Music
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愛しい天使
謳ってくれ
君を殺すその瞬間まで
彼は河縁の土手の上を歩いていた。
手には拳銃を握っている。
黒のレザーコートが重い。雨が降っているせいだろうか。
彼は夢遊病者のように、ただ土手を歩いていた。
空は赤黒い。
彼の体を打つ雨の色まで赤黒かった。
どれほど長い間歩いていたのか分からない。ただどこまでいっても土手は終わらず、どこまで歩いても彼は疲れることを知らない。空は相変わらず赤黒く、月は見えなかった。彼はふと立ち止まる。緑の芝だった土手が、不意に真っ赤に彩られたからだ。とうとう雨が芝を赤く染めてしまったのかと、彼は一瞬思った。しかし何のことはない。土手に真っ赤な花が咲き乱れていただけだった。芝生が見えないほどその花は土手に群生していた。
死人花。
彼岸花。
確かそんな名前の花だと記憶している。根に毒を持つ美しい毒草だ。まるで土手が燃えているようだと彼は思った。花の形は焔の形に似ている。彼は土手に降りてその花を一本手折ろうとした。左手には拳銃が握られていたので、右手で緑色の茎に触れる。花の色を反映してか、彼の手は赤かった。否、赤黒かった。彼は花を手折ろうとするのを止めて、自分の手を見つめた。赤黒い手に、赤い雨粒が落ちる。乾きかけた粘着質の液体が、彼の手にこびりついていた。胸がむかつく不快な臭い。ふと見れば、黒のレザーコートにも赤黒い斑点が出来ていた。
人の血だ。
彼は無感動にそう思った。体が痛むようなことはない。自分の血ではないようだ。いったい誰の血か。そんなことは彼にとってどうでも良い事だった。これが夢でも、現実でも構わなかった。ただ、ここは酷く心地良かった。その理由は分からない。彼は土手に横になった。歩くのに疲れた訳ではなかったが、この花のそばに居ればゆっくり眠りに就けるような気がしたのだ。彼はそれを望んでいた。心地良い眠りを。深い、深い眠りに就くことを願っていた。
彼は目を閉じた。
愛しい天使
どうか謳ってくれ
愛しい私の
音楽の天使よ
歌姫を愛した、醜い怪人。彼はそれに自分の姿を重ねていたが、本当はその話が大嫌いだった。歌だけを、音楽だけを愛せば良かったのに、何故怪人は歌姫までも愛してしまったのだろう。
可哀想なエリック――。
そんな憐れみは、要らない。憐れむくらいなら、心など無くていい。それでも側にいてくれることを彼は望んだ。しかしファントムは彼女を逃がした。その憐れみに満足したからか、自分が惨めで耐えられなかったせいなのか。たかが本の中の恋愛に、彼は魅せられていた。
俺だったら、殺すよ。
絶対に逃がさない。
胸の中に燻る焔。それが表に出ることは一生無いだろうと、彼は思っていた。人を愛することなど。
夢の中の夢に引きずられて行きそうになった彼の耳に、微かな音が響く。高く、低く、それは音楽だった。彼は起き上がる。ここに自分以外の者がいるとは思わなかった。立ち上がって耳を澄ます。消え入りそうな音は、群生する花の中から聞こえていた。彼は花の間を縫うようにして進んだ。段々と音が近くなってくる。拳銃を握る手が強くなる。その音は、正確に言うと人の声だった。もっと正確に言うと、人の歌声だった。男か女か区別がつかない。ただ透明感のある硬質で、時に柔らかな声。彼はこの声を知っていた。胸の中の焔が大きくなる。赤い花の中で、突然白い布が翻る。
彼は拳銃を突きつけた。
それは人形のようだった。
白い着物に、解けかけた赤い帯。
着物と同化しそうなほど白い肌。
赤い花に埋もれて、人とも物ともつかない、男とも女ともつかないそれは横たわっていた。白い着物の袖が広がり、それはまるで天使の羽のようだった。拳銃を突きつけられているにも関わらず、それは平然とした顔で空を見つめていた。赤い雨に濡れながら、しかしそれは決して赤には染まらなかった。ただ唇だけが紅をさしたように赤い。しばらくの沈黙の後、それはゆっくりと唇を開いた。そこからこぼれた声は、確かな音程でひとつの曲を謳い上げていた。懐かしい響き。母親がこの世との別れに選んだ曲と同じだ。その天使のような歌声までもが。もう十五年も前のことだった。ぶら下がる母親の微かに揺れる足先。だらりと伸びて垂れ下がった首。確かに死が訪れて機能を停止した彼女の脳。
母の死の現場に居合わせた時、彼は感動に打ちひしがれていた。母親の死にではない。それは彼には関係のない出来事だったのだから。ただ彼は身を震わせ、恍惚という二文字を経験した。レーザー光で再現された鎮魂の歌は、彼の魂を高みへ誘った。
今耳に響く声は空気の振動がそのまま、彼の耳に届いていた。身が震える。あの時感じた以上の興奮が彼を襲った。彼は横たわるそれの腹部に跨り、身を屈めた。謳い続けるそれの瞳は、赤黒い空を映していた。彼は銃を置き、むき出しの、謳う毎にしなやかに動くそれの首にゆっくり両手を置いた。首は細く、彼の両手はしっかりとそれの首に回された。何も感じないのか、それは謳うことを止めようとはしなかった。彼は首に回した手に徐々に力を入れて締め上げていく。十分に力を入れると、謳が止まる。それは瞳を閉じた。抵抗はない。しかし彼はその両手に更に力を込めることはなかった。それを殺してしまうことで、このやっと手に入れた理想郷を失うことを恐れたのだ。
彼の手が雨に濡れたそれの唇をなぞる。彼の両手についていた血が、雨と混ざってそれの唇に紅をさす。
My Angel…….
呟いて彼はそれの唇を自らの唇で塞いだ。数秒後ゆっくりと離れた彼は、美しく微笑むそれと目が合った。謳うこと以外で開かれた、それの唇が、声が、発した言葉。謳うように、それは言った。
My Angel.
彼は思った。この世界も、この音楽の天使も、すべて自分のものだと。こめかみに突きつけられた銃口の感触に、彼は生まれて初めて微笑んだ。
飛び散る血が、それの雪のような着物に赤く滴る。力を失った彼の体はそれにもたれかかり、次から次へと流れ出す鮮血は、肩口から着物を赤に染めていく。
それは恍惚とした表情で、彼を抱きしめ、今や自分にすっかり身を任せている彼に口付けた。そして再び謳い出す。謳う理由は哀れみではない。
その謳は完全に彼のものだった。
愛しい天使
どうか謳わせて
閉じ込められても構わないから