Viora
リザルトが入隊して、ジェヴルの危惧していた事や他の何事もなく一月が過ぎた。ソールが王太子であり、ブランカが王妃の不義の子と知ってもリザルトは全く態度を変える事はなかった。ブランカに対しては変わらず優しく、ソールに対しては大国の王太子に対していささか軽い礼儀作法だが、それが返ってソールのお気に召したようだ。さらに気の良いリザルトは年長の宮廷魔術師達や他の騎士団の者からの好意と信頼を得た。その一方で、ブランカ以外の年少宮廷魔術師達には反感を受けていった。テュアナのお国柄らしいフェミニスト振りでブランカを構い、庇うためだ。
「早くしろよ!ブランカ! 相っ変わらずとろいな‥‥お前は」
「はい! ごめんなさい、ケント」
場外に飛ばされた剣を拾い上げてブランカは慌てて闘技場の上に戻ってくる。年長の宮廷魔術師達は出払っていていない。いるのは年少のブランカと従兄達、それに年齢だけで言うなら十分年長に入るリザルトのみだ。
「こぉらケント、何度も言ってんだろ? 女の子苛める奴はもてないぞー」
「うるさいっ!リザルト! 関係ないだろっ! 大体こいつは宮廷魔術師の一員なんだぞ! 女扱いする必要なんて‥‥」
「苛めるって事は幼稚な愛情表現の一種だ。ってわけで裏を返せばお前はもてもてって事だぞ? 良かったな♪ブランカ」
「はぁ‥‥?」
「ちがっ‥‥ふざけるなよ!リザルト! 苛めてんじゃないぞ! 本当の事言ってるだけだ!」
「とは言っても苛められてんのにそんな事を考えて喜ぶ暢気な奴はいないから程ほどにしとけよ、お前ら全員」
『うるさいっ!』とリザルトの忠告は一蹴されてしまうが気にした様子も無くリザルトは気にするな、と闘技場に上がってきてブランカの肩を叩く。確かに、従兄達は突然テュアナからやって来た新参者にブランカが懐いているのがおもしろくなく、苛めに磨きがかかっているのだ。何故だか暗器を使わなくなった――ジェヴルに禁止されたのだが――ブランカには全く負けないし。しかし以前よりもブランカが落ち込まないのはこのお気楽男のせい‥‥という悪循環が繰り返される。
「いちいち邪魔すんな! お前がやるか!?」
「‥‥いいねぇ、トグル最強の宮廷魔術師、そろそろ噂を確かめてみたいもんだ。全員でかかって来い、魔法あり、剣ありだ」
「ふん、おもしろいじゃないか‥‥。やるぞ、ケント。みんな上がって来い」
「ちょ‥‥リザルト! みんなも‥‥。そんな手合わせは許されませんよ!」
「まぁまぁ、怪我しない程度にやるから大丈夫だって、ブランカ。ただの、軽い喧嘩だって」
「魔法まで使って何処が軽い喧嘩ですか!リザルトっ‥‥!」
止めているそばからウォレンの放った魔法の風圧に、ブランカは反射的にシールドを張った。『危ねぇな』と呟いてリザルトはひょいっ、とブランカを持ち上げ、剣を手に襲ってきたケントとディックを避けながら一時闘技場を離れる。
「おい!お前らかかって来いとは言ったが‥‥ブランカを巻き込むんじゃねぇよ!」
「だったらブランカとお前の二人でいいだろ!」
「いいわけねぇだろっ! ちっ‥‥いざとなったら自分で避けてくれよ! ブランカ」
「それは避けますけど‥‥私闘はやめて下さい!リザルト!皆!」
ブランカの忠告など聞かず、リザルトはブランカを下ろし、後ろ手に庇いながらシールドを広げた。見計らったように三人が剣と体術で襲ってくる。それを一人ずつ簡単に流し、強引に三人を振り切るとリザルトは魔法を唱えていた残る二人を狙って剣を振り上げる。すかさず駆け寄った三人が守り、二人が同時に別の呪文でリザルトの動きを封じようとする。しかし剣で三人をあしらい、なおかつリザルトは解呪の呪文を唱える。
――すごい‥‥五人のチームワークは一年、二年で築いた物じゃないのに。リザルトは確実に粗を突いて乱してしまっている。五人は勝てない、絶対に。世界には、こんなにも強い人がいるんだ‥‥。彼のような人がもし剣を向けてきたら、私は勝てるのだろうか‥‥。いいや、迷わず勝つ。でなければお兄様を守れない!――
「予想以上に、弱いねぇ、お前ら。ガキとはいえ、最強の名が泣くぜ?」
「何を!?」
「剣に頼るのは事を荒立てないためか? それとも、腕に自信がないからか?」
「! 馬鹿にするな! 皆!やるぞ! 後で泣くんじゃねぇぞ!」
「!! 駄目!皆!」
ブランカの忠告は挑発された従兄達には届かない。それぞれに従兄達は風系の、衝撃波を生み出す魔法を唱え、リザルトを取り囲んで放った。にっとリザルトの口元が上がる。そして、リザルトの紡いだ一言の呪文で魔法は壁に当ったように従兄達へと跳ね返った。
「な‥‥」
「うわぁ!」
――挑発の後、あんな短時間で反鏡の呪文を唱えるなんて‥‥。しかも四方から来る魔法を的確に‥‥。なんて自信、それに力量‥‥。相当戦い慣れてなければ決して出来ない――
「あははっ! 大口叩いた割には情けねぇな」
「くっそ‥‥」
「無事か?ブランカ」
「え、ええ‥‥。リザルトこそ‥‥?」
「俺はかすり傷一つないぜ。しかし、お前らもちっと強くなんねぇと宮廷魔術師として恥ずかしいんじゃねぇ? そんなんじゃ王様どころか‥‥好きな女の一人守れねぇだろ? なぁ?ブランカ」
「!」
にっと笑って突き出された腕の、服の袖から伸びたナイフがまっすぐにブランカの首を狙う。倒れている従兄達がはっと息を呑むが、ブランカは自分自身驚くほど、冷静に剣先を見つめる。
「あんまり手荒な事はしたくねぇ。そのまま大人しくしててくれよ、ブランカ」
「リザルト!? てめぇ‥‥テュアナの‥‥」
「気付くのが遅過ぎんだよ、馬鹿ガキ共。せいぜいそこで這い蹲って呻いてな。さぁ、ブランカ、兄上さんの所に案内してもらおうか?」
「‥‥私は、貴公の事が大好きです、リザルト。だから、こんな事になって本当に哀しいです。貴公と私の大事に思う国が違う事が。けれど‥‥」
ブランカの動く気配を察してリザルトが手の甲に付いた剣を振る。しかしブランカはすっと身を引き、同じように袖口から飛び出した短剣を掴んで受け止めた。
「!」
「私は宮廷魔術師で、何よりトグルを、お兄様を大事に思っています! だから貴公の思い通りにはなれません!」
「ちっ‥‥ならば力づくでも!」
リザルトが呪縛の呪文を唱え、さらに腕づくでブランカを捕らえようと手を伸ばす。すかさずブランカも解呪で応戦し、身を翻して闘技場の出口へと向かって走った。倒れている従兄達を巻き込むのは避けたかったし、何より外に出ればそれだけ多くの味方を付けられる。しかしリザルトの魔法が扉に向かって放たれ、ブランカは衝撃と飛来物から身を庇って地面を転がった。そこへ駆け寄って来たリザルトがブランカに向けて手を伸ばす。しかしブランカは転がりながらブーツの踵を地面に叩きつけ、スイッチを押す。と、ブーツの先に短剣が現れ、ブランカはそれでリザルトの腕を蹴り上げ、反動で身を起こす。
「っつ‥‥。おいおい‥‥暗殺者じゃあるまいし‥‥なんだよその武器は‥‥」
――リザルトは暗器を扱い慣れていない? さっきの短剣も、暗器としての利点を発揮出来ていなかった。少なくとも彼は暗殺者の類ではないという事‥‥――
ならば、とブランカは逃げる意思を捨て、真っ向からリザルトに向かっていく。ブランカの揺ぎ無い戦意に、リザルトもいつもの笑みを捨て、本気でブランカを捕らえるべく剣を繰り出し、呪文を唱える。呪縛の呪文を唱えるリザルトの手に左手首が掴まる。が、うろたえる事なくブランカは小指でスイッチを入れた。左手首から伸びた鞭がリザルトの手を絡め取る。慌てたリザルトが身を引くが、ブランカは一歩踏み出して発動しかけの魔法を自らの魔力を使って奪い取り、その魔法をリザルトに向けて放った。
「っ!! 乗っ取りとは‥‥顔に似合わず強引だな‥‥」
「すみません、貴公の術を反鏡できる自信はなかったので」
「乗っ取りの方がある意味よっぽどの自信がねぇと出来ねぇぞ‥‥。!」
金縛り状態で立ち尽くすリザルトの首にブランカは手を伸ばして短剣を突きつけた。先程とは逆の状態にリザルトがにっと口の端に笑みを浮かべる。
「私は宮廷魔術師の中で最弱です。大人しく負けを認めて投降してください」
「‥‥言うねぇ‥‥。お前の従兄五人を倒した男をあっさり呪縛にかけて最弱か? 謙遜し過ぎだぜ」
「純粋な殺し合いになったら、私は最も弱い‥‥。今も貴公を傷つける事に内心で戸惑っています‥‥。長は、お兄様はこんなに弱くはありませんよ。トグルは、これしきの力には屈しません」
「‥‥これでも、テュアナでは五剣の一本に数えられる腕なんだがな‥‥。半人前の女の子に負けるなんざ、トグルの城壁は高過ぎる‥‥」
「‥‥? !!」
リザルトの言葉が途切れるや否や、闘技場の窓を破って黒い影が飛び込んできた。暗殺者、と思われる黒尽くめの男はようやく年長のうちの二人が立ち上がっただけで全快とは言えない従兄達に向かって行く。ブランカは慌てて、しかしリザルトにかけた呪縛は解いて従兄達に向かって走り出した。
「! ブランカ!? お前何考えて‥‥」
「彼が貴公を生かすとは思えません! 自分の身は自分で守って下さい! ウォレン!」
「馬鹿! こんな奴相手にお前の手なんか借りるかよ!」
「そうだ! お前はリザルトを捕まえてろ! 逃げられたら元も子も無いだろ!」
暗殺者相手に立ち上がった二人は先ほどのダメージも感じさせない動きで応戦する。次いで残る三人も負けじと立ち上がった。ブランカは足を止めて逡巡するが、言われた通りリザルトを振り返る。と、彼の前には別の暗殺者が迫っていた。
「リザルト!」
声を上げて走り出しながらブランカは暗殺者に向かって短剣を投げた。暗殺者は軽くそれを弾くと、まっすぐにリザルトに向けて暗殺用の刃を黒く塗りつぶした短剣を突き出した。それを認めつつ呪縛を解かれる前と全く同じ姿勢で立ち尽くしたままのリザルトは、僅かに笑みを浮かべて目を伏せる。
「避けて!リザルト!!」
「テュアナに永久(とわ)の忠誠を。この身、この命はテュラン国王陛下に捧げん」
「リザルトー!!」
二投目の短剣が暗殺者の手元を狂わせる。しかしそれでも暗殺者はリザルトの胸に短剣を突き立てる。ブランカは視界に白く靄がかかるのを感じた。同時に、自分の声が叫んでいるのも。自棄した状態でブランカはリザルトから短剣を抜く暗殺者に鋭い蹴りを喰らわせた。暗器を仕込んだブーツが加減無く暗殺者の腕を軋ませる。骨が折れたのか、暗殺者は腕を庇って身を翻した。冷静ならば自分が相手に傷を負わせた事に動揺したであろうが、抑えようのない怒りに支配されていたブランカは暗殺者を追って走り出そうとする。
「やめろ!ブランカ! 追うな‥‥」
「‥‥!! リザルト! どうして‥‥彼は貴公を殺そうと!」
「いいんだ、逃がしてやってくれ‥‥頼む」
肩を掴んだまま、リザルトはにっと口元に笑みを浮かべる。反論もできず、ブランカは立ち尽くした。背後で『待て!』と従兄達の声が聞こえる。従兄達を襲った暗殺者も逃げ出したらしかった。それを見やり、彼らも捕らえる事まではできまい、とブランカはぼんやりと思った。
「‥‥傷の手当を、リザルト。リザルト!?」
笑みを浮かべていたリザルトの体が突然傾いでブランカは支え切れずに共に倒れ込んだ。その口元は、今は激しく息を吸い込もうと喘いでいる。慌てて身を起こし、ブランカはリザルトの大きな体を抱き起こした。傷は確かに心臓を外れている。出血もさほど多くはない。では‥‥。
「毒!? しっかり!リザルト! どうして‥‥早く言ってくれなかったんですか‥‥」
「へっ‥‥助かったら、意味がないからな」
「! 馬鹿な事、言わないで下さい‥‥。死んだら、一生許しませんから‥‥」
「そいつぁ怖い‥‥。なぁ、ブランカ。ちょっと、昔話をしても良いか? 最後まで話せるかも分かんねぇけど‥‥」
「駄目です、話すと体力を消耗します。ウォレン達、長を呼んで来てくれればいいけど‥‥」
呟いてブランカはすぐに癒しの呪文を唱えた。魔法使いである自分の魔法など、気休めかもしれない。けれど誰かが気付いてすぐに来てくれるはずだ。今日は運良く神殿から神官が来ている。しばらくもってくれれば‥‥。
「昔、七、八年前かな‥‥。テュアナで大きな内乱が起こった」
ブランカの制止も聞かず、リザルトは言葉を絞り出す。再び制止しようとしたが、思い直してブランカは魔法に意識を集中させた。
「すでに騎士団の、特殊部隊に配属されていた俺は国王側にいた。俺には、ちょうどお前と同じくらいの年の弟がいて、そいつは俺にライバル心を燃やしていて‥‥俺とは別の、王太子側の部隊にいた。王太子に不審を抱いていた国王は俺達の部隊に突然王太子抹殺の指令を出した。俺は、もちろん迷わず従った。国王を信じてたからな。奇襲は夜、一斉に王太子の屋敷を襲った。弟は、その日運悪く屋敷の警備でな、俺に気付いて驚いて‥‥剣も抜けずに死んだ」
「!」
「馬鹿だよ、まったく‥‥。『何で?』って顔して死んで逝った。死んだあいつも、殺した俺も、国王も、王太子も皆、狂ってる‥‥。結局王太子は死んだ。それでも国は立ち直れない。狂った国王は、無謀にもこの富んだトグルを手に入れようと俺を送り込んだ」
「‥‥リザルト」
「王か王太子の弱みに付け込めばトグルを取れる、本気でそう思ってたらしいぜ、うちの王は。‥‥お前が王子の義妹じゃなかったら、王子の大事な存在じゃなきゃ良かったのに‥‥とずっと思ってた。でも、今はお前で良かったと思う。お前が弟のように『なんで?』って顔して立ち尽くす、そんな甘ちゃんなガキだったら迷わず利用してた。でも‥‥お前はトグルで最強で、最高の女だ。誇っていいぜ、俺が保障する」
「何を‥‥言うんですか‥‥。私はこんなに弱いのに‥‥。貴公一人、守れなかったのに‥‥」
思わず魔法の手を止め、ブランカは口を挟んだ。涙が、一筋頬を伝う。何故だろう、魔法を止めなければ、今すぐ神官が駆け付けてくれれば彼は助かるのに。何故、もう彼を救えない気が、するのだろう。気付いたリザルトの手がすっと伸びて涙を拭う。戦い慣れた、無骨で大きな手。まだ、温かい‥‥。
「泣くなよ、お前は最強だ。立派に兄上さんを守ったじゃねぇか」
「でも‥‥」
「泣くな、これでいいんだ。五剣の一本が折れれば、さすがに国王も目を覚ます。いや、本当はもうとっくに気付いてたんだ、俺がそうだったみたいに。俺の死で、ようやく足を止められる。意地を張るのはやめて、トグルに援助を請うだろうさ。なぁ、兄上さんに頼んでくれるか? 勝手な頼みだが、テュアナを助けて欲しいと」
「はい‥‥。でも、一緒に頼みましょう?リザルト。リザルトの頼みならきっとお兄様は聞いてくれます。私、一緒に行きますから」
「‥‥子供が生まれるんだ、春になったら‥‥。弟を殺して、その弟と同じくらいの年の女の子人質にトグルを取ったって、自慢できねぇよな‥‥。でも、これなら、お前の親父は命を賭して王の目を覚まさせたんだ、テュアナを救ったんだ‥‥ってなるかな。ははっ‥‥馬鹿らしいな‥‥」
「子供‥‥? リザルト! 生きなきゃ駄目です!リザルト! 死は、とても怖いです‥‥。絶対望んで手に入れてはいけない‥‥。それに、生まれてくる子には貴公が必要です。私は、何度お父様の存在に救われてきたか‥‥」
ぎゅっと大きな体にしがみつく。力が抜けてきたのか、細い腕にぐっと重みがのしかかった。毒の回りが速いのかもしれない。誰か早く‥‥と祈るだけの自分が、ひどく無力に感じられた。
「お前は、ただ理想論振りかざしてる偽平和主義者じゃないんだよな‥‥。ちゃんと、死の恐怖を知ってる‥‥。トグルに生まれてたら、もっと早くお前や兄上さんに会えていたら、俺も変われたかも知れない‥‥」
「リザルト! そんな事言わないで‥‥。私、貴公が来てから一月、とても楽しかった‥‥。まだ終わりたくないです!」
「泣くなって、お前を泣かせたら兄上さんに殺される‥‥いや、それより先に死ぬか‥‥。悪いな、俺の国、頼むわ‥‥。すげー、身勝手な遺言だけど‥‥」
「いや! 嫌です!リザルト!!」
ごめんな‥‥とリザルトの瞼が落ちる。ごめんな、の後に続いたのはブランカの名ではなかった。よく聞き取れないが、妻の名なのだろう。
「謝るくらいなら‥‥死なないで下さい‥‥」
力の抜けた体が重かった。床にその体を寝かせ、ブランカはリザルトの胸に顔を埋めた。命の鼓動はない。何も考えず泣き喚いてしまいたくなってブランカは気を引き締めた。
――泣いては駄目! それが貴公の望みなら、貴公の願いを叶える為なら、私は貴公を死に追いやった強い宮廷魔術師を演じよう。それが貴公の国まで届き、貴公の国が救われるのなら――
「ブランカ! 何事だ!」
――お父様‥‥やっと来てくれた‥‥。お父様を欺くなんて、自信はないけれど‥‥大丈夫、やって見せますよ、リザルト――
「リザルト‥‥。無事か?ブランカ。怪我は?」
リザルトの死を認めながら、それでも心配そうにジェヴルは娘の肩に手をかける。続いてばたばたと数人が駆け込んでくる音がした。きっと叔父達と他の宮廷魔術師達だ。はい、と凛とした声で応えてブランカは顔を上げた。涙を浮かべていない娘に、少なからずジェヴルの顔が驚きを見せる。
「申し訳ありません、長が警告して下さったのに‥‥なんとかリザルトは捕らえたのですが、暗殺者に彼を殺されてしまいました。彼はテュアナのために、お兄様を脅すつもりでした。でも、残念ながら証拠は‥‥」
「仕方がない。少なくとも今回の件は失敗だ。よくがんばった、ブランカ」
「いえ‥‥。あ、ウォレン達は? 暗殺者の一人を追っていったのですが‥‥」
「ジルオン」
「はい、捜して来ましょう」
「グリーグ、ブランカと殿下に報告を。他の者は此処の後始末とリザルトの遺体を。ああ、二人はリザルトの部屋へ。何も残っていないだろうがな‥‥」
グリーグの手に支えられ、ブランカは立ち上がったが、大丈夫だとその手を離した。去り際にジェヴルの手が軽く頭を撫でた。『よくがんばった』なのか『我慢するな』なのか分からなかったけれど。ブランカは何も言わずグリーグに付いて闘技場を後にした。
自室にいた兄に事の次第を話すと、兄は意外に冷静な態度で頷いた。だいぶリザルトを気に入っていたようだったのでもっと取り乱すかと思ったのだが、ブランカがそうだったように父から忠告を受けていたのかもしれない。
「そうか‥‥あの馬鹿っ‥‥! グリーグ」
「はい? なんでしょう殿下」
「リザルトの遺体は勝手に処分するな、俺に任せろとジェヴルに伝えろ」
「はぁ、それは構いませんが、兄上が納得しますかどうか‥‥」
「しなきゃ俺の所に来いと伝えろ。それから、ランカは預かる」
「‥‥その言い方は誘拐犯のようですが‥‥。分かりました、『そのまま』伝えます」
兄の反応を想像して笑いそうになりながらグリーグは部屋を辞した。グリーグが去るとソールはブランカを手招きした。ブランカは珍しく戸惑いながらソファに身を沈めたままの兄に歩み寄った。父以上に、何もかも見透かしているようで、この脆い鎧が壊されてしまうのではないかと怖かった。傍らにブランカが立つとソールはその腕をぐいっと引っ張り、バランスを崩した体を自分の両の手で抱き竦めた。
「お兄様‥‥」
「辛かったな、ランカ。もう、泣いてもいいぞ」
「!」
「大丈夫、リザルトの奴を怒ったりはしないから。お前は、十分がんばったよ」
「お兄様‥‥。私、私リザルトを‥‥助けられなかった‥‥。リザルトの事、大好きだったのに‥‥」
押さえ込んでいた涙が堰を切って流れ出す。泣きながら、ブランカはリザルトの望みを兄に伝えた。国のために命を捨てる事、その国を助けて欲しいと言った事、子供が生まれる事も、トグルに生まれたかったと言った事も、そして‥‥最後に妻であろう女性の名を口にした事も‥‥。
「リザルト‥‥奥さんと子供の所に帰してあげて下さい‥‥。お願いです、お兄様‥‥」
「ああ、必ず。テュアナも救おう。彼の子供が、彼と同じ目に合わないですむように、本当の意味で、豊かな国にしてやろうな」
「私、リザルトとテュアナに行きたいです‥‥。彼の奥さんに会って、謝らなきゃ‥‥」
「! ‥‥お前がそうしたいなら、叶えてやるよ」
「ありがと‥‥お兄様」
彼の遺言を伝え、自らの望みも吐き出すと後はただ、ブランカは哀しみを放ち続けた。ぎゅっと妹を抱きしめ続けるソールの表情にも悲痛が浮かんでいた。けれど、妹のように涙は流さない。自ら、王となる事を望んだが故に‥‥。
緊張が解けたのと、泣き疲れたのとで一刻程するとブランカは眠っていた。小さな体を抱きしめたまま、ソールは暗くなった部屋に灯りもつけずにただ座っていた。不意に、控えめなノックの音。入れ、と声をかけるとこれも控えめにジェヴルが入って来た。
「ブランカを引き取りに」
「今日は忠告しないのか? 無用心だと」
「そんな気分では‥‥。おかしいですね、自分で警告しておきながら、いつの間にか彼が間者でなければ良いと自分でも思っていました‥‥。そしてブランカが涙を見せなかった事に、長としては喜びながら、父としては不安に思ってしまう」
「十分泣かせたから、ランカは大丈夫だ。負担になる事はないだろうさ。なぁ、ジェヴル。俺は今回の一件、事実を捻じ曲げようと思う。捻じ曲げて英雄に仕立てられて、リザルトは喜ぶと思うか? 彼の妻は、これから生まれてくるであろう子供は‥‥」
「分かりません、私などに死者の気持ちなど。ただ、死者に鞭打つ必要も、残された者に罪の十字架を肩代わらせる必要もないと思います。それに、尊公のその優しさ、大切だと思いますよ」
「それから、ランカを、リザルトと一緒にテュアナに連れて行こうと思うんだが」
すっとソファの前に膝を折り、ジェヴルは寝息を立てている娘の頬にそっと触れて残っていた涙を拭った。娘が無事で良かったという安心感と、また傷を負わせてしまったという罪悪感が、同時に込み上げる。
「この子が望んだのでしょう? ならば望み通りに。けれどくれぐれも‥‥」
「分かってる、人目に付かせるな、だろう?」
「今回の事は、この子に傷と同時に成長する機会を与えてくれました。宮廷魔術師として、それが良いのかは、分かりませんけれど、ね‥‥。今日は、やはり一人で帰ります」
「ジェヴル?」
「私の前で強くあろうとした、この子の気持ちを手折りたくはありません。今日は、私はこの子の涙を見ていませんよね?殿下」
「馬鹿‥‥。仕方がないから明日には返してやるよ。明後日にはテュアナに発つ」
頷いてジェヴルは立ち上がり、身を翻すと魔法で灯りをつけて部屋をでた。灯りに照らされた、妹の顔を見て、ソールはぎゅっとその頭を胸に押し付けた。
「貴国から交換留学と言う形でお預かりしたリザルト=クランの命を守り切れなかった事、大変申し訳なく思います。ですが彼は私のかけがえのない妹を暗殺者から守ってくれました。その義に応えたく思うのですが‥‥。彼に聞いた所、貴国は天災続きで飢饉に見舞われているとか‥‥。どうでしょう? 彼の義への恩返しに、我が国から援助をさせて頂けないでしょうか?」
目の前の年若い青年がにこやかに語る内容に、テュラン国王代理人、元王の次男である男は宰相と顔を見合わせた。青年の語る内容は彼らの計画とも、暗殺者の報告とも食い違っている。一回り以上離れた、しかも国王代理というのに異国での会談に供は一人という世間知らずなのかひどく無用心な青年にテュラン王太子――国が飢饉だと言うのに、中年太り以上にふくよか過ぎる男だ――は苦笑を漏らした。
「お話はありがたいのですが、シクル殿下。私共には何の事やら‥‥。リザルトなる騎士は手前勝手に本国を出奔した身。その者のために我が国が他国の援助を受けるなど‥‥」
「ふんっ‥‥。現王(ちちぎみ)と同じく頭の回転が鈍いようだな、太子。兄君を殺したのは早計だった。彼こそ今のテュアナに必要だったであろうに」
「な、何ですと!? トグリッサ王太子とはいえ無礼な‥‥」
「無礼なのは貴君の頭の悪さだ。仕方がないから一度だけきっちり解説してやろう。リザルトは貴君らが俺を脅し、トグルを乗っ取るために送り込んだ刺客だ。信頼できる証人がいる」
「証人など‥‥リザルトが勝手にやろうとした事でしょう‥‥」
「証拠もあるぞ? リザルトは貴君らよりよほど頭のいい男だった。こうなる事を覚悟の上で、本来残さざるべき証拠を俺の手元に残して逝ってくれた」
先ほどまでソファに座る大人しい猫のようだった青年は一転して猫科の肉食獣のように強かな笑みを浮かべる。年若い青年の気迫に押され、王太子は言葉を詰まらせた。宰相の方は青年の視線に耐え切れず、本来ならこの若く無礼な青年を止めるはずの供を見やった。青年の傍らに立っている、王太子と同じくらいの年恰好の物静かそうな男は宰相と視線を合わせる事なくただ立ち尽くしている。この男では駄目だ‥‥と宰相は王太子を補佐するべく青年に視線を戻した。彼らは知らない、緋色の服がそうは見えぬ軍服である事も、男が何者なのかも。
「だが、それを全て承知で温和に事を済ませ、なおかつ無償の援助までしようとするこの俺の配慮が、分かって頂けたか?」
「無償などと‥‥我々を脅すつもりか!?」
「もちろん、条件はある。俺が望むのはこの国の改革、貴君ら王家の、民のためたる本来の姿への回帰。そして、リザルトの残された家族への無期限の補償だ。無論、分かっておられるだろうが、我がトグリッサ王家の兵力をもってすれば‥‥この国をトグルの一部とするのは簡単だ。だがあえてそれはしない、リザルトが望まぬからだ。貴君らが約束を違えなければ、もちろんトグルへの服従を強いる事もしない」
「そのような事が通るとお思いか? 貴君は王太子、王ではないのだぞ!?」
「‥‥さよう、だが俺は王となる覚悟も王を動かす力もある。俺の言葉はすなわち、トグリッサ王の言葉だ」
「それよりも‥‥もっと簡単な方法がございましょう、殿下」
宰相が王太子に合図し、不敵に笑って王太子は傍らの紐を引いた。青年は沈着な無表情で微動だにしない。傍らの男も、やや視線を伏せたその姿勢のまま。だが彼らの周りには扉から入って来た、おそらくリザルトと同じ部隊なのであろう魔法騎士達、それに天上から下りて来た黒尽くめの暗殺者が取り囲む。
「ははっ! 敵国に供一人でやって来るとは間抜けな王太子だ! 捕らえろ! 生きてさえいれば多少傷を負わせても構わん! 供の者は殺せ!」
「‥‥何処までも頭の悪い男だ。供が一人なのは、それで十分だからだよ。トグリッサ王家の力、この馬鹿者共に思い知らせてやれ、ジェヴル」
「御意、殿下」
優雅に青年に一礼し、男は襲い掛かってきた暗殺者のナイフを払い、両足を蹴りで薙ぎ倒す。折れたのか、暗殺者は這い上がろうとしたまま立ち上がれない。続いて魔法で抑えようとした魔法騎士達に反鏡し、身動きできなくなった二人の頭に蹴りを見舞った。首の折れる音と共に崩れる騎士達。その間に暗殺者がまた一人青年に襲い掛かるが、背後から前の暗殺者から奪ったナイフを突き刺し、青年に触れぬよう片手で引っ張り寄せて床に投げ捨てる。その間に唱えていた呪文がその部屋にいた彼ら二人を除く全員を呪縛にかけた。
「殺してはいないな?ジェヴル」
「御意、手当てと時間の問題かとは思いますが」
「構わん。この中にリザルトを殺した者はいるか?」
「!」
「答えろ、いるのか?いないのか‥‥?」
青年の冷えた視線が、殺気交じりの怒りが一瞬にして静寂になった部屋を取り巻く。『殿下』と男が穏やかに青年の肩に手をかけるが、青年は怒りの矛を収めること無く全員を見渡す。怯えた王太子と宰相の視線が一点を向く。それを辿って青年が一人の暗殺者に目を向け歩き出すと、本来『恐れ』を感じぬよう訓練されてきたはずの暗殺者が明らかに怯えの目を青年に向ける。
「死ぬのは恐ろしくなかろう? 幾人もその手で奪ってきたのだからな。やっと己の番が来ただけだ」
「い、嫌だ‥‥。俺はただ命令通りに‥‥」
「殿下、それはなりません。その者は駒の一つ、駒を一つ一つ潰して何になりましょう? リザルトは、望みませんよ?」
「では誰を殺せばこの怒りが治まると!? テュラン王か王太子を殺していいと言うならばそれで治めるが!?」
「何者も奪ってはなりません、殿下。それでは父君と、テュラン王となんら変わりありません。尊公は奪う者であってはならない、尊公が望んだ『王』となるために。その怒りは内にお納め下さい」
怒りを露にする青年は、ようやっと年相応に見えた。宥められてもまだ不服そうに青年は男を見返し、拳を握り締める。けれど男は再度『なりません』と声をかけてその拳を開かせた。怯えて見守っていた王太子、宰相、それに騎士達や暗殺者達は事態が収まりそうな様子に僅かな安堵を見せる。
「ですが、これだけの暗殺者と魔法騎士を抱えているのは見過ごせませんね。いつ何時この者達がまた人の命を奪うとも限りません。どうお思いになりますか?殿下」
「‥‥。それで我慢してやる、やれ」
「御意」
また優雅に一礼して男は呪縛をかけられたままの一群を振り返った。穏やかに見える表情のまま、男は呪文を唱えた。すると部屋の中にも関わらず風が吹き乱れ始め、その風が刃となって一群を襲った。死を恐れず、苦痛を感じぬよう訓練された騎士達と暗殺者達が高々に悲鳴を上げ、切り離された腕や足を見つめて呪縛を解こうともがく。王太子と宰相はその返り血を浴び、無様にうろたえる以外に何も出来ない。
「殺す事は出来なくとも、生きていく事はそれで十分可能でしょう?」
「き、貴様‥‥何者だ‥‥」
「‥‥トグリッサ王国宮廷魔術師長、ジェヴル=ダウド。トグリッサ王家を守るただの、杖の一本ですよ、テュラン王太子殿下」
「宮廷魔術師‥‥だと‥‥?」
「テュアナの五剣の一本、リザルトを折ったのはその宮廷魔術師の一人、まだ半人前の、たかだか十一歳の少女だ。これで力の差は思い知っただろう? 俺の要求を呑むか、さもなくば死ぬかだ、王太子殿」
「‥‥分かった‥‥。貴君の申し出、ありがたく受けさせて頂く」
「いいだろう、ジェヴル、もうしばらくそのままにしておけ。野暮用の方はテュラン陛下にお伺いしよう。腕や足の一本でがたがた喚くな! 飛んだのが首じゃなかっただけありがたく思え!」
騎士達や暗殺者達に向けて苛立った様に怒鳴る青年を宥めながら穏やかな表情で男は青年に付いて身を翻す。トグリッサ王家の悪魔の王太子と、その傍らの鬼神を、テュラン王太子と宰相はただ畏怖の視線で見送る以外になかった。
案内されたのは、こじんまりとした民家だった。まわりは畑に囲まれていて隣家は程遠い所にぽつん、とある。騎士であったリザルトには似合わない、とブランカは小首を傾げて思った。けれど兄は此処だ、と合図して馬車を降りていく。ブランカは兄の近衛を務める騎士達が運んでいく遺体に寄り添いながら、先にドアに近付いていく兄の背中を目で追う。こんこん、とノックするとすぐに返事があって若い、兄やリザルトより少し年下に見える女性が顔を出した。造作が整っているとは言えないが、少し気の強そうな、芯のしっかりした印象が美人と言っても良さそうな雰囲気だ。その女性の腹部が大きく膨らんでいるのを見て、ブランカは涙を零しそうになった。
「えっと‥‥どちら様でしょうか?」
「理由(わけ)あって名乗れぬ無礼をお許し頂きたい。ランカ」
声と手招きで呼ばれてブランカは兄の傍らに駆け寄った。頭一つ分高い女性の顔を見上げ、すぐにぺこり、と頭を下げる。
「これは俺の妹でブランカ、共に貴女の夫、リザルトに世話になった者だ」
「それは、ご親切にどうも」
「だが、貴女には礼よりも先に残念な報せを持って来てしまった。貴女の夫、リザルトはこの妹を刺客から庇って命を落とした」
「!! ‥‥そう、それは、わざわざありがとうございます。そこにいるのが、そうですか。中へ運んで頂けますか? 女の一人暮らしなもので」
「もちろん。中へ」
驚きの表情は一瞬。すぐに笑みを浮かべて女性は身を翻し、中へ案内した。中に入るとすぐに小さな居間がある。そこを抜け、女性は寝室に入ってベッドに寝かせるように頼んだ。布に包まれたリザルトの遺体を置き、近衛騎士――と言っても一見でそうとは分からぬ格好をしているが――は青年の指示で出て行く。女性はその布を軽くめくり、亡き夫の顔に視線を向けた。
「‥‥なに、すました顔してるんだか‥‥。この馬鹿にはもったいない、穏やかな死に顔だわ」
「‥‥」
「大した物はないですが、お茶でも。うちの馬鹿の死に様を伺っても? それとも、それも秘密ですか?」
「‥‥いや、是非聞いて頂きたい」
「そう、じゃあこちらへ」
布を元に戻し、女性は二人を伴って居間へ戻った。二人がけのソファを二人に勧め、二人分の薬草茶を持って戻ってくるとそれを二人の前に置き、よいしょっと声をかけて一人がけのソファに座った。
「ごめんなさい、身重なのでこんな格好で」
「失礼だが、出産のご予定はいつ?」
「‥‥もう一月後には、多分」
「それは‥‥なんと申し上げて良いか‥‥」
「あー、別に気にしないで下さい。妻にも仕事の内容を言えない特殊部隊にいた男です。結婚前にも散々念を押されましたし、覚悟して結婚したんです。いつあいつが死んでも構わない、いつ自分が殺されても‥‥構わないと。子供を残してくれただけでも、上出来です。生きていても父親らしい事が出来たかどうか‥‥。あ、名前もまだでしたね。ヴァイオラと言います」
「‥‥やっぱり‥‥。リザルト、最後に貴女の名を呼びました。『ごめんな、ヴァイオラ』って‥‥」
じわっと涙が浮かびそうになる。けれど兄の手が今は駄目だ、と言うように頭を軽く叩く。きゅっと唇を結んで垣間見たヴァイオラの顔は少し驚き、そしてすぐ『まったく‥‥』とでも言うように笑みを浮かべた。
「謝るくらいなら死ぬなっての‥‥。まったく、馬鹿なんだから‥‥。もっと気の利いた言葉はなかったのかしら‥‥」
「‥‥リザルトの死んだわけを話しても?」
「ええ‥‥お願いします」
青年が話したのは表向きの方、テュラン王太子に提案した『英雄』側の説明だった。けれど彼がテュランを救って欲しいと言った事、子供を気にかけていた事はそのまま話す。彼女は一時も視線を上げず、子供に物語を読み聞かせるような仕草で、時折おなかを撫でながら静かに聞いていた。話が終わるとヴァイオラは視線を青年意向け、にっこり笑った。
「優しい、嘘ですね。子供にはそちらを言い聞かせます」
「!! 何故嘘だと?」
「私はあの馬鹿の妻なんですよ。分かります、あの人が‥‥そんな器用な事が出来る男じゃないって事‥‥。そんな事ができるなら、とっくに騎士なんて辞めてます。あの人が死ぬのは国(テュアナ)のためです。私のためでも、子供のためでも、まして人のためじゃない。それ以外は有り得ません」
「リザルトは‥‥私が殺しました」
「!ランカ‥‥」
だから自分を憎んでくれ、と言わんばかりにブランカはヴァイオラを見上げた。けれどヴァイオラの返す視線は優しい。母のような、柔らかさだ。
「リザルトの事、大好きでした。一緒に居たのはたった一月だったけれど、楽しくて、とても優しい人でした。だけど、彼が刃を向けた時、私も刃を抜きました。守りたい国が、彼とは違ったから‥‥。でも彼は、卑怯者となって国を富ませる事よりも、自らの死で国を、国王の目を覚まさせる事を選んだのです」
「‥‥目なんか、覚めないわ‥‥。この国は病んでる。病んで、狂っているのよ。あの人も病んでいたわ‥‥。自分の弟を、狂った国王のためだと殺して、自分で自分が苦しんでいる事にも気付いていない。病んで、狂っているのを自覚しながら、それでも国のためにしか突き進めない‥‥。そんなあの人一人の死で、それが終わるわけがない」
「いいえ、彼の死が私の国を動かしました。そしてテュランも、変わります。これから、必ず彼の望んだ国に、変わっていきます。だから、彼は本当に『英雄』なんです。他の人が知る彼の勇気ある死の理由とは違うけれど‥‥。でも本当に彼は‥‥」
「馬鹿ね‥‥こんな小さな女の子を泣かせて、最低の男だわ」
「!」
ヴァイオラの指が優しく頬を撫で、ブランカは自分の涙に気付く。彼女の前で泣いたら駄目だ、と堪えるがもう一筋涙が頬を伝った。
「貴女、妹か弟はいる?」
「‥‥? いえ‥‥」
「胎動を聞いた事は?」
「いいえ」
「そう、じゃあ触ってみて。この辺りよ」
ヴァイオラが優しく自分のおなかをさする。彼女の意図が分からぬまま、ブランカは反射的に首を振った。それがとても清らかな物で、リザルトと戦った己の手がとても穢れた物に思えて、そんな自分が触れてはいけないような‥‥。けれどヴァイオラの手がそっとブランカの手を取っておなかに添えさせる。内側で胎児が動く、その感触がはっきりと伝わり、ブランカはただ驚きの視線をヴァイオラに向けた。
「此処にいるの、私と、リザルトの子供が」
「‥‥はい‥‥」
「リザルトが死んでも、此処に彼のくれた命があるの。彼の命の半分はこの子とずっと一緒に此処にあるわ。もう一度言って、今度はこの子に、彼は英雄だったと‥‥」
「‥‥はい、リザルトは‥‥貴公のお父様は、本当に本当の英雄でした‥‥。これから貴公が生まれてくる国は、貴公のお父様が貴公のために残した物です。だから、貴公はお父様の事を誇りに思って下さい」
「どうもありがとう。貴女の言葉を生まれて来てもきっとこの子は覚えているでしょう。私も、この子に父親は立派だったと言ってあげられるわ」
ふるふる、と首を振ってブランカは『私はリザルトを‥‥』と呟くがヴァイオラの指がすっとその唇を塞ぐ。涙を堪えながらブランカはまっすぐヴァイオラを見返した。その優しい微笑みは、やはり何処か母に似ていた。
「あいつは馬鹿だけど、自分の死の罪を貴女のように幼い、優しい子に負わせるほどの馬鹿じゃない。あいつは自ら死を選んだのでしょう?」
「でも‥‥ごめんなさい。私は彼を守れなかった。私が強ければ、彼を死なせずに、この国も救う事が出来たのに‥‥」
「いいのよ、貴女は貴女の大事な物を守れたのでしょう? この小さな手で、守れる物なんて少ないんだから、一番大事な物を取りこぼしては駄目」
「申し訳ないが、これで失礼させて頂く。貴女方の事はこの国の者にくれぐれも頼む旨、伝えたがもし、なにか困った事があれば此処に。必ず力になろう」
「ご親切にどうもありがとうございます。気を付けてお帰り下さい」
一枚の封筒を手渡し、妹の肩を抱いて立ち上がって青年は家を出た。止めてあった馬車に乗り込み、小窓を覗くとヴァイオラが家の前で片手を振っていた。ぺこり、と頭を下げると馬車が走り出す。しばらく見送っていたヴァイオラが家の中に入っていくのが、ぼんやりと見えた。
「これで、良かったんでしょうか?お兄様」
「‥‥ああ、お前がいると、彼女が泣けない」
「!」
「お前にとってのジェヴルと同じ、彼女にとってお前は涙を見せてはいけない相手なんだ」
「‥‥私は、迷惑だったでしょうか。お兄様お一人にお任せした方が?」
「いや、間違ってない。お前はリザルトの本当の死を告げた。その死に関わった者として。彼女も真実を聞いた、リザルトの最後の言葉も。大丈夫、彼女は強いよ、母親だから。この世で、子を得た母ほど強い者はいないんだ。だから、彼女は夫の死を乗り越えられる。何も心配する事はない」
小窓から視線を逸らし、正面に戻した顔を俯かせたブランカに『どうした?』とソールは声をかける。泣いているのかと手を伸ばそうとしたが、ブランカは片手で自分のもう片方をの手首を掴み、広げた手の平を見つめていた。
「ヴァイオラさんのおなか、とっても暖かかったんです。その中で赤ちゃんが動いたのがはっきり分かって‥‥。すごいです‥‥あの中に命があるなんて‥‥。リザルトが死んでも、その半分があそこにあって、あの子を生かしてるなんて‥‥」
「ああ、すごいな‥‥。お前も同じように母上のおなかの中に居たんだ。俺が同じように触れて、母上のおなかの中で動いていたお前が今此処に、俺の隣に居る。お前もいつか母となって、母上や彼女のように強くなるんだろうな」
「‥‥なりたいです、強く‥‥。今度は誰も、リザルトのように死なせない‥‥」
「‥‥。おいで、ランカ。ジェヴルと合流する前に泣いておけ」
久々に夢を見た。変わらず部下であって欲しいと願い、良き友人になれたであろう男の夢。彼の死に顔が、彼の妻である女性の強い表情(かお)が脳裡に浮かぶ。それもそのはずだ、彼の死んだその日が、五回目を迎えようとしていた。あれから、彼の国は変わった。彼の死が、間違いなく国を動かしたのだ。自分はただ、馬鹿者の横っ面を叩いて目を覚ます手助けをしただけ。
――だが、リザルト‥‥その変化はお前の望んだ物と『同一』なのか?――
「! おはようございます、陛下」
「ん、ああ」
五年分の年を取った、穏やかな表情(かお)をした鬼神は変わらず彼の傍らにある。彼は主君の身に危険が及べば、同じ顔で躊躇い無く相手を傷つけ、時には命をも奪うだろう。後でその罪の重さに死ぬほど後悔しながらも‥‥。
「珍しいですね、ブランカ(めざまし)無しでお目覚めとは」
「嫌味か?それは‥‥。ほっとけ」
「お手紙です」
「!」
玉座に着いた膝の上に置かれたのは古びた封筒だった。ダウド家の家紋入りの封筒、トグリッサ王家の物を使うわけにはいかなかったのでもう一方の家の物を使ったのだ。それを渡した女性の名が、封筒の隅に書かれている。緊張した面持ちでソールはジェヴルの差し出したペーパーナイフを受け取り、封を切った。
『五年前は、大変なご恩を受けました。その後、私達母子は二人で十分暮らしていける程の補償を受けております。感謝の言葉もありません。この封筒は一生使わず、中に入っていたお家へこれを出す事はないと思っていましたが‥‥。ご無礼は承知で、もしご都合がよろしければで結構です、我が夫、リザルト=クランの墓を見舞って頂けないでしょうか? あのお小さかった妹君もご一緒に。四歳になる息子が、もう一人の、小さな『英雄』とご恩人にお会いしたいと申しております。誠に勝手な申し出、受け流して下さって結構です。では、妹君にもよろしくお伝え下さい。
ヴァイオラ、シザル=クラン
追伸
ご婚約のお話、テュアナにまで届いております。一言お祝いのお言葉申し上げます、ソール=シクル=トグリッサ陛下』
「! ‥‥なんだ、ばれてたのか」
聡い女性だ、とソールは苦笑を漏らす。何が? とジェヴルは首を傾げるが、ソールは笑い続けたままなんでもない、と首を振る。そして手紙を綺麗に戻し、ペーパーナイフと共にジェヴルに差し出した。
「ランカに渡してくれ。それから、テュアナに行く急用が出来た。明日の予定を空けろ」
「また難題を‥‥。せいぜい半日が限度ですが?」
「構わん。‥‥久々に、懐かしい顔に会えるな」
前触れも無くトグルの友人が現れてリルスは『どうしたの!?』と問わずにはいられなかった。彼女が息を上げるほど急いでいるのを見るのも初めてだった。
「‥‥お花‥‥ヴィオラのお花‥‥ラング・リ・ストゥなら咲いてるんじゃないかと‥‥」
「ヴィオラ?‥‥。あー、うん、咲いてた気がする。それが欲しくて来たの?」
「はい! 五年振りに、会いに行く人がいるんです。その人の大事な人が同じ名前なので、持って行きたくて‥‥」
――もうすぐ、会いに行きますよ、リザルト‥‥。貴公の大切な人と同じ名前の花を持って、五年振りに貴公に――