花      く  花
 あの日の事を思い出すと、今も霧がかかったように記憶が霞む‥‥。いつものように友達の家ですっかり遊びに夢中になり、慌てて玄関をくぐった。自分を迎えるのはいつもなら怒った顔の母と、待ち侘びていた妹の笑顔。ただ、その日は違った。いつもは絶対いないはずの時間なのに父親の後ろ姿がまず目に飛び込んだ。そして、いつもなら淡々とした無表情の父親が、珍しく動揺した――それも蒼白な顔で――玄関を振り返り、怯えて立ち竦んだ自分を見つめた。

『ただ‥‥いま‥‥』
『‥‥馨!』

怒られるのかとさらに身を竦めた自分を父親の大きな手がぎゅっと抱き締める。物心ついてそれが最初の父との抱擁で、そして現在に至る中では最後の物だった。


 テーブルやソファ、絨毯といった洋風の家具を全て出し、代わりに畳を入れて応急の和室となったリビングに黒服の大人達が小さな祭壇や大き過ぎる花束、それに、小さな小さな棺を運び込む。それを、部屋の隅で学校のブレザーに身を包んだ少年が見守っていた。生まれつき色素の少し薄いこげ茶色の髪に、同じ位に薄い瞳には感情は映らない。頭ではその小さな棺に自分の大事な存在が眠っていて、もう、そこから出てくる事はないと分かっていた。どうしてその存在がそうなったのかも、何故自分の隣に母がいないのかも‥‥。ただ、感情がそれに付いて行かない‥‥。泣こうと思った、泣いて、棺に眠る彼女に泣き縋ろうと思った。けれど‥‥。

「‥‥何でだろう‥‥」

涙は一滴も出なかった。父親が、いつもの鉄面皮のような無表情を崩さないのと同じように、自分の感情も止まってしまった。今度こそ泣いてみようと、少年はつい一昨日起こった『その日』を振り返る。友達の家から帰った自分を抱き締めた父親――それは夢か幻だったのかもしれない。次の日には無表情で、自分には声もかけないいつもの父だった――リビングから出て来て自分の姿に泣き崩れる祖母、自分には少し厳しくて、でも妹にはめっぽう甘い祖父すら自分の姿を見て良かった‥‥と座り込む。わけが分からずなすがままになっているとしばらくして玄関のベルが鳴った。現れたいかつい男二人組に父が呼ばれ、自分は祖父母と共に病院に向かった。事態を把握できないまま覗き込んだガラス窓の向こうに、色々な機械に取り囲まれた母が眠っていた。その日は、何も説明されないまま家に戻り、妹の帰りを待たずに寝た。翌日、妹が帰って来た。小さな箱に横たわり、顔以外のほとんどを花に埋めて。呆然とする自分に祖父と、昨日父を呼んだ刑事が説明した。『その日』のお昼過ぎ、公園に向かう途中の道で一人の男が母をナイフで切り付けた。母は悲鳴を上げ、妹を逃がそうと必死で突き飛ばした。けれど妹はその場に座り込んで泣き出し、母は妹を守ろうと駆け寄ったが男に背中から何度も刺された。母が動かなくなると、今度は泣いて母に縋る妹の全身を切り刻んで男は逃走した。母は一命を取り留めたが重体。妹は、その場で息絶えた。五歳だった。来年には自分の通う学校の幼等部に入園するはずだった。手を繋いで一緒に行ってと、ずっと先の事なのにいつもねだっていた‥‥。その妹の通夜が今日、もうすぐ始まる‥‥。入院中の母は当然いない。父は、父もいない。こんな時なのに会社だ。そんなのはどうでもいい、いつもの事だ。自分が死んだって会社に行くんだろう、父は。そう考えながら、少年は嘆息した。やっぱり涙は出ない。通夜の準備など見ていても仕方ない。部屋に戻ろうと身を翻すと少年はふと、手に温かい物が触れた気がして立ち止まった。

「‥‥?」

手を上げ、じっくり見るが何もない。時々、こういう事がある。いつものは冷たくて嫌な感じだけれど。気のせいだ、と歩き出そうとすると「こっち!」と子供の声が聞こえて今度は振り返った。さっと自分の脇を、黒いワンピースの少女が駆けて行く。いや、少女と分かったのはスカートの裾がひらり、と見えただけで顔などは見えなかった。けれどその声がひどく聞き慣れた物のような気がして、少年はとっさに少女を追いかけて走り出した。

――茜音(あかね)!!――

ぱたぱたと駆けて行く少女の足音をおいかけて少年は廊下に出、二階に上がる階段を上がった。階段を上がり切ると少女はもういない。けれど自分の部屋の隣、妹の部屋のドアが開いている。

――茜音! やっぱり生きてたんだ! 今下にいるのは偽者で、ほんとは――

開け放たれたドアの前に立ち、名を呼ぼうとした少年は失望感に襲われ、立ち尽くした。『んと〜‥‥』と部屋を見まわしている少女は妹より一回り小さかった。それに、肩を少し越す長い髪は透いた琥珀のような色。茜音は父と同じ、漆黒の髪だった。呆然と見ている少年に気付いていないのか少女は茜音のベッドを見やり、歓声と共に満開の笑顔を浮かべた。

「あった!」
「!!」

少女が駆け寄ってベッドから持ち上げたのは赤ん坊くらいの大きさの愛らしい人形だった。布と毛糸で出来た簡単な作りの、けれど茜音が妹と呼んで可愛がっていた、一番お気に入りの人形。少女が妹でなかった苛立ち、それに妹の人形を取り上げられた怒りに少年は思わず拳を固め、少女の頭をぽくり、と殴っていた。

「!! いたいっ!」

少女が悲鳴と共にしりもちをつく。少年はその手から人形を取り上げて妹そのもののようにぎゅっと抱き締めた。何が起きたのか、少女は理解していなかっただろう。ただ痛みに頭を押さえ、うわーん、と泣き出す。

「あら? あらあら‥‥」
「! ママ−!」

少女が必死に立ちあがって駆け出す。それで初めて少年も気付き、人形を抱いたまま振り返る。ドアの前に立っていたのは少女と同じ、琥珀の髪の女性。ただ女性の方がもっと金に近い色をしている。屈んで少女を抱き留めながら女性は少年を見た。髪よりも琥珀に近い双眸に見つめられて少年は人形を抱く腕に力を込めた。しかし女性は娘を泣かせた少年に優しく微笑みかける。

「馨君ね」
「!」
「大きくなったわね‥‥。あ、おばさんの事なんてもう覚えてないかしら? 小さい頃、おばさんとおじさんの結婚式に来てくれたのだけど‥‥」
「‥‥?」

首を傾げると女性は『そっか‥‥』とくすくす笑った。『おばさん』なんて言う年には見えない。一言で言うなら美人、それも類稀な‥‥。髪と瞳の色、それに顔立ちで純粋な日本人ではないと分かる。それに、娘がいる年には到底見えない。まだ少女と言っても、うっかり頷いてしまいそうだ。そんな感想には気付かず、女性は『もう泣かないのっ』と娘を叱咤する。

「ごめんなさいね、馨君。この子、茜音ちゃんのお人形を取ろうとしたわけじゃないの。ただ、少しだけこの子に貸してあげてくれないかしら?」
「‥‥」

女性の申し出に少年は戸惑いの視線を人形に向けた。少女はまだぐずぐずと泣いている。不意に、ブレザーの裾をくいっと引っ張られた気がした。小さな茜音が兄の気を引こうとする仕草と同じ。けれど、そこに茜音はいない。不思議に思いながら少年は人形を少女の方に差し出した。茜音がそう望んでいるような気がした。

「ほら、カムナ、お兄ちゃんが貸してくれるって。自分で取りに行きなさい。お礼も忘れないでね?」

聞き慣れない音に少年は漢字を当てはめられない。けれど『カムナ』というのが少女の名前なのだろう。『うん』と少女が頷き、瞼の上をごしごしこすると少年の方に走って来た。そして精一杯に手を伸ばし、少年の顔を見上げる。片方は女性と同じ琥珀の、けれど片方は茶色の不揃いな瞳に少年は思わず息を呑んだ。

「ありがと! アカネちゃん!」
「!!」

そう言って少女はくるっと身を翻し、少年から少し離れ、空へと人形を差し出す。何の冗談だ‥‥? と少年は訝るが、いつの間にか傍に歩み寄っていた女性が少年の肩に手をかける。と、少女の前にうっすらと茜音の姿が浮かび上がった。

「あか‥‥ね‥‥?」

思った通り、少女は茜音より一回り体が小さかった。影のように薄い茜音へ向けて精一杯腕を伸ばして人形を差し出す。茜音もそれを受け取ろうと手を差し出した。けれどその手は人形を受け取る事が出来ず、擦り抜けてしまう。『あれ?』と少女が可愛らしく首を傾げ、茜音は泣きそうに顔を歪める。

「あれ?あれれ‥‥。待って!アカネちゃん! ママ−? どうしてアカネちゃんにお人形渡せないの? アカネちゃんが探してたお人形なのに‥‥」
「それはね、カムナ。茜音ちゃんがもう死んでしまっているからなの。カムナは生きてて、体も魂も此処にある。けれど茜音ちゃんは体が死んでしまって、魂だけが此処にある。だからこの世界の物にはもう触れられない。人形にも‥‥馨君にも」

「‥‥? でも、アカネちゃんは此処にいるよ? カムナは手を繋げるし、お話もできるよ?」
「そうね、それはカムナがママやおじいちゃんと同じ、『人』と違うからよ。他の人には出来ないの。他の人には見えないし、聞こえない。だから、人の前では口に出しては駄目。そっと胸の中にしまっておくのよ」
「‥‥?」

難しくて、少女には理解できなかったらしい。女性は苦笑して、少女の手から人形を取り上げ、少年の手の中に戻した。それを見た茜音がたっと駆け寄って来て、ブレザーの裾をくいっと掴んで少年を見上げる。ああ、やはりさっきのは、それに下で手に触れた温かい物も茜音だったのだ、と少年は確信した。

「これ、どうしたら茜音に渡せるの?‥‥」
「‥‥一緒に棺に入れてあげて、体と一緒にこの世を去ったら持てるようになるわ。つまり、一緒に埋葬するという事。それでも、いいの?馨君」
「うん。茜音もこの子と一緒がいいだろ?」

膝を屈めていつものように見上げると少年の言葉を理解したのか茜音がぱぁっと晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。少年も頷き返し、再び立ちあがって部屋を見渡す。ベッドサイドには他にもぬいぐるみが。それにお気に入りのおもちゃも部屋中に散らばっている。

「他には? 他に欲しい物は?茜音」
「‥‥いらないって。お人形だけでいいって」
「そっか‥‥。茜音‥‥オレも、一緒に行こうか?‥‥」

再び妹の前に屈み、少年は真剣な眼差しで問う。茜音はきょとん、として首を傾げた。少年は妹の手を握ろうとして、出来ずに空を切った手をぎゅっと握り締めた。

「茜音‥‥一人で寂しいだろ? オレも茜音がいなくなるのは寂しい‥‥。だから、オレも茜音と一緒に‥‥!!」
「その先は言っては駄目よ。それは禁言。死者と共に行きたいなど、願っては駄目」

女性の手に口をふさがれ、出しかけた望みが途切れる。茜音は不思議そうな顔で兄を見下ろしていた。何故か、涙がこぼれそうになる。目の前に茜音はいるのに、その声は聞こえない。その手には触れられない。妹の死という重みが、今更になって肩の上に降りてくる。

「茜音ちゃんが死んでしまって、お父さんも、病院で眠ってるお母さんも哀しい。おじいちゃんもおばあちゃんも‥‥。もちろん馨君も哀しい。でもね、馨君まで茜音ちゃんと一緒に行ってしまったら残されたみんなは二倍哀しいのよ?」
「‥‥あのね! 『死にたい』って言ったらダメなの! 『死にたい』って言ったらイロイロ悪いモノが来てほんとに死んじゃうの! そしたらその悪いモノに連れてかれて、アカネちゃんと一緒には行けないの! ‥‥っておじいちゃんが言ってた。だから言っちゃダメ!」
「っ! じゃあどうしたら! 一緒に行けないならオレはどうしたらいいんだよ! 茜音を守れなかった‥‥。他にオレに何ができるんだよ!」

女性の手を払い、少年は八つ当たり気味に少女に言い返した。少女がびくっと身を竦めるがすぐに力尽き、少年はその場に膝を着いた。俯いた頬を、次々と涙が伝ってくる。女性の手がそっと頭を撫で、優しい声が降り注ぐ。

「そうよ、泣くの。死んだ人のために残された人達は泣くの。その涙が死んでしまった人を優しく洗い流して、流れた涙の分だけ綺麗な魂になれる。そうしたら、上にある綺麗な所へ行けるわ。また新しくこの世界に生まれてくるために」

「茜音‥‥また、会えるかな‥‥」
「それは分からない。けれど、茜音ちゃんは此処で終わりではないわ。馨君の流した涙が茜音ちゃんを送ってあげられる」

女性の腕が、優しく少年を抱き締める。その胸に母を重ね、少年は泣き縋った。びっくりして見ていた少女が、急に少年に駆け寄ってその頭を撫で始めた。女性と少女に慰められながら、少年は声を上げて泣き続けた。

 どのくらい泣いただろう。そんな長い時間でもなかったのかもしれない。人形を茜音の棺に入れてやらねば‥‥としゃくりあげながら女性の胸から顔を上げると察したように女性が手を離し、頭を撫でた。立ち上がる少年を少女が見上げ、その隣にいた茜音も見上げる。

「大丈夫だよ、茜音。行こう」

手を伸ばしたが茜音の手は重なって擦り抜けた。それでも温かな感触はあったのでそのまま進む。と、少年の逆の手を女性が取り、茜音の片手を少女が取った。女性を見上げると微笑んで促してくれる。小さく頷いて、歩き出すと廊下から少年を呼ぶ声がした。

「馨‥‥。月雫(かづき)さん‥‥?」
「こんばんは。お久しぶりです、草梳(かやと)さん」

「ええ、お久しぶりです。その子は‥‥カムナ?」
「はい。カムナ、ごあいさつは?」
「えっと‥‥はじめまして? 太刀守 カムナです!」
「初めまして」

鉄面皮の父の顔が、月雫――何故か漢字は素直に浮かんだ。何処かで見たのだろうか――と女性を呼んだ時には少し和らいだ気がした。けれどそのあとはいつもの平坦な声。少女の可愛らしい挨拶にもにこりともしない。その無表情が少年に向き、その腕の中の人形を見て少し目を細める。

「一緒にいれてあげるのか? 茜音の棺に」
「茜音が欲しいって言ったんだ。他には何もいらないって」
「!」

少し驚きを見せた表情が少年を見つめる。それでも、この父が表情に出すなんて相当驚いたのだろう。『な? 茜音』と隣の茜音に問うとこくり、と首が上下する。同じ表情で少年の隣を見やる父に、少年は首を傾げた。

「見えないの?父さん」
「馨君‥‥」
「‥‥見えない。お前には、見えるのか‥‥。そうか、此処にいたのか、茜音」

そっと手を伸ばし、父は茜音の頭くらいの所で手を左右に動かした。見えてはいないが、気配は感じているのかもしれない。嬉しそうに茜音が目を伏せ、触れてもいないのに『くすぐったい‥‥』と笑う。

「通夜が始まる。行こう」
「草梳さん‥‥」
「太刀守の血が、やはり続いているのですね、月雫さん‥‥」
「ええ‥‥。でも馨君はうちの子よりずっと弱い‥‥。今も私が手を取って少し、誘導したからこそです。すぐにまた見えなくなります」
「そうですか」

大人達の会話に首を傾げながら少年は二人に続いて歩き出した。隣には妹が、そして少女が続く。階段を降りながら父がやはり平坦な声で『翔哉(しょうや)は?』と問う。少し戸惑ったように女性がそれに応えた。

「養父(ちち)を説得しています。私とカムナだけ、何かお手伝いできればと思って先に」
「そうですか、ありがとうございます。親父も頑固者ですが、伯父貴も相当ですからね‥‥」

女性が苦笑したのが後ろ姿で分かった。不意に茜音の温かさが手から消える。振り返ると二、三段後ろにいる茜音が下りにくそうに一生懸命下りてくる少女の手を取って支えてやっていた。いや、それが本当に支えになっているかは分からない。少年は戻って人形を持ち替え、茜音と逆の手を取って少女を支える。

「ありがと♪かおる」
「! こら‥‥カムナ。馨お兄ちゃんでしょう?」
「いいよ、呼び捨てで。カムナはいくつだ?」
「んとね‥‥四つ!」
「じゃあ‥‥茜音の方が一つお姉ちゃんだな」

馨の返事に少し不服そうな顔をしながらも、身を翻して女性は父の後についてリビングに入っていく。お姉ちゃんだな、と笑いかけると茜音も嬉しそうに笑みを返した。正直、茜音以外に『お兄ちゃん』と呼ばれるのは変な気分だ。少し哀しくて、少し胸が痛い‥‥。だからこの少女は呼び捨てでいい。そう思いながら階段を下りきると、がしゃんっ! とリビングで物が壊れる音がした。続いて祖父の怒鳴り声。

「何をしに来た! 今すぐこの家から出て行け!」
「親父、親父と伯父貴の問題は月雫さんには関係ない。失礼な真似は止めてくれ」
「そうですよ、あなた‥‥。今は女手が足りないだろうとわざわざお手伝いにいらして下さったのに‥‥」
「うるさい! わしはこの毛唐の不気味な目を見るだけで虫唾が走るんだ! 太刀守の血に毛唐の血を混ぜるなど、翔哉は何を考えているんだ!」
「ママ‥‥?」
「そこにいなさい、カムナ。馨君、少しの間その子を見ていて」

不安げにドアから覗く少女に笑いかけた女性の手がうっすらと血を流していた。周りに散らばっているのは花と花瓶の破片。女性を庇うように父が立ち、その向かいには興奮した様子の祖父、止めようとしている祖母。その周りに葬儀屋や手伝いに来ていた会社の人間達が恐る恐る事態を見守っている。少年も飛び出してしまいそうな少女の肩を押さえ、じっと事態を見守った。

「この度はご愁傷様です。私がお邪魔でしたら今すぐ辞させて頂きますので、どうかお静まりを。故人の前で喧騒はいけませんわ」
「何を生意気な! 茜音が死んだのもみんなお前達のせいだ!」
「親父!」

別の花瓶を手にした祖父が頭を垂れた女性へと投げつけようとそれを振りかぶる。すぐさま父が女性と祖父の間に入るが、その前に花瓶が宙で割れ、花と中の水が畳の上に零れ落ちる。

「!!」
「うちの養娘(むすめ)に八つ当たりとは、落ちたものだな、秋爾(しゅうじ)」
「‥‥お養父様‥‥」
「おじいちゃん! お父さん!」
「月雫! 大丈夫か?」

黒いスーツ姿の男性が女性と父に駆け寄り、女性の手を取る。そして少年の手を離れた少女は父親らしきスーツの男性に飛びついた。そしてもう一人、人を圧倒させる何かを纏った白髪に和服の老人は、それを一瞥してゆっくりと祖父に歩み寄っていく。気押されたように祖父が後ずさる。そんな祖父の姿に驚きながら、馨は立ち尽くしたままだ。

「わしに言いたい事があるのではないのか? どうした?秋爾」
「‥‥何故‥‥何故茜音を見殺しにした! 何故わしの孫を救ってくれなかったのだ‥‥。兄さんはいつでもそうだ! 何でもできるくせに何もしない!!」
「お前はわしをまるで分かっていない。昔からそうだ、理解しようともしなかった。代々太刀守が、その内に宿してきた物、それは『神』という名ながら、けっして万能のそれではない。わしにお前の孫の死を予期する事はできぬし、ましてそれを避ける事も、天命を延ばす事も、甦らせる事もできぬ。わしができるのは人成らざる者から人を守り、現世(うつしよ)を離れた存在を送り出す事だけ」

がくっと膝をついて祖父が静かに泣き出す。祖母が、それに父がそれに寄り添い、肩を支えた。小さくなった祖父の背を見下ろし、和服の老人がくるりと身を翻した。その視線が自分に向いて少年がどきっとすると、茜音がびくっとしたように少年の手を離れ、その背後に回る。

『恐れずとも良い。私が分かるか?』

問いかけは老人の方から向けられた。けれどその声は明らかにそれとは違う。若々しい青年のような、老獪な男のような不思議な声だった。自分が問われたのかそれとも‥‥と思って茜音を見ると少年の背から少し顔を出し、こくんと頷いた。

『ならば良い。場所を変えよう。一緒に来なさい。そなたは、この子の兄か。そなたも共に』
「! 人形‥‥茜音の棺に入れようと思って」
「良い事だ、入れて来なさい」

圧倒的な雰囲気は消えないながら、老人の表情が和らいだのに気付いてほっと肩の力を抜き、少年は棺に歩み寄った。『カムナもー!』と少女が駆け寄って来て少年の裾を掴む。小さな少女には高過ぎて棺の中までは見えないだろうが、少年はそっと茜音の躯の傍らに人形を置いた。

「月雫、お前も来なさい。翔哉、お前は通夜の手伝いを」
「はい、お養父様」
「‥‥はい」
「兄さん? 何をしようと‥‥?」
「幼い魂、特に殺された者の魂は自然には逝き難い。‥‥お前の孫娘の命は救ってやれぬが、殺めた者は見つけ出せる」
「!」

一瞬力を失っていた祖父の目に火が灯る。その意味を少年は悟れなかったが、それは明らかに憎しみと怒りの火だ。それを察してだが、と老人はすぐに言葉を繋いだ。

「あくまでお前の孫娘を無事送るため、愚かな事は考えるでない」
「茜音を殺した輩を黙って警察に引き渡せと!?」
「お前自身と残った家族のためでもある。お前、もしくはお前の会社絡みの私怨なら、これでは終わらぬからな」
「‥‥」
「部屋を借りる」
「奥へどうぞ、伯父貴。馨、応接室へご案内しなさい」

頷いて少年は棺を離れて歩き出した。一瞬手を離した少女と、茜音が慌ててそれに付いて来る。いいのか‥‥?と少年は後ろを振り返ったが、和服の老人は何も言わず、女性はただ黙って微笑んだ。リビングを出て廊下を進み、二部屋先の応接室に入って電灯を付けると少年は女性と老人を振り返った。どうするのか、と見上げると老人が茜音の前に屈み、女性が少年と少女を応接セットのソファに座らせた。

「痛かったか?」

老人が尋ねると茜音はただ少し首を傾げた。

「自分が死んだ事を、理解しているか?」

やはり茜音は首を傾げる。自覚していないのか、それとも言葉が難しいのか‥‥。ふと、女性が茜音に歩み寄り、老人と同じように茜音の前に屈む。

「茜音ちゃん、もう自分がお兄ちゃんやカムナと違う事、一緒にいられない事は分かるわね?」

こくん、と今度は首が上下した。

「茜音ちゃんを殺した‥‥痛い思いをさせた人の事は覚えてる?」

――痛いの、覚えてない。目が覚めたら、おうちに帰って来てたの。ただ、ママのやめてって泣いてる声が聞こえた。茜音の事、呼んでたの――

そう、と微笑えんで女性は茜音の頭を撫でる。少女同様、触れる事ができるようだ。急に茜音の声が聞こえた事に少年が驚いていると老人がすっと立ち上がり、歩き出した。

「死んだ時の記憶がないならば幸いだ。辛い思い出は昇華に時間をかける」
『四十九日もの時間がある。その時がくれば私の手で無事に送ってやろう。この少女を殺めた者も、本人に分からずとも‥‥。月雫、何か「見えた」か?』
「いいえ、茜音ちゃんは完全に覚えていないようです。それに私の力も‥‥」
『そうか。しかし遺体と母親から痕跡を辿れば見つけ出せよう。問題は、兄の方だな』
「そうですな」

老人と見えない何かの会話に少年はびくんっと肩を跳ねさせる。気付いた少女がくいっと袖を引っ張った。見下ろすと『大丈夫だよ♪』と微笑んでいる。応接机を少しずらし、老人が茜音にしたように少年の前で膝を折る。見上げる老人の顔が、何かが被さったように歪んで見える。

「わしが恐ろしいか?」
「‥‥よく、分からない。ただ‥‥他の人と違うのは分かる」
『私の姿が見えるか?』
「姿は‥‥分からない。声は聞こえる」
「声が聞こえているのは一時的なものだと思います。永人(ながと)様。私が茜音ちゃんの姿が見えるように少し誘導してあげたので。それに、今は私やカムナ、永人様がいらっしゃいますし‥‥。馨君自体はさほど霊力を持っていません。ただ、少し影響を受けやすくはあるかもしれませんね」
『ふむ、月雫がそう言うならば間違いはない。今までに妹のような霊を見た事はあるか?』

ぶんぶん、と少年は首を横に振った。妹だからこそ、受け止められたがお化けなんて、幽霊なんてまるっきり信じていなかった。自分がそれを見るなど、考えてもいなかったのだ。

『何もない所で嫌な雰囲気を感じたり、悪寒を感じた事は?』
「それなら‥‥ある」
「思春期が近くなるにつれて霊力が強くなる事も考えられますが、今の所大丈夫でしょう、永人様」
『そのようだな、しばし様子を見よう』
「おじいちゃん! 永人様! かおるもカムナと同じ?♪」
「‥‥同じではない。カムナよりずっと弱いな。同じ物を見、感じる事は出来ぬ」

違うの‥‥? と拗ねる少女の頭を撫で、老人は微苦笑を浮かべた。この理解不能な質問は何だったのだろう? と少年が首を傾げていると老人はさて、と立ち上がり、女性へ、そしてドアの方へと歩き出す。

「わしは通夜に顔を出して殺人者を捜す。月雫は通夜を手伝ってやってくれるか?」
「はい。馨君、カムナとお部屋で遊んであげてくれるかしら? きっと通夜に出たら退屈して騒ぎ出してしまうだろうから」
「うん、分かった」
「茜音ちゃん、一緒に遊んであげてくれる? ‥‥そう、ありがとう。カムナ、馨君と茜音ちゃんと一緒に待っていて。いい?」
「うん!」

いい子ね、と女性は少女の頭を撫で、老人と共に出て行く。馨も少女の手を取り、茜音が逆の手を取ったのでゆっくりと階段へ向かって歩き出した。

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