穏やかならぬ午睡の時間
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グリフィンドール寮の談話室で、彼らは珍しく静かな時間を過ごしていた。雨が降って外に繰り出せないわけでも、イタズラの計画がないわけでもない。それなりにすることはあったのだけれど、たまには彼らだってゆっくりだらけた時間を過ごしたいと思うときがあるのだ。
そういうわけで、ジェームズとシリウスはチェス盤を挟んで対戦中だった。シリウスの脇ではピーターがひとりだけ出された変身術の追加レポートを書いている。時折シリウスの手が伸びて、レポートの間違いを指摘している。勿論リーマスだってこの場にいる。
そしてしばらく、チェスの駒の移動先を告げるシリウスとジェームズの声だけが聞こえていた。窓から入り込んでくる光は午後の暖かい日差し。天気は上々で、暑くもなく寒くもない過ごしやすい日だった。しかし嵐は確実に起こり始めていた。シリウスが白のビショップでジェームズの黒のキングにチェックをかけると、ジェームズの顔がこの日初めて歪んだ。勿論チェックされたキングを動かすしかないが、ジェームズはそれだけのことに何故か頭を抱えた。腕を組み、頭を垂れたと思ったら、今度は空を仰いで片手を額に当てる。数秒間のうちに何パターンかの苦悶の仕草をして見せたジェームズだが、シリウスはそんな相棒を冷たく無視してレポートを書いているピーターの手元を覗き込んでいた。やがてジェームズが冷たいシリウスの反応に、無言で訴えることを諦めて言い出した。
「シリウス。実は僕、今現在この場所において、ひどく困っていることがあるんだ」
そうジェームズが訴えても、シリウスの反応は薄い。それというのも、シリウスはジェームズがこう言い出すことをかなり前から予測していたからなのだ。いつ言い出すかは、ジェームズの忍耐力にかかっていた。しかし、この件に関してジェームズの忍耐がそう長く持つとは思っていなかったのである。そしてシリウスの予想はかなり正確に当たっていた。
「次の手か?」
しれっと尋ねたシリウスに、ジェームズはしばらく沈黙した。そしておもむろに立ち上がると、チェス盤をひっくり返さないように注意しつつ、テーブル越しにシリウスの顎を掴んでくるりと自分に向けさせた。
「そんなことじゃあないのは、君もよく分かっていると思うんだけど?」
穏やかならぬ口調でそう言ったジェームズに対し、シリウスはポーカーフェイスを保ったまま答え、顎を掴んでいるジェームズの手を遠慮がちに振り払った。
「じゃあ、早く打てよ、次の手。おい、ピーター。だからそこはそうじゃあないって」
そう言ったシリウスの指先が、すっとピーターの書いているレポートの一文を指し示す。ピーターはそれでも一生懸命理解して書いたつもりだったのだが、シリウスが指摘するなら確実にピーターの理解が間違っているのだろう。
「えぇ? 分かんないよぉ」
ピーターは涙声になって言った。レポートの期限は刻々と迫ってくるし、自分の頭はまるで不良品のように働かないし。けれどシリウスの頭はチェスとレポートを両方考えてもなお正確なのなから、この差に涙が出たって当然のことだった。
「だから……」
シリウスは涙目のピーターの頭に手を置いて、根気強く教えようとした。だがピーターの方へ傾いたシリウスの思考を、先ほどから邪険にされていた眼鏡の御大が許すはずもない。
「シリウス〜。僕も分かんないよぉ」
そう言って甘えた声を出すと、ジェームズが身をくねらせてシリウスに擦り寄ってきた。そんな行動に、珍しくシリウスの真っ直ぐストレートの髪の毛が逆立つ。ピーターはシリウスの指先にまで浮かんだ鳥肌を見て、自分まで鳥肌が立ってしまった。
「気色悪い声出すな。いいか? 君がリリーの恋人であることは学校中の誰もが知っている。君はリリーの恋人であることは主張してもいい。堂々と、得意げに。でも彼女を所有しているという主張はできないんだ。彼女が望む時以外は!」
シリウスの指が鼻先に突きつけられて、ジェームズはその指先を見ようとして目を中央に寄せた。限界まで目を中央に寄せると目の奥から脳髄にかけてクラクラくるような圧力がかかる。ジェームズはそのまま後ろにそっくり返りそうになって、慌てて頭を振った。
「分かるよ。痛いくらいによく分かっている」
「僕だって君の心情は分かる。痛いくらいにな。だけど今、彼女が君との時間を望んでいないことは明白だ。諦めろ」
「シリウス! だから困っているんだろ? リリーが望むなら、僕はこうして傍観者としていることを我慢しよう。でも、シリウス! 僕は彼女の恋人なのに、リリーに膝枕なんてしてあげたことはないし、してもらったこともない。なのに!」
ビシッとジェームズが指を向けた先。そこにはこの穏やかな昼を和やかに満喫している生徒の姿があった。
「リーマス、眠っちゃいそう……」
とろんと蕩けそうな声を出したのはジェームズ・ポッターの恋人リリー・エヴァンスだ。彼女は暖炉前の二人掛けソファに横たわって、長い髪をソファの肘掛から床まで垂らしていた。足は反対側の肘掛からはみ出しているが、そこは女の子らしく、足の上にローブをかけて太腿から踝までを隠していた。
「そう? でもアンナとの仲直りの言葉を考えてからじゃあないと駄目だよ」
蕩けそうなリリーの声に応えて言ったのはリーマスだ。リーマスはリリーの横たわるソファに座って、リリーの頭を細い膝の上に乗せていた。そしてリリーに囁くように語りかけながら、リリーの長い髪を細かな三つ編みに編んでいた。
「考えながら眠るわ」
リリーは大人しく欠伸をして、本格的に目を閉じて眠りの体制に入ってしまった。
「リリー、駄目だって」
そういうリーマスの声は慌てているけれど、自分の膝に乗せたリリーの頭を落とそうとは思わないらしい。リーマスは目を開けないリリーに仕方がないと溜息をつくと、それでも嬉しそうにリリーの髪を編む手を動かし続けた。
そんな穏やかすぎる時間を過ごしている2人を指差すジェームズの手がぶるぶると揺れる。ピーターはその手と指されている2人を交互に見やりながら、どこか羨ましげに言った。
「……女友達ってあんな感じだと僕、思うんだけどな」
リーマスは男だけどさ、とピーターが言うと、シリウスが頷いた。
「未知の世界だな。僕らに入り込む隙は全くない」
シリウスが言うと、隣でピーターが頷く。シリウス達の座っている場所と、リリーとリーマスが和んでいる場所との間には見えない壁がある。それは越えられそうで越えられない壁。例え恋人であっても、邪魔できない雰囲気と空間になっているのだ。
分かっている。リリーとジェームズは恋人だけれど、今リリーが側にと望んでいるのはジェームズではなくリーマスだ。これがリーマスではなくシリウスなら、ジェームズはリリーの機嫌なんのその、で2人の間に割り込んだだろう。だがしかし。
「問題は僕がリリーに膝枕をしたいのか、リーマスの膝枕で和みたいのかっていうことなんだ」
深刻な口調でそう言うと、ジェームズは頭を抱えてその場に蹲った。そんなジェームズを見て、シリウスとピーターは双方何とも形容しがたい顔をして、お互い何かを確認するかのようにこくりと頷いた。
「ジェームズ、医務室行くか?」
心優しくそう提案したのはシリウスだ。蹲るジェームズを見る目には、親友らしく憐れみがこもっている。しかしそんな親友の心遣いに、あえて常識を避けて通る男――いや、もしかしたら常識の方が彼を避けているのかもしれない――ジェームズ・ポッターはギラリと怒りの色を滲ませて立ち上がった。
「だってあの膝枕に頭を乗せているのが僕で、髪を撫でてくれるのがリリーだったらどんなに良いか! ハーレムだよ?」
怒りと妄想を満杯にしながら立ち上がったジェームズに、両肩を掴まれてガタガタと揺さぶられながら、親友でも理解できないことはある、とシリウスは冷静に判断した。
「まぁ、突っ込まなくちゃいけない箇所があると思うがあえて無視しよう」
ついでに向こう2人の穏やかな空気に便乗して、目の前の男の存在さえも無視して眠ってしまいたい、とシリウスは思う。ジェームズは親友が遠い目をしてみせてもなんのその。シリウスの両肩を掴んでいた手を離すと、すぐに今度はシリウスの肩に腕を回して、空いた方の手で握り拳を作った。
「よし、次の手を考えたぞ。今夜、僕はリーマスのベッドで寝る」
ジェームズはげんなりした顔のシリウスの肩を抱えたまま、談話室中に響き渡る声でそう宣言した。けれどそれに反応したのはピーターだけだ。
「どうしてそうなるの?」
そしてどうしてこうも堂々とした宣言に、リリーもリーマスも反応しないのだろう。やはりこちらとあちらの間には防音性の壁があるに違いない。もしくはすでにあちらは異世界なのか。
「リリーのベッドに入ったら犯罪じゃあないか。いくら恋人同士でも許されることと許されないことがある」
きっぱりそう発言したジェームズに、何だ、ジェームズだって常識の“じ”の字くらいは持っているのだ、とピーターは思って安心した。安心したけれど、やはりそれは常識の“じ”の分だけだ。
「それは分かるけど……」
“じ”以外の不安の方が大きいわけであって。
「膝枕より添い寝の方が、親密度が増していると僕は思う。僕はリリーが好きだけど、リーマスも好きで。リリーも僕が好きだけど、リーマスのことも好きなんだ。僕が今リリーとリーマスどちらに嫉妬しているか分からないように、僕がリーマスに添い寝をしたと明かすことで、リリーは僕とリーマスどちらにも嫉妬するわけだ。今のこの悶々とした気持ちをリリーにも味わってもらわないとフェアじゃあない」
あちらの穏やかで和やかな雰囲気とは違って、ジェームズの偉大な志で燃えるこちら側は、おかげさまで熱風が吹き荒れているようだった。
「呆れても良いか?」
嵐に巻き込まれたシリウスは、ますますげんなりとしてそう尋ねた。こんな場所にいるくらいなら、多少の壁はあってもそれを乗り越えて、自分もリリーとリーマスのいる場所に行くべきかもしれない、とシリウスは思った。そしてそう思うと、迂闊にもリーマスの膝がとても魅力的に映ってしまう。
「ふん、君も同類だ」
そんな心の内を、相棒は見事に見抜いて言い捨てた。そしてそれに腹を立てたシリウスが、チェス勝負の代わりに自分とジェームズがどう違って、したがって同類では決してないのだということを証明しようとジェームズと言い争い始めた。
レポートをしている側で声高に口論されて、ピーターはレポートの締め切りを思って泣きそうになった。そしてこちらの騒ぎなど気にも留めず、穏やかな午睡を満喫しているリリーとリーマスを心の底から羨ましいと思ったのだった。