Viora
キンッと刃の交わる甲高い音。刃の潰された、けれど殴打すれば軽い脳震盪くらいは起こせそうな訓練用の剣だ。騎士達の鍛錬、ではない。交わった剣を逸らすとすかさず少女は足を伸ばした。しかしその蹴りを剣とは逆の手刀で落とし、少女より二、三年上の少年は同じように足を蹴り上げて少女の体を薙ぎ倒した。
「そこまで!」
「‥‥っ。あ、ありがとうございました」
「ふんっ‥‥」
「こら!ケント! 礼には礼を持って返す、それが騎士道だろう? 剣と杖という違いはあれど、私達も騎士である事には変わりない」
「だって‥‥こいつ弱すぎ。俺は全然ありがたくな‥‥いでっ!」
父親の拳骨をくらってしぶしぶ少年は会釈を返した。それを見ていた年長の少年達がぷっと吹き出し、ケントと呼ばれた少年は不満そうに兄、それに従兄である少年達を見返す。
「大体‥‥なんで俺ばっかりこいつの相手‥‥。兄上達だっているじゃん」
「お前が一番ブランかと年が近いじゃないか。それに、お前だって同じように鍛えてもらっただろう? 今度はお前の番だ」
「‥‥同じ年でも俺こんなに弱くなかったよ、絶対。なぁ!兄上!」
と同意を求めるが兄らしい――やはり少女とケントくらいの年の差がある――少年は『変わんないだろ?』という表情で従兄弟達と笑いあっただけ。ちぇっと少年は不満そうに父と、落ち込んだ表情の少女に視線を戻す。
「こいつ絶対宮廷魔術師に向いてないよ、父上。どんなにがんばたって女は女じゃん。男以上にはなれない。大人しくただの魔法使いか魔術師に‥‥あだっ!」
「魔法では敵わないからって負け惜しみ言うんじゃない! 笑ってる場合じゃない! お前達もブランカを見習いなさい!」
「だってなー? 父上と母上があれだぜ? 血筋は変えらんねぇし」
「魔力は血筋によってのみ受け継がれるものではない。生まれ持った素質なら此処にいる誰も似たり寄ったりだ。必要なのは‥‥」
男性の説教を遮る様に時計塔の鐘が鳴った。歓声を上げて少年達はお疲れ様でした、と自分の剣を手に散っていく。まったく‥‥とため息をついて男性はそれを見送った。
「兄上達にあって私に無いもの‥‥。むー‥‥やはり威厳か? 髭でも生やそうか‥‥」
「グリーグ叔父様‥‥」
「ん? お前も帰っていいよ、ブランカ。兄上は今日も遅くなるだろう?」
「どうしたら私も、ケントに勝てるようになりますか?」
真摯に見上げる薄紫の瞳。その愛らしさに思わずノックアウトされそうになって男性、グリーグは少し頭を振った。けれど彼の目には何故かオプションで犬系の耳と尾が少女にくっついて見えていた。ある意味病気だ。
「うん、やはりブランカは女の子だからね、女の子らしく勝たなきゃならんな!」
「女の子らしく‥‥ですか?」
「そう! 例えばほんとはちょっとしか痛くなくても『きゃー!!』と大げさに叫んで『ひどーい!』と可愛く涙ぐんでみるんだ。それでひるんだ相手をぼこっと。後はそうだなぁ‥‥思い切ってスカートにしてみる! スカートの裾をふわっとさせて男がそれに釘付けになっている隙にばきっと‥‥!」
「何を教えているか!グリーグ!!」
ばきっとやられたのはグリーグ本人。殴った別の男性は倒れるグリーグを尻目に『今のは本気にしちゃいかん‥‥』と少女の肩に手を置き、呆れのため息と共に呟く。
「ひどいです‥‥兄上‥‥。私はただ純粋にブランカを勝たせてあげようと‥‥」
「何処に純粋さなど‥‥。まったく、お前一人に子供達の修行を見させるのはやはりよくないな。兄上に報告しておかねば」
「あの、ジルオン叔父様、ごめんなさい。私がグリーグ叔父様にどうしたらケントに勝てるかお聞きしたんです」
「あ、いや、お前が悪いわけではない、ブランカ。そうか‥‥お前がケント達に勝つのはやはり、難しいかもしれないな」
しゅん、と表情を翳らせる少女を励ますように男性、ジルオンはそっと肩を叩いた。少女を落ち込ませた事にか『ひどいです‥‥兄上』と向かいのグリーグが頬を膨らませる。
「ケント達は男で、それも年上だ。背も高いし力も強い。純粋な力のぶつかり合いでお前が勝つ事はできんだろう。しかし力の差は戦術で補える。それでも、お前はケント達以上にそれを得なければ敵わんな。ケント達も戦術なしで戦っているわけではない」
「どうしたら、身に付けられますか?」
「うーん‥‥戦術指南の書物があるにはあるが、それを実戦、体で覚えなければ意味が無いし‥‥。いや、兄上ならば、何か良いアドバイスをしてくれるやもしれぬな。お前の身体能力、戦いの癖を知っているのはやはり父である兄上が一番だろう。兄上に伺いを立ててみてはどうだ?ブランカ」
グリーグオプション付き映像では期待に立てられていた尻尾と耳が一気にぺたん‥‥としぼむ。ブランカの落ち込みの表情を察してジルオンも一瞬怯むが、『ありがとうございました』と頭を下げて少女はくるり、と身を翻し、帰宅の途についてしまった。
「兄上!! ブランカを苛めましたね!」
「いや‥‥わ、私が悪いのか!? 今のは‥‥?」
「むー、兄上が悪いような‥‥いや兄上が悪いのかも‥‥。よしっ! 兄上に抗議しに行きましょう!」
「グリーグ、なんとなくは分かるが私と兄上を区別する言い方をしてくれ‥‥。ってちょっと待て! 私も連れて行く気か!?」
「当然です! 兄上も同罪ですよ!」
こと、姪に関しては我が子よりも甘いグリーグである。無実の罪(?)を着せたすぐ上の兄の腕を掴み、ずんずんと長兄を探してグリーグは城内に入っていく。宮廷魔術師長の三兄弟は何歳(いくつ)になっても仲が良い、と宮中の者は微笑ましい視線を向けていたりするのだが‥‥現実とは多少異なっている。
「兄上!!」
国王の生誕祭に向けて大広間で警備について宮廷魔術師数名と打ち合わせていた三兄弟の長兄、ジェヴルは弟に呼ばれてすぐさま振り返った。しかし予想とは違っていたらしい。次兄のジルオンを引きずる末弟に怪訝そうな視線を向ける。
「どうした?グリーグ」
「どうしたじゃありません!ブランカを苛めたでしょう!」
「‥‥はっ?」
「むっ‥‥とぼけるんですか? それとも父親なのに分かってない!?」
「えーと‥‥? ジルオン、通訳を頼む」
「いえ、私も良く分からないのですが‥‥。ブランカにどうしたらケントに勝てるかと聞かれたので兄上にお伺いするのが一番だろうと言ったのですが、どうにも落ち込ませてしまったようで」
それで原因が自分にあるとグリーグは怒っているらしい、と察してジェヴルはため息を一つついた。責められても思い当たる所はない。第一、弟といい娘の義兄に当る青年といい娘に甘過ぎる‥‥。心中でぼやき、ジェヴルはため息だけを漏らした。
「公務中だ。家庭の話ならば後で聞こう」
「一ヶ月先の警備よりもブランカの方が重要です!」
「グリーグ‥‥」
「失礼ながら‥‥うちのケントはブランカは宮廷魔術師にふさわしくないとまで申しました。兄上には兄上なりのお考えがあるのでしょうが‥‥今のブランカでは私もその言葉は否定し切れません」
「!」
「‥‥私も、同意見です。子供は素直ですよ、兄上。内にそのような意見があるならば外にも当然ありましょう。確かにあの子の努力と素質には目を瞠ります。しかし、魔法だけでは宮廷魔術師は務まりません。道を絞って魔術師とさせるか、それとも何らかの手を打つべきでは?」
持つべき者は物怖じせずに意見してくれる存在だと、多くの上に立つ者となって良く思う。兄弟とはいえ、長に意見する二人に見守っていた宮廷魔術師数名は呆気と羨望の眼差しを向けていたが。『聞こう』と一言言い下してジェヴルは広間を出た。いつまで経っても少年のように無邪気さ――無鉄砲さとも言い換えられる――の抜けない末弟と、補佐として沈着に支えてくれている次兄の意見は的確で動かしがたいものだ。宮廷魔術師長に与えられた一室――内部での会議にしか使われないが――に三兄弟は入り、それぞれ定位置に腰掛けた。
「ブランカの戦闘能力は、そんなに劣るか?」
「同世代の少女の比ではありません。少年であっても勝るでしょう。けれど年上のケントが相手となると‥‥。身体能力の差は否めませんね。宮廷魔術師となっても、魔法抜きでは暗殺者はおろか、騎士とも渡り合えないでしょう。魔法には長けているのでいざ戦いとなればなんとかなるかもしれませんが‥‥宮廷魔術師としての冠を得られるかとなると否ですね」
「とりあえず戦術指南しか、現状では打つ手は有りませんね。けれどそれでどうにかなるものですかね? 筋力差、身体差はこれからますます広がりますよ?」
「‥‥筋力訓練を増やしてみるか?」
「いえ、それも考えてみましたが‥‥何せあの子は何事にも一生懸命ですから、提案した途端とことんやると思うのですよ‥‥。女の子で筋力を付けるのは並大抵の努力では叶いませんし‥‥」
「がんばり過ぎてムキムキのブランカはちょっと可愛くないかもしれないです‥‥。それ以前にそんな姿になったら殿下が‥‥」
口元をほころばせつつ、目は完全に冷え切った笑みで大事な妹をそんな姿にした輩を問い質す王太子が容易に想像できて三人は同時に寒気に襲われた。
「殿下ならきっとものすごいお仕置きを‥‥。やりかねないですよ!? 兄上ぇー!!」
「根本的解決にはなりそうないな‥‥」
「ええ‥‥。単純に筋力を付けても、今のブランカは小柄で身軽という利点がありますから、それを損なうだけかと思います。宮廷魔術師以外の道は、お考えになられないのですか?兄上」
「‥‥。考えぬな、今は‥‥。あの子の存在は、それ以外に許されぬと思っている。できぬなら、道は一つ。陛下に預かりし命をお返しするのみ」
『!!』
「要らぬ心配をかけたな、二人共。長として父として、私は至らな過ぎたようだ。少し、考えてみる。お前達は普段通りの指導を頼む」
弟二人は心配げに顔を見合わせたが、それでも長兄の言葉に黙って頷いた。そのままジェヴルは席を立ち、大広間に戻っていく。ジルオンとグリーグも、それぞれ己の公務に戻るべく立ち上がった。
帰宅はいつものように真夜中近くになってしまった。生誕祭の準備に忙しく、娘の訓練を見てやる事はおろか、まともに会話すらしていない気がする。ただ父である自分の『宮廷魔術師に成れ、殿下をお守りできるように強くなれ』という言葉の重みに、娘はたった一人で応えようとしているに違いない。だからこそ、ほかならぬ自分には聞けなかったのだろうと、娘の寝顔を見下ろしながらジェヴルは思った。昼間は従兄達に追いつこうと必死に鍛錬して、家に帰ったら足りない部分を補うように魔法書を読み、後は泥のように眠る。十になったばかりの少女に、そんな道を背負わせてしまった自分を呪いながらも、道を変えてやる事はできない‥‥。
「やはり‥‥ブランカに、女の子に宮廷魔術師となれる道はないのか‥‥?」
大声で怒鳴っても起きそうに無い我が子の寝顔に呟き、ジェヴルは娘の部屋を出た。亡き父は、自分のその提案を肯定し、共に道を探ってくれた。けれど全てを終える事無く先立ってしまった。残された自分は、ただ自分が歩んだのと同じ道しか示してやれない。けれどそれでは無理なのだ。圧倒的にその道は女の子であるブランカには不利だ。
「‥‥そういえば、父上の遺品にはほとんど手を付けていないな‥‥」
父が急逝して一年近くになるが、ダウド家の長としての立場を継ぎ、宮廷魔術師長との両立の忙しさにほとんど父の部屋には赴いていなかった。父なりに何か調べていたかもしれないが、その事に触れる間も無く逝ってしまった。娘の事を思ってやればもっと早く気付いてやれたかもしれないのに、とジェヴルは苦笑し、階下へ降りて父の書斎に入った。存外、部屋は綺麗だった。何かに夢中になると他はなおざりになる性格の父だったが、此処に入る事を許されていた娘が気を利かせたのかもしれない。現に、娘の手が届きそうな所の本棚には本を出し入れした跡が見られる。それよりも上の段を見やってジェヴルは微笑した。他国の武術の本など、以前はなかった本が乱雑に詰まっている。やはり父は‥‥と嬉しく思いながら執務机に目を移した。そこは片づけるのを躊躇ったのか、父が生きていた頃のような散らかりようだ。父に宛てられた手紙が散乱し、栞代わりに本を挟んだ本などもある。その本の一冊と、そばにあった父直筆のメモ書きにジェヴルは目を留めた。
「これは‥‥。父上は、そのようなお考えを‥‥? 気付かなかった、これならばあるいは‥‥」
朝、いつもより少し寝過ごしてしまった事に慌てながらブランカは階下へ降りた。最近は慣れてしまった一人きりの朝食。けれど今朝は数週間前のように父が定位置に座っていて、朝の挨拶と共に笑みを浮かべる。思わず顔をほころばせ、ブランカは挨拶の後に頭を下げ、父の傍にある自分の席に駆け寄った。席に着くと乳母が自分の分の朝食を運んで来てくれる。が、父の前は綺麗に片付いていた。なんだ、もう食べてしまったのか‥‥と少しがっかりする。
「ブランカ」
「はい!お父様。あ‥‥ごめんなさい、父上」
「今日の訓練が終わったら、この店に行きなさい」
「?」
父が寄り道をするように言うのは珍しい事だ。いや、特に禁じられてもいないが、やはり珍しい。受け取ったメモには何を扱っているのか分からない、店の主人と同じなのであろう名前と地図が書いてある。
「何のお店ですか?」
「行ってみれば分かる。一緒に行ってやりたいが、駄目だったら一人でも?」
「はい、大丈夫です」
「気に入った物があれば買うといい。けれど、あまり大金は持ち歩かないように。高ければ、後で代金を持たせて取りに行かせると」
「はい」
「では、先に行っている。いつも通りにおいで」
送り出す言葉をかけると父は微笑して緋色の軍服を翻した。今は魔法使い用の黒いローブ姿だが、あれと同じ軍服を着るのが少女の目標だ。凛とした背中を見送って再びブランカはメモに目を落とし、期待に笑みを浮かべた。
夕刻、忙しそうな父に気を使って何も言わずにブランカは一人で町に出た。町に出るのは正直あまり好きではない。色々珍しい物もあるが、その好奇心以上に人々の好奇と奇異の視線が嫌なのだ。この城下町で、母である王妃の顔を知らぬ者はいない‥‥。ローブのフードをすっぽり被ってちょこちょこと歩いていく少女は内心でかなりの不振人物である事を自負した。けれどそのローブが魔法使いの、しかもトグリッサ王家付き宮廷魔術師の見習い魔法使いの物だと気付いた人間の多くは隠し切れていないお忍びを微笑ましそうに見送った。半刻程してようやく少女は目的の店を見つけた。こじんまりとした、そして何処か近寄りがたい雰囲気の店だ。もうすぐ日が暮れるというのに、中からは灯りが感じられない。息を呑み、数秒程逡巡してブランカは思いきって全身で扉を開けた。薄暗い店には商品棚も商品らしい物もない。ただカウンターと丸椅子二個があるだけ。カウンターの奥の部屋に人の気配はするが‥‥。とりあえずカウンターに歩み寄って少女は奥を覗いた。
「あの、すみません‥‥」
「はいよ、いらっしゃ‥‥」
「此処、何のお店ですか?」
「お嬢ちゃん‥‥ふざけちゃいけないぜ‥‥。此処が何の店かも知らないだ? お嬢ちゃんみたいな子供が来るところじゃないんだ、とっとと帰んな」
「あ‥‥ご、ごめんなさい。けれど父が、行ってみれば分かると‥‥。あ、申し遅れました、私はブランカ=ダウドと申します。これでも一応宮廷魔術師見習いです」
出て来た初老の男性の口調の悪さに気圧されながら、それでも少女はフードを落とし、礼儀正しく名乗った。お辞儀をしてもう一度店主を見上げると少女の顔にか、それともその前からか驚愕の表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「こいつは‥‥驚いた‥‥。ダウド家の大旦那が尋ねて来られてから一年近くになるが‥‥。お嬢ちゃんは大旦那のお孫さんか‥‥?」
「えっと‥‥祖父は元ダウド家当主で亡くなられてもうすぐ一年になりますが‥‥? 祖父もこの店に?」
「ああ、そうだったな‥‥だからこんなに時間が‥‥。じゃあやっぱり大旦那がおっしゃってたお嬢ちゃんか。よく来なすった、さぁ、そこに座って」
急変した男の態度に戸惑いながらも少女は勧められるままに丸椅子に座った。カウンター越しに店主も座り、煙草を手に取って火を付ける。不思議そうに少女はそれに視線を向けるが、男は気付いた様子も無く勝手に話を続ける。
「どうしてこの店に?」
「父が、今朝突然この店の地図を。気に入った物があれば買っても良いと」
「お嬢ちゃんがお気に召すかは分からんがな‥‥。まぁいい、この店はな、お嬢ちゃん。暗器を専門に売っている」
「暗器‥‥ですか?」
「一言で言やぁ、暗殺用の武器だな」
「!! 暗殺用なんて‥‥。ごめんなさい、買えません!」
ぺこり、と頭を下げ、そのまま去ってしまいそうな少女を慌てて引き止め、まぁまぁ、と店主は宥める。宮廷魔術師長である父が、もっとも憎むべき暗殺者の武器を買いに行けと言った事がショックだったのかもしれない。少女は少し涙ぐんでいた。
「元は、だ、元は! 最近では良い所のお嬢様が護身用に買って行ったりするんだ。こんな大通りで大っぴらに暗殺者相手に商売したりしちゃいないぜ」
「護身用? 女の人が武器を持ってても、あまり効果のない気が‥‥」
「まぁ普通にナイフ持っててもお嬢ちゃん達宮廷魔術師や騎士達からみりゃあな。えっと、お嬢ちゃんは実際に暗殺者に会った事は、あるいは暗殺術の訓練を受けた事は?」
「ないです」
「そうか。暗殺術ってのは真正面から向かっていく騎士の戦い方とは違う。もちろんその身体能力は騎士に匹敵するが、暗殺者は殺すためには手段を問わない。護りを主とする騎士とは全く違う、殺すためだけの術だ。大雑把に言えば相手を油断させておいてその隙に殺す。暗殺者にとって油断は最良のパートナーだ。まぁ例えば‥‥お嬢ちゃん、お嬢ちゃんは俺には勝てそうか?」
「‥‥はい。あ、ごめんなさい‥‥。けれど魔法を使わなくても勝てます」
『俺は無駄な戦いはしない、仲良くやろう』と店主は手を差し伸べてくる。ブランカも慌てて片手を差し出して店主の手を握ろうとした。が、その手に何処から現れたのかナイフが握られていて少女はびくっと身を引く。店主は笑って謝り、手を引っ込めた。確かに素手だったのに‥‥と少女はまだドキドキしている胸の上を押さえながら振り返った。
「っと、此処で俺が敵なら命はないぜ?お嬢ちゃん」
「あっ‥‥そうだった‥‥びっくりして忘れてた‥‥」
「こんなに小さなナイフじゃ命までは取れないだろう? だから暗殺者なら毒を塗っておいて確実に相手を殺す。毒を塗らなければ殺さなくていい。武器ってのは何も傷つけるだけが能じゃない。けれど相手に恐怖というダメージは大いに与えられる。特に油断している時の効果は絶大だ。例えばお嬢ちゃんはお世辞にも怖くは見えないし強そうでもない」
「は、はい‥‥」
「けれどそんなお嬢ちゃんに突然ナイフを突きつけられたら‥‥その隙は決して少なくない。お嬢ちゃんは魔法が得意だそうだから、もし相手がお嬢ちゃんの魔法を封じ、丸腰になったと優越に浸っていれば効果は絶大だろ? 暗殺用って風に構えて怖がんなくていいんだ。使い方次第で武器にも防具にもなる。暗器は小さくて色々な所に隠せるのが利点だから、もし武器を取り上げられた窮地でも残った暗器で仲間を救えるかもしれねぇ。使い方次第では‥‥お嬢ちゃんは男よりも強くなれる。どうだい? うちの品に興味を持ってくれたか?」
使い方次第で男よりも‥‥という言葉が魅惑的に耳に残る。魔法だけが強くても宮廷魔術師としては認められない。従兄達より、騎士より、そして暗殺者よりも強くなくては兄の身は護れない。暗殺者の使う武器で、暗殺者から兄を護る。それはとても難しそうだけれど、とても魅力的なことだ。
「はい! 是非見せてください!」
キンッと耳を突く金属音。刃の潰された剣が交わり、力負けを恐れたのか片方がすぐ様引く。後を追おうとした剣が何かを察して引く。しかし逃げた剣を持っていた片手の手首からするっと短い鞭が伸び、剣を絡め取る。ちっと舌打ちして剣を手放そうとするが、それよりも早く首筋に剣が突きつけられた。
「うっ‥‥卑怯だぞ!ブランカ!」
「そうですね、すみませんケント」
「潔く負けを認めなさい、ケント。実際の暗殺者は独学のブランカよりも手強いぞ」
「う‥‥はい、伯父上‥‥。降参です」
「では、やめっ。両者下がって」
『ありがとうございました』
礼を交わし、二人は簡易闘技場を降りた。少年はそれよりも少し年上の少年達に囲まれて叱咤とからかいの言葉を受け、少女の方には審判をしていた男性が歩み寄る。
「暗器を使わせたら、もうケントでは相手にならぬな。ウォレン達でも、太刀打ち出来ぬか?」
「いえ、そんな事は‥‥。ケントもとても強くなってます。暗器を使うタイミングがなかなか掴めなくて‥‥」
「そうだな。‥‥それにしても、これは初めて見るな? 新しい物か?」
「いえ、使い方が難しくて、新しい物は買ってもすぐには使えないんです。武器に負けるようでは戦いには勝てません。まして暗殺者達は同じ暗器を使いこなして向かってくるわけですから」
「良い心がけだ。それを‥‥お前の従兄達にも分かってもらいたい物だが‥‥」
「ウォレン達は‥‥ウォレン達なら武器に負けるような事はないでしょう? 彼らは私とは違います」
少女は本気で言っているようだが、そうだといいが‥‥と男性はため息を一つ。彼女の殊勝さの半分でも持ってくれれば彼らは大きく成長するだろうに。
「暗器を使えるのはお前しかいない。独学で、しかも勝手の違う相手と競わねばならぬのは辛いだろうが、お前の適正はウォレン達とは違う、強さも違う。けれど思うところは同じだ。その信念で頑張りなさい」
「はい、ジルオン叔父様」
「では次の模擬対戦は‥‥」
「待って下さい、兄上」
声をかけてにこやかにジルオンに歩み寄って来るのは少女のもう一人の叔父、グリーグだ。父の姿を認めた従兄二人が声を上げて首を傾げる。呼ばれたジルオンの方も首を傾げ、どうした? と弟に声をかける。
「兄上が至急謁見の間に集まるようにと」
「だからグリーグ‥‥いや、そんな事はどうでもいいな。私だけか?」
「いえ、年長三人は連れてくるようにと。召集理由は聞いていませんが?」
「問題ない、兄上のおっしゃる事は絶対だ。ディック、ケント、ブランカは残って時間まで自主訓練だ。私達が戻らなければ片付けをして先に帰りなさい」
『はい』
残された従兄二人と少女――十三、十四歳の従兄、それにブランカはまだ十一歳だ――は宮廷魔術師の軍服は拝領したがまだまだ見習い同然の扱いだ。それに不満そうに二人は愚痴を漏らすが、少女はこの軍服を拝領できただけで幸せなので――まぁ、父と同じ物はほんの数日しか着れず、今は兄が勝手に作らせたスカートに持参の白いパンツだが‥‥――素直に訓練用の剣を構えた。
それから一時間後、定刻になっても戻って来なかった三人の剣は誰が片付けるのだろうか、と少女が小首を傾げて見ていると、残ったディックとケントも同様に剣を見つめている。
「‥‥ブランカ」
「はい」
「お前、筋力訓練足りないから、それ三本ともお前片付けろよ。ちょっとした訓練になるぜ」
「あ、そうですね。アドバイスありがとうございます、ディック」
「‥‥とりあえず俺達先に行くからな!」
ぺこり、と丁寧に頭まで下げられるとは思っていなかったのか、二人は顔を見合わせたが、しめたとばかりに身を翻して走り出した。そんな事には気付かず、ブランカはありがたいアドバイス通りに四人分の剣を両手に抱えた。
「んっ‥‥意外と重い‥‥」
ブランカの剣は従兄達の物より軽く出来ているし、従兄三人はもう成人の儀――トグルでは十五歳で成人とされる――を済ませているので剣もより長く重い物になっているが、剣四本の重みがこれほどとは思わなかった。よたよたと、それでも宮廷魔術師控え室兼更衣室兼物置である部屋に向かってブランカは歩き出す。室内競技場からだと普通なら五分とかからぬ距離だが、この分だと倍はかかりそうだ。ようやく競技場を出てブランカは宮廷内の廊下を歩く。背後で人の気配がするが、宮中が無人の方がおかしい。気にせず歩いていると追い越していく気配が不意に目の前に手を振り下ろし、同時に腕が一気に軽くなった。
「えっ‥‥!?」
「お嬢ちゃんの細っこい腕で、剣四本は無謀じゃないのか?」
にっと笑い、持ち上げた剣を片手で軽く振っているのは二十代、兄と同じくらいの年の男だった。がっしりした体格に纏う雰囲気は騎士のようだが、見た顔ではない。それに、城内は正装が原則、彼はどう見ても私服だ。
「意地悪な先輩に片付けでも押し付けられたか?」
「いえ、意地悪じゃありません。筋力訓練が足りないからこれを片付ければいいとアドバイスしてもらったんです。だから‥‥返してもらえませんか?」
「‥‥だからそれこそ‥‥。いや、まぁいいぜ。じゃあお嬢ちゃんのだけな。後の三本は俺が持ってってやる」
「でも‥‥」
「でもじゃない。いくら宮廷魔術師だからって可愛いー女の子が重い荷物持ってよたよたしてんのに、ただ見てんのは性に合わねぇんだよ。本来自分が片付ける分だけ持ってく、それで十分だろ? 了解?」
「‥‥はい」
結局男に気圧されてブランカは頷いてしまった。よし、と言って男はブランカの手に剣を戻す。偶然か否か、それは確かにブランカの少し短くて軽い剣。すたすた前を行く男は急に振り返って『何処に片付けんの?』と聞いてきたのでブランカは一瞬きょとん、とし、すぐに早足で男に追い付いて横を歩き出した。
「あの、ありがとうございます」
「へ?」
「剣、持って頂いて」
「‥‥あー。別にいいって。まぁ礼代わりに騎士団事務所まで案内してくれたら幸い‥‥。軍服受け取りに行くのに迷っちまった」
「ええ、もちろんです。‥‥えっと、騎士団に配属された方ですか?」
「んにゃ、お嬢ちゃんと同じ宮廷魔術師だ」
にやっと笑って男はきょとん、としたブランカを見下ろす。見知った顔ではない。という事はつまりダウド家関係者ではない。宮廷魔術師の中にはダウド家に属さない者もいるが、それでも珍しい事だ。
「俺はリザルト=クラン。これからよろしくな、小さい先輩」
「あ、ブランカ=ダウドです。こちらこそよろしくお願い致します。えっと私は‥‥」
「知ってる、団長‥‥あ、いやこっちではその呼び方はしないんだな。長殿のご息女だろう? 父君と叔父君達、それに従兄殿達には先に会ってるんだ」
それで先程叔父達が呼ばれたのか、とブランカは納得した。本来なら自分とケント達――あるいは他の宮廷魔術師達にも――は明日引き合わせる事になっていのだろう。
「‥‥? リザルト殿は以前騎士団か何処かに?」
「殿はやめてくれ、堅苦しいのは嫌いなんだ」
「すみません‥‥じゃあ、リザルトさん?」
「あー‥‥あーまぁそれでいいか。前はなテュアナの騎士団に。亡命ってやつだな」
「テュアナ! では国外の方なんですね」
「ああ、珍しいか?」
「はい、ちょっと。私は五歳の頃にラング・リ・ストゥに行ったきりで、国外に出る事も国外の方と話す事もありませんでしたから」
少し嬉しげに話すブランカに奇異の視線を向けていたリザルトだが開きかけた口はすぐに閉じた。何か事情がありそうだ、と察して話題を変えようとした時、不意に背後に不穏な影が差してびくっと反射的に振り返る。
「貴様ぁ‥‥俺の妹に馴れ馴れしく話しかけるとはいい度胸だ‥‥。しかも何だ!?この剣は!! こんな物貴様が持て!」
「!! は、はぁ‥‥では持たせて頂きます‥‥」
「お兄様!?」
「ランカー♪あんな重たい荷物はこのでかいのに持たせておけばいいんだぞ? この白魚の手が折れたらどうするんだ?まったく♪。よし、貴様は今日からランカの荷物持ちだ、俺が許す!」
「はぁ‥‥。それは構わないっすけど‥‥兄上様の方が俺より頭半分くらいでかそうだし、剣よりよっぽど重たそうに見えるんすけどね‥‥?」
「ん?これか? これは愛の重さだ!」
後ろから兄に寄り掛かられてブランカは反論も忘れてじたばたもがいている。が、きっぱりと断言した兄は『なぁ?』と強制的に同意を求めて少女を後ろからぎゅーっと抱きしめる。
「お兄様!! リザルトさんは私が片付けようとしていた剣を持って下さったんです! それにそれは私の剣です!」
「そうなのか? 何だ、そうならそう言え。でもランカの剣も持ってけ、疲労骨折するかもしれん」
「はぁ‥‥いいっすけど別に‥‥。最初からそのつもりだし」
「良くないです! 自分の物は自分で片付けるんです!」
半ばムキになりながらブランカは自分の剣を奪還した。別にいいのに、とリザルトは思ったが、ブランカがあまりに生真面目なので口に出すのはやめた。
「まったく、お前は融通が利かんな、父親そっくりだ。ところでお前は? 見ぬ顔だな」
「あ、本日付で宮廷魔術師に配属となりましたリザルト=クランと申します。以後お見知りおきを。えーと‥‥失礼ながら兄上様は?」
「はぁ‥‥お前が例のあれか‥‥。俺とは明日辺り正式に対面になるだろう。それまで悩んどけ」
「はぁ‥‥?」
「ランカの荷物を持ってやったのは感心だが‥‥うちの妹に悪さしたら殺すぞ‥‥。もちろん苛めでもしたら締め上げるっ! いやむしろ血祭りだっ! トグルで生きたいならば肝に銘じておけ!」
「‥‥はい、肝に銘じておきます‥‥」
『お兄様‥‥』と少し膨れ面で宥めるブランカは全く気にせず『じゃあな♪気を付けて帰れ、ランカ♪』と額に軽くキスして兄は去って行った。それを呆然と見送ってリザルトはで? とブランカに視線を落とす。
「兄上何者?」
「‥‥お兄様のおっしゃった通り、明日には正式に対面になると思います‥‥」
「なんかむちゃくちゃ偉そうだったけど‥‥」
「地位的には父よりも上です」
「あーそう‥‥複雑な事情有りって事ね。分かった、とりあえず明日まで深く考えるのはやめよう‥‥」
疲れ切ったリザルトに『ごめんなさい』とブランカは頭を垂れた。一瞬意外そうに見下ろしたリザルトだが、不意にぷっと吹き出してブランカの頭を撫で、先を促して歩き出した。
慎重なノックと低い声に妹を愛でて自室に帰ってきたばかりの第二王子、ソール=シクル=トグリッサは一言入るように促した。『用心が足りません』と渋い顔で入って来た男性、ジェヴルに『どうしてだ?』と不満そうな顔を向け、ソファに行儀悪く体を預けたままソールは続けた。
「お前の声を聞き間違うわけがない。たとえよく似せた声真似でも、だ」
「何者かに脅されて殿下を誘い出そうとしているのかもしれないでしょう?」
「有り得ない。そんな事をするくらいならお前は死を選ぶだろう? それに、お前がそんな不覚を許すわけがない」
断言するとジェヴルは諦めか、ため息をもらした。勝ったな、と微笑むソールは視界に入れず、ジェヴルはため息にも似た渋り声で呟く。
「私とて人間です。不覚を取る事もありましょう。とにかくご油断召されますな」
「あー、分かった分かった。説教しに来たわけじゃないだろう? 何だ」
「はい、本日入りました元テュアナ騎士、リザルト=クランなる者の事で‥‥」
「ああ、あいつか。さっき会ったぞ? ランカと一緒にいた。何処ぞの馬鹿共がランカに自分の剣を押し付けて帰ったらしくて、それを持ってやってくれたらしい。結構気に入ったが、あいつが?」
「ブランカと一緒に‥‥?」
逆に聞き返してジェヴルは眉を顰めた。何だ? とソールが声をかけるが、思案しているのかそのままの表情で黙り込む。ソールは軽く肩を竦め、ジェヴルの言葉を促すように話題を振る。
「亡命する騎士は珍しくはないだろう? まぁ、さすがに宮廷魔術師となった例は珍しいが。けれどテュアナは此処最近の天災や内政の乱れで国内中荒れている」
「ええ‥‥ですが‥‥。彼にはブランカとの関係を?」
「兄妹とは。ただ向うは俺の事を分かってなかった。がいずればれるからな、隠しても仕方ないだろ?」
「偶然、ならば良いですが。殿下、お気に召されているようでこのような事を言うのは申し訳ありませんが、リザルトにはお気を許しますな」
「‥‥何故? 気のいい男だったぞ? 俺の勘に触る物はなかったが‥‥。奴を疑っているのか?ジェヴル。なら何故奴の申し出を受け入れた」
「確かに、忠実な男です。ですがそれ故に‥‥トグリッサ王家に忠義を誓うかは分かりかねます。私は反対したのですが、陛下がいたくお気に入りの様子で‥‥。魔法の腕も剣の腕もなかなかです。魔術までは使わぬのが幸いですが‥‥」
――俺寄りの不穏分子を牽制して、自分に忠実な者を手元に置きたい訳だな? ふん、臆病者の親父が考えそうな事だ――
「分かった、気をつけよう。‥‥ランカにも言うつもりか? すでに奴に馴染んでいた様子だぞ?」
「ええ、本来ならば会わせる前に、と思っていましたが、仕方ありません。あの子も正式に宮廷魔術師の一員。まして‥‥尊公のアキレス腱にもなりかねません‥‥。殿下、もしもの時は、ブランカを捨てるお覚悟を」
「! い・や・だ!! ランカは俺の妹だ、俺が護る。絶対に死なせはしない! 例え俺の命をかけても‥‥」
「殿下‥‥そうおっしゃると思っていました。しかしそれはブランカにはかけてはならぬ言葉です。それに付込む輩が現れたら、尊公はどうなさるおつもりですか? それは絶対になりません。尊公はこの国を継ぐ事を自らお選びになったのです。そしてブランカは本来尊公の妹ではない。たとえ尊公がそう思って下さっても、あの子は宮廷魔術師、尊公の剣であり盾だ。人間が剣や盾を庇う事があってはなりません、絶対にです」
「けれど‥‥」
「納得できないならばはっきり申し上げましょう。尊公がお亡くなりでもしたら、どの道あの子に生き延びる道はありません。己にも、他者にも‥‥。あの子は尊公の死に責任を感じ、周りも責任を問います。尊公無しに‥‥あのような奇跡は二度と起きないのですよ‥‥?」
厳しさを見せようとしたジェヴルの目は、非情になり切れずに哀を浮かべていた。反論できずにソールも言葉を切り、俯いてジェヴルの言う『奇跡』を思い返す。
――奇跡なものか‥‥あれが‥‥。運命の悪戯が隠されていた妹に俺を引き合わせた。そして俺が、俺の身勝手さが妹を日の当る、薄汚い世界に引きずり出したんだ‥‥。傷だらけの妹の命を何とか繋いだ‥‥それの何処が奇跡だ‥‥――
「‥‥分かった‥‥」
「分かって頂ければ、それで」
「だが俺はぎりぎりまで王太子ではなく兄でいるぞ。王太子になるのは、自分の無力さを認めた時だ」
「‥‥そうならぬよう精一杯務めます。では、御用がなければ失礼致します」
「ああ。お前は‥‥傍にいてやれよ‥‥。あの子は優しくて弱い、ただの子供だ‥‥」
囁いた言葉は、緋色の軍服を着た背中に届いたかどうか‥‥。ジェヴルは何の反応もせずに出て行ってしまった。残されたソールはジェヴルとの会話を反芻し、その重さにかソファの上でさらに身を崩し、目を伏せた。
乳母、執事、それに亡き祖父に就寝の挨拶をしてブランカはベッドに入った。父はまだ帰宅していない。泊まりの仕事ではないはずだが、今夜も帰りは遅いようだ。ベッドに足を入れ、手を伸ばして灯りを消そうとするとノックの音が響く。小首を傾げてブランカは『はい』と返事を返す。
「眠る所だったか? すまないな、ブランカ」
「父上! お帰りなさい。大丈夫ですが、どうなさったのですか?」
「少し話しをしても?」
父の問いかけにブランカは迷わず頷いた。父と話せるのはたまに朝食時、後は宮中にいる時ぐらいで此処最近まともに話してはいない。期待を含んだブランカに対して椅子を引き寄せ、ブランカのベッドの脇に腰掛けるジェヴルの表情は硬い。
「殿下に、リザルトに会ったとお聞きしたが?」
「あ、はい! ウォレン達の剣を運んでいたら、見かねて手伝って下さったんです! それから騎士団の事務所までご案内して‥‥。とても良い人ですね‥‥」
「そうか、では酷な事を言うかもしれないが‥‥リザルトを信用してはならん。いや、リザルトだけではなく、身辺にはくれぐれも気をつけなさい」
「え‥‥? あの‥‥テュアナのお話を聞かせてもらう約束をしたのですけど、それも駄目‥‥ですか? 仲良くするのも?」
「いや、そこまでは言わないが‥‥。異国を知るのは良い事だ。リザルトも単身国を出た身、不安もあるだろう。仲良くしてあげなさい」
「はい。でも‥‥あの‥‥それではおっしゃっていることがよく‥‥?」
確かに矛盾した言い回しになってしまった事に苦笑し、ジェヴルは少し思案するため言葉を切った。ソールはもう成人した大人、しかもその年のわりにかなり聡明で人を見る目も肥えている。しかしブランカはまだ子供。笑顔で差し伸べられた手は喜んで取るだろう。
「こういう言い方は良くないと思うが‥‥他国からの亡命者の中にはそれと装った間者が紛れているかもしれない。断定は出来ないが、頭から信頼することもできない。お前は、殿下にとってとても大切な存在。故に、お前の油断はそのまま殿下の危険に繋がる」
「私の油断が、ですか?」
「‥‥例えば、例えの話だ。リザルトがテュアナの間者だとして、彼を信用しているお前はあっさりと彼に人質にされてしまった。彼はお前を盾に殿下を脅し、テュアナに都合の良い要求をするだろう。殿下は間違い無くお前を助けるためにその要求を呑む。それが殿下の命を脅かす要求であったら‥‥分かるな?」
「! はい‥‥」
「ウォレン達とは違う、お前だけに課せられる義務だ。リザルトと仲良くするのも、話を聞くのも構わない。けれど彼が刃を向けてきたら、彼以外の誰かがお前を、殿下を狙っていたら、迷わずお前も刃を抜きなさい。その覚悟だけは、忘れぬように」
「‥‥はい!」
きゅっと表情を固めてブランカは頷く。確かに心も固めたのだろう。けれど、その瞳は少し揺れている。ジェヴルは微苦笑してそっと娘の頭を抱き寄せた。不思議そうに呼びかける声につい、謝りたいような気分になってくる‥‥。開きかけた口を閉じ、ジェヴルは『おやすみ、ブランカ』と声をかけ、灯りを消してやって逃げるように部屋を出た。
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