンカチを振ったシリウスだったが、リーマスは気付いた。それが意識してのことなのか無意識にか、それは分からないが、シリウスは確かに血の滲んだ面はリーマスの目に触れないようにしていた。

「……シリウス!」

 気遣って立ち去ろうとしてくれていたシリウスを、リーマスはあえて呼び止めた。シリウスはそれに応えて立ち止まる。

「うん?」
「あの、さ。訊きたいことがあるんだけど……」

 リーマスは今しか聞けないような気がしていた。シリウスの何気ない優しさを感じたこの時に甘えて聞いてしまわなければ、他に機会を見つけられないと思ったのだ。

「何?」
「あの……」

 かといって、この状況でストレートに切り出せる話題ではない。リーマスは切り出しの言葉を選んで目を泳がせた。シリウスはそんなリーマスに対して同じように目を泳がせていたが、やがて何か決心したように頷くと、リーマスの隣に戻ってきた。

「……夕食まで森に隠れているか。また喧嘩になると面倒だし。1日1回で十分だよな」

 頭を掻きながら隣に戻る理由付けをしてくれたシリウスに、リーマスはほっとして微笑んだ。

「1ヵ月に1回でも十分だよ」

 リーマスが言うと、シリウスは憮然として喧嘩相手の悪口を並べ始めた。喧嘩の理由は詳しく言わなかったけれど、とにかく売り言葉に買い言葉で、先に手を出してきたのは向こうだったようだ。相手側は複数だったようで、いつものことながら強気にシリウスに殴りかかったようだったが、相手の拳がシリウスに届くよりも、シリウスの足が相手に届くほうが早かった。結局手を出したのは向こうが先でも、それが相手に達したのはシリウスが先だったそうだ。

 散々相手のことをけなすと落ち着いたシリウスは、先ほどリーマスがハンカチを取り出したのと同じ場所を探ると、取り出したものをリーマスの膝に落とした。それはシリウスの実家から送られてきた日本製のアーモンドチョコレートで、銀色の紙に包まれていた。

「あ、ありがとう。でも、君は?」

 ポケットにはひとつしか入っていなかったらしい。リーマスの膝に落とされたもの以外には、シリウスの手の中にはハンカチしか残されていなかった。

「いい。何となく、君を見ると食べ物をあげなくちゃいけない気がするんだ」
「何それ! 僕は別に飢えてなんかいないよ」

 シリウスは元々お菓子の類をあまり好んで口にするタイプではない。リーマスの場合は食が細くて、一度にたくさんの食事を胃に入れられないため、体力を保つのには間食が絶対に必要だった。それも露骨に食事、と思わせないようなお菓子類の方が喉に通りやすく、最適な栄養源になっているのは確かだ。常に飢えているわけではないが、摂れる時には摂っておかなければ、と体が無意識に思っているらしく、リーマスは他人がくれるというものを拒むことはあまりしない。それがもしかしたらシリウスやジェームズにしてみると、食べるものを持っている時にはリーマスにあげなければ、という義務感に繋がってしまっているのかもしれない。そうだとすると随分情けないな、とリーマスは思った。しかしシリウスが困ったように口にした言葉は、リーマスの考えとは違っていた。

「あぁ……別に深い意味はないんだけど。餌付けしている感じかな。昔僕の部屋によく茶色の猫が出入りしていたんだけど、仲良くなりたくて追い掛け回していたら来なくなったんだ。ジェームズにその思い出話をしたら、下心のない賄賂は必要だと言われた」

 それはつまり、リーマスを見るとその猫のことを思い出すということだろうか。

「……君は僕を追い掛け回してなんかいないし、そもそも僕は猫じゃあないよ」

 猫というより狼だし、とリーマスは続けた。シリウスは確かに、とその言葉に真面目な顔で頷いた。

「うん。でも何となく。良いだろ? 賄賂だけど下心はない。受け取って悪いことにはならない」

 下心がなくて賄賂と呼べるのだろうか、とリーマスは真剣に思案しながらも、膝に置かれたチョコレートを手にとって口に含んだ。すぐに甘さが口の中に広がり、リーマスはラグビーボール型のチョコレートを噛んだ。中に入っていたアーモンドがカリッという音をたてる。日本製のチョコレートはこちらのものよりも随分味が薄い気がしたが、口に広がる甘さは柔らかくて好きだった。

 リーマスは口の中からチョコレートがなくなると、先ほど慌てて畳んだ手紙にそっと触れてボソリと切り出した。

「……これ、宿題なんだ」
「宿題? 何か出ていたっけ」

 首を傾げたシリウスに、リーマスは慌てて言い添える。

「学校のじゃあなくて、ちょっと個人的な」

 個人的な、という表現にシリウスはまだ首を傾げていたが、追及してくることはなかった。

「ふうん。それの答えが出ないで悩んでいるのか?」

 リーマスが頷くと、シリウスは慎重に言った。

「手伝っても良いものなら、手伝う」

 あぁ、彼らしいな、とリーマスは思った。シリウスはピーターがレポートに苦心して頼ってきたときも、手伝って良いと判断したところまでしか手伝わない。突き放しているように見えることもあるけれど、それは結局ピーターのためを思ってこそのことだ。実際何から何までシリウスが手伝ってしまえば、そちらのほうがシリウスの負担は軽いのだから。わざわざ負担の大きい道をとるのはシリウスの優しさだ。

「笑わないで欲しいんだけど……。前に、ジェームズと夜中、恋について話していたのを覚えている?」

 シリウスはジェームズの恋の相談に乗ることが多くなっていたから、リーマスの言った件がどれのことか、咄嗟には思い浮かばなかった様子だった。しかしリーマスがリリーとの恋について、と言わなかったことから、あの夜のことだと思い当たったらしく、頷いて返してくれた。

「あの時君は、恋について定義したよね」
「うん」

 これが他の人間だったら、本当に覚えているのか疑わしいが、シリウスは多分思い出そうとすればその時の言葉をかなり正確に再現することもできたのだろう。

「君はあの時、恋をしていたの?」

 リーマスの問いに、シリウスは特に表情を変えなかった。金色の、鋭い瞳はただ真剣にリーマスを見詰めていた。この瞳に見詰められると、リーマスはいつも居心地悪くなる。

「どうして?」
「恋を知っていたから、あんな風に定義できたんじゃあないの?」

 リーマスは早口にそう言った。シリウスは不意を突かれたように驚いた顔をして、しかしすぐに立ち直ると、今度はとても意地悪な笑みを浮かべた。

「なるほど、面白い宿題だな。こういう議論を君と出来るなんて思わなかった」
「からかわないでもらいたいんだけど?」

 リーマスが恥かしがっていることを分かって言っているのだ。まだニヤニヤとしているシリウスに、リーマスは余計に恥ずかしくなって、照れ隠しに手を上げてしまいそうになった。しかしいつまでもニヤニヤとしているつもりかと思われたシリウスは、思いのほかあっさりとその笑みを引っ込めた。そして代わりに目元だけで優しく微笑んだ。まるで物分りの悪い生徒に教える教師のような笑みだ、とリーマスは毒気を抜かれてしまった。

「失礼。……その答えだけれど、僕は別に恋を知っていたから、あの時恋を定義したんじゃあない。むしろ先に定義をしておいて、その枠に当てはまったものを恋と思うようにしようと考えただけだ。結局、2人の人間がお互いにどう見えるかというだけで、それが恋なのか何なのかは、当人同士にしか分からないものだから」

 それでもジェームズが恋したときには、シリウスはそれを恋と分かっていたようにリーマスには思えたのだけれど。

「君は、そんな恋がしたいの?」
「どうかな。ジェームズとリリーの関係は素晴らしいけれど、自分と誰かがあんな素敵な関係になれるという保障はないだろう? それにまだ、僕は他にしたいことがあるから」

「何を?」
「そうだな。まずはアニメーガスを完成させて、君を驚かせてやらなくちゃ」

 おどけたシリウスに合わせてリーマスは笑った。アニメーガスに関しては完成しても、しなくても、リーマスにはその心だけで十分だった。ジェームズから聞いたシリウスの密かな決意を、リーマスは正直申し訳なく思ったし、それ以上に嬉しすぎた。

 リーマスは視線を折りたたまれた手紙に移した。ここで素直に話したいことを話した方が良い、と言われているようで、リーマスは自分の心に問いかけた。シリウスに聞いて欲しいことはもう残っていないだろうか。

「僕は……、僕はね」
「何?」

 シリウスが優しく促す。ゴクリと息を呑んで、リーマスは正直に自分の気持ちを打ち明けた。

「ジェームズが離れてしまうようで、嫌なんだ。今までずっと4人だったのに。僕は、多分リリーに嫉妬しているんだよ」
「嫉妬? リリーに?」

 リーマスがコクリと頷くと、シリウスはしばらく黙って考え込んでいた。それは間違った感情だと言われることを覚悟していたリーマスだったが、シリウスはポロリと零れるようにリーマスの意見に賛同した。

「……あぁ、なるほど。一番近い表現かもな、嫉妬」

 そんな風に真剣に考えたことがなかった、と笑ったシリウスに安心して、リーマスはもう一歩だけ踏み込んだ話をした。

「君は、しない? 今までジェームズの一番近くにいたのに」

 その問いに、シリウスは微かに眉を顰めた。不快になったというよりは、それまで本当に考えたことのなかった難題を突きつけられて困惑している、という風に見えた。

「どうかな。次元が違うからな。恋人と、友人。でも、少しはそう、嫉妬しているかもな。ジェームズに僕以上の友人が出来たら、もっと嫉妬するだろうけど」

 シリウスの呟きに、それは有り得ないよ、とリーマスは心の中だけで返す。ジェームズの親友はシリウスだけだ。それ以上の友人なんて。少しだけ自嘲気味に、リーマスは笑った。自分の中の嫉妬深い部分が見えて、笑うしかなかったのだ。リリーとジェームズの関係にも、シリウスとジェームズの関係にも、リーマスは嫉妬している。そう納得してしまえば、案外心が軽くなる。

「そうか……」

 するとしばらく黙り込んでいたシリウスが唐突に言った。

「君、そんなにジェームズのことが好きだったんだな」

 リーマスはシリウスの言葉に何か無意識のうちに反応しようとして、それに失敗して絶句した。

「好きって……。ジェームズのことはきっと皆が好きだよ」

 かろうじてリーマスはそう答えた。

「まぁね。あいつはそういう奴だから」

 それに対して苦笑して呟いたシリウスの言葉。何となく、そこで会話が途切れた。シリウスが上を見上げたので、リーマスは整ったシリウスの横顔を見た。落ちかけて淡くなった太陽の光を集めて、シリウスの瞳が炎のような色に染まった。どこかその瞳に哀愁のようなものを感じたリーマスは、何か言ってシリウスを元気付けてやりたかったけれど、シリウスが哀しむ理由も、元気付ける言葉も分からずに膝に置いた手紙を握り締めた。

 黙ったままの状態は数分続いた。その数分の間にも、太陽がどんどん高度を下げていく。漂ってきた冷気にリーマスが身震いすると、それに気付いたシリウスが空から視線を外してリーマスを見た。シリウスは静かにリーマスを見詰めて、落ち着いた声音でこう言った。

「……なぁ、リーマス。僕に恋人が出来たら、君は僕の恋人に嫉妬するかな」

 その時、本当に真剣に、そして本当に寂しそうにシリウスは微笑んだ。リーマスはシリウスのそんな顔を見たくなくて、すぐに視線を逸らしてしまった。シリウスの独り言のような問いかけには、答えることができなかった。

 シリウスに恋人ができたら?

ジェームズだけがこの学校で恋人を見つけるわけではない、とリーマスは初めて気が付いた。むしろシリウスの方がジェームズより早く相手を見つけてもおかしくなかったのに、リーマスはそんな単純なことを考えもしなかった。

 シリウスに恋人ができたら、僕はその恋人にも嫉妬するのだろうか。
 ジェームズの場合と同じように?

リーマスが途方に暮れた顔をすると、シリウスはいつものようにからかいの表情を浮かべて立ち上がった。

「真剣に考えるなよ。言ってみただけだ。さ、帰ろうぜ」

 シリウスはリーマスの腕を引いて立ち上がらせると、背を向けてさっさと森に入って行ってしまった。リーマスは心に靄を抱えながら、その後を追った。薄暗い日暮れ時の森の中はリーマスの心と同じように靄がかかっていて、道を知っていても迷ってしまいそうだった。

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