もしかしたらそれは――あの時の不二にとって、俺には分からない大切な意味を含む問いだったのではないかと、そう思うようになって――。
「えっ……?」
春の呼び声
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あの時の雪が、早咲きの桜に変わって目の前をひらひらと舞い落ちていった。不二は――もうすぐ出会ってから三年目に入るというのにそのテニスも性格も一向に掴めない位置にいる同級生は――俺の突然の言葉に驚いて目を見開いた。やや強い春の風に煽られて、その薄い色の髪が揺れる。
「空想にふける趣味はない。だが――考えてみた」
こうして最終学年を迎えようとしている弥生の末に、疼く左腕に促されるようにして俺はあの冬の日を思い出していた。
「それって――」
その冬の日も、不二は今と同じように俺の少し後ろを歩いていた。微かだが、また広がった彼との身長差。肩越しに振り返ると、小さな頭がまず目に入る。入学した時は不二と俺の目線は同じくらいだったはずだ。それがいつの間にか、俺の方が不二よりも高くなり、そしていつの間にか、歩く時にはいつも俺の方が半歩前を行くようになった。そう二人きりで歩いた経験があったわけではないが、多分入学してしばらくは、彼は俺と並んで歩いていたように思う。俺が左腕を痛めたいざこざがなければ、不二はきっとずっと俺の隣を歩き、決して半歩でも後ろを歩くことはなかっただろう。あれ以降、テニスコートで向き合う、その時以上に俺が不二を近くに感じたことは一度もない。例え物理的には、この半歩の方がずっと近かったとしても。
一時は良くなっていた腕がまた疼き始めて、俺はようやくそのことに気付いた。だからいっそのこと不二の言ったように――。
「お前と俺が、別々の学校へ入り、敵同士だったら――と」
考えた。いっそのこと、同じ学校、同じ部活で切磋琢磨し合う仲間という関係をなしにして、違う学校でただ数回の対戦のみ出会うだけの敵同士だったらどうだっただろう、と。
「考えてみたが……」
そうすれば、こんな僅かな距離をもどかしく思う自分はいなかったのではないか、と考えてみたのだが。
「無理だった」
この答えは当然ながら不二の気に入る類のものではなかったらしい。不二は溜息をついてラケットバックを背負っていない方の手を腰に当てた。
「手塚、それって僕と試合するのは想像もできないってこと?」
怒りのポーズも、呆れと諦めの混じった形では迫力がない。むしろその柔和な顔が手伝って、かえって微笑ましく見えるほどだ。同じポーズだけでも、俺がすれば間違いなく本気で怒っていると思われるだろう。こんな些細なことでも、俺と不二は違う人間だから、という理由では片付けられないほどに違っている。
「いや、そうではない。……まぁ、確かに本気のお前との対戦というのは想像を絶するが」
俺がそう言うと、不二はあからさまに“しまった”という顔をした。だから俺もつい、もう三年になるのだからいい加減お前も本気で試合に臨め、と説教じみたことを口にしてしまう。だがすぐに、今ここでくどくど説いても仕方がないことだ、と今度は俺が溜息をついた。
「そうではない。ランキング戦だってあるのだから、お前との試合はある程度シミュレートできる。ただ……」
考えられなかったのは、ただ――。
「ただ?」
言いよどむ俺の答えを待つようにして、不二は上目がちに俺の顔を覗き込む。その表情にやはりあの冬の日を思い出して、俺は自分の気まぐれとも言える考えが正しかったことを確信した。
「どっちが良かったと思う? こうして同じ学校にいるのと、別々の学校で敵同士になるのと」
そう言って覗き込まれた時と、不二は全く同じ表情をしている。俺の返事を待つ。それは単純な興味ではなく、かといって切実な理由があるわけでもない。彼にしか分からない特別な事情。俺はそれを理解することはできないけれど、ただ、彼が自分の問いに対する俺の答えを特別なものと考えているように、俺は彼の問いに答えることを特別に想ったのだ。問われた冬に遅れた、この春に。
だから、あの時切り捨てたその問いを俺はもう一度考えた。考えながら、俺はあの冬の日から変わった自分に戸惑っていた。あの時と同じようにどちらが良かったという想像は、俺にはやはり意味のないことだった。いま俺達はこうして微妙な距離感を保ちながらも共に歩いていて、桜の散る頃には同じ学校で最終学年に進級する。成長に伴って制服を買い換えることはあったが、常に同じ黒い学ラン。そして他の部員よりも長く、俺達は同じテニス部のレギュラー・ジャージを着ている。
彼がテニスコートの、ネットを挟んで自分の向かいに立っているというのは空想でもなんでもない。実際にその姿を、俺は何度も見ているのだから。向かい合って俺が打つサーブに、不二がどうリターンするかと思い描くこともできる。蓄積された俺達の対戦で、そしてコートの外から毎日のように見ている彼の基本に忠実なラケット捌き、しなやかで伸びのある細い体から。けれど同じ学校で得た俺の不二に対する記憶と経験の全てをなしにしてしまったらどうだろう。
そこまで考えると、それ以上先を考えることはできなかった。
「お前が他校のジャージを着て俺の前に立っている姿は、想像できん」
そんな不二は、俺にとって不二ではないと思えたのだ。
「俺の中で不二周助は“青学の不二”だけだ」
どんなに不可思議な存在であっても、不二は青学の生徒で、俺の同級生、チームメイトなのだ。そしてテニスコートで向かい合う以外の時は、彼は青学の柱として最後の夏を迎える俺のすぐ後ろに立っている。それは目覚めるまでもない現実で、夢見るよりも明確な俺の望みだった。
「だから、他校へ行ったお前なんて考えられない」
不二は沈黙した。俺はその沈黙を怖いとは思わなかった。俺の言葉に不二がどんな想いを抱いたとしても、俺の答えは変わらない。だが流石に――。
「てっ、手塚って、面白いね」
笑われるとは思わなかった。不二はここが道路でなければ、文字通り笑い転げそうなくらい盛大に笑った。今までの流れで、何故そこまで笑えるのか俺には分からない。しかもそんなに長く。
「不二! いい加減にしろ! 笑いすぎだ」
「うん」
不二は目尻に浮かんだ涙を拭いつつそう答えた。本当に笑いすぎだ。真剣に考えた答えにそこまで笑わなくてもいいだろうに、と憮然となった俺に、不二はそれを見透かしたようにまたちょっと笑った。そこに馬鹿にしたような色は微塵もなく。
「ありがとう、手塚」
考えてくれて、答えてくれてありがとう、と不二は言った。そして微笑んだ。とても嬉しそうに。何故そこまで嬉しそうにするのか、俺には分からない。俺は単なる自己満足で、あの日切り捨てた問いを今更拾い上げただけだというのに。
不二周助。
彼の問いを切り捨てるほど、俺は彼自身を切り捨てることはできない。それはこれから俺達が背負って――そして俺が柱として――立つテニス部のためではなく、理解しがたいと思いつつも、それでも彼を理解したいと切望する自分自身のために。
「……いや。引き止めてすまなかったな。また明日」
明日からも、俺は彼の半歩前を歩くのだろう。振り返ればすぐに彼の頭が見える、その位置に自分があることを俺は望んでいるのだ。彼が俺を切り捨てることのないようにという、祈りにも近い望みを抱いている。だがそれも今は、彼の知る必要のないことだ。
「――手塚!」
呼び止められて振り返ると、呼び止めた当人はとても困惑した表情をしていた。
「不二?」
珍しい。無邪気な不二周助というのは菊丸とセットでよく見るが、無防備な不二周助というのを俺はあまり見たことがない。彼はいまとても無防備な表情を俺に晒していた。それはテニスコートで見る姿とはまた違った形での、彼の真剣な表情だと俺は思った。
「僕もね」
それだけ言って、一旦不二は言葉を切った。そして彼は困惑を呑み込んで、色素の薄い瞳で俺をしっかりと見据えて続けた。
「僕の中の手塚も“青学の手塚”だけだから」
光栄だ。俺の中で不二が“青学の不二”であるように、不二の中で俺が“青学の手塚”である限り、彼は俺を切り捨てることはないだろう。だから――。
「だから一緒に、全国行こうね」
それは不二の本心だった。彼がどう感じようとも、俺はこれから始まる長い夏の中で一度たりともそれを疑ったことはなかった。
「……あぁ。必ず」
この想いを何と呼べばいいのだろう。俺の不二周助に対する整理しきれない想いの数々を。それは春という季節に相応しく曖昧で、その曖昧さは俺達の関係そのものだった。たった半歩の距離。それを縮めたいのか伸ばしたいのか。桜の匂いを漂わせた春の風はその答えを囁いているようだったが、あまりにも微かで俺には聞こえない。俺は不二と別れて一人で帰宅するその途中で空を見上げた。
短い春はすぐに終わる。
見上げた空がそう告げていた。さらにその空は予告する。
次にやってくる夏は長い。
俺は夏の強い陽の中に立ち、前へ進みながら自分自身でその答えを見つけなければならないだろう。疼く左腕を抱えてなおも、俺はそれを楽しみだと感じることができたのだった。