夏の長い日も段々と傾いてきた。鞍馬家はこの時間になると他では考えられないくらいの涼しさを感じさせるようになる。馨は高佳と相談して、高瀬 恵子を探すことに決めた。犬神を連れているのなら、せめて彼女に犬神について問いただすくらいのことはしなくてはならないだろう。結局、事件の真相がどうであれ、彼女を法で罰することはできないのだ。売春の件ならば警察に訴えることも可能だが、殺人の件では不可能だ。
とにかく、このままでは終われない。恵子は母親の史江が死んだことも知らないのかもしれない。中谷達を呪い殺したことだって恵子自身には何の悪意もなく、力をつけた犬神が勝手にやったことだという仮説も立てられる。
まだ何も、分かっていない。
馨は離れて休んでいた瑞樹を呼びに行く。瑞樹と神無はそろって縁側に座っていた。
「瑞樹、もう大丈夫か?」
呼びかけると、瑞樹は顔を上げて馨に答えた。
「はい」
顔色は悪くない。そして神無が大丈夫だという風に頷いたのを見て、二人に切り出した。
「高瀬 史江の娘を探しに行くぞ。渋谷だ」
馨の決定に、二人は黙って頷いた。
渋谷では人通りの多い場所を行くので車では動けない。馨達は繁華街の手前で車から降りて、ほぼ一日付き合ってくれた運転手を解放した。運転手は馨達が下りた場所を見てぎょっとしたようだが、これから何処へ行くのかと問うこともできずにそそくさとその場を後にした。
「神無、お前、俺の側から離れるなよ」
髪や瞳で目立つことに加え、こんな場所に来るような年齢ではない神無に、馨はそう注意を促した。すると神無は不満そうに頬を膨らませた。
「嫌だよ、気色悪い……って言いたいけど、今回は我慢する」
まだ夜の営業時間には早いが、既に繁華街ではネオンの光があちこちでギラギラとした趣味の悪い光を放っていた。ちらほらと客引きの女性や男性が道路に出てきているし、路地に隠れている不審な人間の影も見えた。そしてここでは見える者にしか見えない、欺瞞と業の煙が漂っていた。
「……近いですね。あの部屋と同じ匂いがする……。犬神です」
高佳がさりげなく瑞樹の腕を掴んで自分の方へ引き寄せた。彼の周囲には人の念も綺麗に消えている。馨達もどうやらその恩恵にあずかっているようだ。
「高佳の方が犬みたい」
神無が高佳の言葉にそう言ってくすりと笑った。高佳の表情も神無に向けて少し緩む。しかし高佳はすぐに表情を引き締めて、馨の顔を見てこう言った。
「炎と雹に探させましょう」
そうだな、と馨は答えた。高佳が小さく名前を呼ぶと、その肩口からまた二匹の管狐が現れた。二匹は何か打ち合わせるように似通った顔を向かい合わせると、軽く尻尾を振って飛び上がった。それが他の人間にも見えていれば大騒ぎなのだろうが、管狐が見える人間どころか、馨達に目を向ける人間さえいなかった。繁華街で金を使うにしては奇妙な取り合わせで歩いているせいだろう。
二匹の獣が駆けていった方向へ馨達は団子になって進む。車の中で隠岐から送られてきた高瀬 恵子の写真を見ていたので、全員の目が彼女の顔を捜していた。しかしそれらしき女の姿はない。時折女子高生とすれ違ったりしたが、それは違う学校の生徒だった。
「……ん? 何だ、あっちの方が騒がしいな……」
しばらく繁華街を進んだところで、馨は前方が騒がしくなったことに気づいた。男の奇声が聞こえ、人々がわらわらと駆け出している。馨達はその騒ぎの中心へ向かって駆け寄った。今度は女の悲鳴が聞こえる。馨が足を早めると、騒ぎの中心から後ろ向きに飛び出してきた男にぶつかった。
「おい、どうした!」
ぶつかってきた男の肩を掴んで押しのけると、馨はそう尋ねた。金色の髪をした男は、ホストでもしているのだろうか。派手な色のシャツにダークグレイのスーツを着ていた。
「わかんねぇよ。ラブホから出てきたと思ったらいきなり切りつけてきやがった!」
男は高い声を上げてそう言うと、馨に切りつけられたという左腕を見せた。確かに服は切れていたが、腕からの出血は少ない。馨はまだ何かわめきたそうにしている男を押しのけて、人々が取り囲んでいる輪の中心を見た。
そこでは一人の中年男が護身用と思われるナイフを持ってわけの分からない言葉を発していた。サラリーマンらしき男は口から泡を吹きながら、ナイフを突き出して周囲を威嚇していた。その姿はもう人というよりも追い詰められた獣のようだ。
「犬神憑きだ」
馨の後ろから高佳がそう言った。
「とりあえず止める!」
馨が止める間もなく、脇にいた神無が輪の中心に向かって飛び出した。突然子供が乱入してきて、女性陣が悲鳴を上げた。
「馬鹿、神無! ……お前、このベルト貸せ!」
馨は駆け出した神無を気にしながら、隣の野次馬がだらしなくはめていたベルトを無理矢理もぎ取った。そして犬神憑きの男へ向かって走っている神無の後ろを追いかけた。
「そこ、邪魔だからどいてろ!」
果敢にも男を止めようとしていた繁華街の住人にそう叫んで、神無が地面を蹴った。神無の振り上げられた片足が、男の頭部にヒットする。蹴りは入ったまま回されて、犬神憑きの男はナイフで反撃する間もなく地面に倒れた。脳が揺れたであろう一発を受けて男は倒れたが、すぐに血走った目で着地した神無の足に噛み付こうとした。
「おっと! これでも咥えてろよ、おっさん!」
馨は神無と男の間に割り込んで、野次馬からもぎ取ったベルトを張ると、噛み付こうと歯をむき出した男の口に咥えさせた。そのまま男の体を倒して馬乗りになって押さえる。
「先輩! ホテルの4階です!」
「よし。おい、そこのお前! こいつ抑えてろ! それから警察と救急車! 行くぞ、神無」
馨は周囲の野次馬に指示を出して、暴れている犬神憑きを押さえさせると立ち上がって神無の背を押した。
「おう!」
呆然とする野次馬達を置き去りにして、馨達は男が出てきたというホテルに入った。
「た、助けて……」
入ってすぐの受付では、ホテルの受付をしていた男が肩から血を流してカウンターに突っ伏していた。こちらは外で切りつけられたと騒いでいた男より深い刺し傷だ。だが馨はこの程度で、肩の傷なら心配ないだろうと判断した。
「すぐに救急車が来るから我慢してろ! 死にやしねぇから大丈夫だ!」
そう言い残して、馨達は4階へと上がった。置いてかれた受付は、悲痛な叫びを上げたが戻ってきてくれる人間はいなかった。
「神無、間違っても隠岐や小夜子にラブホに入ったなんて言うなよ」
エレベータに乗り込みながら、馨は傍らの神無に呟いた。すると神無は神妙に頷いてこう返してきた。
「そうだね。間違っても言わないよ。馨と入ったなんて言ったら二人とも即倒する」
その通りだろうが、何となく嫌な言い方だな、と馨は顔をしかめた。そこでエレベータの扉が開く。少なくとも廊下を歩いている客はいないようだ。もし先に逃げていなければ、高瀬 恵子はこのホテルにいるだろう。
「……ここか?」
ホテルの4階としか聞いていなかったが、405号室の前で馨は立ち止まった。不快な空気がこの部屋の奥から流れてきているからだ。それでも確認のために後ろに立つ高佳に訊くと、高佳は無言で頷いた。馨はそれに頷き返して、ドアノブに手を伸ばした。しかし、ドアノブを捻る前にぎょっとして手を止めた。自分の手から、あの花が生えていたのだ。いや、よく見れば違う。花が生えているのはドアノブからだ。
「……瑞樹……」
高佳の声に合わせて、馨も神無も瑞樹を振り返る。すると、瑞樹は廊下の壁にもたれかかって、自分の体を抱きしめていた。まるで、勝手に流れ出す力を抑えるような仕草。花は瑞樹の体から生えることはなかったが、瑞樹の周囲にはやはりあの芳香が漂っていた。
「悪いけど……自分じゃ抑えられない。ここは念が強すぎるよ。俺は、これ以上進めない」
瑞樹はそう言って唇を噛んだ。一応無闇に力を使えば自分の身が持たないことを自覚しているのだろう。しかし使わないように努めることも一苦労らしい。
「……じゃあ、お前は絶対ここから動くなよ。無茶してぶっ倒れたら、病院に送り込んでやるからな」
なるべく早く終わらせてくるという馨の意思を汲み取ってか、瑞樹は苦しそうな顔の下で微笑んだ。
「それは……困ります。大人しくしてるよ」
最後の言葉は高佳に向かって発せられたものだった。高佳がその言葉を信用したのかどうかは分からない。ただ瑞樹の言葉はつまり、自分を置いて馨や神無を守ってくれという言葉だった。だから、高佳はまるで隠岐のように眉間に皺を寄せたまま、こくりと頷いたのだ。
「よし、入るぞ」
馨が先頭に立って、405号室のドアノブを捻った。先に男が出て行ったせいだろう、鍵はかかっていなかった。ドアノブは軽く回り、馨はドアを内側に押して中に入った。神無がぴったりと馨の背後に張り付いて、馨に続いて中に入る。途端に馨も神無も口と鼻を手で押さえることになった。
「うっ! 凄い臭い」
できれば窓を全開にしたいところだったが、ラブホテルの窓などそんなに大きく開けられるものではない。それに廊下にいる瑞樹に負担もかけられない。それを一番良く理解していたのは高佳だったのだろう。彼は最後に部屋に入ると、後ろ手にドアを閉めてしまった。
「視界がぼやける……。あの神社よりよっぽど酷いぜ」
酷いのは高瀬 史江の部屋で嗅いだ腐臭に似た臭いだけではなかった。まるでその嫌な臭いを絵にして表したような黒いもやが、馨の視界を阻む。高佳や神無が側にいても、1メートル先はほとんど見えないくらいだ。それでなくともホテルは薄暗い照明なのだ。これではどこに何があるかさえも分からない。
そう思った馨だが、とりあえず部屋の奥へと進んでいく。するとバスルームを過ぎたところで部屋の奥から声がかかった。
「……誰? 次の客なんてとってないよ」
若い女の声だ。かろうじて部屋のほぼ中央に置かれたベッドが人の形に盛り上がっている様子だけが見える。布ずれの音がして、女がシーツを引き上げたことが分かった。どうやら向こうには馨達の姿がはっきりと見えているらしい。
「へぇ? もうベテランだな。下の騒ぎが聞こえてなかったのか? お前と寝た男が発狂して、下で人を切りつけたぞ」
馨は皮肉な調子で女に言った。同じ高校生とあらば、遠慮もいらない。そんな馨の調子と、脇に立つ神無の姿に女は苛立った声で
えた。
「誰だって聞いてるでしょ。あんた……、ガキ連れてヤるつもり? 出てって」
状況が全く分かっていないらしい、と馨は舌打ちした。神無もそう感じたようで、苛立ちの混じった声で短く言った。
「あんたほどガキじゃないよ」
生意気な神無の言いように、女は益々苛立ちを募らせた。そしてその物分りの悪さに、馨も苛立つ。
「何? その言い方……」
「お前、この部屋がどんな風になってるか見えてねぇのか? 高瀬 恵子」
名前を呼ばれると、女は言葉を詰まらせた。顔は良く見えないが、知らない奴に名前を呼ばれて驚いたのだろう。
「警察……のわけないよね。呪いで人が死ぬなんて、警察が考えるわけない……」
語るに落ちたとはこのことだろう。間違いなく高瀬 恵子だ。そして彼女は犬神を使った一連の事件に関係している。
「犬神を使って新藤と中谷、角田を殺したのはお前か?」
犬神の言葉を馨が使うと、不思議なことに目の前のもやが晴れて高瀬 恵子の顔が見えた。まるでわざと恵子の顔を見せたような、犬神の存在を隠すような現象だった。
「犬神を知ってんの? ……あんた達、ママが言ってた霊能者って奴? 馬鹿みたい。ちょっとからかっただけなのに追ってくるなんて思ってなかった」
もやの中から現れた高瀬 恵子は茶色の髪に銀色のピアスをつけた女子高生だった。顔には化粧が汗で崩れた跡が残り、表情は幼いのに雰囲気は年をとって見えた。彼女はベッドに横たわり、上半身を起こしていたがシーツの下は裸らしい。一応シーツを引き上げて裸の体を隠していた。
「お前のお袋さんは死んだぞ」
馨が告げると、恵子は長い前髪をかきあげて、面白くなさそうに答えた。
「知ってるよ。新藤を呪い殺した後に、犬の霊にやられたの。復讐なんて馬鹿らしいと思ったけど、いい加減大学時代にレイプされた話を繰り返し聞かされて、お前も奴らに復讐するのなんて教え込まれるのにもうんざりしたから、丁度良かった」
恵子の言葉に馨のこめかみが引きつる。この世の中、仲のいい友達のような親子ばかりではないということは、自分も含めてよく理解できることなのだが、それでも親が死んでそれを、
「丁度、良かったって?」
そんな風に言う神経は、馨には理解できない。そんな馨の反応が、逆に恵子には理解できないらしい。彼女は馨を嘲笑うかのように口を歪めてこう言い放った。
「何? 変なこと言ってないよ、あたし。ママは馬鹿みたい。いつまでも男に犯されたこと根にもってさ。ヤらせてやればいいのに。こっちも気持ちイイんだし、犬神も満足するのに。どう? あんたもヤる? 犬神に選ばれればもうけもんよ」
選ばれた、とそう思えるなら幸せだと馨は内心で冷ややかに笑った。それに、犬神が満足している理由は、セックスによる快楽ではないはずだ。けれど話を聞きだすためにも、馨はまだそれを指摘しなかった。
「馬鹿な復讐だと思うなら、何故中谷と角田も殺した?」
馨が問うと、恵子は嘲笑を一転させてどこか不服そうに顔を膨らませた。そうしてころころを表情を変えるのは、その年頃の女の子としてむしろ好感を持つ。こんな場所で、一方が裸でなければもっと楽しく会話できただろう。
恵子は自分の髪を指に絡め、意味もなく弄びながら馨の問いに答えた。愛らしさを感じさせる仕草とは正反対で、その理由とやらは身勝手そのものだった。
「流石にママが死んじゃったら、あたしの生きてくお金払う人がいなくなるじゃん? 新藤って人は血液型が違うから父親じゃないって分かってたけど、中谷と角田って同じB型でしょ。あたし、自分とママのこと話してどっちかに認知してもらおうと思ったのよ。生活費くらいは搾り取れるかなって。でもどっちもあたしのことなんて知らないって言うのよ。あんまり否定するから頭にきて、ママの犬の霊を使って中谷を呪ったの」
「じゃ、どうしてあんたは母親みたいに殺されなかったのさ」
そう尋ねたのは神無だ。この時点で神無は、恵子を脳みその足りない女だと判断していたのだろう。言葉は刺々しく、態度も冷たい。それに気づかない恵子は、やはり脳みそが足りていないのだろう。
「犬神が追い払ってくれたに決まってるじゃん。強いんだから、犬神は」
それは犬神を褒めているようで、実はその犬神を操っている自分を誇ったあまりに傲慢な言葉だった。馨はこの漂う腐臭に加えての胸糞の悪さに、自分の表情が険しくなっていくのを感じていた。
「……角田は?」
「あの犬の霊はもう使えないって言うから、犬神にやらせたのよ」
それは本当に犬神が言った言葉なのだろうか。恵子は確かにその言葉を聞いたのか。疑問に思った馨が口を開くより早く、高佳の低い声が後ろから聞こえた。
「……誰がそう言った?」
今まで黙っていた高佳の低い声に、恵子は嫣然とした笑みを浮かべながら答えた。馨よりも高佳の方が彼女にとっては良い獲物だということだろう。それは確かに性的な魅力を感じさせる笑みだったが、彼女が思っているほど男はそれに抗えないわけではない。
「犬神よ」
「犬神が? ……高瀬 恵子、何故男と交わっている?」
高佳の硬い口調。そして高佳 恵子と呼ぶその部分だけが、妙に馨の耳に残った。奇妙に惹かれる声の波紋。しかしそれを感じているのは馨だけのようだ。呼ばれた当人は何も感じていないらしい。ただ高佳の言葉にだけ反応して、ヒステリックな哂いを漏らした。
「交わってる? 変な言い方! どうしてセックスしてるのかってこと? あたしが気持ちイイし、犬神がセックスすれば強くなるって言うからよ」
「……高瀬……」
もう一度、高佳はあの不思議な力の篭った声で高瀬 恵子を呼ぼうとした。しかしそれはできなかった。恵子の膝の上に、赤と黒のまだら模様をした鼠のような獣が座っていたのだ。強烈な臭いの元も、空気に混じる黒いもやも、その獣周りから広がっている。
『それくらいにしてもらおうかねぇ、ヒト鬼。言霊を使われるのは落ち着かないよ』
口を開くと、そこからさらに黒い、嫌なもやが漏れ出す。馨は思わず口元を手で覆った。気分が悪い。目が見ているものを、脳が拒否しているような気分だ。
「犬神……」
高佳が低い声で唸った。いつの間にか、高佳の目はあの神社でそうであったように、赤く染まっている。人の体に、鬼の目。それを見た犬神が、にんまりと笑う。
『奇妙なヒト鬼もいたもんだ。その体、人間のものじゃあないか。乗っ取ったのかい』
「違う」
苛立たしげに高佳は犬神の言葉を否定した。すると高佳よりももっと苛立ちの強い声が、部屋の中に響き渡った。
「ちょっと、何を話してんのよ! 犬神! もう、こいつらも殺して! うざったい! どうせ呪いで殺したって警察には捕まらないんだから、何人殺しても一緒よ!」
恵子には本当に犬神の声が聞こえていないらしい。自分だけを抜かした馨達の会話に耐えられない様子で、血走った目を馨達に向けて叫んだ。馨もそれに負けないくらいの声を張り上げる。
「お前、犬神を使ってる気なんだろうけどな。勘違いもいいところだぜ。お前が犬神に使われてんだよ!」
馨がそう言っても、恵子には届いていなかった。彼女は完全に恐慌に陥ってしまったらしく、何を言っているか聞き取れないような言葉を、耳を突くような甲高い声で叫び続けた。
『言っても無駄だよ。その女はワタシが見える程度の力は持っているが、それだけだ。母親のほうは見る力さえなかった。それでも我慢して憑いていたかいがあったよ。知恵のない者を操ることほど簡単なものはない』
知恵のない者と言い表された人間の馨としては、犬神の言葉に憤然とするしかない。別に恵子を擁護するつもりはないが、彼女とひとまとめにして罵られると気分が悪い。
「お前の目的は何だ、犬神」
『馬鹿なことを聞く、ヒト鬼よ。お前は見てきただろう? 我らの世界が蝕まれ、縮小していく様を。だがそれも大きな流れのひとつ。縮小した世界はやがて拡張する。人によって統制された世界は、我ら妖(あやかし)の統制する世界へ移行するのだ。元に、こうして人は統制力を失っている。かつては強力な霊力でもって我らを抑え込んだ犬神筋が、今では犬神の力で狂ったただの狂人だ』
この会話は完全にヒト鬼と呼ばれる高佳と、犬神だけの話だ、と馨は思った。何故か、こちらに背を向けている高佳の姿が遠い。
「過去に妖(あかやし)が陽になったことはない。俺達は永遠に陰の存在だ」
俺達はときっぱり自分を含めた高佳の答えに、犬神は怯むこともなく、喉をひくつかせたような奇妙な笑い声を上げた。
『ヒト鬼、人であったときに未練を持つ存在の言いそうなことだ。お前は陰でも陽でもない存在。我らにとっても人にとっても異能の者だ。……我らにとっても人にとっても脅威。そんな存在は早めに狩っておくに限る』
犬神の赤い目が光った。すると、馨達の目の前で、手の平に乗る程度だった犬神の姿が膨張する。腐臭が酷くなり、頭が余計に重くなった。
「狩られるのはお前の方だ……!」
とうとう中型犬ほどに大きくなった犬神に低くそう言うと、高佳は恵子の膝に蹲っている犬神に向けて手を振りかざした。高佳の手が犬神に振り下ろされると、閃光が部屋を一瞬だけ明るくした。
「きゃあ!」
眩しさに恵子が悲鳴を上げる。犬神は、と馨はベッドの上を見たが、その姿は見えない。代わりに高佳の姿を探すと、彼はベッドとは反対の部屋の隅に置かれているテレビの方を向いて立っていた。目の前には上手く逃げ出したのだろう犬神がおぞましい姿を晒していた。その体から出る黒いもやは、地面を伝って恵子に細くつながっている。
「馨! 札をあの女に貼るんだ! 犬神を落とさなきゃ」
神無の叫びを聞いて、馨は走った。胸ポケットから四季の札を取り出して、ベッドにいる高瀬 恵子に突っ込む。そしてベッドに乗り上げて、札を恵子の体に貼ろうとした。しかし恵子は狂ったように腕を振り回し、馨の手を遠ざけようとする。馨は何とか恵子の片腕を掴まえて、裸の体を押さえ込もうとした。
「離せぇ!」
しかし恵子は髪を振り乱し、歯をむき出しにして反対に馨をベッドに押し付けたのである。
「げっ! 女の力じゃないぜ! ……くそっ」
札を破こうとする恵子から、馨は必死に逃れようとした。しかし恵子の力は確かに女のものではなく、馨は身動きが取れない。こんな状況でなければ裸の女が自分の上に乗っているという事実に喜びを覚えるかもしれないが、柔らかなはずの女の体は、今は奇妙に硬く冷たい。そして異様な圧迫感に、首を絞められたわけでもないのに息が苦しかった。
「馨の役立たず!」
そう叫んだのは神無だ。彼女はベッドで恵子ともつれ合っていた馨に苛立って、ベッドの側面から馨に馬乗りになる恵子の腹部を蹴りつけたのである。気迫のこもった声とともに、神無の足が恵子のわき腹をとらえる。恵子は馨をベッドの上に残して横に蹴り飛ばされた。
獣のような呻き声を上げて、恵子は床に転がった。馨は大きく息を吸って、酸素を得ると、ベッドの上から起き上がった。
「お前も女の力じゃねぇぜ……」
神無にニヤリと笑って見せると、神無はふんと鼻を鳴らした。恵子はベッド脇の床に転がって、まだ低い唸り声を上げている。その瞳がベッドの上にいる馨を睨むように見上げた。まだ襲い掛かってくるような雰囲気を見せた恵子に、馨は大きく舌打ちをする。
「いい加減……大人しくしやがれ!」
ベッドを降りて、恵子の振り上げる腕を掴むと、馨は札を恵子の背中に貼り付けた。すると札は急激に熱を持って、馨は思わず恵子の背から手を離した。
潰れた蛙のような声を上げて、恵子は身悶えた。恵子の背で、貼り付けた札が燃える。ひとしきり悲鳴を上げると、恵子は前のめりにぱたりと倒れてしまった。その背には、火傷の跡などは見当たらず、ただ札の燃えた後の灰だけが残った。
これで良いのか、と馨が振り返ると、神無はこくりと頷いた。ほっとして馨が立ち上がると、部屋の隅に追いやられていた犬神が笑いを含んだ口調でこう言った。
『……今更、その女がいなくなったところでどうということもない……』
その言葉に冷たく答えたのは、鬼の気を纏った高佳だ。
「強がりにしか聞こえないな」
『すでに4人の人間の力を取り込んでいる。長く生きただけのヒト鬼に負けるわけが……』
犬神はそう言いかけて言葉を切った。一体何が起こったのか、と馨が疑問に思うと、神無が小さく馨の名を呼んで床を指差した。馨はその指先をたどって視線を動かした。床には犬神から溢れてくるもやが溜まっていたが、そこから花が咲いていた。青い、あの神社で見たのと同じ花だ。まだ数は多くないが、瑞樹が力を抑えきれずにいるのだろう。その花が咲いて枯れると、もやから臭う腐臭が一瞬だけ浄化される。
『力が……流される……?』
犬神も自分の力が浄化されていることに気づいたのだろう。今までの皮肉な調子はなりをひそめ、変わりに現れたのは困惑と焦りの色だ。
一度膨張した犬神の姿がちらつく。膨張した体が透けて、元の手の平に乗るほどの大きさの犬神の姿が見え始めた。それに合わせるようにして、床に咲く花の数が増えていく。それを認めた高佳は、危機を感じてじりじりと後すさる犬神に向けて呟いた。
「犬神、確かに俺はお前達にとっても、人にとっても敵のようだ」
そう言った高佳は馨達には背を向けていたのでその表情が見えない。ただその声は今までになく冷たく、硬いものだった。
「お前も、お前に取り込まれた4人も瑞樹の慈悲にすがる価値はない。この場で消え失せろ」
無慈悲にそう言った高佳の腕が一度振り上げられ、犬神に向かって一直線に振り下ろされた。その瞬間、目を突き刺すような閃光が走って、馨は思わず目を瞑っていた。
次に馨が目を開けたときには、部屋を覆っていたもやや、鼻の曲がるような腐臭はすっかり消えていた。壁際に追い詰められていた犬神の姿もない。高佳はもう普通の瞳に戻っていて、馨は呆然としながらも立ち上がった。その時ホテル下の道路で、救急車のサイレンと野次馬を規制する警察の声が聞こえてきた。
「救急車と警察だ。逃げた方がよさそうだな」
その言葉に高佳がこくりと頷く。犬神をどうしたのか、と馨は高佳に聞きかけたが、何となく口を噤んだ。
「この女は助かるの?」
神無が床に倒れこんだ恵子を見て言ったが、馨はそれに偽りなく答えた。
「犬神が落ちても結果は同じ、狂人だろうよ。腕を見てみろ。薬をやってる」
倒れる裸の女の腕には注射針の痕がある。神無はそれを認めると、ふんと鼻を鳴らした。
「自業自得……か」
「人を呪わば穴二つってことだろ。これで終わりだ。これ以上は俺達が関わるようなことじゃねぇ」
そう言い切った馨に、同じように覚めた口調で神無が言った。
「関わりたくもないよ。高佳、行こう」
神無の呼びかけに、高佳は黙って頷いた。そして先に部屋を出る神無や馨の後に続いて、最後に床に倒れる女の体を一瞥すると、後はもう何もなかったかのように部屋を出た。
部屋を出ると、廊下には瑞樹が壁に背を預けたまま蹲っていた。馨達が近づくと、少し青い顔をしながらもすぐに気づいて顔を上げた。ほんわりと微笑む顔にはまだ余裕が感じられる。力が抑えられなくなる前に、高佳が犬神を消してくれたからだろう。言われた通り、今度は無茶をしなかったらしい。
馨達はエレベータを使わず、階段で一階まで下りると裏口を見つけ出してホテルを出た。もう表では警察と救急車が事件の収拾に徹している。もう既に表でひと悶着起こしていた馨達は、もう一度見つかれば警察に事情を説明しなくてはならなくなるだろう。そうなったら面倒だ。説明して分かってもらえるような内容ではないのだから。
だから馨達はこそこそと泥棒のように裏口から狭い裏道へ出た。誰もいない、と思ったのに背後から声をかけられて、馨は体を硬直させた。
「おっと、やっぱり裏から出てきたか」
しかし怯える必要などない。後ろからの声に振り向くと、そこに立っていたのは警察でも野次馬でもなかったからだ。
「四季さん!」
「帰ってきてたんだ!」
瑞樹と神無が同時に声を上げる。立っていたのは今朝仕事に出て行ったばかりの四季だ。どこで仕事をしてきたのか分からないが、相当無理をして戻ってきたのではないだろうか。しかしにこりと笑う四季の顔に仕事の疲れは見られない。
「ついさっきな。さ、警察に見つかる前に乗れよ。ちょっと窮屈だろうけど我慢しろよ」
裏道を回って、野次馬達の裏に出ると、そこには四季の車が停めてあった。陽はもうすっかり落ちていて、ギラギラのネオンに照らされたピスタチオ・カラーは少し陰気に見えた。
「どうしてここが分かったんすか?」
助手席に高佳、後部座席に神無を挟んで馨と瑞樹が座ると、確かに馨達が一日引っ張りまわしていた太刀守の車よりはずっと狭かった。車が繁華街を抜けてから、馨は後部座席から四季に尋ねる。電車で帰るよりは、車の迎えのほうが嬉しいけれど、四季にはいちいち状況を報告していたわけではない。まさか何かに監視されていたのかと思わないでもなかったが、四季の答えを聞いて納得した。
「札だよ。アレが使われたのが分かったから、場所もすぐ分かった」
「へぇ……」
便利な機能があるものだ、と馨は相槌を打つ。その声が自分でも戸惑うくらいに沈んでいて、馨はどこか気まずかった。そんな馨に、いや車全体の重い雰囲気に、四季が明るい声で尋ねる。
「気がめいった?」
「へ? あぁ…………まぁ、胸くそ悪いって言った方があってるかな」
高瀬 史江を呪いへと駆り立てた過去の出来事。そして呪詛という方法をとった史江の末路。力に溺れて人としての自分を見失った恵子。人の弱さ、傲慢さの縮図のような事件だった。同じ人として、それを見せ付けられるのはいい気分ではない。
「なるほどね。ま、ひとつの社会勉強だと思いなさい。こういう世界もあるってことを知るのは、必要なことだよ。無知は罪ってね。知らないじゃ済まされないこともある」
諭すような四季の言葉に、馨は知らず溜息をつく。
「無知は罪か……。結局、犬神が何たるかを知らないで、使ったつもりになってたんだな、あの親子」
「知るのは必要なことだ。でも、深入りは禁物。深入りするなら、それなりに覚悟しないとね」
覚悟を。家族ごっこと知りながら、それでも共に生きる覚悟。そして、陰惨な世界と知りながらそれでも“人”を助ける覚悟を。その覚悟がなければ、恵子のように簡単に自分の墓穴を掘ることになるのだろう。
「……俺には無理だわ」
ぼそりと言った馨に、脇に座っていた神無がそっけなく言い添える。
「だろうね」
途端にむっとして馨は神無を睨みつけたが、神無はどこ吹く風だ。そんな二人の様子がミラーに映って見えたのか、ハンドルを握っている四季が声を上げて笑った。
「ここら辺で止めとくのが賢明な判断だよ。さぁ、これで夏休みの課題はおしまいだ。夕飯食って帰りな。後は夏休みを満喫するだけだぞ」
四季の言う通りだ。まだ長い夏休みは残っている。携帯のメールを整理すれば、夏休みの予定はすぐに埋まるだろう。しかしこの出来事を夢、幻と忘れてしまうことはできないだろうと馨は思う。胸に残るわだかまりは、何も高瀬親子の引き起こした殺人や人を超えようとした犬神のせいだけではない。
確かに俺はお前達にとっても、人にとっても敵のようだ。
そう言った時の高佳の背が忘れられない。家族ごっこを続ける鞍馬家の人達。そして微妙な距離を保つ高佳と瑞樹。
乗りかかった船だというなら……。
この先を見届けても良い、と馨は思う。もしかしたら、彼らを見続けることで馨にも何かしらの変化があるかもしれない。例えば自分が、ごく軽い家族ごっこをしてやっても良いと思える日が。
何も満ちていない乾いた状態なら、少しの努力が咎になることもないだろう。そう思って、馨はこっそり微笑んだ。頭の中ではもう残りの夏をどう過ごすかという計画を立てながら。
咎 / Another story Top