あの時切り捨てるようにして出された答えも、彼らしいと思って納得できたし、もとよりそれ以上のものを期待していたわけではなかったのだけれど――。

「えっ……?」

春の呼び声

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 あの時の雪が、早咲きの桜に変わって目の前をひらひらと舞い落ちていった。手塚は――もうすぐ出会ってから三年目に入るあらゆる意味で同級生とはとても思えない同級生は――帰り道途中に珍しく足を止めたと思ったら唐突に言った。やや強い春の風に煽られて、長めの前髪が邪魔そうに眼鏡に触れている。

「空想にふける趣味はない。だが――考えてみた」

 こうして最終学年を迎えようとしている弥生の末に、彼は何を思って二ヶ月近くも前のことを再び取り上げたのだろう。

「それって――」

 その冬の日も、手塚の背を追って僕は彼の少し後ろを歩いていた。微かだけれども、また広がった彼との身長差。彼の目を捉えるには、僕の方が少し首を上げて角度をつけなければいけなくなった。入学した時はそんな動作など必要なかったはずなのに。それがいつの間にか、手塚の方が僕よりも高くなってしまった。僕だって全く身長が伸びなかったわけではないのに。そうして差がつけられると、歩幅だって僅かながら差が出てきてしまって当然だ。だから、という言い訳。だから、僕は彼の半歩後ろを歩いているのだ。そう二人きりで歩いた経験があるわけじゃなし、彼は元々後ろを殆ど見ることのない人だから、本当の理由になんて気付くはずもない。

 僕は手塚の背中を見て歩きたいと思ったのだ。彼が後ろを振り返ることのない人だからこそ。僕が彼の背を見て彼のすぐ後ろを歩いていれば、他の誰も彼に近づき、傷つけることはないと思ったのだ。僕以外には誰も、彼に近づけさせはしないと、そう思ってしまったから。だからいっそ――。

「お前と俺が、別々の学校へ入り、敵同士だったら――と」

 考えた。こんな風に背を向けて前を歩かれて、それをよしとしてしまう僕は僕ではないと、自分で分かっているのに。それでも彼だけは、手塚だけは特別だとそう思えてしまう自分に戸惑った。

「考えてみたが……」

 だからいっそ、僕と彼の距離がもっと遠かったら、僕の彼に対する想いは違っていただろうか、と考えてしまったのだ。例えば僕が青学ではなくて、別の中学に通っていたら。想像してみることは簡単だった。僕は中学受験時に青学以外の学校も受けていた。結果としてはこうして青学を選んだわけだけれど、あの時もし別の学校を選んでいたら、手塚とはこうして一緒に帰ることもなかっただろう。勿論、同じ教室で授業を受けることも、テニス部でお互いに切磋琢磨する関係も築けなかったはずだ。

 どちらが良かったか、それは僕にも正直分からない。多分手塚にとっては僕がテニス部にいてもいなくても、大差ないというのが事実だろう。僕がいてもいなくても、彼は前を向いて進み続ける人だから。でも僕は? 僕のテニスにとっては、手塚が側にいることといないことでは大きな違いがあると思う。手塚がいなくて、手塚のテニスに魅せられることなく、僕はテニスを続けることができただろうか。それはきっと――。

「無理だった」

 まさか彼はその答えで僕が喜ぶとでも思っているのだろうか。僕は思わず溜息をついて、ラケットバックを背負っていない方の手を腰に当てた。

「手塚、それって僕と試合するのは想像もできないってこと?」

 僕は試合どころか、日常生活まで細かく想像して、杞憂と思いながらも悩んでしまったりするというのに。

「いや、そうではない。……まぁ、確かに本気のお前との対戦というのは想像を絶するが」

 しまった、と思った。これでは藪蛇だ。案の定手塚はここぞとばかりに、もう三年になるのだからいい加減お前も本気で試合に臨め、と説教を始めた。けれどいつもなら長くなるその説教も、今日は珍しく手塚の溜息ですぐに途切れた。

「そうではない。ランキング戦だってあるのだから、お前との試合はある程度シミュレートできる。ただ……」

 そんな風に言いよどむ手塚はとても珍しい。

「ただ?」

 僕は彼の顔を覗き込む形で先を促した。そんな自分の仕草に既視感を覚えて僕は少し戸惑う。あの時と同じなのだ。

「どっちが良かったと思う? こうして同じ学校にいるのと、別々の学校で敵同士になるのと」

 こだわっていない、と思っていた割に随分とその問いに執着していたようだ。手塚の返事を待つ。それは単純な興味ではなくて、かといって切実な理由があるわけでもない。ただ、僕は欲しいのだ。手塚が僕に与えてくれるものなら多分何だって、僕は受け取りたいと思う。だから待っている。問うた冬に遅れて、この春に返された答えを。

「お前が他校のジャージを着て俺の前に立っている姿は、想像できん」

 真っ直ぐ僕を見つめて、手塚は言い切った。

「俺の中で不二周助は“青学の不二”だけだ」

 それが僕にとってどんなに光栄なことか、君には分からないだろう。でも分からなくていいのだ。そうやってただ僕の前を歩いて、気まぐれでもいいからたまに振り返って僕を見てくれれば。

「だから、他校へ行ったお前なんて考えられない」

 僕も、そう言われてしまえば自覚せざるを得ない。今更、空想の中でだって君と違う学校、違うチームでテニスをプレイすることなんて出来ないのだということを。あれこれ想像していたくせに、肝心なところまで詰められなかった僕と、そんな僕を見ていたわけでもないのに、ひょいと乗り越えて答えを見つけてしまう手塚。僕達は違う人間、という括りでは片付けられないほどに違っている。そんな関係があまりに滑稽で、僕は思わず笑ってしまう。

「てっ、手塚って、面白いね」

 人の気も知らないで、時々こんな風に僕が気付かなかった答えを突きつけてくる。全部計算づくなのでは、と僕は疑ってしまうけれど、口の端っこさえ歪めないその表情では、計算して僕をつついてやるなんて憎らしいことは考えてもいないだろう。面白い。やっぱり特別に面白い存在なのだ、手塚国光って。

「不二! いい加減にしろ! 笑いすぎだ」
「うん」

 僕は目尻に浮かんだ涙を拭いつつそう答えた。笑いすぎてお腹が痛い。でも憮然としながらも立ち去らずに僕が笑い止むのを待っているその姿を見ると、僕の背筋は自然と伸びた。

「ありがとう、手塚」

 考えてくれて、答えてくれてありがとう、と僕は言った。そして微笑んだのだと思う。自分ではっきりと意識できない微笑というのは、自分では見ることのできない僕の本当の笑顔だ。

 手塚国光。

 彼の言葉、彼の行動で一喜一憂している自分を滑稽だと思う時もある。でも、やはり僕は彼の言葉を聞かないでいることはできないし、彼の背を追うことを止めることもできないのだ。

「……いや。引き止めてすまなかったな。また明日」

 明日からも、僕は彼の半歩後ろを歩くのだろう。振り返えらないで欲しいと思いながら、それでも振り返ればすぐに目が合うような位置に自分があることを僕は望んでいる。


「――手塚!」


 呼び止めてから、僕は困惑した。

「不二?」

 振り返った彼の顔が少し驚きの色を滲ませていることに、僕は気付いた。珍しいこともあるものだ、と思っているだろうか。僕がどんな表情を作って良いか分からないで、結局何とも分類しがたい顔を無防備に晒しているなんて。でもそれは君が知らないだけなのだ。僕はいつだって、君の背を見ている時には無防備で、常に迷っている。

「僕もね」

 それだけ言うのが精一杯で、僕は一旦言葉を切った。そして僕は訳の分からない困惑を呑み込んで、彼に伝えたいことを心の中から探って引っ張り出した。

「僕の中の手塚も“青学の手塚”だけだから」

 そうだ。僕がどんなに空想しても、僕が青学にいて、彼が他校にいるというパターンは一度も頭に浮かばなかった。手塚は僕の中で常に“青学の手塚”であって、僕はきっと、想像ではどんな学校にいたとしても実際には自分も“青学の不二”でいたかったのだ。だから――。

「だから一緒に、全国行こうね」

 君はきっと、その先を見ているに違いないけれど。それでも僕の言葉に微かに笑った君の顔を、僕はその言葉と共に胸に焼き付けた。

「……あぁ。必ず」

 この想いを何と呼べばいいのだろう。僕の手塚国光に対する気後れしてしまうほど真っ直ぐな想いを。それは春という季節を彩る花と同じ色、同じ香りがするのだ。でも僕は、その色も香りも、手塚には感じさせたくないと思っている。どれだけ真っ直ぐでも、彼には気付いて欲しくないと思っている。僕は手塚と別れて一人で帰宅するその途中で空を見上げた。

 短い春はすぐに終わる。

 見上げた空がそう告げていた。さらにその空は予告する。

 次にやってくる夏は長い。

 僕にはその夏に何が待っているか、想像できない。でも、だからこそ僕はその夏へ向かうことを楽しみに思うのだ。

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