第1部<第1章>
 目を覆うほどの光、自分の目の前で弾け、消えていく光‥‥。そこに居たのは一人ではなかった。幾人かの、人の気配。自分の頭を撫で、誰かの中の一人が言った。

――お行きなさい、私の子供達――

自分の目に浮かんだ涙を拭って、そっとその誰かは自分の背を押した。落ちて行く‥‥。誰か二人が自分の手を両側から掴んだ。落ちていく不安が、その手の温もりだけで解消される。上を見上げると同じように幾人かの人が流れの中を落ちている。そのずっと上の方で、また誰かの声が聞こえた。
――お生きなさい。もう皆が揃う事はないかもしれない。長い旅の中で誰かを失い、誰かと別れる事になるかもしれない。けれどいつか必ず、此処に皆が集う事を祈っています。無事に‥‥の世で生き延び、また再び出逢える事を‥‥――

 「‥‥夢‥‥」
奇妙な夢だった。途中は良く覚えていない。ただ、落ちていく中で自分の手を掴んでいた両の手が片方、離れて行ってしまった。その手を探って水の中のようにもがいているうちに目が覚めた。あの手は、誰だったのだろう。自分の元に残った手は、自分が兄と慕う親友の物だったように思う。ではいま一人、離れてしまったあの手は?‥‥。
「‥‥様、リルアーヌ様。まぁようやくお目覚めですの? 何度もお呼び致しましたのに‥‥」
「ああ、ごめん、寝過ごしてた?」
はい、と年上の侍女は少し頬を膨らませた。ごめん‥‥、と彼が心底すまなそうに謝るとその顔がほころぶ。年の離れた弟を見ているような優しい眼差しだ。
「いいえ。お珍しいですわね、リルアーヌ様が寝過ごされるなど‥‥。今日が何の日か、お忘れになったわけではないでしょう?」
「うん‥‥、ほんとにごめん。まだ間に合うよね?」
「ええ。でも、サルス様の方がお目覚めがお早いなんて、雨でも降るのではないかしら‥‥?」
「‥‥フィリーンの方が?‥‥」
ええ、と微笑む侍女から着替えを受け取った彼の顔は侍女のように雨を心配する顔ではない。もっと別の事を心配‥‥いや、むしろ「やられた!」と言わんばかりの顔だ。急いで上着に袖を通し、ボタンを半分かけかけただけの彼は部屋を飛び出した。
「リルアーヌ様!? そのようにお急ぎにならなくても‥‥」
「緊急事態だよ! すぐ連れ戻す!」
「連れ戻す‥‥? ああ!サルス様! また脱走を!?」


――絶対よ? 約束だからね! 絶対に‥‥に貰ってね!――

こんな日は無性にあの日を思い出す‥‥。そして、もう触れることすら許されぬあの柔肌が愛しい‥‥。
 ラング・リ・ストゥ王国。大陸の最南端にあるその国は建国十数年の小国ながら豊かな国だ。それは、この国でしか取れない金色の茶葉、ミアーシがもたらす富である。しかしながらそれだけに留まらず、少なからず他国に波を及ぼす権力も、ラング王は手にしていた。それが彼の血塗られた剣、闘神と呼ばれ恐れられた前ラング・リ・ストゥ王国、ストゥ・マイニアヌ王国のカイザー=アスティ=ストゥ・マイニアヌ王から略奪した物。闘神を討ち取った王を恐れはすれど、軽蔑する者は居なかった。他国とてそのように王の首を挿げ替えてきたのだから。ただ、北のトグリッサ王家と並んで歴史を刻み続けていた旧家が、また一つ歴史の重みに潰されただけの事。

――カイラ=リルアーヌ=ラング・リ・ストゥ――

彼はそんなラング王と王妃の間に生まれた第一子だ。柔らかな金髪にさほど色素の濃くないスカイブルーの瞳。優しげな容貌は母親譲りだ。これも母親譲りか身長が伸び悩んでいるのが目下、彼のコンプレックスなのだがまだ十六歳である。けれどそれをコンプレックスに思うのは、とある人物の顔を見上げるのにいささか首が疲れてきたからかもしれない。幼い頃はその人物が背を屈めてくれればちょうどいい年齢差だったのだが、相手に追いつくのみになった今はそうではない。相手はほんのちょっと視線を下げるだけで良いのだから。
「見つけた!フィリーン! 待てってば!」
さらに待てと何度か繰り返すとようやく長い黒髪の青年は彼を振り返った。何だ、追いかけて来てたのか、と呟く表情は今まで本当に彼の存在に気付いていなかったらしい。切れ長の黒瞳をした二十二歳になる青年、これがカイラの目標であり、兄である親友、故ストゥ・マイニアヌ王家の第一王子、フィリーン=サルス=ストゥ・マイニアヌだ。駆け寄って息を整えるカイラの頭を上からぽんぽんと叩いて何だ? と軽くフィリーンは追われていた理由を尋ねる。
「また何処かに逃げる気だったんだろ! 昨日言ってあったじゃないか! 今日はネクタリアという国から女王と王女がお見えになるって! フィリーンにも出るように何回繰り返したか‥‥」
「あー、言われたような気がしてきた」
「覚えてないのに私より先に起きだすような君じゃないだろ‥‥。ほら、戻って正装に着替えて‥‥」
「悪いがパス。新参者の女王陛下と素人娘のお姫さんになど興味は無いね。今日はどうしてもとお呼びがかかってるんだ。最近目をかけてる女の誕生日でな」
「またそういう所に‥‥。ちらっと顔出すだけでいいから‥‥フィリーン」
「何もお前が困るわけじゃないだろ?カイラ。俺はそこまでラング王に義理立てする気はないね」
時々見せる刺すような視線は、カイラを通り越して別の人物に向けられている。許したわけではないぞ、とその人物を脅すように。その視線に、カイラの胸は痛みを訴えるが気付いてか気付かずか、フィリーンの方はさっとその視線をカイラからはずした。
「母上は、王女とフィリーンを会わせたいみたいだよ。二十二だから、そろそろ身を固めておかないと心配だって」
「‥‥。その大役はカイラ、お前に譲った。さっさと結婚して孫の顔を見せて差し上げろ!」
「あのね! 私は十六! 成人の儀は一年後だしフィリーンより六つも年下なんだからな! 母上、ほんとに心配なさってるんだよ? 父上と自分のせいでフィリーンが好きな女性と結婚できないんじゃないかとか‥‥」
「結婚したいと思う巡り合わせが無いだけさ。ご心配はありがたいがその辺はガキじゃない。自分で何とかやってく。っというわけでそろそろ解放してくれないか?カイラ」
「フィリーン!! 夕方のパーティまでには帰ってきてよね! それから私はフィリーンが結婚するまで結婚なんてしないからな!」
「義理立てするな!カイラ! 仕方がないから夕方までには戻る! 美姫だったら後で紹介してくれ!」
あっさりと掴んでいた手を振り払ってフィリーンはさっさと走り去る。けれど、フィリーンの行く先が、彼の言うものとは違う事をカイラは聞いていた。贔屓にしていた遊女がフィリーンの子を宿しながら堕胎した事、そしてそれ以来フィリーンが足を運ばなくなった事も‥‥。フィリーンは恐れているのではないかと、思う。自分の、ストゥ・マイニアヌの血を後世に残す事‥‥。
――思いっきり!気にしてるんじゃないか!!――
「リルアーヌ様! どちらに?」
「まずい‥‥。そうだボタン閉めなきゃ‥‥。今行くよ!」
侍女の呼ぶ声にカイラは庭を逆戻りして回廊に入った。そしてそのまま客間へと向かおうとするがきゃあ! と女性の悲鳴が聞こえて部屋から飛び出してきた少女とカイラが衝突する。
「!」
「何!? 何!?」
「アヌマーン王女! 大丈夫ですわ、これはとっても大人しい動物で‥‥。あ、リルアーヌ様」
呆然と見守っていると部屋から顔を出した侍女が手に何かを抱えている。それは毛足としっぽの長い小動物で、侍女の手を飛び出すとカイラの肩に駆け上がって鳴き声を上げた。カイラに飛びついていた少女はそれに驚いてさらに悲鳴をあげると今度は後ろに逃げる。
「こら、クラム、驚かせたらダメだろ?」
「クゥ−?」
「申し訳ない、私が飼っている動物でクラムといいますが、少々悪戯好きで‥‥。驚かせてごめんなさい、アヌマーン王女」
「!あ‥‥リルス=アヌマーンと申します。お初にお目にかかりますわ、リルアーヌ王子」
「カイラ=リルアーヌ=ラング・リ・ストゥです。こちらこそ初めまして、アヌマーン王女。カイラで結構ですよ」
「あ、では私の事もリルスと」
可愛らしくスカートを広げて少女はお辞儀してみせた。カイラよりも色の濃いたんぽぽ色の瞳にサファイアの瞳。愛らしい少女だが、年は自分と大差なさそうだ。
――フィリーンのお相手には少し幼いかなぁ‥‥。確かに美姫とは言えるけど‥‥――
「私の父母とネクタリア女王は中ですか?」
「いえ、お三方はすでに城内をご覧になられてますわ」
「私はリ‥‥カイラ王子とミアーシのお茶を頂こうと思って待っておりましたの。そしたらそれが‥‥」
「クォン!」
「こらクラム! 反省が足りないぞ? それは申し訳ありませんでした。お茶、入れてくれる?」
「かしこまりました。‥‥そのご様子ですと、サルス様はやはり?」
客間に入り、お茶の用意を始める侍女の言葉が胸に刺さる‥‥。脱走では言葉が悪いし、かといってフィリーンの言う通りの場所はとても女性二人には言えまい‥‥。かと言って‥‥あまり派手な嘘も気が引ける。
「フィリーンはその‥‥そう、友人の誕生日でちょっと出かけるって。大事な友人でどうしてもはずせなくて‥‥。夕方のパーティに間に合うように帰って来るように言っておいたから」
「そう、それは残念ですわ‥‥」
――リルス王女‥‥? フィリーンを知ってるのか?‥‥――
「さぁ、どうぞお召し上がりください」
「あ‥‥ありがとう‥‥」
「ありがとうございます♪。お砂糖などは入れずに頂きますの?」
「ええ。あ、大丈夫です、渋みはありませんし、ほんのり甘いんですよ」
そう言ってカイラは先にカップに口をつけた。そしてほんのりと甘いお茶とミアーシの香を楽しむ。そして二口目を口に運ぼうとして眩暈に襲われ、カイラはカップと供に意識をも手放した。


 城内は一刻も経つといつもの賑やかな口を閉ざし、沈黙に身を落としていた。優雅に城内の回廊を歩いていた少女は目の前からやってくる年上の男女にふっと不敵な笑みを浮かべて立ち止まった。
「城内は滞りなく鎮圧しました、リルス様」
「ご苦労ね、ジーマ、ファディ。フィリーンは?」
「城内にはいらっしゃいませんでした。けれど夕刻までにはお戻りになられるのでしょう? 心配ありませんわ、リルス様」
「‥‥そうね。クィーンネクタリアは何処?」
「カイラ達と供に王座の間へ」
「‥‥長かったわ」
呟いて少女はまっすぐに歩き出す。そうですね、と同意して男女二人は少女の後について歩き出した。さながら女王陛下とその忠臣と言ったところか‥‥。少女は忠臣二人を従えて王座の間に帰りついた。その王座に鎮座す女性に笑み、転がり込むように王妃の座に収まった。
「クィーンネクタリア! やっと帰ってきたわ、此処に」
「リルス、フィリーンは?」
「外に出てるって。でもすぐに戻ってくるわ。祝杯をあげましょう! 十六年振りに、この王座に正当なる王が鎮座すのですもの! 明日はフィリーンから王座を奪った王と、私からフィリーンを奪ったカイラの処刑‥‥。夢のような日だわ」
「リルス、そのようにはしゃいで‥‥。まったく、可愛い我が子‥‥。ジーマ、ファディ、すぐに祝杯の用意を。王を迎える準備をなさい」
「はっ」
「かしこまりました」
人形のように椅子に座り、空を見つめるカイラを一瞥すると女性は男性について歩き出した。カイラの体は微動だにしない。けれど、あのお茶、毒入りのそれを飲んだ量が少なかったカイラの心は完全な闇には閉ざされていない。頭の中では耳の奥に残った少女の言葉が繰り返される。
――私が、フィリーンを奪った‥‥? 彼女は一体、誰?‥‥――
「リルス=アヌマーン=ストゥ・マイニアヌ、そしてフィリーン=サルス=ストゥ・マイニアヌ、これほど正当な王位継承者は他には居ないわ。そうでしょう? クィーンネクタリア」
「その通りですとも、リルス。処刑の後はすぐに婚礼の儀を執り行いましょう。部屋に帰って準備なさい、リルス」
「ええ! 私ずっと夢に見ていたのよ、この日が来るのを‥‥」
「分かっていますとも、リルス」
「! クィーンネクタリア、それ、王座にふさわしくないわ。顔も見たくない‥‥忌々しい!」
そう言って少女はカイラに憤りと憎しみの視線を向け、足早に去って行った。残されたカイラは、頭の中で繰り返される少女の言葉に出口もなく戸惑う‥‥。

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