だから、俺は鬼になりました。
耳に残る声で告げたきり、高佳は黙り込んだ。馨も口を開くことができない。高佳は女を食った。多分、理由がつけられないくらい衝動的に。そしてその鬼のような所業のために、人から鬼に変わった。
だが、と馨は混乱を過ぎると考えられるようになった。過去にも現在にも、鬼のような所業をしている人間はたくさんいるではないか。ニュースで毎日のように報道される殺人、テロ、戦争。それこそ高佳のしでかしたことよりもよほど鬼のような行いをしている人間がいる。それこそ、その行いを恥じることも、罪と感じることもないような鬼達が。彼らではなく、何故高佳が鬼になったのだろうか。こんな、寂しげな顔をする鬼を、何故作り出したのだろう。
鬼になりたいと、そう思って食ったのか?
鬼になれば、人よりもずっと長く生きることができる。それが、本来の死生観に合った生なのか、それは別としてだが。しかし、昔がどうであれ、今の高佳が鬼のまま生き続けたいと思っているようには見えない。
むしろ、死に場所を探しているような……。
そんな横顔だ。馨がそう思ったとき、再び視線を庭に向けていた高佳が不意に馨の方を向いた。何か言われるのかと思って馨はどきりとしたが、実際に高佳の視線が向いていたのは、馨を超えた先。馨も慌てて縁側から続く廊下を見た。奥から聞こえてきたのは数人の足音。それに、何を喋っているのか判別はつけられないが、四季の声がする。
こちらからみて左に折れた廊下の先に、やがて四季が現れた。その脇には神無が歩いていて、瑞樹は二歩後ろにいるらしい。四季は縁側に座り込んでいる馨と高佳を見つけてにっこりと笑う。すぐに馨の脇で高佳が立ち上がった。座って迎えてはいけないという決まりでもこの家にはあるのだろうか。だが咄嗟に馨は立ち上がることができなかった。
「どうだ? 調べられたか?」
立ち上がるタイミングを逃した馨に、四季はそのままでいいと目で合図した。そして四季の問いには立ち上がっていた高佳が答える。手には電話をかけたメンバーの名前と住所の確認リストがある。
「連絡がつかない女性が一人。他は大丈夫だ。居場所は突き止めたし、今のところ何も起きていない」
高佳はリストを四季に手渡した。四季はそれを一目でさらっと撫でると、自分は手の中から紫色の布に包まれたものを出して布を払って中を見せた。紫の布の中には銀色の腕時計。高価なブランド物ではなく、ごく普通の男物の腕時計だ。
「こっちも借りてきたぜ。新藤のしてた腕時計」
そしてそれを高佳が布ごと受け取る。その間に神無が馨の側に寄ってきたので、馨は特に問題はなかったのか、と神無に問おうとした。しかし四季達の現れた玄関方向とは逆、道場へ繋がる渡り廊下がある方からバタバタと慌しい足音がして、開きかけた口を閉じた。
「四季さん!」
近づくと足音を急に抑えて、それでもどこか焦った様子で四季を呼んだのは、昨日庭の草を取っていた藤沢という男性だ。今日も白の着物に紺色の袴を着ている。昨日も思ったが、着物というのは夏は暑そうだし、冬は寒そうだ。
「どうしました? 藤沢さん。何かありましたか?」
何かがないと、離れにいるというお弟子さんは母屋の方に来ないことになっているのだろうか。馨がそう思ったのは、藤沢という男性が妙に畏まっているからだ。昨日の道場でも畏まってはいたけれど、ここまで居心地悪そうではなかった。
「ご当主とご一緒した柏崎が、四季さんに急いで取り次いで下さいと……」
何か緊急の用向きらしい。どうりで藤沢に落ち着きがないわけだ。
「分かりました。電話はこちらに?」
その報告を受けた四季は落ち着いている。藤沢が電話を母屋の方に回したと言うと、四季は藤沢に礼を言って彼を下げさせた。同じ弟子の立場といっても、やはり跡取り候補と他の弟子は一線を画するらしい。四季の方が明らかに年下なのに、藤沢は言われるまま母屋から離れへ戻って行った。
四季は居間へ入って、木製の電話台の上に置かれた電話から受話器を取った。馨達は一体何があったのか、と耳を澄ませて四季の声を聞き取ろうとする。
「柏崎さん? 四季です。どうしました?」
受話器を耳に当てた四季が、電話口に向かってそう言った。それに対する返事は、流石に遠くて聞こえない。ただ四季はしばらく黙ったまま、電話の向こうから聞こえてくる声に耳を傾けていた。やがて、四季は小さく溜息をついた。安堵したような、どこか呆れたような響き。そして四季は電話に応えて言った。
「……分かりました。俺が行きます。えぇ、八木さんは今朝から別の仕事に入っていますから。……えぇ。とにかく当主はそのまま安静にさせて、依頼人には俺が行くと伝えて下さい。……すぐに行きますから」
そう言ってそれに対しての短い返事を聞くと四季は電話を切った。四季の言った当主、とは子煩悩だという四季の父親だろう。電話を切って馨達の元へ戻ってきた四季に、馨は思い切って尋ねた。
「親父さんに何かあったんすか?」
安静にさせて、という言葉が出たのだから病気か、事故か。とにかく何かが起こったのだ。四季は馨の言葉に眉をひそめた。そして短く一言。
「……ぎっくり腰」
「…………はぁ?」
何だ、深刻な事態かと思いきやただのぎっくり腰。四季が渋い顔をしている理由は、事態の深刻さが問題なのではなく、事態に対する呆れが強いだけだったのだ。
「この間高佳と剣道やって痛めたのが再発したんだ。柏崎さんや藤沢さんには無理な仕事だから、俺が行かなくちゃいけない。……こっちのことは君達に任せるしかないな。俺も、流石に金貰ってる相手の依頼をすっぽかすわけにはいかない」
四季はしばらく思案顔で頭を捻っていたが、やがて背の高い弟を見上げると言った。
「高佳、お前、何匹か使役してるな?」
「あぁ」
「これ、そいつらに追わせろ。俺はちょっと準備してくる」
四季が指差したのは高佳の手にある新藤の腕時計だ。高佳が四季の言葉に頷くと、四季は道場の方へ急ぎ足で――しかし足音はたてない優雅な動きで――去っていった。残された馨達は、一体どういう話に落ち着いたのか分からず、一人すべて理解している風な高佳を皆でみやった。高佳は馨達の視線を気にすることもなく、自分の肩口にそっと片手を置いた。
「……炎、雹」
高佳が呟くと、彼の肩口から二匹の獣が現れた。
「フェ、フェレット?」
突然のことに思わず馨は素っ頓狂な声を上げてしまう。だが大きさは確かにそのくらいだ。ただ高佳の両肩に掴まっている二匹の獣はフェレットより毛の多い尻尾を持っており、少し体が透けていた。
「可愛い! 触れるの?」
得体の知れない存在に対し、一歩後ろに下がってしまった馨とは反対に、神無は興味津々の顔で一歩高佳に近づいた。高佳は神無の問いに首を傾げたが、肩口に収まっている獣の一匹を手に乗せて神無の方へ差し出した。
「どうかな。神無なら触れるかもしれない」
高佳の手に乗った獣を、神無は恐る恐る手を伸ばして触った。獣はかなり大人しく目を細めて神無の手を受け入れている。高佳の肩口に残ったもう一匹の獣は、神無に触られている同属を興味深げに見つめていた。
「わっ、何か変な感じ。でも気持ち良い。いいなぁ、あたしも欲しい」
神無はその獣がいたく気に入った様子で、何度も頭から背中にかけて獣を撫でた。どういう感触なのだろうと馨も興味だけは湧いたが、高佳の言葉を推考すると力の弱い人間では触れないようだ。
「管狐は飼い慣らすのが大変だし、そうそう見つかるものでもないから」
手に入れるのは難しいだろう、と高佳が言ったので神無はとても残念そうだ。
「炎、雹、呪いの元を探れ」
高佳がそう命じると、肩口と手に乗っていた二匹の獣は狐のような鳴き声を――いや、狐の鳴き声だったのだろうが馨は狐の鳴き声を他で聞いたことがなかった――あげて、宙を駆け出した。その小さな姿は木々を駆け上り、屋根を越えて消えていった。
「うわっ! ここまでくるとファンタジーだな……」
口を開けて見送るしかない馨。そして消えた獣をいつまでも見送りながら瑞樹が小さく呟いた。
「探せるかな……」
「五分五分……だろうな。呪いの気配も薄くなっていたし……」
高佳も小さく瑞樹の問いに答えた。そこに道場へ消えた四季が戻ってきた。手にはすでに旅行鞄が提げられていて、こうして唐突に出かけることになっても慌てないよう、準備はあらかじめなされていたのだろうということが分かった。
「あ、四季」
やはり静かに廊下を歩いてきた四季を見つけて、神無が声をかける。四季はつかつかと馨達に歩み寄り、旅行鞄を一旦下に置くと、もう片方の手にあった紙切れを神無に差し出した。
「ほら、神無。太刀守君も。高佳、お前も一応」
そうして三人に渡された紙切れ。それは良く見ると、装飾された漢字のようなものが描いてある。紙は縦に長い和紙。
「お札、ですか?」
馨は裏返し、しげしげと渡された紙を眺めながら尋ねた。すると四季はこくりと頷く。
「そ、折りたたんでも構わないから身に着けておくんだ。太刀守君にかけられた護法と同じ役目をしてくれる」
それなら、と馨は遠慮なく折りたたんで黄色い半袖シャツの胸ポケットに札を入れた。神無は同じように折りたたんでパンツのポケットに入れている。
「瑞樹には?」
一人だけ渡されていない瑞樹に気づいて神無が尋ねると、四季はその手に残った札を一枚複雑そうな顔で眺めてから瑞樹に差し出した。
「一応作ったけど……瑞樹、持ってみな」
差し出された札には、馨も温かい何らかの力を感じる。それが護法なのだろうと雰囲気で分かったが、四季の手にあった札は、瑞樹の手がその端に触れただけでその温かさを一瞬で失ってしまった。瑞樹も何かを感じたのか、札の端に手を置いただけですぐに手を引っ込めてしまった。それをすべて見ていた四季が、ほうと溜息をつく。
「……やっぱりな。効力が消えちまった。お前の力とは合わないんだ。悪いが、時間がないからこれ以上のことはしてやれない。高佳……」
四季が弟に向けて呼びかけると、高佳は無言で頷いた。瑞樹は札の分もお前が守れ、ということだろうか。
「いいか、やばくなったら引く。その約束だけは守ってくれ。本当にやばかったら、大人しく俺が帰ってくるのを待つんだ。良いな」
四季の言葉に、全員頷く。四季は全員の顔を見てから、足元に置いた荷物を持ち上げた。
「呪いの元は神社か寺か、とにかく神聖な場所の敷地内に埋まってる可能性が高い。犬神を見つけたら、術者も探りだせるから、術者が分かったらすぐに犬神を祓え」
それは主に高佳に向かって放たれた言葉だ。瑞樹はどうかはっきりしないが、この中で四季以外にまともな祓いができるのは高佳だけなのだ。
「じゃあ、気をつけろよ」
ぽん、と弟の肩を叩いて出かけようとする四季に、すれ違いざまに神無が声をかけた。
「四季もね」
すると四季はにこりと笑って、荷物を持っていない方の手を振った。
四季の車が門から出て行く音がして、しばらくして高佳の放った管狐が二匹一緒に戻ってきた。管狐達は宙を駆けて、差し出された高佳の手に左右に分かれて一匹ずつ乗る。管狐が高佳の手の中で丸くなり、目を閉じると、高佳もそれに合わせるように目を閉じた。
しばらくして管狐達が先に目を開き、高佳の腕を伝って肩口に消える。すると高佳もようやく目を開いた。黙って状況を見守っていた馨は、高佳が目を開いたのに合わせて呼びかけた。
「分かったのか?」
馨が尋ねると、高佳はゆっくりと頷いた。
「場所は」
「吉祥寺です。管狐が見た光景ですから、詳しい住所は……」
それは航空写真のように上から見た図なのだろうか。少なくとも、家を出て行った時と帰ってきた時には、その管狐とかいうペットは狐の癖に空を飛んでいた。
「行けば分かるか?」
そうでなければまた狐を出してそいつに先導してもらうしかないのだが。そう尋ねると、高佳は行けば分かると頷いた。狐に先導してもらう必要はないらしいので馨は少し安心する。他の人間には見えないのだから神経質になる必要はない、と言っても、自分には見えるのだから狐に道案内を頼むのはいささか落ち着かない。いや、一度くらいなら経験してもいいことなのかもしれないが。
「じゃあ、車を呼ぶ。全員乗るにはそれしかねぇからな」
今朝はバイクで来たのだが、四季もいなくなってしまったし、仕方がないだろう。バイクの横を、同じ速さで自転車が疾走することなどできるわけがない。いやもしかしたら、と馨は高佳を盗み見るが、出来るかなどと口にはするべきでないと判断した。自分の常識を守るためにも。
馨が携帯電話で車を呼び出す。そして車が鞍馬家の門前にたどり着くと、馨達はそろって鞍馬家を後にし、車に乗り込んだ。助手席に体の大きい高佳が、そして後部座席には右から馨と神無、瑞樹が乗り込んでドアを閉めた。太刀守の運転手は昨日今日と何度も馨に呼び出され、そして今日は今日で二人も見たことのない人間が乗り込んできてぎょっとしたようだが、事情を聞くことも、雇い主の子息呼び出しに文句を言うこともしなかった。そういう風に教育されているのだ。そしてそれは、馨にとってはとても好ましい教育であった。
「吉祥寺……おい、連絡のつかない最後の人間って、住所は……」
車が吉祥寺の町に入ってから、馨は思い出したように呟いた。その呟きに、助手席に座っていた高佳が答えて更に運転手に道を指示した。
「吉祥寺です。そこを右に」
運転手は、はい、とだけ答えて道を右に折れた。信号待ち、そして左折、信号待ち、やがて高佳が一言。
「近づいてきた」
管狐の見た光景に、ということだろうか。それとも、呪いの元にということだろうか。どちらにせよ、馨には近づいてきたという実感は湧かなかった。
やがてある神社の階段下で、高佳は車を止めさせた。無言で車を降りる高佳に従って、後部座席の三人も車から降りた。馨だけ車から降りる前に運転手に話しかけた。このままここで待っていてくれと言うと、運転手はやはり、はい、とだけ応じた。
「流石に神無と高佳がいると俺にも分かるぜ。ヤバそうな感じがな」
石造りの鳥居の下。そして神社の境内へと続く階段下で、馨は上を見上げながらそう言った。階段を上りきった先にはまた鳥居がある。空は青い。蒸し暑い日本の夏そのものの今日は、照り付ける日差しもやはり容赦なく暑い。だが、階段上部から冷たい空気が流れてくる。
寒い、と馨は思った。そして暗い。まるで雷雲が地上に下りてきたかのようだ。階段下から見上げる神社の境内は霧のような闇に包まれていて禍々しい。
「上……だな。神無、高佳の兄さんからもらった札は持ってるな?」
「持ってるよ」
神無は札を入れているポケットを叩いてそう答えた。階段を登る前に、馨は全員の顔を見回して確認した。
「お互い、無茶はなしだぞ」
それぞれが馨の言葉にこくりと頷いた。
そして馨と高佳が先に階段を上り始める。札を持っていない瑞樹が真ん中、神無は最後を付いてきた。階段を一歩上るごとに暗い霧が馨の腕や足に絡み付いてくる。気分が重い。しかしそれでも護法が効いている分、馨が受けている影響は薄いのだろう。
階段を上りきり、二つ目の鳥居をくぐると、視界は益々暗く陰鬱になった。元々小さな神社の境内など明るいイメージは持たないが、それでも危険を感じる闇のイメージではない。しかしここはどうだろう、と馨は神社の境内を見回す。立っているだけで背筋が凍る。ここにいてはいけないと心の奥で誰かが叫ぶ。この場を支配しているのは神ではない。それが分かる。
「あそこ、あの神木の下に埋められてる」
馨の後ろから神無の手が伸びた。指差す先には確かに神木と思われる木が立っていた。注連縄の巻かれた幹から、根元を方へ視線を滑らせると、なるほど周囲を霞ませるこの黒い霧のようなものは、神木の根元から湧き出ているようだ。
「掘り出せば良いのか?」
神木へ一歩だけ近づいて、馨は誰にともなくそう尋ねた。一瞬、神木から社の方へ気をとられる。何か、犬の鳴き声のようなものが聞こえた気がした。そちらに向かってまた一歩、馨だけが動いた。
「駄目だ! 襲ってくる」
高佳の叫びが背に届いたときには遅かった。慌てて神木に向き直った馨は、ぐんぐんと迫ってくる黒い犬に捕らえられていた。中谷のときと同様、金縛りにあったように体が動かない。逃げなければ、黒犬が首元に噛み付くのは分かりきっていたのに。
「馨!」
「先輩!」
神無と瑞樹の叫びが遠い。馨は呪に囚われていた。黒犬が目の前に迫り、馨は首元にひやりとした感覚を味わった。一気に襲ってきた強風に、馨は体ごと後ろに飛ばされた。だが、覚悟していた息苦しさはない。ただ冷えていたはずの体が、胸元を中心に一気に熱くなった。
「うぐっ!」
馨は地面に体を叩きつけられたが、黒犬は悲鳴を上げて馨から離れた。地面に叩きつけられた衝撃で馨の息は一瞬止まったが、すぐに呼吸の仕方を思い出す。
「はっ……。助かったぜ……」
胸ポケットに入れていた四季の札が、札だけ燃えて灰になっていた。これがあの黒い呪いを退けてくれたのだろう。馨は首元に手をやった。まだ少し息苦しさは残るが、ここでのんびりしている暇はない。札が焼けてしまったということは、次は助けてもらえないということだ。
馨は上体を起こして次に構えた。しかし、よほど札が効いたのか、黒犬はもう馨を標的から外したようだ。次に狙うのは、丁度目の前にいた小さな体。
「神無!」
馨は叫んだ。神無は危険を察してすぐ逃げようとしたけれど、黒い犬の俊敏な足に追いつかれる。馨は地面を蹴った。神無の背に犬の足が迫る。そしてその足が神無を傷つけようとしたギリギリのところで、高佳が神無の体を抱きかかえ、犬の足から神無を守ってくれた。
「どういうことだ? こんなに無差別に襲ってくるもんなのか!」
馨は立ち上がりかけながら、神無を抱えて転がった高佳に向かって叫んだ。術を破られるかもしれないと思った術者が馨達を襲うように仕向けたのだろうか。馨がそう考えていると、高佳の腕の中に納まった神無が叫ぶ。
「高佳……こいつ、ただの動物霊だよ。使役されてるとは思えない。だって術者が見えないもん!」
どういうことだ、と馨は心の中で叫んだ。術者はいないということなのか。ただの動物霊が、何も分からなくなって無闇やたらに人を襲っているだけだったということか。中谷と新藤が襲われたのは、偶然だった。そんなことがあるのだろうか。
この際それはどうでもいい。あの霊を消すか、止めるかしなければ。馨は膝に力を込めた。立ち上がって、神無の側にいかなくては、と思ったのだ。しかし神無を庇っていた高佳の方が先に立ち上がった。高佳は神無を自分の後ろに押しやり、そして馨に顔を向けた。
「神無、このまま動くな。……俺がやる」
馨のこめかみがぴりぴりと鳴った。剣道の試合で、高佳と向き合ったときに彼から感じた緊張と、精神力の高まりが馨の全身を粟立たせた。
「炎、雹、奴の気を引け」
高佳の命令に従って、その肩口から二匹の管狐が飛び出した。炎が犬の目の前を通り過ぎる。犬はそちらに気を取られ、そして雹は炎と反対の方向で犬の気を散らせようと動き回った。ぐるぐると動き回り、気を散らせる二匹の管狐に、犬は焦れて歯をむき出しにして唸った。
犬が標的を炎に絞ったその瞬間、犬にとってノーマークだった高佳が駆け出した。その速さは人のものではない。最初の踏み切りだけで、高佳の体は犬のすぐ側まで迫った。馨は見た。高佳の瞳が赤く光るのを。そして、犬が高佳の襲撃に気づいて身をよじる。高佳の手が、まるで引っかくようにして犬に伸ばされる。手の先が、強い力を宿して青白く光った。犬に高佳の手がかかる、その直前に。
「止めろ! 高佳!」
馨の左手から瑞樹の叫びが飛んだ。名前を呼ばれていない馨でさえ、一瞬くらっとくるような不思議な力を秘めた声。しかも最悪のタイミングで放たれた声に、馨は焦った。
馬鹿! そのタイミングでそんな無茶なこと……。
できるはずがない。後は手を振り下ろすだけなのだ。そこで躊躇すれば高佳の方が犬にやられる。瑞樹の言葉は無視して続けてくれ、と馨は思った。ここで止めれば危険なのだ。しかし高佳は顔を歪めると、信じられないことに伸ばしていた指先を丸め、管狐を呼んだ。
「くっ! 雹!」
体の加速はもう自分では止めようがない。だから高佳は管狐の一匹に、自分に向かって体当たりさせたのだ。高佳の体が犬から反れて砂利に転がる。犬は高佳を追って動くことはなかった。馨は炎にも興味を示さなくなった犬を不審に思いつつ、高佳を助けようと立ち上がった。
「瑞樹! お前、どういうつもりだ!」
あんなタイミングで制止すれば危険なことは分かっていたはずだ。馬鹿正直に言うことを聞いた高佳も悪いが、高佳の身も考えず制止した瑞樹が悪い。
そう憤って馨は高佳の方に駆け寄りながら瑞樹を睨み付けた。しかしそこで息を呑む。足が、止まる。瑞樹の立っていた場所に、違う人間がいると思えたのだ。だが実際にいたのは確かに瑞樹だ。綺麗な黒髪。しかし他にこれといって華やかな印象のない、どちらかといえば地味な印象しか残らない今までの瑞樹ではない。女も男も、子供も老人も例外なく目を奪われる。それほど印象的な淡い青の光を身に纏って、瑞樹はゆっくりと犬に近づいた。その瞳にはもう馨や神無、高佳さえも映っていない。
「瑞……樹……」
馨の前を通り過ぎ、瑞樹は一直線に犬の前に進んだ。そして犬に向かって細い腕を伸ばす。その瞬間、馨は眩暈がするほどの甘い香りに包まれた。
「……おいで。そのままでは苦しいだろう? その苦しみは俺が全部引き取ってやるから……」
風鈴の音のような優しい声。警戒心を剥き出しにして唸っていた犬が、次第に大人しくなる。黒い雲のような陰気も、急速に失われ始めた。そしてその代わりに、瑞樹の体から青い光が生まれる。
花……?
馨は動けなかった。金縛りではない。ただ、瑞樹から発せられる甘い香りは馨の体を縛った。そして目の前では信じられない光景が展開されている。瑞樹の手から、足から、青い花が咲いているのだ。それは瑞樹が犬に近づくほど多くなった。
「おいで。さぁ……」
抗えない魅力を秘めた声。それを感じているのは馨だけではないようだ。犬は段々と大人しくなり、伸ばされた瑞樹の手に近づいていった。その間にも瑞樹の体から咲く花は短い時間で蕾を膨らまし、咲き誇り、そして枯れていった。花が枯れるとすぐに次の花が咲く。咲いて、散り。その繰り返しだ。
やがて、犬が生前の姿をとり始めると、瑞樹は犬に合わせてしゃがんだ。すると、犬の首が静かに胴から落ちる。悲しい、苦しそうな声が犬の首から漏れた。瑞樹は戸惑いなくその首を持ち上げると、憐れみを込めて犬の額に口付けた。
「あぁ……痛かっただろう。でも、もう良いんだよ。もう苦しむことはない」
一気に瑞樹から咲く花の量が増え、香る花の匂いが濃くなった。甘い。脳髄まで痺れる甘さだ。素直にその香りに身を任せれば、それだけでもう他に何もいらないと思えるほどの。
「安らぎ以外はもう感じなくて良い」
そう言ったのは、本当に瑞樹なのだろうか。犬の首を抱く姿はもう花に埋もれて横顔しかはっきりとしない。青い花に照らされて、瑞樹の横顔も青く見えた。そして瑞樹の腕の中で安らぎによって消えていく犬の首と同じく、馨ももう安らぎ以外感じられなくなっていた。
「黄泉へお還り……」
そう、そっと目を閉じればそれだけでもう安らげる。この花の香りに包まれて。馨は完全な安らぎの世界へ向かって、そっと目を閉じかけた。
しかし目を閉じきる直前に飛び込んできた赤い色に、馨はぎょっとなって意識を取り戻した。むせ返るような香りに霞む視界に飛び込んできた赤は、高佳の瞳の色だ。
高佳の血のように赤い瞳は、青い花に包まれる瑞樹だけを見ていた。しかしその瞳には馨が感じたような絶対的な安らぎは微塵も感じられない。強い憎悪。いや、執着だ。そして深く、暗い哀しみ。確かにその瞳は鬼を宿していた。
砂利を踏みしめる音。高佳はその瞳に鬼を宿したまま、ゆっくりと花を咲かせ続ける瑞樹に近づいた。馨は花の香りに全身が痺れてまだ動けない。神無もどうやら動くことはできないようだ。高佳はそれまで黒い犬がいた場所に立って、瑞樹の前に膝をついた。瑞樹の目は高佳を見ているようで、どこにも焦点が合っていない。今の瑞樹は全く別の世界を見ているのかもしれない。
高佳が手を伸ばした。その手はゆっくり瑞樹の首元にかかる。瑞樹の細い首は、高佳の強い執着で簡単にへし折れそうだった。しかし高佳の手は瑞樹の首を捕らえようとはしなかった。その赤い瞳は深い哀しみをたたえたまま、高佳は瑞樹の首から生える花を摘んだ。するとその青い花はすぐに高佳の手の中で茶色に変色し、枯れて塵となった。
「吉祥寺駅前……マンション、520……」
花と同じくらい青白い唇から途切れ途切れに瑞樹の声が聞こえた。それは強烈な芳香を放っていた先程よりはずっと普通の、瑞樹の声だった。瑞樹は繋がらないそれらの言葉を口にすると、目の前に膝を付く高佳に向かって倒れこんだ。
「瑞樹!」
高佳に抱きとめられた瑞樹に、すぐに駆け寄ったのは神無だ。馨はまだ頭がはっきりとしない。花の香りはずいぶん薄れていた。しかし鼻に、脳に、あの花の香りが染み付いている。
「大丈夫だ、神無。中谷と新藤の分の業まで背負っていたから、少し浄化に時間がかかるだけだ」
そう言って瑞樹を抱きかかえる高佳。瑞樹の体からは相変わらず青い花が咲いて、枯れている。ただあの犬の首を抱いた一時よりは、花の数はずっと少なくなっていた。目を閉じて全身から花を咲かせる瑞樹。その姿を見つめる高佳の瞳はもう毒々しい赤ではない。
馨は立ち上がって高佳に近づいた。まだ手足に甘い痺れが残っているが、夢から醒めてしまえば胸の中から浮かび上がるのは安心感ではなく激しい怒りだ。馨はつかつかと高佳に歩み寄って、その頭の上から思いきり怒鳴りつけた。
「……お前な……怒るぞ。無茶はしねぇって、アニキに約束したんだろうが! あんなタイミングで瑞樹の制止を聞くなんて自殺行為だ!」
上手く管狐を使って避けられたから良かったものの、と思いつつ、馨はそれが、自分が怒る表面的な理由であることも心の奥では分かっていた。
「馨……」
「……すみません」
素直に謝る高佳に、馨は益々怒りを募らせた。分かっているのだ。この怒りには馨の自身への苛立ちが多分に含まれている。理不尽な力に操られた、圧倒的な魅力に抗えなかった自分への怒りが。
「謝るな! ホントは瑞樹に怒鳴ってやりてぇんだ。……お前、まさか瑞樹の言うことには逆らえねぇんじゃねぇだろうな」
「違います」
すぐさま高佳は否定したが、それは疑わしいと馨は思った。あれは、あの瑞樹はすべての人の自我を失わせるような力を持っていた。だがもしかしたら。
逆らえないのではなく、逆らわないだけなんじゃ……。
愛した女に引きずられて?
そうだとしたら、馬鹿な奴だとしか言いようがない。そんなに一途で、一体何が得られる。ひとつのものしか手に入らない生き方なんて、それが手に入らなければ終わりか、それとも手に入れるまで永遠に続くか、どちらでも苦しいだけだ。
「瑞樹、術者の居場所を呟いたの?」
馨が苛立ちを心の中に押しとどめている間に、神無が心配げに瑞樹の顔を覗き込みながら高佳に尋ねた。
「多分。吉祥寺駅前のマンションは、連絡のつかないメンバーの女性が住んでいる住所と同じです」
馨は大きく溜息をついた。苛立ちを息とともに吐き出すと、ようやく心が落ち着く。気づけば、周囲はもう真夏の暑さが戻ってきており、今まで聞こえていなかった蝉の鳴き声がジンジンと境内に響いていた。まるで、別世界に来たような暑い風が馨の脇を通り抜ける。
「犬神の首はどうすれば良い?」
「瑞樹が流したので、もう力はありません。放っておいても大丈夫でしょう」
流した、と高佳は言う。そう言えば、どうして瑞樹は高佳を止めたりしたのだろう。高佳は犬神を祓おうとしただけだ。それの何がいけなかったのか。高佳が祓うのと、瑞樹が流すのとでは、一体何が違うというのだろう。
「瑞樹の力って、何? どうしてこんな……」
神無が馨の疑問を代弁した。そして神無は恐る恐る瑞樹から咲く花に手を伸ばした。今咲いたばかりの花は、簡単に神無の手に摘み取られる。そして、神無の手の中で、数秒と経たないうちに枯れて、塵となった。
「花が咲くのか?」
高佳が神無の言葉を引き取って言うと、神無は頷いた。高佳はすぐにはその問いに答えず、神無と同じように腕の中にいる瑞樹の、頬から伸びた花を摘み取った。そしてその花が枯れる数秒を待たずに、手を握って花を押し潰してしまった。
「瑞樹の力は、忘れられた神の力だ」
淡々と、高佳は答えた。
「神様の?」
「忘れられたって……」
高佳の答えに、神無と馨が続けて疑問の言葉を投げる。高佳は花を握りつぶした手を開いて、馨を見上げた。
「サスラヒメという神の名前を聞いたことがありますか?」
サスラヒメ。その言葉からして日本書紀や古事記に出てくるような日本の八百万の神の一人だろう。そう察することはできたが、それ以上のことは分からない。高校の日本史選択だって、そんな神々の名前まで教えるとは思えない。ヒメというのだから女の神だろう。答えられてもその程度だ。
「……いいや。日本の神様なんてスサノオとアマテラスくらいしか知らないぜ」
肩を竦めて答えると、高佳は瑞樹の背を支える腕と逆の手で、砂地の地面に漢字を書いて見せた。
「佐須良姫、流浪の姫と書いてサスラヒメとも読みますが、その神は黄泉の国を司るスサノオの対の神でもあります。サスラヒメは人々の罪、穢れを一身に引き受け、さすらうことで、その罪を黄泉に流してくれるのだと信じられていました」
黄泉の国の神はイザナミではなかっただろうか、と馨は首を捻る。しかしイザナミはイザナギの対神。そう考えると、確かにスサノオには対となる神がいないかもしれない。妻も娘もいるけれど、彼女らの名前はサスラヒメという名ではなかったはずだ。
「まさか、その神が瑞樹の前世だったとでも?」
それではその女性は神だったのか。高佳が鬼だというなら、それもありえないことではないのだろうが、納得はいかない。
「サスラヒメはそういう力を持った一族の総称として後に伝わりました。神格化されるに足りる力を持った一族でしたが、俺が出会った女を最後に滅び、やがて忘れられていきました。日本書紀や古事記にもその名前はありません」
結局は神格化された、人間だったということだ。それならまだ納得がいく。
「その一族は何故滅びたんだ?」
そして何故忘れられたのか。そう尋ねると、高佳の手が瑞樹の頬を撫でた。もうだいぶ瑞樹の体から咲く花の量は少なくなっていた。
「……この力のせいです。サスラヒメの力はあらゆる霊的なものへの憐れみの心です。人の罪、業、執着や執念を憐れみ、それらの念を自身の強大な霊力を使って浄化する。丁度、汚れた水をろ過するフィルターのような役目を果たす。どんな小さな念も、自業自得から得た業も、サスラヒメはすべてを憐れむ」
もやり、とまた馨の心に暗い苛立ちのようなものが宿った。
「いくら力が強大でも、そんなことを続けて身が持つはずがない……そういうことか?」
「そうです。しかし、サスラヒメ達はそうして得た自身の死を厭わない。そんな神をいつまでも残しておくことはできないでしょう。つまり彼らは歴史上生き残った者達の業を代わりに背負って死んだことになる」
しかし歴史上生き残った者達――馨達はその末裔だ――は彼らに、自分の業の身代わりを頼んだのだろうか。自分の業は自分のもの。罪も、執着もすべて自分だけのものだ。それを勝手に背負い込んで、それで死んだ者達こそ憐れむべき人間ではないのだろうか。
「自己犠牲が高じて滅んだ一族、か。俺はゴメンだけどな、そこまで他人のために尽くして死ぬのは」
吐き捨てるように馨が言うと、高佳は微かな自嘲の笑みを浮かべた。
「サスラヒメは血族を残さずとも、自分達の死後は黄泉の国へ行き、そこで自らの身に残ったすべての念を浄化しつくした後、現世に戻って再び人々のために尽くすのだと考えていました。だから、一族は決して滅ばないのだ、と」
生まれ変わりもそんな目的のためになされるとなるとぞっとする、と馨は鼻を鳴らした。
「めでたい思想だな。それで? お前もそれを信じていたからこそ、鬼になって現世に留まったってことか。でもそれなら、瑞樹はお前の探していた女の生まれ変わりじゃなくて、その一族の誰かの生まれ変わりって可能性もあるんだろ? それか、生まれ変わりなんかなくて、全くの別人か」
「馨! そんな言い方はないだろ! 高佳はずっと待ってたんだぞ!」
知っている。ずっと待っていたことなんて、高佳を見ていれば分かる。微かな望みにすべてを託して、そんな生き方をずっと貫いてきた男だと分かる。そしてその生き方に疲れた様子も見て取れる。
「いい、神無。先輩の言うとおりだから」
馨のきつい言葉に憤った神無を、高佳はその小さな肩に手を添えることで諌めた。
「高佳……。じゃあ、瑞樹がその女の人の生まれ変わりだっていう確証はないの?」
「瑞樹の力以外には何も。俺はもう、その女の顔さえ覚えていないんだ。あまりに長く、鬼でありすぎた。だから、勢いに任せて瑞樹に打ち明けなければ良かったと今は思ってる。打ち明ければ、瑞樹がそのことで悩むのは分かりきっていたから……」
ぽつり、とまた瑞樹の頬から花が咲いた。高佳はそれを摘み、また手の中で枯れさせると神無に言った。
「この花だけど、これが見えているのは俺達だけなんだ」
「俺達だけって?」
「瑞樹本人には見えていないんだよ。見えているのは、念を流してもらっている俺達だけ。この花が咲いて散る数だけ、俺は自分達の念が少しずつ瑞樹の命を奪っているようにしか見えない」
まるで、見ている人間にその罪を分からせようとするかのように。咲いて、散る花。それを見て、一番辛い想いをするのは高佳だろう。瑞樹の命を奪っている。そういう風に高佳が思っているのなら、高佳は何とか瑞樹にその無差別な慈悲行為を止めさせたいと考えるに違いない。だが、瑞樹にはこの花が見えない。自分の命を削っているという自覚もないのだろう。
止めさせたい。そう思っていても、瑞樹の言葉には逆らいたくないなんて……。
何故そんな立場を選んだのだろう。それから抜け出せば、もっと楽に、幸せに生きる道があるはずなのに。
馬鹿な奴……。
不器用な男。軽々と同級生の体を持ち上げて、神社の階段を下っていく高佳の背を見ながら、馨はそう思った。
そして車に瑞樹を乗せ、今度は馨が助手席に乗った。後部座席に瑞樹を支えながら高佳が乗り、真ん中に瑞樹を座らせると、左に神無が座った。馨は運転手にリストにあった吉祥寺のマンションへ行くように伝えた。そこは神社のあった住所からさほど離れてはいなかった。
クリーム色の外壁。10階建てくらいの高さだろうか。車がそのマンションの前に止まると、馨は後部座席を振り返って言った。
「神無、お前、瑞樹と車に残ってろ。もう犬神は消えたし、俺と高佳だけで大丈夫だろう」
神無は珍しく馨の決定に逆らわず、こくりと頷く。そしてパンツのポケットから折りたたまれた札を取り出して馨に差し出してきた。
「一応これ。馨の、さっき燃えちゃっただろ」
「……おう、サンキュ」
馨が札を受け取ると、高佳は瑞樹の体を丁寧に後部座席の背にもたれさせて、馨より先に車を降りた。馨も札を胸ポケットに入れて車を出ようとした。すると後部座席から神無に肩を掴まれる。
「あんまり高佳を苛めるなよ」
「……別に苛めてるわけじゃねぇよ。どっちかっていうと、八つ当たりだ」
馨はそう答えると、神無の手を振り切るようにして車をおりた。
先に下りていた高佳に合流し、マンションの一階から中に入った。マンションの管理人の姿はない。管理のいい加減なマンションだと思ったが、今日はそちらのほうが都合が良いだろう。一階にあるエレベータのボタンを押すと、エレベータはすでに一階にきていたようですぐに扉が開いた。高佳が先に入って、馨が後に続く。高佳が5階のボタンを押すと、エレベータの扉が閉まった。
狭い空間。馨はエレベータの壁に背を預けると、目を瞑った。下から押し上げられるような感覚が、目を閉じると余計に苦しく感じられた。目を閉じていても、この空間には高佳と馨が二人きり。神無と離れると、高佳から感じる違和感はずいぶん弱まる。
「……お前、もう忘れちまえば? 親父さんと、アニキの四季さんと、鞍馬 高佳としての自分で一生終えるに十分だと思わねぇか?」
馨は呟くようにそう言った。馨が昔失った立場を、四季は今失わないようにしている。四季の言葉にいちいち胸を打たれたのは、そういう理由もあったのだろう。崩さないで欲しい、と思ってしまう。四季が守ろうとしているものを。
「……本当は、それで十分すぎるんでしょうね」
高佳の答え。馨はきゅっと唇を噛んだ。高佳は分かっているのだ。四季や父親の気持ちを。それでも、ただひとつの道を進もうとするのだ。
「でも満足できない? そりゃ、贅沢だぜ」
そして傲慢だと馨は思う。すると高佳は微笑みながらこう返した。
「だから俺は鬼なんですよ」
その切り返しはずるい、と馨は思った。そう言われると何も返せなくなるではないか。自分は人ではないのだ、馨とは違うのだと言われてしまえば、馨にはそれを否定することはできない。きっと、四季にも。
高佳が最後の言葉を発してからすぐ足元が揺れて、エレベータが止まった。5階だ。馨と高佳はエレベータから出て、瑞樹の言い残した部屋を探して外廊下を進む。エレベータの近くから511号室。どうやら隣の棟が510号室まである建物らしい。すると520号室は外廊下の突き当たりになる。馨は高佳の先に立って廊下を進む。
「ここだな。520、高瀬。……すみません、高瀬さん」
部屋番号と表札を確認してから呼び鈴を押しても、ドアを軽くノックしても返事はない。馨は一応玄関のドアノブを回してみた。回る。そして手前に引くと、玄関は抵抗なく開かれた。馨は多少躊躇したものの、思い切って玄関を開ききる。
「失礼します。どなたかいらっしゃいませんか!」
馨は玄関から一歩中に入って呼びかけた。しかし返事はない。
「先輩、警察を呼んだほうが良い」
高佳が固い声でそう言ったが、何故そんな早々に警察を呼びたがるのか、馨には理解できなかった。別に血痕があるわけでも、部屋が荒らされているわけでもないのに。
「は? 何でいきなり。……待てよ。人の声がする。すみません!」
「先輩!」
高佳の制止を背に聞きながら、馨は遠慮なく靴を脱いで部屋へ上がった。声のする方へ、玄関から伸びる廊下を真っ直ぐに進んだ。少し遅れて、高佳が後を追いかけてくる。声が段々に大きくなる。男の声だ。何かぼそぼそ話しているが、何を言っているのかは判別できない。
廊下を進むと、リビングに出た。薄いレースのカーテンが引かれていて、部屋は薄暗い。その中で、部屋の右奥が光っている。青白い、暗い部屋では強く見える光。それはテレビだ。丁度昼のニュースをやっていた。人の声がしたと思っていたのは、テレビのニュースキャスターの声だったのだ。では部屋に人はいないのか、と馨はリビングに足を踏み入れた。女性的な雰囲気のするリビング。白い壁には大きなポスターが銀色フレームの額に入れられて飾られている。馨に背を向けているソファは二人掛けで、アイボリー色。馨はそのソファの背に隠れている部分を見ようとして、ソファの背から身を乗り出して奥を見た。
そこにはガラスの天板にアイボリー色の足がついている机。机とソファの間には、藍色のタイトスカートを履いた、女性の下半身が見えた。肌色のストッキングを履いた両足。その上をたどっていくと、白いブラウス。胸元には小さな金色のブローチが小さく光っていた。さらに上をたどると、恐怖に歪んだ醜い女性の顔。土気色、とでも言うのだろうか。生気の感じられない肌の色。開けられた口からは長い舌がはみ出している。
「……冗談、キツイぜ。……救急車を……」
ニュースキャスターの声がぼんやりと響く部屋の中で、馨はようやく周囲に漂う死臭に気づいて口元を覆う。よろりと一歩後ろによろけると、その背を高佳に支えられた。
「もう死んでます。警察を呼びましょう。遺体が腐りかけてる。多分……逆凪だ」
高佳が冷静にそう言った。
「逆、凪?」
「四季の言っていた、呪いをかけた報いです」
ごくり、と馨は唾を飲み込んだ。中谷も犬神に襲われた時には恐怖の表情を浮かべていたが、この部屋で倒れている女性は中谷よりももっと凄絶な顔をしている。普通にしていればそれなりに美人だったろうに、土気色の歪んだ顔に、不釣合いな赤い口紅が恐ろしい。この女性が中谷や新藤を呪った。そしてその呪いの報いを受けて死んだ。墓穴が3つ。
「……待てよ。その死体、腐りかけてるってことは、昨日起きた中谷の呪いは誰がかけたんだよ。その人は、もう新藤の時に逆凪とやらで死んでいたことになるだろう?」
いくら夏だといっても、昨日今日でここまでの腐臭を発するだろうか。現に、今この部屋はテレビだけでなく冷房も動いたままだ。高佳もそれには気づいていたのだろう。死体の転がる部屋で、思わず二人とも黙り込んだ。そこに玄関から瑞樹と神無の声が響いた。二人とも、下の車の中で待っているはずだったのに。何かあったのだろうか。
「高佳! 太刀守先輩!」
「瑞樹!」
悲鳴のような声。瑞樹の声も、神無の声も。そしてそれを聞いた馨と高佳の表情は、一様に硬くなる。玄関を上がって、部屋の中に入ってこようとする足音。高佳が先に動いて、廊下を塞ぐようにして玄関の方へ出た。
「来るな! 瑞樹!」
「神無! お前もだ!」
二人が叫ぶと、足音が止む。高佳に続いて馨も腐臭漂う部屋から廊下へと逃げ出す。腐臭の元が鼻に張り付いているようだ。新鮮な空気を吸おうと思っても、腐臭とともに死んでいる女の顔が頭から離れない。
「……瑞樹が、本当の術者は他にいるって……」
瑞樹の服の袖を掴みながら、神無がそう言った。馨や高佳が何故二人を中へ入れさせないか、神無はもう分かっているようだ。少しだけ、その顔が青い。
「15か16歳くらいの女の子です。手に乗るくらいの大きさの、犬ではないような……でもすごく強いものを従えていた」
初めは興奮したように口早に、それから段々と顔を青ざめさせてゆっくりと、瑞樹がそう伝えた。馨はその言葉を聞いて、死んだ女のプロフィールを頭の中から引っ張り出した。死んだ高瀬 史江に中谷は殺せない。殺せたとしても、それは犬の霊ではなく彼女の霊によってなされるべき殺人だ。だが、彼女の姿はなかった。昨日、中谷の側にも、そして今日この部屋にも。
「高瀬 史江には娘が一人いる。この様子だと、最近家に帰った気配はないな……」
馨は高佳にだけ聞こえるようにそう呟いた。神無はこの部屋で何かがあったのだと分かっているようだが、瑞樹はどうだろうか。青白い顔をしてはいるけれど、それは先程の除霊――そう呼ぶのが適当かどうか分からないが――の疲れのようにも見える。
「とにかくここを出よう。警察には匿名で電話を入れて……」
事情は車の中でも良いだろう、という馨に、高佳も頷いた。近所に騒がれないうちに部屋を出ようとする馨の背に、つけっ放しのテレビから、男性ニュースキャスターの声がこう伝えた。
「ニュースをお伝えします。今日、午後5時に練馬区で男性の遺体が発見されました。男性は角田 高志さん34歳……」
その報道を背に聞いて、馨は立ち止まる。まるで背を引っかかれたような感覚。
「角田 高志って……」
神無の声が少し震える。角田 高志。知っている名前だ。昨日も今日も見た。あの、隠岐から送られたリストにあった名前なのだから当然だ。
「あのサークルのメンバーだ、くそっ! 俺達がダミーに引っかかっている間に、まんまと本命をやっちまったってことかよ!」
「中の人は……?」
「無駄だ、瑞樹。魂ごとやられている。ここには何も残ってない。死体以外は……」
そう言うとさらに顔色を青くした瑞樹を、高佳は慰めようとしたのだろう。無骨な手が瑞樹の肩に伸びた。しかし、高佳の手はそのまま宙に浮いた。瑞樹が、高佳の手が自分の肩に触れる前に身を引いたからだ。ぴくり、と高佳の手が動いた。それから、ゆっくりと手が戻される。高佳は表情を変えなかった。しかし、自ら高佳の手を避けた瑞樹の方が、何故か酷く傷ついたような顔をした。
「ごめん……。まだ、流しきれてない、から……」
「いい。……大丈夫か?」
高佳は瑞樹に触れず、そう尋ねた。瑞樹はそれに小さく首肯する。もどかしい、と馨は小さく舌打ちをした。高佳と瑞樹の関係は、傍から見ている人間にとってあまりにもどかしすぎる。だからと言って、馨が二人の間に立つことも、できないことなのだろう。
馨達は周囲を気遣いながら、高瀬 史江の死んでいるマンションを後にした。待たせていた車に乗り込むと、馨はまず警察に匿名で電話を入れる。警察が馨の言葉を信じたかどうかは分からないが、そのうち職場の人間も彼女が仕事に出てこないことで、何かあったと思い始めるだろう。それを待っても構わない。彼女はもう死んでいるのだから。それも、自分が行った呪いの報いを受けて。
馨は警察への電話をかけ終わると、すぐに別の番号へコールした。呼び出し音が5回続いたところで、馨は俺だ、と短く告げる。すると電話の向こうからは疲れきった穂の声が流れてくる。
『空元気さえ出ないよ、もう……。そっちはどう? 馨君。送った情報は役に立ったかい?』
普段よりも一層へろへろになった穂の声に、馨は少しだけ安心する。あんな死体を見たばかりだ。よく知っている人間の声を聞くだけで慰められる。
「まぁな。悪いが、もうちょっと詳しく調べて欲しい。隠岐に言ってもらえば分かると思うが、昨日調べた中に高瀬 史江って女がいたんだ。その娘について詳しく調べてくれ。後、そうだな、その娘の父親は……」
馨が言いかけると、後部座席から瑞樹の声が響いた。
「止めてください!」
喉につまったような、泣き出しそうな声だ。馨は電話を耳に当てたまま、後部座席を振り返る。高佳と神無も、突然叫んだ瑞樹に驚いている。
「調べないで……。もう、分かっているんです」
高佳とは神無を挟んで座っている瑞樹は、ぎゅっと自分の肩を掴んで、震えながらそう訴えた。
『……誰?』
電話口からは穂の訝しげな声。馨はとりあえず穂に向かって答えた。
「……気にすんな。娘の父親はいい。娘のことだけ、よろしく頼む」
そう伝えると、電話の向こう側からは不満げな声が漏れる。
『何か、今回ずっと蔑ろにされてる……』
「その分両親に構ってもらえ。返事はファックスで頼む。高佳、お前の家の番号教えてくれ」
鞍馬家の居間に電話とファックスが置いてあるのは確認済みだ。高佳はすぐに馨に応えて、ファックスが鞍馬家に送れるようにした。
そしてやや事務的に電話を切ると、馨は改めて後部座席を振り向いた。瑞樹は車の隅に身を寄せて、ずっと細かに震えていた。
「瑞樹、娘の父親が分かってるって、どういうことだ? 高瀬 史江は未婚の母として娘を産んでるんだぞ」
隠岐の調べでも、父親の名前は書いていなかった。それを、どうして瑞樹が知っているというのだろう。瑞樹はそれに答えようと、口を開いた。体の震えを無理に抑えようとしている様子が見て取れる。瑞樹は途切れ途切れに何とか言葉を口にした。
「さっき、流した時に……その、高瀬 史江さんの念が……犬の霊に絡んでいて……。中谷や、新藤の、念も見えて……」
「何が見えた?」
馨がさらに尋ねると、瑞樹は不安げな視線を神無の方へ向けた。神無にはあまり聞かせたくない内容なのだろう。しかし神無は見た目よりもずっと丈夫だ。
「あたし、結構何聞いても平気だよ。瑞樹が、言えるなら」
神無はそう言って、反対に瑞樹を心配した。瑞樹は神無の言葉に、ぐっと言葉を飲んだ。自分でも――いや、もしかしたら高瀬 史江の念が――言いづらいことのようだ。だが瑞樹は何度か息を飲み込んで、意を決したように一気に話し出した。
「学生時代に、サークルのメンバーでキャンプに行ったみたいなんだ。他の人は、何も知らなかった。夜中、中谷と新藤、それにさっき死んだ角田って人……史江さんを…………レイプ、して……」
その光景を見た、というのだろうか。高瀬 史江の念が、瑞樹にそれを見せたと。だから瑞樹はそんなにも怯えているのだ。レイプされたことはないので分からないが、そんな体験をした後ではどの男も恐怖の対象になるだろう。つまり、瑞樹は今、馨や高佳が怖いのだ。だから先ほどから、馨とも高佳とも視線を合わせようとしない。
「まさか……史江の娘はその時の……?」
こくり、と瑞樹は頷いた。3人の男に押さえ込まれては、彼女も逃げることはできなかっただろう。ましてそれを告発しようと思える女性ではなかったのだ。
「それで中谷と新藤、角田も呪われたってことか……。でも、どうして今頃になって奴らを呪おうなんて思ったんだ。今まで娘も育ててきたんだろう?」
中絶、という選択もあったはずだ。母体にも影響が残るだろうが、無理矢理犯されて身篭った子供を女手ひとつで育ててきたなんて。それこそ慈悲深い女だったのか。いや、そうではないのだ。慈悲深い神のような女だったら、呪詛になんて手を出すはずがない。
「犬神……」
一体何故今頃になって、と考え込んだ馨の耳に、後部座席から高佳の呟きが入ってきた。
「何?」
「四季は、今回の犬神は首を切られて祀られた動物霊だと言いましたが、そちらはダミーだった。実は本来、犬神は鼠に似た小動物とされているんです。炎や雹のように憑き物の一種です。その犬神は家に憑く」
管狐のような憑き物。犬神が。そうだとしたら、一体この話はどうなるというのだろう。
「家に憑く?」
「家系に、と言った方が分かりやすいでしょうか。犬神は女系を辿って、母から娘へ継承されるものなんです。もし高瀬 史江の家が犬神筋だとしたら……本当の犬神は娘に憑いていることになります」
それはつまり。
「中谷や角田を襲ったのは、娘が操る犬神だったってことか? でもあれは、鼠程度の大きさじゃなかったぞ」
その姿は今日神社で瑞樹に流された犬の霊と同じものだった。
「何が誰を襲ったにせよ、これで終わりだろ? 高瀬 史江が恨んだ3人は、3人とも死んだんだから」
神無が幾分か希望を沿えてそう言ったが、馨も高佳もそれに答えることはできなかった。確かに3人の男は死んだ。だが、これで終わらないような予感が、馨の胸の中に沈んでいた。
車を鞍馬家の駐車場まで入れさせて、運転手はそのままそこで待機させた。馨と高佳は真っ先に居間へ向かう。すると、隠岐からのファックスがすでに送信されてきていた。馨は紙を切り取り、寄せられた情報を目でさらいながら高佳に説明した。
「高瀬 史江の娘、高瀬 恵子は7月に15になったばかりだな。S中の3年。史江が中谷達とサークルのキャンプに参加したのは丁度二十歳。その時の子供だとしたら、十分計算は合う」
「血液型は?」
「B型だな。母親の史江はO型。ってことは、父親はABかB型。新藤はA型。中谷はB型、角田もB型か……。娘の父親は中谷か角田だってことになるな」
しかし両方死んだ。結局、高瀬 史江にとって、誰が娘の父親なのかということは問題ではなかったということだろう。自分をレイプした男を全て呪い殺すこと、それが彼女の望みだったのだ。そしてそれは叶えられた。呪いの報いによって、彼女自身も命を落として。
「……おいおい。こりゃ、とんだ中学生だな」
一心にファックスを読んでいた馨は、高瀬 史江の娘、恵子の最近の動向を記した記事を見て、軽く口笛を吹く。
「何か?」
「恵子は新藤が死んだ翌日から自宅を出てる。それから学校にも顔を出してない。といってもすぐ夏休みに入ったからな。でもどうやら、渋谷や新宿で毎日ホテル暮らしみたいだぜ。金を持った年上の男と、ラブホテルで夜を過ごしてる。まったく、良くこんなことまで調べられるぜ」
からかうような声を上げた馨に対して、高佳は渋い顔をしている。尻軽な女は嫌いだ、ということだろうかと馨は勘ぐったが、どうやら高佳が渋い顔をしたのは別の理由かららしい。
「彼女は……本当に犬神を操れているんでしょうか」
馨はその言葉にニヤニヤ顔を引っ込めた。
「どういう意味だ?」
「新藤と中谷は高瀬 史江に使役された犬の霊が殺した。しかし中谷を殺す前に、史江は死んでいる。そうですよね」
その通りだ、と馨は頷いた。
「こう考えたらどうでしょう。新藤を殺した後、史江は逆凪によって死んだ。そして娘である恵子は、本来の犬神を使って、史江の使役した犬の霊を脅したんです。あの犬は史江が死んだことで彼女との使役関係を失いましたが、だからといって自力で上がることはできない。恨みの塊ですからね。そしてこちらの世界は純粋に力の強さで上下関係が決まります。だから犬神があの霊を使うことも不可能ではありません。犬神を介して犬の霊を操ることで、恵子は呪詛による逆凪を受けずにすむ。多分最後に殺された角田も、同じ手で殺すつもりだったのでしょう。でも、瑞樹が流してしまったから、それはできなくなった。だから、今日角田を殺したのは恵子の連れている犬神本体です。しかし、本当に恵子の命令に従って犬神が行動を起こしているか。それが俺には疑問です」
そう事件のあらましを説明する高佳に、馨は間で口を挟むこともできない。
「犬神は婚姻によってその数を増やすと言われています。勿論、婚姻がただの結婚を意味するわけではなくて、具体的には性的交渉のことを指します」
つまり、高佳はこう言いたいのだろうか。
「……犬神が恵子を使って繁殖活動をしてるって?」
ずいぶん生々しい話だ。まさか恵子が犬の子供を産むわけではないのだろうな、と馨は唾を飲み込む。想像するだけで冷や汗が出る。
「性的交渉をしたからといってすぐに犬神の子供が生まれるというわけではありません。大抵の人間は犬神の力に耐えられなくて発狂するか、死に至る。そうならなかった者だけが新たな犬神と共に生き残る。犬神はそうやって人を介して増えていく」
高佳は淡々と言葉を続けた。性的交渉、なんて言葉は、普通の高校生は決して口にしない単語だろう。
「……何のために?」
「生き残るためにです。助け合いなんてことを掲げているのは、いつの時代も人間だけですよ。こちら世界はいつも力の強いものだけが上に立ち、力の弱いものは強者につくことで身を守る。だから炎と雹も俺に懐いているわけではありません。純粋に俺の力が強いから従っているだけなんです」
ごくり、と馨はまた唾を飲み込んだ。午前中に見た二匹の獣は、高佳に懐いているように見えた。主人のために働く姿を微笑ましくも感じたほどだ。しかし、実際には力の強い高佳に媚びているだけ、ということなのだろう。
「でも、力のバランスは小さなことで簡単に逆転します。だから、弱者はいつも強者の首を狙っている」
もしも高佳の力が落ちれば、あの二匹の狐だって高佳に襲い掛かる。それが彼らの世界なのだ。
「今までは犬神が弱者で、人が強者だったってことか? それを、逆転させようとしてる?」
「そうだとしても、不思議はありません」
では、恵子とラブホテルに入った男達は発狂するか、死ぬか、犬神の仔を増やすための種となるということだろうか。それでは、この件はまだ終わっていないことになる。
恵子を、いや、本当の犬神を止めなければ。
そして乗りかかった船だというのならば、馨は最後まで船を漕ぎ続けなくてはならない。高佳のいう“こちらの世界”に完全に足を踏み入れなければならないのだ。
男三人にレイプされたという高瀬 史江の記憶に引き摺られて、馨や高佳の前では恐怖と緊張の解けない瑞樹は、鞍馬家に着くと完全に高瀬 史江の念を流しきるまで二人から離れることにした。神無は女で、子どもだから近くにいても影響がないらしい。ひとりにしておくのも不安だという顔を高佳がするので、神無は瑞樹についていることにした。勝手に鞍馬家の台所へ行って冷蔵庫を開けると、入っていたミネラル・ウォーターをコップに入れ、青白い顔で縁側に座っている瑞樹に差し出した。
「瑞樹、ほら、水」
コップを渡すと、恐怖も緊張も落ち着いてきたらしい瑞樹が小さく微笑んで礼を言った。
「もう大丈夫そう?」
神無は瑞樹の隣に腰を下ろしてそう尋ねた。瑞樹はコップを傾けて水を飲む。白くて細い喉が水を飲み下して動く。じっと見ていたけれど、もう瑞樹の体のどこからも、甘い芳香を放つ花は生えてこなくなっていた。
「うん……大丈夫」
そう答えたけれど、まだ瑞樹の顔は青白い。そして瑞樹の横顔の奥に、神無は神社での高佳の眼を思い出す。赤い瞳。倒れた瑞樹を抱えて、花に埋もれる瑞樹を哀しそうに見つめていたあの眼を思い出さずにはいられなかった。
「馨じゃないけどさ、あたしも瑞樹を叱ってやりたい」
神無は意を決してそう切り出した。
「神無……?」
瑞樹は何故神無が叱ってやりたいと思うのか、全く理解できないようだった。それが一番傷つく。高佳もきっとそうなのだろう、と神無は思った。
「馬鹿だよ、瑞樹は。そんなに誰も彼も助けられるわけないじゃないか。なのに手を伸ばすんだから。自分の命を削ってるの、自覚ないの? そんなんじゃ、高佳が可哀想だ。自己犠牲なんて、やってる本人はいいのかもしれないけど、周りの人間の気持ち考えろよ」
瑞樹は神無の言葉に言い返したいことはたくさんあったのだろう。しばし呆然として、神無の言葉とそれに対する言葉を整理すると、小さな声で言った。
「高佳に、聞いたの? 昔のこと」
「聞いたよ。瑞樹の力のことも」
正確には高佳と四季に、と答えるべきなのだろうけれど、そこで話をややこしくしたくない。神無は四季の名前を出さないことにした。そうして答えると、瑞樹は寂しそうに微笑んだ。その表情は、奥にある感情は、高佳のものに似ている。
「それは俺の力じゃなくて、その女の人の力だよ。高佳は勘違いしてるんだ。俺の力は憐れみからくるものじゃない」
「え……?」
「俺は憐れんでるんじゃない。怖いんだ。彼らが目の前にいるのが、怖くてたまらない。だから……早く目の前から消えて欲しいと思ってるだけなんだよ」
でも、あの神社で犬を流した瑞樹は、犬の霊に脅えている様子などまるでなかった。そう言おうとして、神無は口を噤んだ。神社で見た瑞樹は、今の瑞樹とは別人だ。そう思えたのだ。そしてその想像は、神無の背筋を凍らせた。
「……始めて送ったのは、両親の念だった。交通事故で……後部座席にいた俺だけが生き残った。その現場で、両親は何が起きたのか分かっていない様子だった。自分達が死んだことを、理解できていなかった。ただ、俺を見つけて手を伸ばした。とにかく俺を守ろうとしたのだろうと、今では思うよ。でも、その時俺は、その手に捕まれば自分も死んでしまうと思った。怖くて……死ぬのは怖かった。霊になって残るのも。その時始めて力を使った」
そう過去を話す瑞樹の体は確かに震えていた。これが演技だとは思えない。過去の悲惨な事故も、実際に起きた出来事なのだろう。それは疑わない。けれど、もしかしたら、と神無は思った。あの何者も抗えない神のような力には、瑞樹自身も抗えないのかもしれない。だからこそ、何の自覚もなく無差別な慈悲を与えて自らを疲弊させることができるのかもしれない。
そうだとしたら……サスラヒメっていうのは一体何だ?
慈悲深い神なのか、それともごく少数の優しい人間の犠牲を求める鬼か。
自分の話を聞いたきり黙りこんでしまった神無の顔を、瑞樹が心配げに覗き込む。神無は慌てて今まで考えていたことを頭の隅に追いやった。今の想像は瑞樹に話すべきではないと思った。
「じゃあ……瑞樹は高佳のことも怖いんだ」
「どうして?」
慌てて変えた話題に、想定していなかった疑問形で返されて、神無は言葉に詰まった。
「どうしてって……高佳だって幽霊みたいなものじゃないか。本人は鬼だって言ってるけど」
霊を怖いというのなら、鬼という存在はもっと怖いはずだ。その神無の考えは、決して間違いではないと思うのだけれど。
けれど、瑞樹は神無の常識的な考えに首を傾げた。まるで神無がそんなことを言うなんて、考えられなかったと言っているようだ。
「高佳は……鬼じゃないよ」
瑞樹の言葉は舌足らずな子どものようだ。猫を見て、あれは猫だよと言っているような雰囲気だが、実際には犬を見て、あれは猫だよと言っているようなものなのに。しかし瑞樹には高佳が鬼ではないという、他には理解できない確信があるのだ、と神無はこのとき初めて知った。
「それに、怖くもない。ただ……気まずくって」
「気まずい?」
「だって、ずっと待っていたって言われても俺には何も分からないし。せめて俺に前世の記憶でもあれば、人違いかどうかはっきりするのに……。でもさ、人違いだっていうなら、高佳はまた他の人を探さなくちゃいけないんだよ。それって、気が遠くなるようなことだと思う。またずっと、あんな寂しそうな顔して生き続けるんだって思うと……可哀想、だよ」
神無は少し間をおいてから、小さく返した。
「うん。……可哀想、だね」
だがそれを憐れみだというのではないだろうか。多分高佳が欲しいのは、そんな感情ではないのだろうと神無は思う。しかしもう瑞樹を責めることは、神無にはできない。瑞樹には高佳の気持ちを理解するための何かが欠けている。いや、別の力が満ちすぎていて、他の力に手が回らないのだと考えることもできる。神の器として神を宿していた祖父とは違う何かに、瑞樹は囚われているのだ。
だから瑞樹自身は、こんなにも薄い。
せめてその満ち溢れる力が、瑞樹自身に禍となることだけは理解してもらいたい。神無は強く思った。力に溺れて自身を失った父を、神無は見ていたから。
之 / Epilogue