紫陽花と濡れ鼠

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 普段はあまり使用しない学食に入ったのは、外がバケツを、いや金タライをひっくり返したような雨だったからだ。午後も授業があるのだから、いつものようにコンビニへ出かけて濡れ鼠になるのは得策ではないと踏んだ  西川 守は、約一ヶ月ぶりに学食で昼食を摂っていた。同じように考えた学生が多いためか、その日学食は通常ではあり得ないくらいの大盛況だった。混み合った食堂で守の前の席が空いていたのは、誰かが来るのを待っていたわけではなく単なる偶然だった。

 同じ学部で親しくしている友人達は、午後には授業がないのですでに帰宅していたり、この雨で始めから自主休講したりしていた。そのため守は一人黙々と、湿っぽい食堂でおいしくもないカツカレーを食べているのだ。これだけ混み合っているのに、自分の前の席がいつまでも埋まらないことに微かに疑念を抱いたが、それが仕組まれた運命だなんて馬鹿げたことは考えていなかった。

 しかしやけに脂っこいカツを口に含んだ時、目の前にどんぶりを持ったずぶ濡れの男が現れて、もしかしたら席が空いていたのは何かの呪いではないかという考えが頭を過ぎった。男は小さなハンカチで顔を拭きながら、どんぶりをテーブルの上に置いて濡れた服のまま席に着いた。守はカツを飲み下しながら、黙って鞄からタオルを差し出した。向かいに座った男は、テーブル越しにそれを受け取ると、おもむろにこう言った。

「鼻をかんでも?」
「やめろ」

 守が即座に答えを返すと、渋々といった様子でその男――真壁 直人――はタオルで顔を拭いて、次いで頭を乱暴にかき回した。直人は守のタオルを頭にかけたまま、箸を割って盛大な音をたてながら丼に入ったうどんをすすり始めた。守は福神漬けをちょっと口に入れた。体に悪そうな真っ赤な福神漬けではなく、茶色のものである。この学食でこれだけは評価できる、と守は思っている。

 ところで、守の通っている大学は総合大学である。当然複数の科が存在し、敷地が広く、科ごとに棟も違う。学食はそれに合わせて複数あり、守の人文学科に近いのはこの、今カツカレーを食べている学食である。そして直人の理工学科――そう、奴は文系ではない――に近い学食は別にあった。晴れていれば他の学食へ食べに行く学生は少なくない。しかしこんな雨の中、直人は何故わざわざこの食堂に出向いたのだろう。濡れ鼠になって。用があるのなら電話でも良いのではないだろうか。それとも守にではなく、人文学科の教授にでも用事があったのだろうか。守は一心にうどんをすする直人の顔を覗き見ながら、緩慢な動きでカツカレーを食べ終えた。そして守が食べ終わると同時に、直人も箸を置いた。

「……何か用があったのか?」

 守が尋ねると、直人はもう一度タオル越しに頭をかき回した。守の貸したタオルはすでに雨水を吸ってぐっしょり濡れてしまっていた。

「用ができたんだ。紫陽花を見て思い出した」
「紫陽花?」

 直人は自分のリュックからポケットティッシュを取り出し、鼻をかんだ。ずぶ濡れ状態のタオルは、持って帰って洗って返せ、と守は言いたかった。直人は鼻をかんだ後遠い目をして切り出した。

「俺が高校二年の時……」
「待ってくれ」
「何だ。合いの手を入れるところじゃあないぞ」

 そう言うと、直人はまたティッシュに手を伸ばして鼻をかんだ。

「俺は次にも授業が入ってる。手短に話してくれ」

 守の言葉に不満そうにふん、と鼻を鳴らしたものだから、直人はまたティッシュに手を伸ばすハメに陥った。風邪を引いたのだろう。

「話は短い。俺が高校二年の時、好きな女の子に手紙を書いた」

 意外なエピソードだ。昔からミステリにしか興味を示さないマニアックな男だと思っていたのに。いやしかし、この体験がトラウマになってもう二度と恋をしないと考え、ミステリに走ったのかもしれない。守はもう直人が失恋したと決めてかかっていた。

「手紙の内容はこうだった。相手の名前。そして続く本文は


 月が高く、木は大騒ぎだ。
 紫陽花 露草、摘んで下さい。
 手間を惜しまず。


 そして俺の名前。だから紫陽花を見るとこのことを思い出す。しかも口にしないと気がすまない。だからここに来たわけだ。以上」
 一息で言い放った直人に、守はしばらく呆気にとられた。しばらくパクパクと空気を求める魚のように口を動かして、やっとのことで言った。一番肝心なことを。

「ラヴ・レターだったんだろ?」

 直人は箸で汁だけになった丼の中をかき回しながら言った。

「まぁ、そうだ」

 守はもう一度手紙の内容を心の中で繰り返した。相手の名前。直接渡したのなら必要ないけれど、まぁ、入れるのが普通だろう。そして続く本文は? “月が高く、木は大騒ぎだ。”とそれ以降は、内容に全く繋がりがない。そして致命的なことがある。好きだ、という言葉も、それに類する語句も見あたらないのだ。“紫陽花 露草、摘んで下さい”の部分で、手紙の意図を汲んでくれというのも苦しすぎる。

「内容が伴ってないぞ? 振られて当然というか、彼女はそれがラヴ・レターだなんて思わなかったんじゃあないのか?」

 そう守が指摘すると、直人は眉を顰めて箸で守を指した。うどんの汁が飛び散って守の顔にかかったので、守も眉を顰めた。

「何を言うんだ。いたって率直に伝えているぞ」

 直人の率直さは、きっと他の人間にとっては曲がりくねって一回転しているようなものなのだろう。守はハンカチで顔を拭きながら思った。そんな守を見て考えていることが分かったのか、直人は憮然とした様子で付け加えた。簡単にヒントを与えるあたり、今日はかなり弱っているのかもしれない。

「平仮名にしろ。“かきつはた”は知っているだろ」

 奴が推理作家を希望していたのは、正確にはいつからなのだろう、と守は不安になった。まさか小学生のころからだと言うだろうか。

 守は素直に先程の詩を――出来は随分悪いけれど――平仮名に直した。すると直人はボールペンを取り出して、メモ帳にさらさらと平仮名で書き直してくれた。


 つきがたかく
 きはおおさわぎだ
 あじさいつゆくさ
 つんでください
 てまをおしまず。


わざわざ改行させてあるのは、行の頭を取るようにするためだ。こういうものは区切りが違うと意味も取れなくなってしまう。守は行の頭を繋げて読んだ。

「“つきあつて”。……確かに、ストレート……か?」

 そのまま書いた方がストレートだと思うのだが。やはり恥かしかったのだろうか。直人は馬鹿にしたようにふん、と言うと――鼻を鳴らしたわけではない。本当にそう言ったのだ――ボールペンでメモ帳を叩いて見せた。

「行の下も取るんだよ」

 慌てて行の下も取ってみる。行の頭と繋げると。

「“つきあつてください。”」

 最後にマルまでつけるあたりがいじらしい。そうしなければ文字が足りなかったので苦肉の策だったのだろうけれど。

「これ……彼女は分かったのか?」
「彼女はミステリが好きだった。勿論これも分かってくれたが」

 語尾を浚って守が突っ込む。

「振られたんだな」

 直人は華麗に守の突っ込みを無視した。

「こういうラヴ・レターも素敵だと彼女は言った」
「え? じゃあ、振られてないのか?」

 残念、と守は続ける。しかし、今も彼女でいるとは限らないから結局は振られたのかもしれない。そう守が期待するのは、自分にそういう経験がないのでただのやっかみだった。そんな守の心中などどうでも良いらしい直人は、苦虫を噛み潰したような顔をすると低い声で唸り始めた。

「でもこういうものは詩としても普通に読めるものでないといけない、と彼女は言った。詩的センスはあまりないのね、と」

 やっぱり振られたのか、という顔を守がして見せると直人はテーブルを拳で叩いた。

「仕方ないじゃあないか! 俺は詩人じゃあないんだ、推理作家だぞ!」

 少し涙目に見えるのは、髪から雨の雫が落ちているからだろうか。群生する紫陽花や露草を見るたびに、直人はその時のことを思い出すらしい。

「未来の、な」

 優しく指摘した守は、初めてこの友人が憐れだと思っていた。外の雨はようやく“バケツをひっくり返したような”、と言えるような強さになっていた。


 恋愛下手な推理作家に愛の手を。

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