あの日塔の上で

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 狼はいつもの場所に蹲っていた。埃の臭い。暗く、元々視力の低い狼の目ではどこに何があるのかおぼろげにしか理解できない場所。だが埃っぽい臭いも、冷たい床も、狼には慣れた感覚だった。もう随分前のこと、一度だけ獲物の魅力的な臭いを嗅いだことがあったが、それ以降はこの何の面白味もない場所で自分ひとり蹲る時ばかりだった。

 面白くない。時折怒りだって感じる。獲物はいつまでもやってこないし、狭い空間に閉じ込められていて、狼はこの埃っぽい空間以外を感じたことはない。獲物に食いつくこともできなければ、ただ欲望のままに走り回ることもできないなんて狼にとっては拷問だ。だから時々怒りが爆発して、狼は大きく吼えた。吼えて、壁に体当たりして、自分の体を傷つけ、その血の香りで自分の心を和ませることしかできなかった。

 狼には何故自分がこの空間に閉じ込められているのか、それが分からなかった。外に出たかった。遠く風に運ばれて香る土や木の臭いを、もっと近くで感じたかった。大体自分は元々、そのような香りの中で生きるべき存在なのだから。

 今夜もまた、ふつふつと怒りの念がこみ上げてくるのを狼は感じていた。自分の体を傷つけることは狼だってしたくない。だが他に方法がないのだ。怒りをぶつけることのできるものは、ここには自分しかいない。こもった空気は狼の鼻を鈍らせて、それが余計癪にさわる。狼は床を爪でかいた。壊せそうな気がするのに、この狭い場所は存外強固だった。狼は唸り声を上げた。分からない。何故この空間に閉じ込められなければならないのか。一体狼が何をしたというのだろう。分からないから怒りが溜まる。1人きりだから、寂しさがつのる。

 狼がどうしようもない怒りを自分の体にすべて向けようとした時、嗅ぎ慣れない臭いに狼は身を強張らせた。鈍く重い音。そして空気の流れる感覚。こもっていた空気に換わって、微かだが今までより強い土の香りがする。そしてひたひたと近づいてくる、自分以外の存在。狼は身を低くして唸った。よく見えないけれど、黒く大きなものが自分に近づいてくる。獲物の臭いではない。敵意は感じないが、それは明らかに自分より大きいのだ。逃げられる体勢をとらなければ、と狼の野性がそう言っている。

 近づくにつれて、その大きな黒いものが自分と似たような姿をしていることが分かった。全身は黒い毛に覆われ、4本の足で立って、尻尾も見える。長い顔。でも狼の仲間ではなさそうだ。狼は近づいてくる獣に唸り声を上げ続けていたが、ある程度の近さになると大きな獣は立ち止まり、へたりと床に身を伏せた。狼と違って、先程からその獣は声ひとつあげていない。

 狼はしばらく唸って相手を威嚇していたが、相手はどうも狼を襲うつもりはなさそうだった。尻尾を左右へ緩慢に揺らして、大きな金の瞳で、じっと狼を見続けている。

 どこかで見たぞ。

狼はそう思った。だがどこで見たというのだろう。狼はずっとこの部屋から出たことはないのだし、この部屋に入ってきた者は過去に一度だけ、それもすぐに逃げられてしまった貴重な獲物だ。しかし目の前の獣は、狼の獲物ではない。

 獣はじっと狼を見つめ続けていた。まるで何かを待っているように。狼はその瞳を見返しているうちに、ふらふらと獣に近づいていた。気付くともう身を伏せている獣の鼻先にいて、狼は獣の臭いをより強く感じ取っていた。土の香りはしない。どこか身奇麗さを感じさせる爽快な空気の香りがする。狼が鼻を寄せて臭いを嗅いでも、獣はじっと身を伏せたままだった。ずっと狼を見続けていた目を閉じて、今は狼の好きなようにさせている。黒い尻尾はずっと揺れ続けていた。

 空気が流れる。狼はその時ようやく、この狭い空間が外に繋がっていることに気付いた。動けば、この狭い場所から出て、別の場所へ行ける。そこがどんなところか、狼には分からない。ここより良いところかもしれないし、悪いところかもしれない。狼は臆した。すると、それに気付いた黒い獣が、すっと立ち上がった。狼は思わず後ろに飛びのき、身を低くして唸り声を上げた。黒い獣は悠々と狼に背を向け、空気の流れ出る箇所に歩いていった。狼は獣の揺れる尻尾を見ていた。

 獣が振り返った。尻尾を揺らして、初めて獣が吼えた。来い、と言っているように聞こえたのは狼の気のせいだろうか。しかし大きな獣が尻尾を揺らしながら暗闇に消えていくと、狼は迷わずその尻尾を追った。段々に降りていく道を下ると、その一番下で黒い獣が狼を待っていた。暗い闇の中で、獣の金色の瞳が赤く染まる。狼が追いつくと、獣はまた走り出した。狼は再び獣の後を追った。細い道を走ると、足が前に進むたびに土の香りが強くなっていく。

 そして、何だろうか。土の香りよりもずっと狼を惹きつける香りが、狼を呼んでいる。狼は走った。ずっと閉じ込められていた場所から、開放される瞬間を目指して。そしてその時がやってきた。

 飛び出した瞬間、仄かに甘い香りに全身が包まれた。目の前が明るくなる。黒い大きな獣は、立ち止って狼を見つめていた。狼も見つめ返す。すると、黒い獣の後ろに、姿の違う別の獣が立った。獣よりも大きい。すらりとした足が4本。頭らしき場所には、長細い何かが飾られている。あまりに自分と違っていて異様な姿に思えたけれど、怖くはなかった。そしてもう1匹。黒い獣の頭によじ登った小さな獣。3匹はじっと狼を見つめている。その目に見守られながら、狼は顔を上げた。甘い香りは空から降り注いでいた。

 何という喜び。

この光の下で走る日を、狼はずっと夢見てきた。だから狼は走った。どんなに走っても、狼を包む光も香りも消えることはない。そして、狼はひとりではなかった。狼が走り出すと、3匹の獣が一緒に付いてくる。小さな獣は黒い獣の頭に乗ったまま、そして長細い飾りを持つすらりとした獣は、狼よりもずっと足が速かった。黒い獣はずっと狼の脇を走り、狼を決してひとりにはしなかった。

 狼はくたくたになるまで走った。溜め込まれていた怒りはどこかに吹き飛び、狼の胸に残ったのは喜びだけだった。やがて疲れきって、狼は土の上に身を伏せ、そのまま目を閉じた。空からの光は優しく甘く、そして身を伏せた狼の側に3匹の獣が寄り添う。狼は幸福の中で夜を終えた。どこから来たのか分からない獣達は、しかし狼の敵ではなかった。姿は違っていても、まるで兄弟のようで。もうひとりで自分の体を傷つける必要なんて、狼にはなかった。


 リーマスは夢の中で満月の下、そして満月の光に霞む星達の下を走り回っていた。満月は美しく、優しく、そしてとても良い香りがした。忌むべきところは何ひとつない。夢の中でリーマスは、これ以上ない幸福感に身を躍らせていた。走るのはとても気持ち良かったし、何よりひとりではないのだ。すらりとした姿の鹿と、規格外の大きさをした黒い犬。そして犬の毛にしっかり掴まる小さな灰色の鼠と一緒だった。

 開放感が胸に溢れた。満月が美しい。その気持ちは確かにリーマスのものだったけれど、同時にリーマスの中にある別のものの感情でもあった。リーマスは随分昔から、自分の中にいる獣の存在に気付いていた。それはリーマスよりずっと凶暴で、いつも不満をもち、不満を怒りとともに発散するとても恐ろしい存在だった。リーマスはその存在を憎んでもいた。しかしその夜、初めてリーマスは知ったのだ。狼はずっと寂しかった。リーマスと同じように。寂しくて、孤独で、その口は怒りだけを叫んでいたわけではなかった。そして狼は満月を愛していたのだ。届かない想いに身を焦がして、少しでも満月に近いところにいたいと望んでいた。そして、そんな狼を月は甘い光で迎えてくれたのだ。今、リーマスの中の狼はとても満足していた。寂しさも、恋しさも満たされて。

 素肌にあたる布の感触に、リーマスは身じろぎした。埃の臭い。くたくたに疲れた体は無理な変身をしたせいで節々が痛かったけれど、いつものように血が滲む痛みは感じなかった。リーマスは身を起こした。そこはベッドの上で、部屋はまだ暗かった。リーマスは裸の体に掛けられたローブを引き寄せた。ふと脇を見ると、ベッドの端に昨夜自分で畳んだ服がそのままの場所に置いてあった。

 胸を温める開放感に浸りながらもリーマスが服に手を伸ばそうとすると、小さな獣がリーマスの手元に駆けてきた。リーマスは服に伸ばしかけた手を止めた。ベッドの上にちょろりと上がり、リーマスを見て小首を傾げたのは少し太り気味の鼠だった。夢の中で、大きな黒い犬の毛にしがみついていた小さな獣そのままの姿だった。

「……ピーター?」

 リーマスは無意識のうちにそう呟いていた。すると鼠はリーマスの言葉を解したように頷いて、次の瞬間には形を大きく歪ませた。小さな鼠は膨れ上がり、やがて明るい髪が現れた。見慣れた顔。ほんわりとお菓子のように甘い笑みを浮かべて、ベッドの端に座っていたのはリーマスの指摘した通り、ピーターだった。

「うん。そうだよ、リーマス」

 ピーターは嬉しそうに微笑む。リーマスは何か、この不思議な出来事についてピーターに訊こうとしたのだけれど、ベッド脇ににゅっと現れたものに驚いて息を呑んだ。

 ベッド脇には、大きな鹿が立っていた。優美な鼻の形。そして立派な角。鹿はリーマスの頬に湿った鼻を押し付けた。リーマスは手を伸ばして鹿の角に触れる。間近にある鹿の瞳はとても理性的で、そしてありえないくらい悪戯めいていた。

「ジェームズだね」

 リーマスが微笑んで指摘する。すると先程のピーターと同じように、鹿の姿が歪んで、眼鏡をかけた彼らの帝王が現れた。ジェームズは鹿の角に触れていたため宙に浮いたままのリーマスの手を、気障っぽく掬いあげてそのまま手の甲にキスした。

「当たり」

 ジェームズの眼鏡が輝くと同時に、リーマスの手を掴んだままのジェームズの手を目掛けて、大きな黒犬が飛び上がった。ジェームズが黒犬に噛み付かれないように後ろに飛びのくと、黒犬はジェームズに対して鼻を鳴らし、すぐにリーマスに向き直った。尻尾を揺らしてベッドに前足をかけ、リーマスの前に首の伸ばす黒犬が妙に可愛らしくて、リーマスはその首を抱きしめた。

「君がシリウスだ」

 指摘してその首を開放すると、黒い犬はその肢体を歪めて形の違う、けれど同じくらい優美な姿に変わった。金色の瞳、犬と同じ黒い毛。長い指でジェームズがキスした方のリーマスの手を取ると、シリウスはジェームズと反対の手の平に唇を寄せた。

「流石、友人殿。よく分かったな」

 皆でベッドに集まって、リーマスの顔を見て微笑んでいる。その柔らかな微笑を見ているうちに、リーマスは思い出していた。ある新月の夜に、塔の上で取り交わされた約束を。

 3年以内に完成できなかったら、僕らはアニメーガスになるのを諦める。

今より幼い顔をしたジェームズがそう言った。それは子どもらしい自信に満ちた、無謀な挑戦だった。ただ彼らの決意はとても真摯で、尊いものだったのだ。

「……馬鹿だよ、皆。こんな危険なこと……」

 リーマスがそう厳しい言葉を口にしたのは当然のことだった。ジェームズ達もそれは十分に理解していた。アニメーガスは違法だ。そしてリーマスには秘密だが、その練習過程でジェームズ達は獣とも呼べない異形になってしまったことがあった。獣の意識に支配されて、自分を失うかもしれないという危機を感じたこともある。しかし、もう成功してしまったのだ。馬鹿な行為と十分に承知していても、誰にも自分達を止めることはできない。それがリーマスであったとしても。ジェームズはそう思ってニヤリと笑った。顔は随分と大人びたのに、笑うと昔塔の上で、リーマスとあの約束を交わした時と同じ笑顔になった。

「言っただろう? リーマス。僕は不可能を可能にする男だ」
「僕は、じゃあないだろ、ジェームズ。僕ら、だ。1人で良い格好するなよ」

 ジェームズよりももっと精悍な、大人の顔になったシリウスが不敵に笑うジェームズの頭を殴った。そんなところは何ひとつ昔と変わらない。リーマスの友人達だった。まるで強い満月の光に照らされた幻のように皆の顔がぼんやりと霞んで、リーマスは両手で顔を覆った。

「リーマス、どうして泣くの?」
「だって……嬉しい。嬉しかった……。ずっと待っていた……。狼にも、ようやく友達ができたんだ」

 しゃくり上げながら何とかそう漏らしたリーマスに、ジェームズ達は目を丸くして顔を見合わせた。それぞれリーマスの言葉に意外な印象を受けたが、最初にシリウスがにやりと笑った。とっておきの悪戯を成功させたように笑うシリウスに、続いてジェームズが、そしてそれを見たピーターもすぐに笑顔になった。

「遅くなってごめんよ。でもリーマス、僕らはこれからどんな時も君を1人にはしない」

 ジェームズは泣いているリーマスの柔らかい髪を撫で、そのまま手を滑らせてリーマスの頭を抱え込んだ。ピーターは完全にベッドに乗り上げてリーマスの顔を覗き込み、シリウスは顔を覆ってしまっているリーマスの手を無理やり奪った。

「約束するよ」

 ピーター、シリウス、ジェームズの声がそれぞれ同じ言葉を違う声音でリーマスの耳にそう吹き込んだ。リーマスは泣きながらただ頷いた。何度も、何度も。そんな彼らの姿を見ていたのは、丁度窓枠に切り取られた空に浮かんでいるはずの、今はもう薄い朝日に消えた星々だけだった。

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