壁の花より高嶺の花
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シリウス・ブラックがどんなに鈍感な男であったとしても、本人と周囲にとって大変幸いなことに、ものには限度というものがある。露骨な期待の視線が四方八方から降り注ぎ、しかもそれが四六時中だとしたらいくら鈍感王のシリウスでもそれに気付かないで過ごせるわけがないのだ。だからジェームズ・ポッターはこの世の摂理に感謝した。相棒であるシリウス・ブラックが人の気持ちに大層鈍感な人でなしと言われるようでは、ジェームズの繊細な心が傷ついてしまう。それで稀代のシーカーが空を飛べなくなったりしたらグリフィンドール寮は破滅してしまうではないか。
「もう我慢できない」
クリスマスのダンス・パーティを二週間後に控えて、シリウスがとうとうそう言って音をあげた。その時ジェームズはブラボー! と心の中で叫び、たまらず両手を挙げて喜んだ。今日はいつも鈍感な相棒に、まるで誕生日のように豪華な食事を用意してやりたい。よくやったと褒めちぎって、夜は添い寝をしてあげたって全然構わないとさえ思った。
「この事態に?」
歓喜に声も上げられず、ただ両手を挙げて髪を躍らせているジェームズに代わって、リーマスがシリウスに尋ねた。シリウスはここ一週間ずっとそうしているように、眉間に皴を寄せ、憂い顔というよりは鬱々と茸でも生えそうな顔を崩さずに答えた。
「そうだ」
それでも一週間我慢できただけで奇跡だろうとジェームズは思った。普通の神経ならば一日だって耐えられないはずだ。鈍感王の名は伊達ではない。当事者でないジェームズだって、視線の集中攻撃にあうシリウスの側はしばらく御免だと思ったくらいなのだから。
「じゃあ、雲隠れでもするかい? パーティまであと2週間ほど」
隠しても自然とニヤついてしまう顔で、ジェームズは親友にそう提案した。シリウスは明らかにこの事態を楽しんでいる様子のジェームズを睨みつけるようにして眉間に皺を寄せた。
「来年もそうしろと言うのか? ジェームズ」
ジェームズは肩を竦めてそれに答えた。来年は大変だろうなぁ、卒業だし、女の子も今年よりもっと必死だろうと思ったけれど口にはしなかった。
「他に方法がないなら仕方ない。君が誰か一人を選ぶというなら別だけれど。僕は出来れば、君には君の本当に望む相手と踊って欲しいな、親友として」
考えるより前に口を突いて出た――または忘れるくらい前々から考えていて何度も心の中で繰り返した――言葉に、ジェームズは自分で感動した。何て友達思いの優しさ滲む言葉だろう。しかも最高のタイミングで口にできた。素晴らしいぞ、さすがジェームズ・ポッター。そうやってジェームズが心の中で自画自賛していると、シリウスが冷たい目を向けて言った。
「……“わぁ、良いこと言ったなぁ、自分”と思っただろう、いま」
咄嗟に思っていないよ、とジェームズはとぼけようとした。けれどいざそう口に出そうとしてシリウスの目を見ると、彼の目はいつも以上に冷たい。本当に我慢の限界だという顔をしているものだから、さすがのジェームズだってちょっと怖気づいた。
「…………思ったよ。思ったとも! 実際とても良いことを言ったよ、僕は! 君は感動して涙を流すべきだ、我が友!」
「強制されて感動できるか!」
しかも自分の不幸を楽しんでいそうな様子の親友に――それは本当に親友か?――強制されれば余計だ。
「でも、ジェームズの言うとおりだよ。いいなぁ、と思う女の子だっているんでしょう? 他の子には悪いけど、今年は誰かを選んだら?」
「そうだよ。今年は僕も参加できそうだし、シリウスだけ部屋で待機だなんて、楽しくないだろう?」
ピーターがおずおずと提案すると、一昨年は満月のため、そして去年は風邪のために参加できなかったリーマスもそれに乗る。ジェームズだけではなく2人にもそう言われて、シリウスの眉間の皴はさらに深くなる。そしてしばらくの沈黙の後、シリウスはとても大きな溜息をついた。
「……分かった。俺だってパーティは好きだ。踊りたいと思っている相手だっている」
吹っ切れた様子でさらりと告げられた大告白に、ジェームズ達はそろえて声を上げた。
『誰!』
シリウスが想っている女の子がいるだなんて、そんな話一度だって聞いたことはない。ジェームズ達はもしかしたら誰かはその事実を知っていたのではないかと疑って、それぞれ3つの顔を見合わせてみたけれど、誰もが首を横に振るだけだ。
「高嶺の花だと躊躇していたけれど、今年は覚悟を決める」
高嶺の花だって? あのシリウス・ブラックが高嶺の花などと口走る女の子とは一体誰のことなのだ。恐慌状態に陥った3人は目を白黒させて、それぞれ自分の頭の中でホグワーツ中の女生徒を検索し始めた。だがその努力むなしく、彼らの頭にはそんな女性は浮かばなかった。だって、シリウス・ブラック自体がまさに高嶺の花なのだ。さらに高嶺と言われれば、雲の上に隠れてしまうくらいに高いに違いない。
「だから誰なのさ! この僕にも隠していたなんて、シリウス!」
そしてこの僕が気付かないなんて、ジェームズ! とジェームズは自分を叱咤する。
「隠していたわけじゃあない。出来ればこの手は最後の手段として残しておきたかったというだけのことだ。とにかく、黙って見ていろ」
黙って見ていろ、イコール邪魔をするなということだろう。それだけその相手に真剣だということなのだろうか。これ以上ないくらいに驚いて、リーマスとピーターはお互い呆然として顔を見合わせ、ジェームズは両手で頭を抱えてその場でのたうち回った。
次の日のことだ。有言実行、しかも即実行、というシリウス・ブラックは確かに覚悟を決めていた。シリウスの潔さはとてもよく知っているジェームズ達は、今日のいつにシリウスがそれを実行するのかということをハラハラしながら見守っていた。その実、ジェームズだけは密かに邪魔をする機会を狙っていたのだが。
「少しの間お時間をいただけますか?」
それは授業の終わった直後のことだった。その日最後の授業だったので、生徒達は一度寮へ戻り、その後食堂で夕食を、といういつも通りのパターンで行動しようと動き出した。その中でただ一人、シリウスだけがその流れには乗らず、優雅ともいえる足取りでひとりの女性を引き止めていた。
「聖なる夜に、どうか貴女と踊る栄誉を与えていただきたい」
呼び止めた女性の手を控えめにとってそう言ったシリウスに、グリフィンドールの女生徒達は一斉に顔面蒼白になった。中には悲鳴を上げて失神しそうになっている生徒までいる。ただひとりの例外はシリウス・ブラックの良き女友達、我が目を疑って必死になって目を擦っているリリー・エヴァンスだ。
「断るなんてつれないことを仰らないでくれますよね? 俺は貴女に会うために夜中眠る間も惜しんで寮を抜け出し、昼だって常に貴女の視線の先を気にしているのですから」
女の子がメロメロになる色気を惜しげもなく振りまいてダンスのパートナーを申し込むシリウスに、ジェームズ達だけではなくその場にいたグリフィンドールのクラスメイト達全員があんぐりと口を開けた。あのシリウス・ブラックが女性を口説いている。照れた様子もなく、むしろ見せ付けるようにして堂々とクラスメイト全員の前で。
「そ、その手があったか……」
ジェームズは自己主張の激しい髪をかき混ぜて、悔しそうに声を漏らした。完全にシリウスに出し抜かれた気分だった。シリウスの意外な選択に、邪魔するタイミングも逃してしまった。
「で、でも、良いのかな?」
「う、ん。駄目……ってことはないよね? だって、男の人を誘っているわけじゃあないし……」
そう、シリウスが誘っている相手は確かに“彼女”だ。決して“彼”ではない。そして昨晩ジェームズが真剣に心配したように、ふくろうや幽霊、ホグワーツの壁に掛けられた絵の中の人ではない。ホグワーツではごく普通の、生きている魔法使いだ。
「寮を抜け出すのは私に会うためだったと? ミスター・ブラック。昼間私の視線の先を気にしているのは、貴方に後ろ暗いことがあるからでは?」
意外にも好奇と嫉妬の視線の中にいて、その女性はいつもの調子を全く崩さなかった。シリウスの魅力的な口説きにだってなんら堪えた様子はない。手はシリウスに取らせたまま、毅然と伸ばした背筋の描き出すラインは完璧なまでに美しい。
「とんでもない! 後ろ暗いことなんてありませんよ。貴女への熱い想いを隠すことには精一杯ですが」
そこまで言ったらもう隠していないよ、とジェームズが遠くで呟いた。そして隠すまでもなく、そんなもの持っていないだろうにと言ったのが口説かれている最中の女性だった。
「貴方が女性に熱くなれる人だとは思っていませんでしたね」
口元だけで微笑んで辛辣に言い返した女性に対して、シリウスは心の中だけで思った。熱くならざるを得ない状況だって、男にはあるのだ。
「ひとりの人に尽くすタイプなので、他には冷たくなってしまうのかもしれません。ただ一人に誠実でありたいというのは、高慢だと思われますか?」
演出はつれない年上の女性に不満を隠さない、子どものように無邪気な男。背だけはしっかり成長して女性よりも高いところがポイントだ。それから女性がシリウスの演出に気付いて、ますますつれない言葉を返すのは予想済み。
「多くの女性にとっては大敵でしょう。貴方の場合は特に」
まるで言葉の決闘だ、とリーマスは思った。どちらも表情は穏やかなだけ、よりその戦いの激しさが際立つ。ちょっと――いや多分絶対に――リーマスには真似できない男女の会話だった。
「敵になりたいと思っているわけではないのですが」
苦笑してそう漏らしたシリウスに、彼女は少しばかり同情の色が混じった溜息で応えた。なるほど、シリウス自身は女性の敵どころか、女性の目に留まらないくらいの男であればいいとさえ思っているのだろう。そうすればこんな気遣いはしなくて良かったのに。
「良いでしょう。貴方の申し出を受けます」
押して駄目なら引いてみろ、ではないが、どうやら同情を得るというシリウスの作戦は成功したようだ。何だかんだとシリウスは女の子のことを考えているのだなぁ、とジェームズはこっそり肩を竦めた。確かに彼女ならシリウスのパートナーになったからと言って、彼の恋人を気取るようなことはあり得ない。そしてダンスの前と後の羨望と嫉妬の眼差しだってどこ吹く風だろう。まして面と向かって彼女を中傷しようなどという輩は現れないだろうし。そう、あらゆる意味で、シリウスは彼に憧れる女生徒達を守ったのだ。ついでに言うなら自分の身も。
そんな気遣いをしなければならない境遇には同情してくれたけれど、すっかりシリウスに利用される立場というのは面白くない、と女性は思ったのだろうか。シリウスに取らせたままの手に少しだけ力を込めると、年上の美女は猫のように目を細めてにっこりとシリウスに微笑みかけた。
「ですが、私に恥をかかせるような踊りは許しませんよ、ブラック」
微笑から冷気。だからこの手は最終手段として残しておきたかったんだ、とシリウスは心の中で天を仰いだ。けれどここで怖気づくのはシリウス・ブラックのプライドが許さない。
「貴女が満足されるような完璧なリードをして見せますよ、Professor」
シリウスはそうやり返して、女教授の手にそっと口付けを落とした。女生徒達には蕩けるほどに甘く見えるその行為も、リーマス・J・ルーピンには決闘の延長合図にしか見えなかったとか。