時計は午前二時を回ろうとしていた。ご機嫌麗しくない様子ながら隠岐が夜食のサンドイッチを振舞ってくれる。『なんかこう、手術室の前で手術中の赤いランプが消えるの待ってる感じだよね』と穂が呟くが誰も応えてくれない。寂しい‥‥と自分突っ込みしながら嘆く振りをしていると不意に穂の寝室の扉が開いた。手術終了とばかりに全員の顔が出てきた二十歳前後の女性に向けられる。
「小夜! 様子は?」
「大丈夫。疲労と、少し栄養不足ね。気が抜けて眠っちゃっただけだと思うわ。点滴を打ってるからもう心配ないわ」
「そっか‥‥。あ、ごめんなさい!小夜子さん! こんな夜中に呼び出して看病までさせて‥‥。うちの隠岐がもうちょっと有能だったらお手を煩わせる事は‥‥(ほろり)」
「心外ですね、こんな夜中に一般人が医療器具を整えるのがどれだけ難しいとお思いで? 誉められても罰は当たらないと思いますが?」
「本当に助かりました、隠岐さん。私ったら動揺してしまって‥‥手ぶらで来てしまいましたものね」
「いえ、仕事ですから。よろしければ夜食をどうぞ。ダイエット中でしたらお茶だけでも」
しれっとした――しかも無愛想なままだ――顔をしながら女性に対する気配りは忘れていないようだ。自分のセリフを奪われて穂が部屋の隅で拗ねているが、そんな事は気付かずありがとうございます、とほんわか笑って女性、早藤( 小夜子(は隠岐の差し出したカモミールティを口に含む。
「しかし、さすが看護学校生だぜ。ちょっと看ただけで栄養剤の点滴なんて思いつくもんなんだな」
「‥‥あ、うん‥‥」
「小夜子さん? 顔色があまり‥‥。はっ!!やっぱりお休みのところ叩き起こされてお疲れに!? そうですよね‥‥昨日も学校だったし‥‥。すみません!!」
「あ、違うんです穂さん、大丈夫‥‥。あの、こんな事言っていいのか分からないんですけど‥‥」
「口は堅いです! 小夜子さんの頼みなら決して口外なんて! もちろん残る二人の口も封じます!」
「いえ!そこまでして頂かなくても‥‥。穏便にお願いしますね?穂さん‥‥。実は、此処最近の実習で神無ちゃんみたいな子を何人も看てたので、すぐに分かったんです」
神無クンみたいな子達‥‥? と合いの手を打って穂が首を傾げるとええ、と呟いて小夜子はため息と供にしばし口を閉じる。気性の強くない、そして優しい小夜子の性格が口を重くしているのだ、と察して三人は黙って見守った。
「あの、怒らないでね?馨ちゃん」
「なんで俺限定‥‥。しかもなんで俺が怒んなきゃならないんだよ。いいから言え、小夜」
「‥‥神無ちゃんの手首、ぐるっと赤い痣があったんです、両手。両足首にも。縄だったら縄目が残るんで多分金属の手枷みたいな物の跡‥‥」
「!ちょっと待てよ‥‥。手錠!?手枷!? 誘拐じゃねぇんだぞ!?」
「馨クン! つまり、小夜子さん。神無クンの体には、虐待の後が‥‥?」
「っ!‥‥。はい、おなか、二の腕、太股、背中、服から露出しない部分ほとんどに心無い大人の手で殴られたりした傷跡が‥‥。食事もろくに与えられてなかったと思います。服にはそんな痕残ってなかったんで、神無ちゃん多分、穂さん達に会う前に自分で着替えたんでしょうね、悟られないように」
あんの‥‥野郎!! と激情して飛び出そうとする馨を押さえようと穂が手を伸ばすががしゃん、と激しい物音がして馨と穂を現実に還した。物音の発生源は隠岐が手から落とした金属製のトレイだ。珍しく蒼白になった表情が、感情を映す事無く止まっている。
「! 隠岐!」
「あ‥‥申し訳、ありません穂様‥‥。失礼を」
「いい‥‥。ありがと、先に休んでいいよ、隠岐」
「はい‥‥失礼します」
なんだ?‥‥という視線が集まるがなんでもないよ、と穂が答え、トレイを拾い上げていつもと変わらぬ毅然とした態度で隠岐は自室のある三階へ引き上げて行く。とりあえず‥‥という穂の言葉で二人は穂に視線を戻した。
「虐待の犯人が父親であれ誰であれ‥‥。神無クンが自分の意思で桜の木の所まで出て来てたってことは、今は神無クンを監禁してた場所にはいないってことだよ。事情は明日、神無クンが起きてから聞けばいい。それまでゆっくり寝かせてあげよう」
「そうですね‥‥。私は神無ちゃんについてます。点滴も抜かなきゃいけないし‥‥。穂さんと馨ちゃんは先に休んで下さい」
「でも小夜子さん一人に負担が‥‥」
「大丈夫です! 私は今夜神無ちゃんの力になりますから、穂さんは今はお休みになって明朝、神無ちゃんの力になってあげてください」
「‥‥はい、ありがとうございます、小夜子さん。馨クン、僕の部屋のソファ、ベッドにする方法知ってるよね? それから予備の毛布はクローゼットの中。僕は隠岐の所のソファ借りるからそれ使っていいよ」
「ん、疲れたら起こせよ、小夜。交代すっから」
ありがと、と微笑を返して従姉弟二人は部屋に入って行く。その様子に安堵の笑みを浮かべつつ、表情を焦りに変えて穂は早足に階下に続く階段を下りていった。
夢を見た。夢の中でも、どうやら痛い時は痛いらしい。暴力に声を漏らさずに耐える自分の顔を掴んで男は叫べと命令する。
――叫んだって、あんたはやめないじゃん?――
そう呟く自分の鳩尾に鋭い突き。息が止まる、けれど気を失う事は出来ない。言う事を聞かない、お前は悪い子だと散々罵声を浴びせて男の拳が再び自分を殴りつける。これはそんなお前へのお仕置きだと。
――俺が痛いって言えば、ごめんなさいって言えば許してくれるの? そんな嘘ついても俺はちゃんと知ってるよ。あんたは、自分から母さんを奪った俺を、絶対許さないんだってね。でもね、ほんとは痛いよ。父さんに殴られた所も、父さんの言葉に傷付けられた胸も。でも、俺は『悪い子』だから、この痛みは消えないんだね――
『痛くない、悪い子じゃないわよ。神無はいい子よ。母さんの自慢の、可愛い子‥‥』
「母さ‥‥!」
飛び起きるとびっくりしたように白い手が逃げた。えっ?‥‥と視線を動かすと驚いたように二十歳前後の女性が自分を見ていた。誰?と思うと同時に、神無は自分の顔が濡れている事に気付く。夢の中のように、現実でも泣いていたのだ。女性から顔を逸らして手繰り寄せたタオルケットに顔を埋める。自分の物ではなかったが仕方がない。どうするべきか考えていると女性の手がふわりと頭を撫でた。
「大丈夫、神無ちゃん。もう痛くないから。もう怖くないからね」
「傷‥‥」
「傷?」
「なんでもない‥‥。お姉さん、誰?」
「あ、ごめんなさい。初めまして、早藤 小夜子よ。馨ちゃんの母方の従姉なの。だから、神無ちゃんとは遠い親戚ね」
「馨の?」
顔を上げて馨の面影を探すべく再び女性を見上げる。ほんわかおっとりした笑顔、美人、というよりも可愛らしい幼顔。似てないや、と心の中で呟くととんとん、とノックの音。はい、と小夜子が答えるとトレイがにゅっとドアの隙間から入って来て続いて穂の体が入ってくる。
「声がしたから‥‥。あ、おはよう、神無クン。朝食だよ♪。小夜子さん、僕代わります。隣に小夜子さんの分も用意してありますから」
「ありがとうございます、穂さん。でも、もう少し居ても良いですか?」
「小夜子さんが良いんだったら‥‥。じゃあ朝食も持ってきますね!」
「カノウ‥‥」
「何?神無クン。あ、できれば穂って呼んでくれる? 神生は二人いるんでね」
「‥‥ううん、いい」
「? そう」
神無が顔を背けると穂はトレイを小夜子に渡して再び部屋を出る。お腹がびっくりするからゆっくり食べようね、と言いながら小夜子はトレイを神無の膝に乗せた。食べられる?と言う問いかけには無言で神無はスプーンを手に取った。おわんいっぱいのお粥に梅干と生のり、漬物少々。それとネギと豆腐が少しばかり浮かんだ味噌汁にお茶。病人食だ‥‥と不満げに心の中で呟きつつ神無はお粥を口に運ぶ。
「はい、小夜子さん。隠岐が朝は和食派なんで、口に合わなかったらゴメンナサイ‥‥」
「いえ、隠岐さんのお料理はいつもとってもおいしいですよ。女の私でも羨ましいくらいに」
「食べる元気はあるみたいだね、神無クン。良かった」
「神無でいいよ、カノウ」
髪を撫でながら言うと不満げに神無が言い返す。病人扱いされるのが気に食わなかったらしい。うーん、馨クンのはとこ‥‥と思いながら穂は苦笑を返す。
「だからさ‥‥えー、神無?」
「ダメ!俺がカノウって呼ぶって決めたの。もう一人の神生さんを名前で呼ぶからいいだろ」
「強情だね、君も‥‥。苗字で呼ばれるの僕あんまり好きじゃないんだけどな‥‥」
穂が呟くが神無は知らん顔だ。が、小夜子が食べる?と差し出した出し巻き卵を戸惑いつつ貰っている辺り、素直な所もあるのかもしれない。
――馨クンの意地っ張りを少し強くして、ちょっとシャイを加えて‥‥。うんうん、神無像完成。馨クンよりちょっと扱いムズカシイかな? しかし此処でいきなり傷の件とか依頼の件とか切り出すのはなぁ‥‥。どうしよう‥‥――
「神無ちゃん、痛い所とか調子悪い所とかない?」
「‥‥ない。病人扱いしないでいいよ。寝不足でぶっ倒れただけ」
「あ、ごめんなさい。私、看護学校生だからついそういう口調になっちゃうの。お魚も少しあげましょうか?」
「‥‥うん」
「(おう‥‥事の他馴染んでる‥‥。さすが小夜子さん♪)そうだ、学校に休むって連絡入れとこうね。電話番号は‥‥」
「今日土曜。完全週休二日制しんねぇの?カノウ」
しばし沈黙の後、高校生やめてから長くってね〜(ほろり)と穂は辛辣な神無の言葉に答える。小夜子が必死になって慰めてくれるのに感涙を流しながら神無クンご機嫌ナナメ‥‥と呟く。聞こえてなかったのか神無はごちそう様、と手を合わせるとトレイを片手にさっさとベッドを抜け出す。
「あ!神無!そんな事いいから寝てなさい」
「へーきだって言ってんだろ? 自分で食べたのくらい自分で片付けなきゃ‥‥」
「ん〜いい教育されてるね‥‥じゃなくて! そっちこわーいお兄さんいるかも‥‥。あ、小夜子さんはどうぞごゆっくり♪。疲れてたら休んでもらっていいですからね!」
「はい♪ありがとうございます、穂さん」
「神無ってば!」
トレイを片手にさっさと神無は部屋を出て行く。慌てて追いかけると案の定、こわーい顔のお兄さんを見てか足を止めていた。眉間に皺寄ってるよ、と穂が指で合図すると隠岐は微笑もうとして失敗したような苦笑を浮かべた。
「誰が寄せさせてると思ってるんです?穂様‥‥。おまけに、誰が怖いですって?」
「いやぁ、そう怖い顔しないでよ♪隠岐。子供が泣いちゃうぞ♪」
「泣かねぇよ‥‥。背高いからびっくりしただけ。お兄さんが作ってくれたんだね、おいしかったよ♪どうもありがと♪」
「いや‥‥」
「神無、彼がもう一人の『神生』クン、僕の秘書兼お目付け役の神生 隠岐。家事全般OK!その上秘書としても有能♪。だけど無愛想なのと医療知識がないのがタマにキズ♪。どう?お嫁に欲しくない?」
「ちょっと欲しいかも。でもくれないんでしょ?」
連れてかれたら僕が困る、と穂の砕けた話術にのせられて神無がようやく昨日見せたような笑みを浮かべる。話のネタにされた隠岐は神無からトレイを受け取ってそのままリビングを出て行く。キッチンは下なので階段を下りていく足音が聞こえた。神無にソファを勧め、穂もお気に入りの一人がけソファに体を埋めた。
「あれ?そういえば‥‥隠岐ー!馨クンは?」
「朝はパン食派だそうですよ。それも不健康なコンビニ惣菜パンがよろしいようで、先程下りていきました。どうぞ」
「わぁ♪白玉ぜんざい? これもお手製? 頂きまーす。あ、お茶も♪。このお茶すごくおいしいね」
「お茶は馴染みの店のこの季節限定、桜緑茶だよ♪。あ、ありがと。白玉ぜんざいはもっち♪お手製♪。添加物たっぷりの市販品嫌いだもんね、隠岐は」
「おいしー♪俺甘いもの大好き♪。隠岐さんとカノウって従兄弟?似てないから」
「‥‥ううん♪。戸籍上は、僕の叔父さん♪」
嬉しげに穂が言うと嫌そうに隠岐は顔をしかめた。まだ二十代だというのに‥‥と言っている隠岐の横顔に穂は僕も二十歳だよ♪とからかいを含んだ言葉をぶつける。
「ああ、そう、そういう事ね‥‥。ごちそう様♪隠岐さん」
「‥‥」
「お粗末様♪。ごめんね♪この人失語症で‥‥」
「勝手に病気を捏造しないで下さい!穂様!」
「あはは♪。隠岐、神無にお茶のお代わり注いであげて。ちょっとね、人見知りさんなんだよ、君と一緒でね、神無」
「!別に‥‥俺は人見知りじゃないやい‥‥」
十分見知ってる、と穂が笑うと神無は膨れっ面になりながら器を隠岐に手渡した。差し出された痛々しい手首に一瞬隠岐が視線を注ぐ。が、ごちそう様でした、と出てくる小夜子、たでーま、と入ってくる馨に水を注されたように隠岐は黙って立ち上がり、小夜子のトレイも受け取ってまたリビングを出て行ってしまう。
「あ、馨だ。はよ、馨」
「‥‥はよじゃねぇ!このガキ!! 散々人に心配かけさせといてしれっとした面してんじゃねぇ!! 反省ってもん見せろ!」
「った! なんで俺が反省しなきゃなんないんだよ!」
「馨ちゃん‥‥暴力はダメよ?」
「小夜、こういうのはスキンシップの範囲内だ。暴力じゃないぞ、決して」
「何処がだ!」
まぁこめかみをぐりぐりとやっている様はスキンシップととれなくもない。が急須と小夜子の分の白玉ぜんざいを持って上がってきた隠岐にはどうもそのようには見えなかったらしく、一睨みされておとなしく馨は手を止めた。
「とにかく、だ。これの説明をしてもらおうか?神無」
「!」
神無の手首を掴み、ばっと馨はその袖を捲り上げた。青紫に変色した二の腕の痣。小夜子が痛々しそうに表情を歪め、穂もわずかに目を細める。
「親父にやられたんだな?それで俺達を呼んだんだろ?」
「ああ‥‥別にこんなの平気だよ。無視されるより、いらないって言われるよりずっとまし。殴られても蹴られても、例えサンドバックの代わりでもそれって父さんには俺が必要ってことじゃん? だから、こんな傷全然へーき」
「違う! そんなのは愛情でもなんでない! ただの暴力だ!」
「隠岐さん‥‥?」
「隠岐‥‥」
「そんなものは『当然』じゃない、『異常』なんだ。そうやって‥‥親から与えられる痛みに子供が慣れていってしまったら、親も子も引き返せない。いつか必ず取り返しのつかない事になるんだ‥‥」
珍しく声を荒げる隠岐を面食らったように小夜子と馨の視線が見上げる。隠岐、と穂だけが冷静に肩を叩いて彼を落ち着かせる。いや、もう一人、声を荒げられた神無の方も怯えた様子も、反発する様子も見せず隠岐を見上げている。
「‥‥別に、俺だってマゾじゃないもん、痛いのはやだよ。できれば昔みたいに可愛がってほしーさ。でも、それが叶わないなら‥‥。ってそりゃまだ虐待二週間弱の若輩者だから言えた事か。ごめんね隠岐さん。痛い目見せちゃって‥‥。俺、やっぱ癒す方には向かないね、この話題中止! 依頼の件に移ってもいい?カノウ」
「ん?うーん‥‥。あのさ、神無、ちょっと失礼な事言うかもだけどごめんね? 君ちょっと言動不信だよ? 子供にしてはやけに分かり切ったような‥‥むしろ見透かしたみたいな事、言うよね? 僕と隠岐の事とか、さっきの隠岐の反応とか‥‥」
ぎくっとしたように馨がうろたえた表情を見せるが神無は表情を変えなかった。いや、馨の反応よりもずっとゆっくりと、口元をほころばせる。桜の幻影に見たような、子供らしからぬ月の笑み‥‥。
「なんだ、今まで気づかなかったの?カノウ。カノウなら、あるいはと思ったんだけど‥‥。燃料不足は俺が視たよりずっと深刻なんだな‥‥」
「!」
「穂様‥‥? 燃料不足とは‥‥?」
「‥‥。神無、君のその金目‥‥君は見鬼(だね?」
「ん〜、うん、半分正解にしといてあげる。今までのは気付いてコールだったから不快だったら止めるね。普段はこんなに見えないんだよ。今は、俺がカノウを知りたかったから、それにカノウと隠岐さんがそれに強い思いを未だに持ってるから、見えただけだよ」
「穂さん?見鬼って何のこと‥‥あ、聞いちゃいけない事、ですか?」
小夜子が戸惑った視線を神無に向ける。同様の視線を穂は隠岐、それに小夜子に向けた。馨はおいおい、と神無を宥めるがいいよ別に、と神無はあっさり言う。そしてごそごそと首にかけたお守り袋を開け、中から‥‥小さな太刀の形をした物を取り出した。
「でもちょい待って。俺の正体明かしてあげるから」
「おい神無!」
「へーきだって、馨。カノウなら、ね‥‥。もし嫌われたってその時は今回限りの付き合いだもん」
「寂しい事、言ってくれるねぇ神無。でも是非見たいな、君の正体とやら」
うん、と笑いながら頷いて神無はミニチュアの太刀を鞘から抜き、馨に離れるように言った。止める気も失せたのかあっさりと馨は神無から距離を置く。それを確認してか神無は太刀で自分の左手に一筋の傷をつける。
「神無ちゃん何を!‥‥」
「待って!小夜子さん!」
「封印の太刀に神無が命ず、我が鎖を解き再生を!」
「!」
耐え切れぬ霊力(の放出に穂は小夜子を押さえたまま我が身を庇うように視界を閉じた。強く突き放すような、それでいて優しく溶け入りそうな霊力(‥‥。それを放つ主の意思でか放出される力はどんどん穂の中に流れて来る。
――これは‥‥これと同じ性質の力を僕は知ってる‥‥。ずっと昔、僕はその力と供に居た‥‥――
「穂様!? どうなさったのですか!?」
「穂さん!?」
「ふーん、俺の力をまともに受けて影響ゼロなんて、隠岐さんも小夜子さんも霊感ゼロだね? 正確には微弱なのかな? 霊感って誰にでもあるから」
「感心してねぇで早く封印しろ‥‥。ああ‥‥これで一週間は霊感生活か‥‥」
「ほとんどカノウに行ったから三日くらいですむんじゃない? 封印の太刀に神無が命ず! 我が身に今一度封印の鎖を!」
「神無ちゃん‥‥? 一体何をしたの?」
問い掛ける小夜子に神無はただ一つ笑みを返しただけ。代わりに穂の手が小夜子の肩にかかり、俯いていた体ごと支えていた隠岐を払う。
「神無は、巫(なんですよ、小夜子さん」
「穂さん!」
「巫と言っても神社で神儀を執り行うような巫女さんじゃあない。古代より神の依代(となってきた巫。その器は神を内に宿し、その霊力(はそのまま神の物となる。そう、思い出したよ。神無木神社には代々巫が生まれてきた。君の祖父殿も、強力な神を宿していた。しかし、君はあまりに異質じゃあないかい?神無。それだけの社に何者も下ろしていない。聞いた所によると、神無木神社の巫は誕生した数日の内に神を宿すと聞いているが?」
「っそ、俺の社は神社の社と同じ、空座なのさ。俺は禁忌の月、神無月の生まれなんだよ」
「なるほど、だから『神無』なんだね? しかも強い言霊を宿している‥‥。だから君の霊力(はそんなに膨大なのに透明に近い‥‥」
そういうこと、と神無はにっこりと笑い、しかも依頼料は前払いかい‥‥?と穂が苦笑して見せる。二人だけ分かり合っているようだが馨は大体の流れを察しているようだ。神無に霊感ゼロと称された隠岐と小夜子はまったく分かっていない表情(で二人を見守っている。
「依頼を完了させてくれたら好きな時に好きなだけとってけばいいさ。持ってても俺は使えねぇもん」
「‥‥こんなに強い霊力(を持ちながら、どうして君は生かす術を学ばなかったんだい? 君のおじい様だったら‥‥」
「神無月に生まれた者がまったく神を下ろせないわけじゃない。俺の社と霊力(はいつか出会う、俺の誕生に間に合わなかった神サマのために空座にしておけってじいちゃん、正確にはじいちゃんの神サマが言ったんだ。『神無きこの身に善し神の宿らん事を』、この言霊をくれたのもじいちゃんの神サマ。だから俺は自分の力を封じる術と、自分の中に入ろうとする輩を排除する力しか持ってないんだ」
「あの‥‥穂さん、神無ちゃん、何を言っているのか全然分からないのだけど‥‥」
「‥‥やめとけ、小夜。分からない奴には一生かかっても分からない世界だ。特に俺みたいな半端者や小夜や隠岐みたいにまったく霊力(の無い人間って奴は触れるだけで危険な世界なんだよ。隣り合ってても存在を知らなきゃ安全でいられる。だが一度その目で、頭で認知しちまったら奴らに引き摺り込まれちまう、そんな世界なんだ。悪い事は言わない、これ以上聞くな。理解できちまったら終わりだ」
「それでも私は、それが穂様が身を置く事を望まれた世界なら理解する方を望む」
「私も! 私も、神無ちゃんや穂さんの『居る世界』‥‥理解したいわ。だって馨ちゃんだって本当は危険なんでしょう?」
はぁとため息をついて馨は馬鹿だよ‥‥と呟く。穂は皆に気付かれないようそっと微笑んでいた。嬉しそうな、寂しそうな顔で。おい神無、と馨が巻き込んだ張本人を見やると神無は笑ってしゃべり出しながら腕を突き出していく。
「馨の場合は特殊。俺のじいちゃんは護法に長けてたから、ある特殊な存在によって巻き込まれないように護られてるの。隠岐さんと小夜子さんは全然違う、もっと無防備。それに、これを見てもそう言える?」
「!さっきの傷が‥‥!?」
「ついでに腕の痣も、ほらこの通り。医学的にありえないことぐらい分かるだろ?小夜子さん」
「‥‥ありえないわ。さっきまであんなに青く‥‥」
「これもね、俺がやったの。言葉には言霊って、魂みたいなのが宿ってるんだ。これを霊力(の強い人間や『神』なんて呼ばれる存在が使うとこんな風に傷を癒せたり、その口から漏れる一言で人間の息の根を止められる。俺はじいちゃんみたいに護法に長けてたり、カノウみたいに祓いができるわけでもない。けど力が純化されてる分、この言霊に関しては無敵でね、そんな事も、できちゃう人間の一人。俺が怖い?」
魔のように笑う様は全てを嘘に見せかけ、全てを肯定している‥‥。最初にため息を漏らしたのは隠岐。やれやれ、というように頭を振ってゆっくりと口を開く。
「私は今まで常識家で通してきたつもりだが、どうやら培ってきた常識は丸ごと捨てなければならないようだ」
「俺が怖くないの?隠岐さん。俺は、この不気味な目で貴公の傷の奥底まで見通せちゃうんだよ?」
「‥‥過去の傷など怖くない。私が怖いのは、今居る穂様を失う事だけだ。それに君は‥‥私にはわざと人を突き放してその奥で本当は、人の気を引きたがってる子供にしか見えないな」
「むっ‥‥失礼な‥‥」
「あはは!当たってるー!隠岐! さすが霊感ゼロでも人を見る目は確かだね、もう一生振り回してやるから覚悟しなよ?」
「ええ、一生穂様の手綱を握っておく覚悟は当にできております。とんだ暴れ馬ですからね」
可愛くない奴‥‥と穂が膨れるが隠岐もしれっとした表情に戻っている。開き直り早いんだよね、隠岐は‥‥とぶつぶつ言いながら今度は小夜子へと、その目を向けた。そしてまだ戸惑っている様子の小夜子の肩に優しく手を置く。
「馨クンの言うように、無理して知る必要はない世界です、小夜子さん。だから理解しようとしてくれた事には感謝します。でも貴女はここから先へは立ち入っちゃダメです」
「正直、怖くないといえば嘘です。でも、私が初めて会った神無ちゃんは深く、深く傷を負ってて、思わず手を伸ばしてしまう程弱々しかった‥‥。私が神無ちゃんの力になれるなんてエゴかもしれないです。でも‥‥理解したいです」
「ありがと、小夜子さん。俺小夜子さん大好き♪。母さんみたいだって、思ったんだ‥‥。って言ったら怒る?」
「ううん、嬉しいわ」
「ありがと‥‥。でもね、小夜子さんはやっぱり知っちゃダメ。隠岐さんは強い人だから大丈夫。でも俺が思った通り、小夜子さんは優しい。その分儚い人、母さんと同じだよ‥‥。だから貴女は、こっちに来ちゃいけない。こっちの事は、垣間見た俺の世界は全て忘れて‥‥」
神無がその胸に俯いた顔を押し付けながら言うと不意にぐらりと小夜子の体が揺れる。穂が叫んでその体を支えるがぐったりとした体は瞼を閉じて寝息を立てている。また、神無の体もふらついて隠岐の手に支えられた。
「神無、君‥‥? 大丈夫か?」
「せっかく穂がいんだから、消すのは穂に任せりゃ良かっただろ? また無理しやがって」
「だって、どうせ忘れられるなら自分の手で消したいじゃん‥‥? でも人に言霊向けるのはやっぱ神経使う‥‥馨の時の失敗が頭に残ってるし‥‥」
「とりあえず小夜寝かせて来いよ、穂。お前は平気だろ?神無」
「うん、少し座ってればすぐ治る。ごめんね、隠岐さん、でもへーきだよ」
じゃあ、と小夜子を抱えて穂は自分の部屋へと運び込んだ。神無の寝ていた寝台に小夜子を下ろし、布団をかけてやる。そして、ごめんなさい‥‥の言葉と一緒に小夜子の記憶を再度念入りに摘み取って書き換えた。
――貴女は朝食の後に疲れて眠ってしまった、そうして置いてください、小夜子さん‥‥――
再びリビングに戻ると神無はソファの上で膝を抱えていた。そしてその頭を片腕で抱え、ポンポン、と馨が叩いている。効率的な力の使い方を知らぬ故の疲労だろう。
「ところで穂様、私は先程の話をほとんど理解していませんが大事ありませんか?」
「隠岐にはその辺求めてないからオッケー♪。まぁ掻い摘んで言うとね、神無の体は神社の社と同じなの。神様にとって居心地の良い住処ってのかな。あ、神ってのは体の無い、けれど霊力(ある存在の総称、別に元人間でも精霊でもいいの。本来神無の霊力(はそうやって人ならざる者によって使われ、消費されるはずなんだけど、使う人が居ないから溢れちゃってるんだ。その力を神無は自分で使ったり、人にあげたりできる。さっきは僕にその力を分けてくれたんだよ」
「そういうこと‥‥。馨、俺がダウンしてる間に俺の父さんの事二人に話して。母さんの事故の事も」
「‥‥それ、依頼に関係あんのか?」
「うん‥‥。知らなくてもいいはいいけど、知ってる方がカノウの祓いのヒントになるかもだから‥‥」
「分かった。まぁお前がいいなら文句は言わねーけどよ。辛いなら横になってろ」
うん、と頷いて神無は丸くなったままソファに横になる。その頭を膝に乗せ、先程と同じように馨はその手を神無の頭に乗せた。
「神無の親父が霊感ゼロうんぬんに関しては話したよな? 神無の母親は巫女体質ってよりはむしろ見鬼だった。穂が最初神無をただの見鬼だと思ったように、神無の片目は母親譲りなんだよ」
「穂様、見鬼とは何のことです?」
「簡単に言うなら人ならざる者を見る力を持った人の事だよ。幽霊はもちろん、妖怪や精霊、人の心の中、たまには未来を悟る者もいる」
「神無の母親は極近い未来だが悟る力も持ってたらしい。だが、良くある話で神無を産んだ時にその力の半分を失ってたらしいんだ。だからあの時、神無が小学校に上がってすぐ、神無を小学校に送る途中で酔払い運転のトラックに轢かれて死んだんだ」
「違う、よ‥‥母さんは知ってたんだ。だから俺を突き飛ばして、俺に向かって微笑んだんだ。『元気でね、神無』って‥‥。あの時死ぬ運命だったのは一人なんだ。トラックの運転手も、母さんも俺も含んで‥‥。もしかしたら、母さんは俺の身代わりになって死んだのかも、知れない‥‥」
「やめろ!神無! じゃあお前は母親の代わりにてめぇが死ねば満足だったのか!? だったら父親にも置いてかれないですんだだろうさ! 寂しくて泣く事も、親父のサンドバックになる事もなかったろうさ! ざけんなよ‥‥お前にあの時死んでた道は無い。あの人は、母親は未来なんて知っても知らなくてお前を守ったさ‥‥。母親にとっちゃてめぇが死ぬよりてめぇの子供が死ぬほうが辛いんだよ‥‥。自分自身、壊れちまうくらいにさ‥‥」
しばらくの沈黙。珍しく隠岐も馨の荒い口調を咎めない。いや、その言葉の重みに圧倒されていた。穂も馨の口から湿った身の上話を聞いた事はないが「ごめん、馨」と謝る神無の言葉から察するにそういった事情の母親が身近に居るのだろうと察した。
「話し戻すぞ、くそっ‥‥。まぁ、そういうわけで母親が死んで、普通の家だったら『父さんと二人で頑張ろうな』ってな感じにまるーくおさまったんだろうが、よりによってこいつの親父は『お前に神さえ宿ってれば!』『お前さえ生まれなければ!』ってな風にこいつを責めたてたんだよ。てめぇの事は棚にあげてな。だが父親であり、コンプレックスの元であるじじいに一喝されてしばらくは大人しくしてたよーに見えた。が、四十九日過ぎに突然こいつを置いてとんずらしちまったわけだ」
「‥‥それが、父親の死を何処からか聞きつけて、神無を連れ戻して好き放題ってわけ?」
「なのか?神無」
「父さんは失踪してから外国をてんてんとしてたらしい」
呟いて神無はむくっと起き上がる。先程の疲労はすっかり回復したのかさらっとした表情で髪を掻き分け、ソファに膝を抱えて座ると拗ねたような表情を膝の上に乗せる。
「そうして母さんを生き返らせる方法を探したんだ。正直、父さんが何処でそれに会ったのかは分からない。多分、母さんのもう一つの故郷のあるヨーロッパの何処かだと思う。本人の霊感はゼロでも太刀守の血は良質の器を継ぐらしい。霊力(が無い分、良し悪しを判断できないって性質(の悪さがあるんだけど。特に母さんへの妄執に駆られた父さんはそこでやっかいな輩を取り込んできたみたいなんだ」
「‥‥そいつを、僕に祓って欲しいんだね?神無」
「‥‥。あいつは俺の器を狙ってる。おまけに、血の近い父さんを媒体にしてる分、力の大部分を支配されて俺はあいつの近くでは自分の中に入られないようにするので精一杯なんだ。まぁ自分が暴力振られてる分には別に良かったんだけどね。父さんは、母さんを『造る』ために材料を集めだしたみたいなんだ」
「材料?」
「そっ。文字通り、母さんに似た誰か知らない女の人だよ‥‥。俺の依頼は、父さんに憑いた奴を祓って女の人達を助け出し、それから、父さんを警察に突き出すのを手伝って欲しいって事だよ」
「!」
嫌?と問い掛ける神無の表情は淡々としていて、穂の目にさえ本心を漏らさない。いや、それが本当に神無の本心なのかもしれないが。穂はしばらく考え、隠岐に視線を向けるが隠岐の方も『読めない』とわずかに首を振った。
「それで、良いの?君としては」
「俺の事だけなら許せた。でも他の人を巻き込んだ事は許せない‥‥。一昨日、それに昨日で少なくとも二人を誘拐してると思う。出来れば、早く止めに行きたいんだけど?」
「OK分かったよ。この依頼、受けさせてもらう。でも神無、警察に突き出す前に、誘拐された女性に示談を持ちかけるってのを付け加えてくれるかい?」
「‥‥優しいね、カノウ‥‥。俺としてはさっさと刑務所放り込んで反省してもらいたいけど‥‥。分かった。交渉成立ね」
「ついでに警察連れてく前に俺がぼこぼこに伸してやる!」
「あ、それはダメ。俺がやるんだから譲れないよ、馨」
しれっとして言い放つと神無は早く行こ! とソファを飛び出す。しばらく沈黙していた三人だがえーと、と穂が始めの言葉を切り出した。
「強がっちゃって可愛いね♪神無」
「いや‥‥百パーセント本気だ‥‥。あいつああ見えてとある流派の格闘技、ジュニアプロ級だ。本気で喧嘩したら俺も敵わん‥‥。前に上級生五、六人病院送りにしてるし‥‥」
「‥‥いざという時はよろしく!隠岐! 色男は喧嘩は弱いって相場決まってるし!」
「少しは鍛えて下さい‥‥(ため息)」
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