| そこは神さえ恐れる深き闇 |
| 人がその狂気の果てに流れ着く場所 |
| そこではただその甘美な罪達が |
| やんわりと神の僕達を絞め殺している |
| 此処は魔の遣いが集う場所 |
| 永遠に燃え盛る焔に神の遣いを屠り |
| 歓喜の声で回る 踊る 悪魔は踊る |
| そこは恐怖と狂気の遊ぶ場所 |
| 此処に住まうべき者を捧げよ |
| さすれば悪魔は贄を得んと |
| その手を伸ばすであろう |
『母さん、もう限界‥‥その言葉を吐いても、今なら許してくれますか?』
ーーまたしてもお前は、『生きろ』と言うのだな? ならば生きよう。それがお前を屠り、生きる糧を得た我の負った義務なれば。けれど‥‥ーー
「最後まで父さんを愛してあげられなくてごめんなさい。でも、許してね、母さん。許さなくていいから、その言葉だけ使わせてね‥‥」
ガールフレンドとの会話を切ると、間髪空けずに着メロと供に液晶の淡いオレンジが暗闇に灯った。何だよ、とようやく置いたそれは先程の熱がまだ残る。液晶に映し出されたのは珍しい名前。曲が一回りしそうになったのをすんでの所で止める。
『あ、馨‥‥』
「『あ、馨‥‥』じゃねぇよ。俺の携帯かけて俺以外誰が出るんだ。どした?」
『何でもない‥‥。声、聞きたかっただけ』
「あー、そうかよ。お前に言われても全っ然嬉しくないセリフだな。なんかあったか?」
やる気のない返事を返しながらも相手を心配する言葉には嘘はない。一度目ではなかなか本音を出さない。二度目に、言葉が詰まるようなら何かあった証拠だ。長い付き合いで素直じゃない、否、人を心配させる事に極度に遠慮してしまう相手がどうしたらその胸の内を明かすか、彼にはよく分かっていた。
「‥‥あのさ‥‥馨、前に谷口サンだっけ、狐憑きになっちゃったじゃん? 彼のお祓いした祓師の人と、今も仲良くやってるんだよね?」
なんでいきなりそんな事を‥‥と眉をしかめながらも仲良く‥‥の辺りをちょっと思案するため馨は言葉を切った。相手がどういう『仲良く』を想像しているのか分からないが‥‥。おやつをたかりに行ったり『彼』の心のマドンナ(古い)とやらの仲を取り持ってやったり趣味の話で盛り上がったり、まぁよろしくやっている。なので返事は一応曖昧に肯定を示しておいた。
「その人って‥‥『本物』?」
「‥‥お前が谷口に憑いてた『狐』とやらが本物だって言ったんだ。俺の乏しい霊感じゃあ、あいつが何かしたら谷口の『狐』がいなくなったとしか言えねぇ。お前が『狐』を本物だと思ったなら祓ったあいつも本物だろ? 実力か偶然かは抜きにして。まぁ、悪い奴じゃないぜ、実際」
「そっか‥‥。ん、馨を信じるわ。依頼したいからその人連れて明日来てくんない? 依頼料はもちろん何とかするから」
「依頼って‥‥お前が?? 場違いもいいとこだろ!? だってお前‥‥」
「うっせぇな‥‥『人』のはうかつに祓えないんだよ、谷口サンの件とか、それに‥‥馨は前に身持って知っただろ? とにかく頼んだかんな! おやすみ!」
「おい、誰の‥‥。切りやがった‥‥あのガキ‥‥。俺を働かせやがって、覚えてろよ?」
まぁ、学校をサボる大義名分が出来上がったので良しとして彼はベッドに潜り込んだ。すでに日付が変わろうとしている。サボりを決め込んだ彼は昼まで起き上がる事はないだろうが‥‥。
『悪霊、狐、蛇憑き、その他何でもお祓い致します! 祓い屋 神生(』
こんな看板じゃ誰もこねぇよ‥‥と心の中で呟きつつ彼、太刀守( 馨(はこの街でも一等地と呼べるオフィスビルの入り口に立った。一階は貸し店舗のコンビニ――なんでも自分の暇つぶし専用に入れたとか――入り口から入ってすぐの階段を上がると祓い屋 神生のオフィス。三階、四階はオフィスビルの持ち主であり、祓い師である神生( 穂(と秘書である神生( 隠岐(の住居となっている。こんちは〜と中に入って行くと秘書である二十代後半で背の高い青年が馨を睨みつける。硬そうな外見に中央に寄った眉が威圧感を与えるが、いつだったかそれを指摘した時「渋くてかっこいいだろ?」と彼の主人は言ってのけた。
「太刀守君、君は今日この時間は学校にいるべきじゃないのか?」
「気にすんなって。久々であろう仕事を持って来てやったんだぜ? ってわけでお茶とお茶菓子よろしく♪」
「へぇ、君から以来が二件も届くなんてね。まぁ座んなよ、馨ちゃん♪。隠岐、僕にもお茶のお代わりよろしく♪。それで?どういった依頼? 馨ちゃん」
「その『ちゃん』付け連発するの止めたら教えてやるわ(にっこり)」
「いやぁ、愛情込めてるだけなのに〜。もう恥ずかしがっちゃって♪馨クン♪」
「最初っからそっちで呼べよ、気色わりぃ‥‥。これが依頼人だ」
「‥‥。って思いっきりガキじゃんっっ!!」
落胆のため息と供に青年――今年確か二十歳になったばかりの無個性に整った顔立ちに色素の薄い、少し日本人離れした容姿の好青年だ――はもう一度写真に目を落とした。写真の中の子供も、いや彼以上に日本人離れしている。両サイドを少し長めに残してカットされた髪は琥珀のような茶色。写真の中から睨んでいるような鋭い目は片方は穂自身の物にも似た茶色。片方は髪よりも琥珀に近い。抜けるように白い肌、ほっそりした手足。どう見ても『外人』と思えるその子は紺色の、肩口のばっくり開いた作務衣を着ていた。
「感心できぬな、穂様は遊びでこのようなオフィスを開いているわけではないのだぞ。私から言わせれば悪い冗談にしか思えなくても、な。冗談は他でやってくれ」
「隠岐‥‥それ庇ってないよ、絶対‥‥(ほろり)ああ、ありがと」
「依頼人がガキだからって手抜きするようじゃやっぱり冗談でやってるんだろ? まぁ俺は冗談のつもりはねぇけど」
「依頼ってこの写真に関する事? だったらなーんの問題もないよ。隠岐、見てごらん」
ほい、と写真を渡して穂は先程受け取ったお茶を一口飲み、食べかけていたケーキを頬張る。馨も遠慮なくケーキを頬張って見守っていると隠岐はまた眉を眉間に寄せ、困惑の視線を写真に向けている。
「はい、気付いた事言ってごらん」
「‥‥日本人離れした子供ですね、オッドアイで‥‥。年は十歳前後ですか?」
「そんなの見りゃ誰だって分かる。減点十」
「肩に女性らしき手が‥‥。後ろは石畳で人が隠れられそうな所はありませんし、妙です」
「ん、正解。でも遅かったから差し引きゼロ。この女(はたまたまこの子が写真を撮られてる所に出くわしてこの子が気に入ったんだね、『私も入れてよ♪』って感じに肩に手をかけた所を撮られた。写真を撮った後すぐにこの子から離れたからこの子には何の影響もないよ」
「‥‥あいつの言ったのとまるっきり同じか、さすがだな。どうやらまじでお遊び霊能者じゃないらしい」
試したって事?とややわざとらしく穂が不満げな視線を向けるとまぁ悪く思うなよ、と笑って馨は隠岐から写真を回収し、再び二人、正確には穂に見えるように写真を構えた。
「太刀守( 神無(、十歳の今年小五だ。見ての通り外人外人してるが四分の一ドイツ人のジャーマンクォータだ」
「太刀守って‥‥馨クンの従弟?」
「近いが違う。俺の父方の『はとこ』だ。まぁこっちが本家で俺の方ははみ出し者。神無木(神社って知ってっか? あそこの神主の家系なんだ」
「ああ、名前と噂は。確か、神主のご老人がかなり霊力(の強い方だったね。でも去年亡くなったはずだ」
「そうだ、そのじじいがこいつの祖父、で俺の祖父の兄」
「‥‥神社の子が祓い師に依頼ってのも、妙だよね‥‥。ましておじい様があれだけの方なのに」
まぁそうだな、と笑って馨は緑茶を口に含んだ。入れた本人同様渋いぜ‥‥と文句を言うが隠岐の表情は変わらない。この不良高校生がお嫌いらしく、馨が事務所にいる時はずっと眉が中央で寄り添っているのである。
「こいつもじじいと母親譲りでその手の力は強いんだけどな、ちょっと特殊な事情で自分に憑いてるのは祓えても他人のは祓えないんだ。正確には力を制御できない、俺も一回死にかけたんだ‥‥。んで、今回のは後者。いきなり電話切っちまいやがって『誰か』は分からねぇんだけど」
「ふーん、身内か友達ってとこじゃない? あ、身内は無いかな?」
「いや‥‥身内か‥‥あり得るな‥‥。あんまり込み入った事情は本人抜きじゃ話したくねぇんだけど‥‥。ちっと事情有りでな、母親が、小一の時に事故で死んで、父親がその直後に失踪してたんだ。じじいの死んだ後は俺んちに。それがつい二週間前、いきなり親父が帰って来て神無を連れ帰ったんだ」
「ハーフのお父さん?」
「いや、ハーフは母親なんだ。親父は太刀守の人間だ」
「? じゃあご老人のご子息? でも祖父と母親譲りって言ったろ?馨クン」
ああ言った、と肯定して馨はまた渋いと文句を言いながらお茶を飲む。どうもこの二人は問答みたいな回りくどい会話が好きらしい。横で聞いている隠岐の眉はそれでさらに中央に寄って行くというのに。
「優秀な家柄とやらにもたまにいるじゃん? 穂みたいなはみ出し者。それがうちのじじいであり、神無の親父なんだ。神無の親父、霊感ゼロ人間なんだよ。この俺だって多少は感じるってのにさ。そのコンプレックスで霊感強い嫁さん貰ったって噂だったぜ。まぁ夫婦仲は相当良かったみたいだけどな」
「なるほどねぇ、事情理解。とりあえずヒマだし受けてあげるよ、依頼。依頼料は馨クンにツケといていいの♪?」
「自分で何とかするって言ってたけどなぁ‥‥。まぁ『お小遣い×ヵ月分』!ってオチだったら払ってやるよ♪。小夜の研修風景写真なんてどうだ♪白衣の天使姿だぜ♪」
「小夜子さんの天使お姿!? わぁ‥‥それはどきどき‥‥」
「穂様! そのような不埒な報酬は許しません! 第一、研修生は正規の白衣ではありませんよ」
「ちっ知ってたか。じゃあ健全に、小夜とのデートお膳立てな。映画→お食事コースでどうだ? この前小夜に付き合って動物園だったんだろ?」
「それなら保護者もgoサイン♪。小夜子さんどんな映画好きかなぁ〜♪」
仕事をする前からこの二人は報酬の話で盛り上がっているが‥‥。こんな報酬ではいつまでも繁盛する日が来るとは思えない‥‥。まぁ多少なりコンビニのレンタル料もあるし、給料も生活費も別の所から出ているので生活には困らないが。それでも『秘書』は今日も頭を抱えるのだ。
「穂様、報酬の話は仕事をなさってからにして下さい。三時半を回りましたよ、小学生ならば四時過ぎに下校でしょう? 今から小学校に向かわれてそのままさっと済ませて来て下さい」
「そうだね、何処の小学校?」
「私立N小」
「わぁお!あそこ難関かつ名門じゃん!? まぁ僕の行ってたK大付属には負けるけど。エスカレーターだったよね? さっすが馨クンのはとこ♪」
「まぁ俺同様ある意味問題児だけどな。あっれ?こねぇの?保護者サンは」
「子供は嫌いなものでね。私が行く必要も感じぬし。穂様!今日はくれぐれも遊び歩かれませんように!」
「『今日は七時から父上と母上とお食事を‥‥』だろ?分かってるって。まったくこの歳でパパ♪ママ♪もないよねぇ。馨クンのとこみたいにもうちょっと放任主義でも良いと思わない?」
穂様!と怒声が後頭部を直撃する。はいはい、と生返事を返して青年はポールハンガーのジャケットを引っ掛けて逃げるように事務所を出た。うるさいよね、まったく、と穂はドアの外で馨に苦笑して見せたが馨は同情など欠片も見せず、意地悪く笑っただけだった。
校門の前で「不信じゃないかね?」「じゃあグラサンはずせよ‥‥」などと会話していると、学校指定の背負い鞄を背負った少女のグループがこちらに向かって来る。さすがに私立の名門となると「放課後の校庭で遊ぼう」とはならないようだ。寂しいもんだねぇと穂が爺むさく呟いていると馨がおっ!と声をあげて少女の一団に片手をあげた。
「よっ!久し振り。五年のクラスもう終わってるか?」
「あ、馨お兄様!?」
「‥‥(お兄様!?)」
「神無呼んで来てくんねぇ?」
『神無先輩どうなさったんですか!?』
自分の言葉に被って少女達の大声が飛び込んで来てはっ?と馨が面食らう。前の「お兄様」ですでに面食らっていた穂は彼らしくもなく放心した間抜け面を晒してしまっている。
「ちょい待ち‥‥。俺ら神無に会いに来たんだが‥‥どうしたってどういう事だ?」
「神無先輩ずっとお休みしてるんです‥‥。もう、私達心配で心配で‥‥」
「お風邪を召された事も無かったし、四年生は皆勤賞もとられてた神無先輩がお休みなんて何かあったんじゃないかしらって皆噂してましたのに‥‥。馨お兄様がご存知ないならご家庭の事情じゃないんですね」
「‥‥ちなみに休み始めたのはいつ頃だ?」
「始業式が終わってすぐです。だから、二週間前‥‥くらいです」
「先生は何か言ってなかった? あ、君達は学年が違うんだね。他の先輩とか神無クンのお友達とか」
穂が一応優しく問いかけて見ると少女達はそれぞれ顔を見合わせる。聞いた?ううん、と言った会話が繰り広げられているようだ。
「あの、私職員室で神無先輩の担任の先生が言っているのをちらっと‥‥。『今日もお父様からご連絡があったわ』って‥‥。あれ、多分神無先輩の事だと思います」
「‥‥」
「家に行ってみよう、馨クン。どうもありがとう♪。気をつけて帰ってね♪」
「はい、あ、神無先輩によろしくお願いします」
「ご病気だったら早くお元気になってくださいね、と」
うん、と笑って頷きながら穂が手を振ると少女の一団はさよなら、と会釈して帰って行く。礼儀正しいなぁと穂が微笑んでいるとだっと早足で馨が歩き出した。自然自分も早足になりながら穂は軽々と馨に追いつく。二人の身長差約十五センチ、足もまたしかり。
「人気者なんだねぇ、神無クン」
「ファンクラブもあるらしいぞ、非公認だから何とか認めてもらってくれって頼まれたかんな。坊ちゃん嬢ちゃん連中には俺らみたいなのは恐怖か羨望のどっちかの対象に見えるのさ」
「なるほど‥‥それで馨お兄様‥‥」
「何回か神無が問題起こして保護者代理で行ったんだよ。それでな」
「ところで馨クン、かなり急いでるけど、そんな危険な予感があるわけ? 電話が切羽詰ってたとか‥‥」
「あいつはガキのくせに妙に世の中悟りきったようなとこあるからな。電話の声は普通にしか聞こえなかった。けど‥‥あいつの親父はあいつに何しでかすかわかんねぇ。ほんとは、親父と家に帰すのは反対だったんだ。なのにあいつがいいよとか言いやがるから‥‥」
それも事情ってヤツ? と穂がからかい半分に声をかけるが馨の答えは沈黙。彼にしては珍しく余裕のない表情だ。
――悪ぶってても中は優しーんだよね、馨クン。そこがまたお気に入りなんだけどさ♪――
「電話してみたら? 昨日かけてきたって事は取れるんじゃない?」
「‥‥それが、実は起きてから何回かかけた。学校行ってるだろうから親父も留守なんだなぁぐらいにしか思ってなかったんだが‥‥」
「‥‥発信音はするんだね?とりあえず」
「ああ、話中でもない。あの家未だに黒電話だから留守電ねぇしな」
「なら神無クンが電話したのに気付いてって事はなさそうだ。それなら電話線ごと切っちゃうだろうし」
「ちっ運動不足にこの石段は辛いぜ。駆け上がるぞ!穂!」
目の前にそびえる石段に絶句しつつ穂はあえて何段かは聞かなかった。お互い運動不足とは言っても馨と穂では三年の差がある。若さに遅れること十数段、ようやく駆け上った穂を大きな鳥居と御神木が迎えてくれた。御神木の裏手にあるのは社務所兼自宅だろうか?
――この神社‥‥お社がない‥‥?――
「神無!おっさん!いるか!? おい神無!」
「鍵は?馨クン」
「‥‥かかってる。雨戸も全部閉まってやがる‥‥。やっぱ妙だな」
「‥‥数十秒僕に声かけないでくれる?馨クン」
「! OK!じゃあ俺ざっと家の回り見て来るな」
察して馨は玄関を去った。残った穂はすっと目を閉じて硝子の引き戸に触れる。中に人の気配は感じない。写真の子供を頭に思い浮かべると不意に桜の花吹雪が暗い視界に溢れた。
「! 桜‥‥?」
「穂! 家の裏手に妙な建物が出来てる、二階建ての‥‥。少なくともじじいの生前にはなかったぜ」
「‥‥馨クン、此処に桜の木ってある?」
「?ああ、家の裏手、御神木と逆位置にあるぜ。それが?」
「ちょっと桜ちゃんに用事が出来ちゃったみたいだ♪」
「はぁ?」
怪訝そうな馨の表情は気に止めず、穂はさっさと桜を探して歩き出す。遅咲きなのかソメイヨシノではないのか他所の桜はもう葉が混じっているというのにそこの桜は今も満開で、時折花びらを風に舞わせている。ちょっと静かにね、と馨に声をかけ、穂は同じように桜に手を当てた。穂が何もイメージする前からその大木に月の明りが灯る。幹に近い太い枝に写真の子供の後姿が見えた。その頭が振り返って彼になのか月と同じ目で微笑みかける。
――今夜、この木の下で――
「!」
「穂‥‥?」
「馨クン、電話あったのってさー、何時くらい?」
「夜中の、十二時ちょい前だったと思うが?」
「OK、じゃあ今夜十二時に此処に集合ね」
「はっ?」
「神無クンは無事だってさ。あーその前に僕は子離れしない両親に会わなきゃ‥‥。約束だよ、今夜十二時、抜け駆けも遅刻も厳禁ね♪」
呆然とする馨を置いて穂はさっさと身を翻す。狐につままれたような気分に陥りながらもはっと我に返って馨は穂の背を追いかけて走り出した。
やや強くなった夜風に桜の花びらが混じって飛んでくる。昼間見たのと同じ光景を確かめるために穂は視線を上げた。太い幹、その幹を辿って行くと桜の背の中程にある太い枝に子供の後姿が見えた。斜めに射す月明かりに照らされた髪が満月と同じ光を放つ。叫びかけた馨を制して穂はゆっくりとそれに近付いた。
「神無クン‥‥だね?」
「‥‥今夜、この木の下で‥‥」
昼間の幻影と同じ言葉を呟いて子供、神無は振り返った。しかし幻影の、頭を直に打つ声とは違って存外高い声だ。まぁこの歳の子ならこのくらいなんだろう、と思っていると幻影よりもずっと子供らしく神無は破顔した。
「まさかあれを読み取って本当に来るなんてね。『本物』どころか、一級品じゃん?」
「‥‥それはどうも、って言っても良いんだよね?」
「神無!心配かけやがって!このガキ!! んなとこ登ってねぇでさっさと降りて来い!」
「あ、馨。悪い悪い、昼間来たんだね。夜に来いって言うの忘れててさ、ついでに試しちゃったよ。よっ」
地面まで悠に二メートル半はあったように思うが軽々と神無は軽い身のこなしで着地した。写真と同じ作務衣、おまけに可愛い和柄トンボの鼻緒の下駄、そこまで徹底されると間違った日本フリークの外人のようである。だがそのミスマッチ具合が妙にしっくりとしている。
「言霊のラブレターとは凝ってるね、神無クン。僕がご依頼承った祓い師、神生 穂だよ♪よろしく」
「太刀守 神無、よろしく」
「早速だけど依頼の内容を教えてもらえるかな?」
「ああ、うん‥‥。あれ、あんたやっぱり‥‥」
挨拶に握手した手を握ったり開いたりしながら神無が穂を見上げる。が、その琥珀の目が月明かりに光ったかと思うと急にその体がぐらりとのけぞった。え!? おい! とそれぞれが前と後ろから支えるがぐったりとした神無の体はしっかりと目を閉ざしている。
「おい神無クン!? どうしたの!?」
「病気か!? ケガか!? わかんねぇのかよ!穂!」
「‥‥とりあえず生きてるみたい‥‥。死期は感じないからすぐ様死ぬような状態じゃないよ。家、まだ鍵閉まってる?」
馨が母屋に回っている間に穂は神無の体を横抱きに抱え上げて馨を追った。が、すぐ様馨が引き返して来る。
「閉まってる! どうする?タクシーか?救急車か?」
「‥‥とりあえずうちに連れ帰ろう。馨クン、僕の携帯で隠岐にかけて。自宅ってのにかければ出ると思う。それでどっか分かりやすい場所、待ち合わせに教えてやって」
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