芽を摘み取る人

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 ハリー・ポッターの名を出すと瞬時に苛烈な色を帯びる、眩しい瞳。そこに忘れられないエメラルドの輝きを見た気がして、一瞬、息が止まる。


 苦しい恋だ。
 息が止まりそうなほどに。


 けれど、本当に息が止まるその最後の時まで、決して手放すことのできない想いだった。


 手に入らなかった、手の届かなかった女性。ずっと前から、手を伸ばしていたのは他の誰でもない、自分だったはずなのに。掴めなかった。そして、諦められなかった。彼女は――。


 彼女も最後の瞬間には、こんな苛烈な色を宿した瞳を、息子を殺そうとする男へ向かって投げかけたのだろうか。

 きっとそうに違いない。彼女は強い女性だったから。

 彼女は死に際、まだ赤子の息子に愛と守りを残した。所詮自分を守る守護霊は、自分が望んだ形をしているだけで、彼女自身の意思がそこにあるわけではない。けれど、彼女は愛する息子のために、その心を残した。彼に残されたのはその息子が持つ、エメラルドの瞳だけ。

 けれども不思議なことに、いま彼の胸に痛みを与える瞳は、その息子の瞳ではない。ハリー・ポッターを守ろうとする、その精神が彼女とこの目の前の女性の瞳に同じ輝きを持たせているのだろうか。

 自分はヴォルデモートとは違う。ハリー・ポッターを殺そうとする者ではないのだということを、その女性は知らない。教えるつもりもなかったが、その女性がヴォルデモートと自分を同列に考えていることには、わずかに悲しみにも似た想いを抱いた。よりによって、彼女を殺した男と同列に見られているなんて。そう見られるように振舞ったのは、ほかでもない自分なのだけれど。

 彼の口に、わずかに苦しみが宿ったその次の瞬間、女性の手首がしなやかに動いた。彼もそれに負けじと杖を振るう。ここで死ぬわけにはいかなかった。彼女を失ってもなお、手を伸ばすことを止めることはできなかった。他に何を失い、何を手に入れ損ねたとしても。

 女性の放った魔法は、確実に彼を殺しにきていた。けれど彼は女性を死なせるわけにはいかなかった。その女性には、生きてホグワーツに残ってもらわなくてはいけない。ダンブルドア亡き後、彼らがどんなにシナリオを作っていたとしても、そのシナリオ通りに事を進めるためには、生きてホグワーツを守る人が必要だった。それを成し遂げられる人は、一人しかない。彼が苦々しく思いつつも、心の底で憧れた、グリフィンドールの意思を継ぐことのできる女性。その人しか。


「ミネルバ!」


 フリットウィックの声がした。スプラウトとスラグホーンも駆けつけたようだ。しかし女性の瞳はそちらにちらりとも向けられない。彼だけを捉え、逃がさないように次の攻撃の瞬間をしっかりと見据えている。その瞳に見つめられることは悦びだった。できれば、もっと別の状況で。そう言ってしまえば、己の過去をすべて、彼女ごと否定してしまうような気がして、彼にはできなかった。

 だから彼は目を逸らして逃げ出した。追ってくる彼女の熱い視線を背に受けながら、窓を突き破って外に出る。二度と、この場所に戻ることはできないと、彼自身が一番良く知っていた。


「卑怯者! 卑怯者!」


 甲高く、罵る女性の声が背後に響く。彼はそれを聞いてもなお、後を振り返ることはなかった。卑怯でも、汚くても、構わない。望むことを成し遂げられるのなら。せめて死後にでも、彼女に会えてこの身の裂けるような努力と想いを認めてもらえるのなら、それだけで――。


 けれどもう一度だけ、あの強い瞳を見返したかった。


 最後まで彼女の瞳に映ることを望んだ彼は、しかし本当に息が止まるその最後の時に、一瞬だけ、彼女とは別の、けれど同じくらい強い意思を持つ瞳を思い浮かべた。


「ミネルバ? あなた、大丈夫?」

 悲惨な戦場の跡を駆けずり回ってすでに一日以上が経過しているその中でも一番、誰よりも忙しく駆けている同僚に声をかけられて、ミネルバは思わず苦笑した。

「大丈夫よ。あなたこそ、寝ていないんじゃあないの?」

 お互いもう“いい年”のはずだけれど、声をかけた方もかけられた方もお互いの体から立ち上る力を感じ取って、思わず微笑み合った。

「そうね。でも、寝ていたら助けられるはずの人も助けられなくなる。意思の力でなんとかなるうちは、起きて助けるわ。それが私の仕事ですもの」

 彼女が状況のあまりの悲惨さに顔色を失ったのは、最初の数秒だけだった。数秒で彼女は自分のやるべきことを飲み込んで、猛然とそれに向かって走り出した。他には何も考えられない、というように。そんな瞳を、ミネルバはよく知っている。

「……男なんて、馬鹿ばかり。ヴォルデモートは勿論、アルバスも……あの人だって」

 すぐに手伝いに行く、と同僚に告げた後、ミネルバは一人でホグワーツの校長室前に立った。一人は穏やかな笑みの中に、一人は笑みなど知らないというような仏頂面の中に、真意を隠しつつも猛然と駆けていった男を、ミネルバは思い出す。

「何も言わなければ、何も分からないなんて、ずいぶん甘く見られたものね」

 一人は校長室の肖像画の中に、いまもその姿を見せてくれているのだろうか。また、もう一人は肖像画を置く間もなく逝ってしまったが、目的の場所に辿り着いただろうか。

「知っていましたよ。あなたが、一人の女性を愛していた。それくらいのことはね」

 あの時、杖を突き出して戦った短い間にも、彼が自分達を傷つけることを避けていたことも。

 ミネルバは散々に乱れた髪を、一旦解いた。それから校長室の扉を睨み付けるようにして、顔を上げ、もう一度髪をまとめ直した。

「……卑怯者」

 吐き捨てた言葉と引き換えに、ミネルバは気持ちを切り替えた。死者への弔いも、愚痴も罵りも、そんなものは後回しにできることだった。今は、生きている者を一人も多く助け、未来に繋げることが必要だった。彼らの手を離れた未来を。

 そのために私が残った。


 そのために、彼らは彼女を残した。


引用
J.K.ローリング著;松岡佑子訳:ハリー・ポッターと死の秘宝.下.2008.7.23.東京.静山社.p.314-315より

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