| 盈 | 満 | 之 | 咎 |
八王子の体育館を出て約20分後、長い坂の上で馨はぜいぜいと息を切らし、両膝に手を置いて前屈みになって喘いでいた。その隣には大きな自転車を支える形で神無が立っている。風呂敷に包まれた弁当箱は自転車の前にある籠に納まっていた。
「馨、親父くさい」
神無の毒舌は今に始まったことではないが、口の悪さだけでなく言葉の悪さ。こんな今時の色男に向かって、親父くさいとは何事だ。
「う、うるせぇな。俺は、典型的、都会っ子なんだ、よ」
言い返す言葉も息が切れて情けない。神無はそう言う変わりに、大きく溜息をついてみせた。そして息切れして話すこともままならない馨を軽くほっぽりだして、汗を軽くかいているだけの高佳に尊敬の眼差しを向けた。
「高佳は力持ちなんだな」
高佳は瑞樹を後ろに乗せたままこの坂道を上がってきたのだ。その癖に息切れもなし、軽く汗をかいているのだって今が夏だからというだけのことに感じられる。
「いや、今は何もしていないから、瑞樹が軽すぎるんだと思うな」
何もしていないから、だって? その言い方だとまるで人外の力もどうにかすれば出せる、と言っているように聞こえる。いや、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。早くも馨は高佳の放つ奇妙な空気に慣れ始め、それを普通に感じるようになっていたのだが、高佳は鬼だ。体は確かに人間のものでも、人とは別の力も使えるという可能性は十分にあるではないか。
しかし息が切れて脳に酸素が上手くいかない。馨は振り返って自ら上ってきた坂を見やる。それほど急ではないが、恐ろしく長い。この坂道を、神無を後ろに乗せて上ってきたのだ。試合会場となった体育館には、高佳と瑞樹は自転車で来ていた。そして結局体育館で起きた事件――いや、警察はもう事故として処理を始めているだろう――を調べるという高佳と瑞樹に付き合うはめになった馨と神無は、高佳の言うまま場所を移動することになったのだ。
暑い夏の日差しの中、元々瑞樹のものだった自転車に馨と神無が乗り、高佳の自転車に瑞樹が相乗りした。そして馨達は街を抜け、高尾山の方角へ向かった。先頭を行く高佳は高尾山の手前にある小山に向かって走っていった。後ろから行く馨がまさかそこは上らないだろうな、と思った坂が高佳の目指していた場所だった。馨は後ろで叱咤する神無の声に反論することもできないくらいくたくたになりながら、ようやく坂の上に辿り着いたのだ。
坂の上は馨の住む東京と同じ東京だとは思えない。馨の住むところはビルと車と人しか見ないが、ここは木と木の間を縫う忌々しいコンクリートの坂、そして白い塀に囲まれた大きな屋敷しか見当たらない。鳥の声はするし、蝉の声も、何だか正体のはっきりしない虫の声も五月蝿いくらいだ。眺めだけは良いここで作戦会議でも行おうというのか。しかし馨はいい加減クーラーの効いた室内でゆっくり休みたかった。そもそも剣道部の助っ人なんて引き受けたことが間違いだった、と馨がしても仕方がない後悔をし始めると、高佳は自転車を引きながら白い塀の間にある大きな門へ向かった。
「んで? ここ何処だ」
占いがどうとか言っていたから、ここが占い師の家かと馨は皮肉に思った。しかしそれもあながち間違いではなかったらしい。高佳は大きな門の脇にある普通サイズの通用口を開けて、自転車を半分入れると振り返ってこう言ったのだ。
「俺の家です」
何を言ったのだ、と馨は一瞬思った。ここが高佳の家だと。この、どこまでも続くような塀に囲まれたお屋敷が。大体門からしてこの大きさはまるで城ではないか。冗談を言うなと言いかけた馨は、通用口の方につけられた表札を見てそれが冗談でないことを悟った。表札にはしっかり鞍馬と書いてあったのだ。
「…………でけっ!」
改めて塀と門を見渡し、馨は思わず叫んだ。そこに脇の神無から冷静な突っ込みが入る。
「馨ん家だってでかいじゃん」
「いや、そうだけど……」
馨の家は洋風で、成金だとすぐに分かるような趣味の悪い家だ。しかしこの鞍馬家は完全和風の重厚な、まさに旧家の装いである。ただ家が大きいというだけの叫びではないのだ。歴史が違う。
「どうぞ」
高佳がそう言って先に入ってしまい、神無は気軽にその後を付いて行ってしまった。残った瑞樹に促され、馨は自転車を引いて恐る恐る通用口をくぐった。
入って正面、少し奥に見えたのは二階建ての立派な日本家屋。右手は砂利の駐車場になっていて、銀色のネイキッドと黒のスカイラインが一台ずつ停まっていた。通用口から正面の家に向かっては敷石が点々と置かれて道案内がわりになっている。そして門からも正面に向かっては敷石が置かれ、左手に向かっては細いコンクリートの道が伸びていた。馨が不躾なくらいそうしてじっくりと鞍馬の家を見ていた間に、黒のスカイラインの脇に高佳と瑞樹が自転車を停めた。
戻ってきた高佳に従って敷石を踏み、馨達は正面の家へ向かって歩いた。敷地の中には木々が青々と茂っていて、しかもきちんと手入れされているようだ。
「気のせいか? 何か、急に空気がきれいになったような……。マイナスイオン効果?」
独り言に近い言葉だったのだけれど、神無が律儀に答えた。呆れたような、馬鹿にしているような顔がなんとも憎たらしい。
「何言ってんだよ。結界に入ったせいだろ」
「結界?」
それには空気清浄の効果でもあるのか、と馨は心の中で皮肉った。それに、気温も街よりずっと低いような気がする。あの、霊気を感じたときにする寒さではなく、やはり空気が綺麗だから感じる気温の低さのような気がするのだ。これではクーラーも必要ない。これだけの家をすべて冷房するコストを考えたら、とても経済的であった。
「上手く高佳は入れるようになってるけど、ほとんどの死霊は入り込めないようにしてあるんだよ」
「へぇ」
気のない返事をして、馨は高佳の後をついて歩いた。正面にあった二階建ての家に入るのかと思いきや、高佳はその家の脇を通り、中庭のようなところへ抜けた。中庭には比較的背の低い木々が植えられ、石造りのテーブルと椅子が数個置いてあった。そしてどうやら池のようなものもあるらしい。微かな水音が木々のざわめきとともに馨の耳をくすぐった。
やがて正面に長い平屋が現れた。その建物は二階建ての家から渡りの廊下で繋がっている。平屋は昔剣道を習っていた道場とよく似ている。その道場のような建物に近づくと、馨は中庭にある椿の木の下に蹲っている人間を発見した。高佳の家だから、その人間も幽霊ではないかと疑って思わず馨は足を止めた。
しかし神無が言った通り、この家の敷地はすべて結界で守られていて、蹲っている人間は確かに生きている人間だった。彼は高佳が近づくと、足音に気づいたようで俯いていた顔を上げた。
「あ、高佳さん。お帰りなさい。試合、どうでした?」
眼鏡をかけた30代くらいの男性は、単に庭の草をむしっていただけらしい。蹲っている近くに草の山ができていたし、額の汗を拭う手は土に汚れていた。にっこりと高佳に笑いかける顔はどこかの会社でスーツを着て営業をしているほうが似合いそうに感じられたが、実際に着ているのは白の着物と紺色の袴だ。
「えぇ、まぁ……。すみません、藤沢さん。八木さんは、今、空いていますか?」
試合については説明のしようがないので言葉を濁し、高佳は藤沢という男性に尋ねた。
「はい。道場でお待ちください。呼んで参りますから」
藤沢は高佳の言葉にさっと立ち上がり、高佳へ向かって礼儀正しく一礼すると静かな足音で庭に消えた。高佳も藤沢もお互いに距離を置いた話し方をしていた。苗字も違うし、家族ではなさそうだ。
「今の人は?」
藤沢の背が庭の木に遮られて見えなくなると、馨は高佳に尋ねた。高佳とはどういう関係なのか、と。高佳は馨の問いに軽く答えた。
「親父のお弟子さんです。他にも数人、皆離れで寝泊りしています」
その親父さんの職業を聞いていないのだが。結界がどうのという話も出ていたし、さらにこの家の規模、単なる占い師ではなさそうだ。
「あの人、高佳のこと知らないみたいだ」
多分離れが中庭の先にあるのだろう。藤沢という人が消えた方向を見ながら、神無が呟いた。高佳はそれに軽く笑って答えた。
「神無くらい力が強くなければ、普通には気づかない。俺のことを知っているのは親父と、兄の四季と、今から会う一番弟子の八木さんだけだよ」
馨も自分自身の力が強いわけではないので、神無が間にいなければ高佳のことにも気づかなかっただろう。ただ少し変だ、と思うくらいで。それほど高佳の所作には人としてなんら問題はないのだ。
「あと瑞樹も」
神無が無邪気に付け加えた。確かに瑞樹も高佳の正体を知っているはずだが、神無がそう指摘して振り返ると、後ろをずっと付いてきていた瑞樹は一瞬言葉に詰まった。
「う、ん。そう……」
ほんのり笑う口が、少し引きつっている。やはり高佳の事情を知っているが、理解していないのだろうか。単純に友達とはいえないような雰囲気を、馨は高佳と瑞樹の間に感じた。瑞樹が苦しく微笑んだ後、馨はすぐに高佳の顔を窺ったのだが、高佳は相変わらずのポーカーフェイスだった。ただ馨には、その瞳だけが寂しそうな色を濃くしていたように見えた。
「上がってください」
高佳はそう言うと瑞樹に背を向けて縁側から道場へ上がった。きっちりと揃えて脱がれた靴。馨はその脇に、いつもは気にしない靴の並びを気にして、丁寧に靴を脱いだ。神無はサンダルを脱いでから手でそれを揃え、瑞樹だけが遅れて最後に道場へ上がった。
道場はかつて馨が剣道を習っていたところよりずっと狭かった。一体お前の家は何をしている家なのだ、と馨が高佳に問いかけたところ、高佳は人数分とひとつ余計に座布団を用意し、馨達を座らせてから答えた。
高佳の説明によると、鞍馬家は現代の陰陽師の家らしい。お祓いや、占いなどをして生計を立てているというのだ。本当のところはどうか分からないが、と高佳は断ってから説明した。
「安部清明の安部家、今は土御門家といいますが、その土御門家と陰陽の2大勢力といわれていたのが賀茂家です。しかし賀茂家は室町後期に直系の嗣子が殺され、世襲制であったためにそこで賀茂家は途絶えました。ですが江戸時代に復興し、今では賀茂の流れをくむと称している陰陽家が4つあります。鞍馬家はそのひとつで、唯一世襲制を止めた家でもあります」
SFの世界が目の前で展開されている、と馨は頭を押さえた。安部清明の名前が出た時点で、馨の中ではそれが歴史の史実というより御伽噺の世界なのだ。それはきっと馨だけではない。この世に何人そんな陰陽師の家が現代まで続いていると信じるだろう。
「じゃあ、今の当主は高佳の親父さん……?」
「そうです。世襲制ではありませんが、次はきっと兄の四季が継ぐでしょう。今のところ、弟子の中で一番力が強いので」
そしてこの道場は、精神集中や身体を鍛えるために使われるのだと高佳は説明した。霊力だけが強くても、その使い方を自分で制御できなければ意味がない。そして精神を鍛えるには肉体もそれに見合う強さを持たなければならない、というのが鞍馬の教えらしい。高佳は剣道部に入っているが、それ以外にも柔道、空手、合気道など様々な武道を父親に学んだという。そして同様のことが弟子のすべてに当てはまる。
「お待たせしました」
スケールの図りきれない話になっていたところに、先程の藤沢という男が道場に現れた。彼は道場に入る前に縁側で正座をして、高佳に向かって一礼した。そして盆に載せた麦茶を持って中に入る。続いてもう一人、同じように礼をして藤沢より年上の男性が入ってきた。藤沢は馨達の前に麦茶を置くと、馨達には背を向けないようにして下がり、また一礼して道場を出て行った。もう一人の男性は高佳の用意していた座布団に、高佳の指示を待ってから腰を下ろした。彼も藤沢と同じように白の着物と紺色の袴をはいている。
「これはまた……珍しく大人数ですね」
男性は馨達の正面に座ると、皺の多い顔に柔和な笑みを浮かべて言った。高佳は小さく苦笑して、馨達を男に紹介した。
「今日剣道の試合で対戦したN校の太刀守 馨さんです。こちらは……」
「はとこだよ」
「はとこの神無さん」
高佳に紹介されると、馨と神無は不恰好ながら男に頭を下げた。男は丁寧にそれに礼を返してから、自己紹介した。
「太刀守、そうですか。私、八木と申します」
「太刀守の名前に心当たりが?」
馨が尋ねると、八木は馨と神無に一時ずつ眼を留めながら微笑んだ。
「えぇ、勿論。どちらのお爺様も有名でいらっしゃる。一度、仕事でご一緒したこともございますよ」
仕事で一緒になったというのは神無の祖父だろう。神無の祖父は陰陽師ではないが、強い力を持った神主だったからだ。馨の祖父は霊力が全くなかったが、別の面で有名だ。
「こっちは俺の同級生で、弥栄 瑞樹です」
瑞樹は馨達と同じように八木に礼をし、八木がそれに返したところで全員が紹介を終えた。これからが本題だ。
「それで? 皆さんが何故ご一緒に私を訪ねていらしたのですか?」
八木が本題へと話を促し、高佳がそれに答えた。
「実は、試合中に主審が倒れて、そのまま亡くなりました」
突然の話に、八木が目を丸くした。
「……何か、持病でも?」
今の高佳の言葉だけでは、そう反応して当たり前だ。しかしこんなところまでやってきて、それで話が終わるわけがないと八木も知っているのだろう。姿勢は高佳の次の言葉を待っている。
「いえ、倒れる前に、俺達全員黒い犬の影のようなものが、主審ののど笛に噛み付くのを見て……。俺は、呪詛だと思いました」
馨は八木が高佳の言葉のどこに反応したのかを見過ごした。しかし八木はこの高佳の言葉で柔和な口元の笑みを消し去り、代わりに硬い表情で大きく頷いた。
「……なるほど」
高佳が生まれた事情を知っているという八木は、高佳の強い力についても知っているのだろう。高佳が呪詛といったものを、否定するつもりはないようだ。
「その標的が主審だけなのかはっきりさせたいんです。それで、術者についての手がかりが何か掴めれば、と思って。八木さんに占っていただけないか、と」
いくら当主の息子の頼みといっても、八木が快く承知してくれるとは思えなかった。占いで金を稼いでいるというなら、こんな金にもならない慈善事業に協力する気にはならないのではないだろうか、と馨は思ったのだ。しかし八木は高佳の言葉に、仕方がないといった顔をして微笑んだ。
「……まぁ、この業界、依頼されてお金をもらってからが仕事……とは言えませんしね。それに、高佳さん達のご懸念は当たりかもしれません」
「それって……?」
どういう意味だ、と馨は言外に含ませた。八木にそう思わせる何かが、すでにこの家で起こっていたとでもいうのだろうか。
「実は今日、四季さんがお出かけになったのは“黒い犬のような影がずっと付きまとっている”という相談を受けられたからです」
馨達がその言葉に反応するのは当然だ。黒い犬のような影は、馨達が体育館で見たものと同じだからだ。
「でも……依頼者は中谷ではない……?」
全員が厳しい顔つきになったところで、馨が慎重に尋ねる。その言葉は疑問というより、確認だ。中谷であれば、高佳の兄が出かける先は馨達のいた体育館であることが明白だからだ。しかし中谷の側に、高佳の兄の姿はなかった。それどころか、一度姿を見せたものの、弁当を置いてすぐに立ち去ってしまったのだから。
八木は馨の確認するような言葉に、こくりと頷き事情を説明する。
「依頼してきた方は女性です。太田と名乗りましたが、本名かどうかは分かりません。でもこういう類の仕事をしていると、当然本名を名乗りたくないという方もいらっしゃいますし、こちらもそれを尊重します。電話での依頼で多少不審があっても、お聞きした住所の方へ行ってみるのが筋でして」
そこまで面倒を見るとなるとあまり儲かりそうにないな、というのが馨の正直な印象だ。商売にするには、リスクが多すぎるような気がする。しかしそれでもこの家が残っていられるということは、単純に一件で得られる報酬が多いためだろうか。
「その住所は?」
高佳が訊くと、八木は簡潔に答えた。
「群馬県です」
中谷の殺された八王子とは全く違う場所だ。果たして本当にその場所に黒い犬に付きまとわれているという女性がいたのだろうか。誰もがそんな疑問を抱いたところで、高佳が動いた。
「電話してみます」
そう言うと高佳はポケットから携帯電話を取り出して、道場から出て縁側に立った。そうして携帯電話を使う姿は、普通の高校生と変わらない。ボタンを押す指にも戸惑いがないし、とても鬼という人外の存在とは思えない。そう思って馨は高佳の後姿を見ていた。同じように高佳の背を見ていた八木という男性は、高佳が電話を耳元に運ぶと同時に気遣わしげな溜息をついて呟いた。
「お話を聞いて、もしかしたら四季さんはわざと東京から遠ざけられたのではないか、と」
「でも、どうして……」
そう思ったのか、と馨は尋ねようとしたが、兄に電話のかかったらしい高佳の声の方に気をとられて言葉を切った。
「四季? 俺だ。仕事はどうした?」
離れているので電話口から漏れているはずの相手の声は聞こえない。ただ高佳はしばらく相手の言葉をじっと聞いているだけで、相槌さえ打たなかった。しばらくして、黙って話を聞いていた高佳の眉間に皺が寄った。どうやらあまり良い内容の話ではなかったらしい。
「……お前、引っ掛けられたんだ。すぐ帰ってこい。黒い犬みたいな影が出たのはこっちだ」
八木の懸念した通りだった。高佳の兄はわざと東京から遠ざけられたのだ。高佳はそれから二言三言兄と話して、電話を切った。
携帯電話をポケットに入れて、再び道場に戻ってきた高佳は座布団の上に正座して、兄との会話の内容を説明した。
「指定された住所は偽物でした。何年も前から空き家になっていたそうです。おまけに、目的地に着くまで何度か同じ場所を走らされたと言っていました」
高佳の説明に現実にそんなことがあるのだな、と馨は思わず感心してしまった。一体どういう仕組みでそんなことになってしまうのだろう。馨が本題からそれたところに関心を向けていると、瑞樹が小さく心配そうな声を上げた。
「四季さんは……」
瑞樹は高佳の兄と面識があるのだろう。わざと遠ざけられ、しかもかなりの妨害を受けたらしい高佳の兄を気遣った声だ。高佳は不安げな顔をする瑞樹に、安心させるような声で答えた。
「心配要らない。すぐに帰ってくると言って切った」
自信のある高佳の声に瑞樹は微かに笑ったけれど、不安な様子はまだ残っていた。目的地に着くまで妨害されたというなら、高佳の兄が故意にここから遠ざけられたのは確実だろう。しかしどうして彼だったのかというところが馨には疑問だ。
「なぁ、何でお前の兄さんにここを離れさせなきゃいけなかったんだ? 中谷がここに相談しに来てたってなら、まだ分かる気がするけど」
来ていなかったのだろう、と言うと高佳も八木も頷いた。しかし八木の方には他に思い当たることがあったようで、高佳を見つめると慎重に切り出した。
「それ以前に、四季さんの関わられた事件がありました」
その黒い犬に関してということだろう。馨はそれを聞いて思わず座布団の上から身を乗り出した。
「え? じゃあ、今日の件が最初じゃないんですか?」
これが最初でないのなら、これが最後ではないという可能性も大きくなる。不謹慎な話かもしれないが、こうしてわざわざ坂道を上ってきた甲斐があったということだ。
「まだはっきりとは申せませんが……少々お待ちください。新聞記事を残してありますので、持って参りましょう」
そう言って八木は一度道場を出ると、しばらくして戻ってきた。その手には黄色のファイル。新聞記事の切抜きが入っているようだ。八木は流麗な動作で馨達の正面に座りなおすと、ファイルを捲って問題の記事を探した。やがて八木はあるところで手を止め、ファイルを反転させて馨達に読めるように床に置いて少し滑らせた。
「こちらです。どうぞ」
馨はファイルを受け取ってその記事を読んだ。脇から神無も首を伸ばして覗いている。八木は馨が記事を読んでいる間に、その記事の概略を話し出した。
「先月の24日、品川区のマンションで37歳男性が死亡。死因はショック性の心臓麻痺による呼吸停止です。自宅で妻と食事を摂った直後でしたが、警察は事件性なしとして事故で処理しています」
事件性がないと判断されたからか、新聞記事は小さく、従って情報量も少なかった。被害者の写真すら載っていない。記事に書かれている内容も、八木が言ったことで殆どだった。
「この男が黒い犬にやられたと?」
馨は一応高佳と瑞樹にもファイルを渡して見せた。その間にも、八木はゆっくりと事情を説明している。
「当初は妻の状態から警察も事件性を疑っておりました。強盗か、何かに襲われたのではないかと。警察が駆けつけたとき妻は酷い錯乱状態で、通報も妻の叫び声に気づいた隣人がしてくれたのだそうです。しかし妻にも、夫にも目立った外傷はなく、警察はとにかく妻の証言をとるために彼女を精神科医と引き合わせました。しかしいくら待っても錯乱状態は治まらない。このままでは埒があかないとして、うちに極秘で依頼がきました。真似事のお祓いでも良いから、彼女を落ち着かせることはできないか、と」
馨はその説明を聞いて片眉をつり上げた。日本の警察が陰陽師を頼るなんて初耳だ。しかも、その力を信じてもいないのに頼るなんて。
「何それ。真似事でもいいからって。まるでインチキでも良いからって言ってるみたい」
どうやら神無も馨と同じことを感じたらしい。こちらは素直に憤慨していたが、八木の反応は苦笑だ。どうやらそうやって警察に頼られることは珍しくないらしい。
「警察の方々は、呪詛や霊障を信じていたら捜査できませんからね。……それで、四季さんが病院に出向いて彼女に面会されたのです」
そこで失礼、と声をかけてから八木は麦茶を口に含んだ。それにつられるようにして、馨と神無も麦茶を口にする。坂道を上って体力を消耗していたので、水分が取れるのは素直にありがたかった。八木は馨と神無がコップを置くまで待ってから、話を再開した。
「四季さんがおっしゃるには、彼女は強い陰気に当てられてしまっていたそうでして。真似ではなく本当にお祓いをして、こっそり何があったかお聞きになったそうです。すると彼女は、夫は黒い大きな犬に襲われて、首元を強く噛まれたのだと言ったそうです。呼吸が止まりそうなほど強く、と」
その言葉に馨は背に悪寒が走るのを感じた。中谷が死んだときと同じだ。黒い犬は中谷の首元に噛みつき、息が止まりそうなほどぐっと顎に力を入れた。そして中谷はその通り、息を止められたのだ。その様子を、動けない馨は見ていただけだった。
「それに、彼女はこうも言ったそうです。夫はずっと、その黒い犬に狙われていたのだ、と。彼女は一週間ほど前から犬の影を見ていて、夫にも訴えたそうですが、夫は何も見えていないらしく、相手にしてくれなかったそうです」
妻の言うことを聞いていれば、もっと早く何かしらの手を打てたのかもしれない。しかし、もし見えていてもそれを認めることがその男に出来ただろうか。自分が呪われていると思うか、それとも日々の疲れが幻覚を見せたのだと誤魔化すか。後者のほうがよほど自然な考え方だと言えるだろう。
「その女性のお祓いをしたから四季さんを遠ざけた?」
瑞樹がゆっくりと口を挟んだ。高佳に向けられた問いだったのかもしれないが、馨はすっかり自分の考えに没頭していたので、意識せず瑞樹の問いに反応して口を開いていた。
「念のため、だろうな。もし高佳の兄さんが中谷の襲われた現場にいたら、祓われちまうし、当然この事件との関連性を疑う……から。ってことは……この二人、何かしらの共通点があるのかもしれないな。術者に辿り着くような」
「場合によっては、二人では終わらない?」
独り言のように呟かれた馨の言葉に、神無が反応する。そうだ、場合によっては二人では終わらない。この件には連続性が感じられる。本当の狙いは新藤ではなかった。それでは中谷だったのか。それとも、まだ他にいるのか。
誰が殺されようと、そいつには呪われるようなことをした過去があったのだろう。しかし、道端で簡単に人が刺される時代に、呪いという方法を使って人を殺すような輩は一体誰なのだろう。どんな恨みがあって、どうしてそんな方法を思いついたのか。様々な疑問が頭の中に渦巻いた。そして馨は橙色の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜてからおもむろに立ち上がった。
「……くそっ、野次馬根性丸出しみたいでカッコ悪いぜ。神無、家帰るぞ」
「えっ? だって……」
突然の帰宅宣言に、神無は非難の声を上げる。まだ術者については何も分かっていない。高佳の兄を呼び出したという女。しかしそれも本当に中谷の件と関係あるのか。新藤と中谷はどこかで繋がっているのか。まだ何も分からない。
「一旦家帰らねぇと調べられねぇだろ」
本当に野次馬根性丸出しだな、と馨は思った。苦い顔をしてそう言った馨に、神無は一瞬目を丸くして、すぐに嬉しそうに立ち上がった。
「うん!」
神無の嬉しそうな顔を見ると、益々自分が格好悪く思える。我関せずの顔をしてそれを最後まで突き通せればいいのだろうが、自分が結構なお人好しだという自覚は馨にもあるのだ。
ホント、カッコわり……。
自分の捻くれ具合があまりに中途半端で。神無の嬉しそうな顔がくすぐったくて。
「中谷とこの新藤ってのの関連性はこっちに任せろ。呪詛とかの方は俺、役にたたねぇし。お前達に任せる。ケータイの番号教えてくれ。何か分かれば連絡する」
そして馨は携帯電話を取り出す。同じように携帯電話を取り出した高佳の後ろから、困惑した瑞樹の声が馨を呼んだ。
「太刀守先輩、でも……」
良いのか、と訊きたいのだろう。こんなことに巻き込まれて、本当に良いのか、と。馨と神無の身を気遣っての言葉なのだろうということが理解できたが、ここまで来てこれでさようならというわけにはいかない。
「どうせ夏休み特に予定があるわけでもねぇし。それに、今更乗りかかった船から降りるなんて、こいつが許してくれねぇよ」
傍らにいる神無を親指で指すと、神無は何もかも分かっているという顔をして頷いた。馨のお人好しさ加減も、それを隠すような言葉も分かっているという顔。悔しいけれど、神無は間違ってはいない。この事件に、というより初めて目にした鬼という存在に、馨は興味を深めている。もう少し、関わってみたいと思っているのだ。
「お送りしましょうか?」
馨が自分の電話番号を口頭で伝えて、高佳が一度その番号にコールする。そして馨はかかってきた番号を携帯電話に登録した。その作業を終えたところで、八木がそう申し出てくれたのだが、馨はそれを断った。
「あ、いいッス。迎え呼ぶんで。ここの住所だけ教えて下さい」
車の中でしたいことがあるから、とは言わないでおいた。
八木に鞍馬家の住所を教えてもらい、馨は太刀守の運転手に電話をかけた。やがて迎えの車が来て、馨と神無は試合に出かけた今朝同様、太刀守の運転手が運転する車に乗り込んだ。そして乗り込んですぐに、馨は携帯電話を取り出す。
「さて、んじゃ穂に電話してみっか」
折りたたみ式の携帯電話を片手で開くと、その手に向かって神無が掴みかかってきた。
「何言ってんだよ! 穂には頼んないって……」
掴みかかって電話を奪おうとする神無から、馨は身をよじって逃げた。
「馬鹿。だからお前餓鬼なんだよ。利用できるもんは利用するの。大体あんま時間かけてらんねぇだろ。次があるなら」
「……そうだけど……」
どうしても穂の手は借りたくないらしい。しかし馨はぶつぶつと言い訳を続ける神無を無視して、登録してある穂の電話番号へコールする。1回、2回、なかなか穂は電話に出ない。携帯電話を置いてどこかへ出かけているのだろうか。穂に繋がらなかったら、直接隠岐にかけるしかないではないか。それは嫌なので早く出ろ、と馨は心の中で叫ぶ。やがてそろそろ留守番電話に切り替わる、というときになってようやく呼び出し音が切れた。
「おう、穂。お前、今空いてるか?」
穂の声を待たず、馨はそう切り出した。それに答えたのは馨の変わり者の友人。
『空いてるよ! って……元気よく言いたいよね〜。助けて〜、馨君』
いつも以上に弾けていると思いきや、途端にへろへろになった穂の声に、馨はすぐにその理由に思い当たって眉をひそめた。
「何だ、お前実家か」
何てタイミングの悪い。
『これはもう監禁だよ! あぁ、警察よりも権力のある自分の家が呪わしい』
つまり警察に駆け込んだところで、神生の家が穂を引き渡してくれといえば警察はそれに逆らえず、よって穂は警察の庇護は受けられないということだ。逃げ出せばすぐにボディガードに捕まるし、それ以前に屋敷から逃げ出すことは不可能なのだろう。憐れな奴、と馨は思ったがあまり憐れみの感情はこもっていない。別に穂が出て来られなくとも、十分に使える人間が別にいる。本当に用があるのは、実はそちらの人間だったりするのだから。
「まぁ、いいや。隠岐は使えるんだろ? 調べてもらいたい事があんだよ。俺からじゃなくて、神無からって言って調べさせてくれ」
隠岐と馨はお世辞にも仲が良いとは言えず、頼みごとをしても却下される確率が高い。それならば神無の名前を出したほうが上手く隠岐を操れるだろう。そう思って言ったのだが、穂はとんでもない勘違いをしたらしく、笑いの含まれた声でこう尋ねてきた。
『何? 女の子に逃げられて行方を捜しているとか?』
誰がそんなへまをするものか。それに馨は後で逃げるような女は最初から相手にはしない。
「何だそれ。そうじゃなくて……。おい、神無。お前が説明しろよ」
面倒だから、と神無の方に電話を差し出そうと思ったが、馨が耳元から電話機を外す間もなく、神無はふいと窓の外へ視線を投げてしまった。
「やだよ」
少しくらい協力しろよと言いたかったが、神無の相手ばかりしている暇もなさそうだ。こちら側の声が聞こえたのか、電話越しに穂が驚いたように声を上げた。
『え? ほんとに神無いるの?』
どうやら本当に馨の方便だと思っていたらしい。あまりの信用のなさに、馨はこの場で電話をぶち切りたくなったが、何とかその衝動を抑え込んだ。
「いるよ。言い出したのは神無の方だ。とにかく……あのな、N校の中谷って男性教師と、先月の24日、品川区のマンションで急死した新藤って奴の関連性を当たって欲しいんだ。年齢が違うから、同級生ではないと思うんだが、二人に共通の知り合いがいるかとか……」
馨の説明にふむふむと相槌を打ちながら、どうやら電話の向こうで、穂は馨の言ったことをメモしているらしい。
『別に良いけど……。どういう事情なんだい?』
「説明は面倒だからしねぇ。お前、今回は使えなそうだし」
説明をすれば余計に心配をかけるような気がした、ということもある。しかし説明をしなかった理由の大半を占めているのは、穂が苦境に立たされているのをわざわざ救ってやる口実を与えたくなったということだ。案の定馨の説明に逃げ道を探していた穂はその道を絶たれて絶望の声を上げる。
『うわっ! 酷いなぁ。確かに逃げ出せないけどさ。……何? 危ないこと?』
穂が声を潜めた。おちゃらけた雰囲気が一気に消し飛ぶ。神無と馨という面子だけで、穂はこの件が霊的な色を帯びていることを感じ取ったらしい。神無は生活していれば否応なく霊と関わる。しかしそれは程度の問題であり、穂は神無の身を案じているのだろう。勿論、馨の身のことも。
「そうかもな。だからもうひとつ。八王子に住んでる鞍馬って霊能者の家を調べてくれ」
それが十分に理解できたから、馨は車に乗ってからずっと考えていたことを口にした。穂に頼るという方針に納得できず、協力姿勢を投げ出していた神無は窓の外を眺めて我関せずの顔だったが、馨の言葉ににわかに反応した。
「何言ってんだよ、馨!」
神無の叫びに煩わしそうな顔をして、馨は携帯電話を反対側の耳に当て換えた。神無から遠い方、車の窓際へと。
『鞍馬……? 具体的に何を調べれば良いの?』
にわか祓い師は、とりあえず鞍馬の名前を知らないようだ。
「腕をさ。そっちの世界での評判が知りたいんだ。俺と神無の身の安全がどれくらい保障されるもんか、知っておかないとな」
脇から神無の睨みつけるような視線が体に突き刺さるが、馨はそれを無視した。これに関しては譲れない、そう考えていたからだ。
『……また、面倒そうな事態になってるね。良いよ、馨君からとは言わないで隠岐に調べさせる。結果はメールで? それともファックスが良い?』
「一応両方くれ」
メールだけでもプリントアウトすれば十分だが、ファックスで事足りるのならそちらの方が早い。
『オーケー。でも、あんまり危なそうだったら引きなよ。神無、あんまり力使えないからね』
「分かってるよ」
そのつもりだ、と心の中で続けると、馨はこちらから先に電話を切った。そしてずっと馨を恨めしげに睨み付けている神無にようやく向き合った。相対した神無の顔には不満が溢れている。それは年相応の子供らしい顔であり、馨は正直少しだけ安心した。
「そんな不満そうな顔すんなよ。俺はこれにお前の命も、俺の命もかける気はねぇし、一応今はお前の保護者なの。身の安全を確保するのは当然だろ?」
間違いなく正論だ。だから神無も強く怒れない。怒鳴って寝技のひとつもかければ馨は間違いなく降参するだろうが、そうする理由の正当性がない。だから神無はただ不満げに頬を膨らますだけなのだ。
「高佳の家が評判良くなかったらどうすんだよ……」
「その時は隠岐からもらった情報だけやって、俺達はそれまでだ」
努めてドライな口調で、馨は神無に告げた。すると神無はぎゅっと唇を噛んで、搾り出すようにして呟いた。
「そんなの嫌だ!」
気持ちは分かる。だが、馨は思い切り息を吸って、吐いた。そして出来るだけの厳しさを込めて、神無に言い渡す。
「良いか。力の使えない俺達がいても邪魔なんだよ! あっちの方に俺達を守る余裕がなけりゃ、ただ俺達はあいつらの足を引っ張るだけなんだぞ」
そしてそれは死に直結する可能性だって十分にある。巻き込まれるのも、巻き込むのも御免だと馨は思うし、神無だって高佳達の足は引っ張りたくないだろう。しかし、どうしても割り切れないらしい。
「高佳は強いよ。あたしは分かる」
強くきっぱりとそう言った神無は、もう今日出会ったばかりの高佳を信頼していた。鬼であると自ら言ったあの男を。そして、馨の頭にも寂しげな高佳の目しか浮かばない。あの顔が馨の想像するような鬼の姿になる様子は全く想像できなかった。
「それは俺も分かるよ。でもいざという時高佳一人で俺達庇えるわけねぇだろ。俺にはいまいち、瑞樹の方の力はわかんねぇし……」
実際、神無や高佳のような力の強い人間が側にいても、瑞樹からは何も感じないのだ。力があることは朧げに理解できるのだが、それがどれくらいの大きさかはっきりとしない。それどころか、馨の中で瑞樹の印象はあまりに薄い。外見が地味だということもあるのだろうが、高校生男子にしては覇気を感じないということもある。
力の強い神無の方が、瑞樹については余程正確に見抜いているのだろうと馨は期待していた。しかしどうしたことか、馨の期待に反して神無は瑞樹について言葉を濁したのだ。
「瑞樹は……あたしも、よく分かんないけど……」
高佳の時とは態度が違いすぎる。神無の瑞樹に対する印象は、馨のものと大差ないということだろうか。
「お前も? でも、霊感はあるんだよな、あいつ」
そうでなければ何の説明もなくあの場にいられたとは思えない。黒い犬の姿が見えていたのだろうし、そして高佳の正体についても、分かってはいたはずだ。
「うん。でも……何か良く分かんないんだよ。隣に幽霊を連れてたから霊力があるってことは分かったけど、普通にしてたら力があるようには見えないんだ」
隣に幽霊を連れていたから、という言葉さえ馨には理解できない。憑依されていた、ということのように聞こえるが、そうなら神無はそのように言うだろう。あまりにはっきりとしない。それが、今日二人が弥栄 瑞樹という人間に会って持った共通の認識だったのかもしれない。
「何だ、そりゃ。参ったな、瑞樹のことも調べてもらうべきだったかな」
瑞樹が自分の身を守れるか、そうでないかによって高佳にかかる負担が変わってきてしまう。それとも、そんなこと馨が考える必要はないのだろうか。瑞樹の力も、馨や神無の力も分かっていて、それでも高佳は馨達が協力することを拒まなかった。問題がないと判断したからこその態度だったのか。それは、馨がいくら考えても答えの出ない問いであった。直接高佳に訊かない限り、分からないことなのかもしれない。
車が太刀守家に着くと、馨と神無は玄関先で車から降りた。運転手が駐車場へ車を回している間に、馨は神無と一緒に家に入った。まずリビングへ向かうと、ファックスから紙が出て、床にまで溢れていた。馨がそれを拾い上げ、びりりと破る。
「おっと、隠岐からの返事だ。流石に速ぇな、あいつ」
そのまま読むには長くて読みづらい。馨はやはりメールを印刷した方がよさそうだと判断して、神無を連れて自分の部屋へ上がっていった。自室に着くと、馨は送られてきたファックスを神無に渡し、自分はデスクトップ型のパソコンを起動した。神無はその間にもベッドに腰掛けて送られてきたファックスを読んでいる。
ようやくパソコンがたちあがると、馨はすぐにメールソフトを起動した。そしてメールを受信すると、数人のガールフレンドからのメールと、穂の名前でメールが届いていた。馨はとりあえずガールフレンドからのメールを無視して、穂から届いたメールだけを開いた。添付ファイルが含まれている。それを開けようとした時、ファックスを読んでいた神無が、パソコンデスクの前に座っている馨に近づいてファックスを見せた。
「これ……。ねぇ、馨。中谷と新藤って、大学時代の先輩と後輩だって。同じサークルに所属……。旅行の時の写真がついてる」
見せられたファックスの写真は残念ながらあまり精度の良いものではなかった。馨は開こうとしていた添付ファイルを開いた。やはり隠岐はその写真を画像として送ってきてくれていた。大学やサークルのことについてはファックスの記事だけで十分読むことができる。馨はその画像だけをプリンタで印刷にかけた。
プリントされた写真は多少不鮮明ではあるが、どうせ顔はもう相応に年をとっているはずだ。あまり参考にはできないだろう。名前と当時の住所のほうがよほど役に立つ。
「ってことは、とりあえずこのサークルのメンバーが怪しいな。……鞍馬の調査は……」
馨はそう言って、神無の持っているファックスの後半部分を切り取った。思ったよりも詳細に調べてくれたらしい。神無からの依頼と言っておいて正解だった。馨がそのまま読みに入ろうかと体勢を作ったところで、手にしていた鞍馬の記事は神無に取られてしまった。馨が不満を顔で表すと、それ以上に不満げな神無の顔にあたってしまった。
「先に電話しろよ。高佳達、待ってるよ」
「あぁ……分かったよ」
神無に睨まれて、馨はまた携帯電話を取り出す。登録したばかりの電話番号を見つけてコールすると、呼び出し音が3回鳴った後、愛想のない声が電話に出た。
『……はい』
低い声に一瞬戸惑ったのは、馨が普段あまり男に電話をしていないせいだろうか。
「よお、二人の接点が見つかったぜ。とりあえずもう一回お前ん家に邪魔しても良いか」
『はい。面倒でなければそうしてもらえると……』
と高佳が言いかけたところで、高佳側の背後が五月蝿くなった。誰かが後ろで高佳の名前を呼んでいる。瑞樹か、と馨が思ったところで、携帯電話から聞いたことのない声が流れてきて馨の名前を呼んだ。
『えぇっと、太刀守君?』
「……へ? あ、あぁっと……そうです、けど?」
誰だろうか。高佳でもない、瑞樹でもない。あの八木という人や藤沢という人でもない。しかし高佳の電話なのだから、全く関係のない人間が出てくるはずはないのだ。悩んで言葉に詰まった馨に、電話の向こう側の人物は自ら種明かしをしてくれた。
『俺、高佳の兄貴。太刀守君とはとこのお嬢さんは夕飯食った?』
そうか、群馬に行っていたという高佳の兄、四季だ。高佳からの電話を受けて群馬から戻ってきたのだ。高佳より高いテノール。はきはきとした喋り方。しかしこれでは高佳に似た顔は浮かんでこない。それに何故突然夕飯の話をされなくてはいけないのだろう。
「いえ……まだ、です」
一応初対面で年上だよな、と思いつつ馨は言葉を選んで慎重に答えた。
『パスタ食べられる?』
「は、はぁ」
『トマトもカボチャのスープも平気?』
「え、えぇ」
『それではそのまま何も食べないで家に来ること。オーケー?』
「お、おーけー」
有無を言わせぬマシンガン口調に、馨は相槌以外の言葉を挟めなかった。あれよという間に話がまとまったようで、電話の向こうの相手は最後に一言。
『よし』
そう満足そうに言った。呆気にとられて電話を握ったまま体のどこも動かすことの出来なかった馨の耳に、次に聞こえてきた声は高佳の声だ。
『太刀守先輩? すみません。四季が食べる物を用意しますから、そのまま来てください』
その声が幾分馨を気遣っているような調子だったように思うのは、馨の気のせいだったのだろうか。
「わ、分かった」
先に高佳の電話が切れた。馨は高佳の電話が切れる音を聞いてから、ゆっくりと電話を耳元から外した。そして奇妙なものを見るようにしてじっと携帯電話を見つめる。嵐のような電話だった。とにかく夕飯を食べずに鞍馬家へ行けばいい、ということなのだろう。
会話が終わってもじっと携帯電話を見つめている馨を不審に思ったのだろう。神無が同じように馨の手にある電話を覗き込んだ。しかしもう誰の声も聞こえない。
「何? 誰と話してたのさ? 高佳だよね?」
馨はようやく電話を閉じて、しかしまだ嵐に巻き込まれた後の呆然とした様子を引きずりながら答えた。
「……最初と、最後は」
馨の正直だが聞いている方にとっては奇妙な答えに、神無は眉をひそめた。
「何それ。真ん中は? 瑞樹?」
それにしては馨があまりに呆然としすぎている、と神無も分かっていたのだろう。そして馨は神無の思った通り、瑞樹の名前には首を横に振ったのだ。
「高佳の兄さん。……何か、強烈な奴だった……」
実際に馨の立場にならなければ、その強烈な印象は伝わらないだろう。神無は分からないという顔をして首を傾げた。
鞍馬家へ出向いて、その兄と会うことを考えると楽しみのような、できれば避けたいような何とも言えない気分だった。しかし彼が夕食を用意してくれていることを神無に告げると、それならば急がなければと言われて馨は再び太刀守の運転手を引っ張り出した。一体どんな男が出迎えてくれるのか、想像だけは逞しく馨の頭の中を駆け巡っていた。
盈 / 之