憎しみと共に川に沈む

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 私は丸く切り取られた風景を見ていた。その丸はとても小さくて、眼球を左右に動かしても見える景色はほとんど変わらない。それに切り取られた外界はとても暗くて、結局私は何も見えていないのと同じような状態で走っていた。コンクリートの固い道が冷たく足の肉を跳ね返す。私は裸足だった。


 私は裸足で、一心不乱に走っていた。


 裾の長い服が足にまとわりつくのが煩わしく、私は両の手で裾を掴み上げた。よく利かない視界では、自分が真っ直ぐ走っているのか、そもそもどこへ向かって走っているのかも分からない。けれど私はどんな建物にも、障害物にもぶつからずに走ることが出来た。捲り上げた裾のせいで、走っている素足に冷たい風が当たる。

「右に曲がって」

 まるで耳元で囁かれているのかと思うほど近い声に、私の体は驚くより先に声の導くまま右に進路を変えていた。

「次は左」

 若い女の声だった。まだ少女と言ってもいい。張りのある声は高すぎず、人に命令し慣れたようなつんとした高慢さも若さ故かと人に思わせるものだ。知っている声ではない。全く知らない声だ。けれども彼女の声に私は従ってしまう。

 その人は私の前を走っているのか、足音もほとんどしないのに気配だけを感じる。見ようと思えば狭い視界に入ってくるほど近くにいる。いるはずだ。けれど私は走るのに必死で、その導き手の姿を確認する余裕も持てない。

「……こっちよ、早く」

 そして少女の声は私の余裕をさらに奪い取るようにして急かすのだ。私は懸命に走っていてその声に応えることもできないというのに、少女の声はどこかそんな私をからかうような響きさえ滲んでいるように聞こえる。苛立たしい。一瞬、ほんの一瞬だけその少女を見つけ出し、手を伸ばして髪を掴んでやりたいという凶暴な感情が過ったけれど、その凶暴さは別の方向へ向けられるべきものだと少女が気づかせてくれる。

「もっと早く。追いかけないと、男が川へ辿り着いてしまう」

 駄目だ。流れの速い川を舟で渡られたら、女の身で泳いで追いかけることは叶わない。何とか川岸で追いつかなくては。

 だがそう思っても視界が狭すぎて、自分の目には逃げる男の姿も河の流れも見えはしない。せめて川の流れるせせらぎの音が聞こえないかと耳を澄ませてみるが、聞こえるのはこもった自分の息の音ばかり。それも走っているせいばかりではなく息苦しい。何だろうか、この籠る熱気は。暗い、熱い、苦しい。けれど立ち止まっている暇はない。とにかく追いかけなくては。

「そうよ、追いかけなくちゃ」

 自分ではない少女の声がそうやって急かす。あなたは誰なのか。どうして私を急がせるのか。

「それを訊いている時間があるの? ほら、男が川岸に着いた」

 あぁ、なんてこと! 彼は船頭に頼んで舟に乗り込み、川を渡るつもりだ。私が追いつけないように、川の向こう岸へ行ってしまうつもりなのだ。

「逃がさない」

 少女の声はなんの感情も見せず、淡々と私に囁いた。そうよ、逃がさない。私は口の中でそう復唱した。唱えるように、呪うように。

 ちりりと額に痛みを感じる。額というよりも、もう少し両側に離れた、こめかみの上のあたりがじくりと熱を帯びた。これが頭に血が上るという状態なのだろうか。上りきった熱が、行き場を探して皮膚の下で暴れているような痛みを感じて、私は思わず立ち止まり、俯いて顔を両手で覆った。

 するとひたりと手の平に吸い付くようなしっとりとした温もり。私の肌ではない、固いのにどこか柔らかさを感じさせる曲線。この狭い視界を作り出しているものの正体を探ろうとたどっていけば、頬のなだらかな盛り上がりを感じる。それから目元。細い線を指の腹でなぞれば、この視界の狭さにも納得がいく。低いけれど上から下まですっと通った鼻は顔の中心にあり、口元は両端の窪みから微笑んでいるような印象を受ける。厚くはない唇。うっすらと空いている隙間から、自分の息が熱く漏れる。

 面だ。皮膚に張り付いているようなしっとりとした温もりは素材のせいだろう。私は自分の顔より一回り小さな面を被ったまま走っていたのだ。息苦しくて、視界が狭くて当然だ。何故そんな馬鹿なことをしたのだろう。私は、一体どうして。

「その面では、彼を追えませんよ」

 すぐ側で聞こえていた少女の声とは違う声に、私は面をつけたまま顔を上げた。狭い視界の中に浮かび上がるのは細い体の男性だった。彼――おそらく彼――はその手に何かを抱えた姿で私の正面に立っている。

 川岸に。

 そして私に向かって話しかけてくる。微笑んだようにひっそりと上がる口角。けれど目元は笑っていない。どこか冷えた眼差しが私を貫くが、聞こえてくる声はとても滑らかで美しく私の中に響き渡る。

「あの川を渡るなら、そのままでは追えない」

 ではどうすれば? 私はどうすればいいの? 問いかけると、その人のひっそりとした微笑みが一層深くなる。

「それはあなたが知っている」

 私、私が知っている? あなたではなく?

「あなたはどんな面が相応しいか知っている。あなたのその心を表し、彼を追って、追いつめるに相応しい面はどんなものかを」

 私のこの心を表す、彼を追うに相応しい顔。それを思うと、また両のこめかみの上が痛んだ。血が溜まって、そこから吹き出しそうな痛みだ。

「それはあなたの中にある。そうでしょう? それを面に表せばいいの」

 それまで黙っていた少女の声が、とても近くで聞こえた。耳元で囁きかけているのか、それは同性の私でもくらくらとしてしまうほどの甘い響きを持った声だった。それでいて一種の高慢さを失わない。悪魔にでも命令されているかのようだ。そして人は、それにとても弱い。

「あなたは、彼を愛している」

 そう、愛しているという言葉に、人はすぐに堕ちてしまえる。かくいう私もその甘い――そして苦い――言葉の誘惑には弱いのだ。彼女の囁く通り、私は彼を愛している。

「そして彼を憎んでいる」

 彼が言う通り、私は彼を憎んでもいる。

「彼はあなたに嘘をついた」

 そう、彼は私に嘘をついた。決してついてはいけない嘘を。私が彼のその言葉にどんなに期待して、心を踊らせ、胸を焦がしたことか。直接に拒むことをしないで、傷つけまいとしたつもりか。神詣でを理由にしてその場逃れの欺瞞を口にするとは、なんと情けない男。その業さえも、熊野の神が流してくれると思ったのか。もし熊野の神がそれを許しても、

「あなたはそれを許さない」

 私はそれを許さない。

「微笑んではいられない」

 見過ごしてはやらない。私を騙して私の前を通り過ぎ、それでも修験僧として生きようとするなら、私は「愛しい人」と笑ってなどいられない。

「むしろ口は引きつり」

 歯はむき出しになる。

「目は見開かれて」

 頭に上り詰めた怒りと憎しみは二本の角となって頭蓋を突き破り、髪が乱れてうねる。まるで――、

「そしてあなたは真蛇になる」


 まるで蛇のように。


 その時一瞬だけ、視界が開けた。それまで被っていた面が真っ二つに割れて地面に落ちる。呆然と見やれば、それは白くのっぺりとした女の顔で、私はそれを”自分の顔ではない”と思った。

 こんな顔ではない。
 私の顔は、もっと。

 汗に濡れた私の素顔に冷たい川風が当たったと思った瞬間、顔が熱くてたまらなくなった。まるで燃えているよう。私は思わず顔を両手で覆った。その数秒の間に。

 私はあらたな面を被っていた。

 素顔を覆おうとした私の手は、再び固い面に触れる。けれど先程の面とは違い、頬にはなだらかさがなく、口は耳に届くくらいに裂けている。視界は再び狭くなり、なぞった目元は深い憎悪の溝が。先程は触れることのなかったむき出しの眼球に、直に触れられるという不自然さ。おそるおそる手を脇にもっていけば耳があり、そのさらに上で何かに突き当たる。なぞる指は上に。そして逆手に握ることのできるそれは二本の角。人の頭には決してないはずの異物。私の手は震えて落ちる。

 皮膚に触れている面の内側は荒々しく、そして焼けるように熱い。その熱が頭の、丁度二本の角が生えたあたりに集まり、じくりじくりと痛む。面ではなく、私の皮膚が盛り上がる。まるで、今にも皮膚を突き破って角が出てくるかのよう。

 私は狼狽え、面を外して、と叫ぼうとするけれど、まるで蛇が獲物を呑み込もうとしているかのように大きく開かれた口から漏れるのは、蒸気を吹き出すような空気の摩擦音だけ。叫ぶには舌が邪魔だ。面の舌が。

「彼が舟に乗ったわ」

 私の喉がひゅっと醜い音を立てた。笑いを含んだ少女の声。悔しい、その少女の声も、男を逃がしてしまったことも。私にも舟が必要だ。足の速い舟が。舟を渡してくれる船頭が。そう思って覆っていた手を外すと、先程とは違う面の大きな二つの穴から、先程と同じ微笑みを見た。

「蛇は水性。その顔になったあなたなら、舟などなくても川を渡れる」

 船頭になってくれないかと期待していた彼は、そう言って口元だけ微笑みながら優美な形の手を挙げる。すっと長い指先が川の流れを指す。あぁ、舟が見える。座っているあの若い修験僧の背が。こちらを振り返りもしない。怯えて、震えている背だけが見える。もし追いかけて行けるのなら、何を捨てても構わない。

「既に捨てていますよ。あなたは、この顔を――」

 そう言った彼の手には割れた面があり、その微笑みが彼の顔に重なる。私が捨てた顔の、微笑んでいるような歯ぎしりしているような曖昧な口元。私は今の自分の顔を知っている。もうあんな微笑みはない。あんな僅かな歯ぎしりもない。顎が落ちるほどに開かれた口元。まるで噛み付こうとするかのように。実際に、追いかけて追いつけば、頭から食い殺してやりたいくらい。

 私は一歩踏み出した。手が自然と伸びる。私に向けるその背を掴み、握りつぶしてしまおうと伸ばされる長い爪。腕は鱗のようなもので覆われ、伸ばした手を追って舌も伸びる。赤い、赤い。視界は赤く燃え、私の中の炎は水を求める。

「あなたが川を渡れば、修理屋としての僕の仕事も終わりです」

 彼が言った言葉の意味は、私にはもう理解できない。人の声、人の言葉など理解する必要なない。あの僧がもし命乞いをしたとしても、偽りの愛を口にしたとしても、真に蛇となった私にはなんの意味も持たないただの音。もう何も考えない。人の言葉ではなにも。
「川を渡ればそこは彼岸。この世ではない場所。異世界。だからこそ、人ではないものになれる。真蛇の名にふさわしい姿に」

 割れた仮面を残して、蛇は川を渡る。まるで足の速い舟のように川面を滑って、先を行く男を追う。

 川を渡ればそこは彼岸。

 男はもう戻れない。

「南無大聖不動明王……」

 祈ろうが叫ぼうが、背後に迫る爪から逃げきることはできない。

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