神無は体育館の入り口からすぐ左側にある階段を上った。階段状に椅子が配置された観客席に上ると、弁当を持ったまま、試合の行われる体育館の前方の方へと進む。下を見ると、畳の敷かれた体育館の端のほうで、馨が剣道着に着替えている様子が目に入った。他の選手とは明らかに違う少し長めの橙色の髪の毛。それも面をつけたら気にならなくなるだろう、と神無は車の中で馨から取り上げたピアスを見ながら思った。
何だかんだ言って、結構面倒見のいい奴だからなぁ。
ピアスをハンカチに包んでパンツのポケットに入れながら、神無はそう考え、思わず頬を緩ませた。心には夏休み前に起きた、複雑な事件がある。叶との出会いは馨の世話なしにはなかったものだ。馨はそんな風に考えてはいないだろうし、神無だって直接言うつもりはないけれど、あの事件の前も後も、馨には感謝している。
思い返せば抜け出せないような過去の出来事から頭を切り替え、試合が見やすい観客席の半ばに神無は自分の席を確保した。確かに単なる交流試合としては観客が多いが、混み合うほどではない。まだ準備中の選手を、携帯電話のカメラを使って撮影している女子高生を神無は首を捻って一瞥した。そんなに格好良い選手がいるのだろうか。大体、選手本人の許可を取らずに撮影するのはいけないことではないのだろうか。
弁当を足元に置いて、神無は体育館をぐるりと見渡した。形にもならない雑霊がふらふらと漂って、馨の側まで流れていく様子が目に入った。今は神無と離れているので馨は雑霊の姿を見ることはできていないが、その気配だけは感じたようで、胴着をつける手を止めて手で宙を払った。馨には神無の祖父が施した護法が効いているので、馨の手に当たって雑霊が塵のように砕かれ消えていくのが分かった。その仕草が何となく面白くて、神無はこっそり笑った。そして相手校の選手達を見ようと視線を動かしたところで、神無は妙な違和感に鳥肌が立つのを感じた。
何だ?
はっきりとはしないけれど、異質なものだ。この体育館の中にある。神無はその違和感の元を探るために目を閉じた。どこか遠くないところにある。危険は感じないけれど、ここにあってはいけないものだという気がする。
どこだ。
携帯電話で写真を撮る音。写真を見て騒ぐ女子高生の声。熱心に剣道談義をしている中年の男性達。雑音が多すぎる、と神無は眉間に皺を寄せた。封印された力は前より使いづらい。少しだけで良い。集中しなければ、と思った矢先、神無の耳元で明らかに自分に問いかける言葉が発せられた。
「隣、空いてますか?」
神無は慌てて目を開け、声のした左側を向く。すると座っている神無に合わせて身を屈める青年の顔が目に入った。艶のある黒い髪。整った顔立ちだけれど、好青年という表現は似合わない。健康的な爽やかさからは程遠い、病的なまでに白い肌。けれど不健康そうではないのが不思議だ。
「どうぞ」
邪魔をされたことが不満で、ぶっきらぼうに神無はそう返した。青年は神無の言葉にほっと息をつき、無愛想な答えも気にならないのかありがとうと言って神無の隣に腰を下ろした。だが通路に連れらしき人がもう一人いる。ずれてくれと言えばいいじゃあないか、と神無は思って席をひとつ右に移動しようか青年に訊きかけた。しかしすぐにその必要がないことに気づいて息を呑む。腰を下ろした黒髪の青年の隣に立っているのは、生きている人間ではない。若い、二十代前半くらいの男性だ。男性はただ剣道部のいる下を見て、黒髪の青年から離れない。憑りついているのかと思えば、そうでもないらしい。どちらかというと、青年があえてその霊を連れているようだ。
でも、霊感があるのなら近づいて来たときに分かるはずなのに……。
何も感じなかった。今だって、死霊を連れて何の影響も受けずにいられるほどの力を持っているとはとても思えない。不審に思って、思わず隣に座る青年の顔を覗き込んでしまう。青年は勿論、突然知らない少女に顔を覗き込まれて目を丸くした。じっと覗き込むと青年は大きく見開いた目を、数秒後パチパチと数回瞬きさせた。こんなに不躾なことをされたら、ほとんどの人間はすぐに気を悪くしてこの場を立ち去るだろう。しかし青年はどこか浮世離れしているようで、顔を覗き込む神無にほんわりと微笑んでこう言ったのだ。
「……もしかして、俺の隣に立っている人が見える?」
「えっ……」
確かに見えているけれど、普通初対面の相手にそんなことを訊いたりはしない。気が狂っていると思われるのがオチだ。それとも、子供だと思ってからかわれているのだろうか。人のよさそうな顔ではある。しかし世の中見た目どおりという人間はいないことを、神無は良く知っている。馨も良い意味でその例のひとつだ。
「怖い?」
黙って何も答えない、しかし視線を逸らすわけでもない神無に、青年はさらに問いかけた。沈黙は肯定ととられたらしい。間違っていないのだから別に構わないのだけれど。
「全然。悪い奴じゃ、なさそうだし」
何言ってんの、と誤魔化しても良かったのだが、それこそ初対面の相手に嘘をつく理由も見当たらない。改めて青年の脇に立つ霊を見ながら、神無はそう答えた。まだ若い男の霊は慣れきっていないスーツを着て、無表情にT校の選手を見ていた。特に強い執着が見えるわけではない。それどころか、霊としては穏やか過ぎるくらい悪意を感じない。
「そこまで分かるんだ。すごいね」
「別に……」
小学生の神無より無邪気な顔で、素直に賞賛の言葉をくれた青年に神無はますます戸惑って、その分ぶっきらぼうになる。この能力で他人から褒められることなんて滅多にない。だから青年の賞賛は照れくさかったし、もしかしたらこの青年は頭が足りないのではないかと天邪鬼なことも考えた。
「試合が見たいっていうから、連れてきたんだ。普段は学校の校舎から離れられないんだけど」
青年は見れる人間を見つけた喜びからか、周りも気にせず霊の話を続けた。もっともそれほど神経質にならずとも、他の人間はすでに試合会場に見入っていたり、お互いの会話で精一杯の様子だった。神無も周囲のことは気にせず、青年と話を続けることを選んだ。気になるのだ。青年は“連れてきた”とさらりと言うけれど、本当はそんなに簡単にできることではない。生きている人間なら手を繋いで連れてくることも出来るが、相手は生きている人間ではないのだ。一般的に“連れてくる”という言葉では、憑依されて“連れてきてしまった”という意味になる。自分の意思で、霊から何の影響も受けずに“連れてくる”ことが出来るなんて聞いたことがない。
「先生なの? そいつ」
神無は探るように相手を見ながら言った。だが、最初の印象と同じように、青年からは強い霊気を感じない。ただ微かに、甘い花の香りが匂っただけだ。香水でもつけているのかもしれない。神無は基本的に生花以外の香りは嫌いなのだが、この匂いは不快に感じなかった。
「先生になるはずだった人。丁度今年の3年生と一緒にこの高校に来るはずだったんだけど、赴任前に事故で亡くなってね。3年生が卒業するまでって約束で学校にいるんだ」
その教師の霊を見ると、なるほど彼はじっとT校の選手を見詰めている。確かこの交流試合にはもう3年生は出ないはずだが、少しでも長く一緒にいたいという想いがあるのだろう。夏休み中では校舎の中にいる生徒は限られてくるだろうから。
「3年生が卒業したら、あんたが祓うの?」
神無の言葉に、青年は初めて戸惑いの色を見せた。そんなに突拍子もないことを訊いた覚えはないのだが、と神無は内心首を傾げる。3年生が卒業するまでという約束をしているのなら、その後は誰かが祓ってやらなくてはいけない。49日を過ぎた霊は、自力では上へあがれないからだ。
しかしどうやら、青年が戸惑いを覚えたのは祓うという行為ではなく、その言葉だったらしい。神無の問いに、青年は戸惑いつつもこう返したからだ。
「流す、と言った方が正しいと思うけど、うん。俺が送ってあげるつもりだよ」
神無にはその違いが良く分からなかった。態度からすると、青年にも良く分かっていないようだ。
「ふうん。あんたはT校の応援?」
青年は私服だったが、年は丁度高校生くらいだ。だから神無はそう尋ねたのだが、案の定、というべきか青年はこう答えた。
「知り合いが出場するんだ。正規のメンバーだった人が怪我してね。代理で」
「へぇ。じゃあT校も一人は助っ人か」
神無がそう漏らすと、青年はおおよそ高校生男子らしくない可愛らしい仕草で首を傾げた。神無はなよなよした男は嫌いだが、この青年の場合はなよなよしているというか、幼い子供のようで嫌いになれない。
「T校も?」
「あたしの知り合いはN校の助っ人。こっちは夏風邪でへばったんだって」
「へぇ、それはまた奇遇だね」
まぁね、と神無は返そうとした。しかし観客席後ろの通路から、強い霊力が近づいてくるのを感じて思わずそちらの方を向いてしまう。その瞬間、通路を歩いていた男とばっちり目が合ってしまった。相手は小柄な、若い男だ。隣に座っている青年と同じように綺麗な黒髪で、大きな瞳が神無を捉えるとにこりと笑う。相手も神無の霊力を一瞬で見抜いたようだが、警戒するような素振りは見せなかった。男はすぐに顔を神無の隣に向け、ぱっと顔を輝かせると大きく右手を振った。
「お、いたいた。瑞樹!」
みずき、と男が呼ぶと、神無の隣に座っていた青年がさっと立ち上がって後ろを向く。その時には小柄な男は観客席脇の階段を下りて青年のすぐ近くまで来ていた。近くで見ると、やはり男は背が低かった。もしかしたら馨より低いかもしれない。
「四季さん。今日はお仕事だったんじゃ……」
青年の言葉に神無は思わず青年の体の後ろから、背の低い男の顔をこっそり覗き見た。男は小柄なだけではなく、整ったかなり若い――幼いというべきか――顔をしている。神無から見たって、仕事をするような年にはとても見えなかった。
「今から行く。とりあえずこれ、高佳とお前の分の弁当」
そう言ってずいっと小柄の男が差し出したのは、神無が持ってきた弁当よりもさらに段の多い弁当箱だった。紫色の風呂敷に包まれたその弁当を、青年は戸惑いながら受け取った。
「えっ、俺の分も? ……すみません」
青年が丁寧に頭を下げると、小柄の男は苦笑した。その表情だけ見れば、小柄でも男は青年より年上に感じられる。
「いや、お前こそ、試合見に来る気になってくれてありがとな」
「……四季さん、俺……」
おや、と神無は思った。青年は自ら好んでこの試合を観戦しに来たのではないようだ。そういえば、知り合いのとは言ったけれど、友達の、とは言わなかった。同じ学校なのに。何か事情があるのか、それとも単に武道系の試合を見るのが嫌なのか――神無には理解できないが、人が殴りあったり人を投げ飛ばしたりするような行為を見たくないと思う人種はいる――どちらにせよ、誘ったのは小柄な男の方らしい。
「悪いけど、今は相談に乗ってやれない。すぐに行かなくちゃ間に合わないからな。でも約束するよ、瑞樹。あいつは確かに俺の弟だけど、ただそれだけじゃあないってことは分かっている。だから、お前とあいつとのことはなるべく中立の立場でいてやるつもりだ」
男はそう言って、青年の肩に手を置いた。そして踵を返そうとしたのだろうが、足が通路側を向いたところで男は思い出したように肩から下げていた鞄に手をやった。
「じゃあな……と、いけね、忘れてた。瑞樹、これ」
ごそごそと鞄から男が取り出したのは、銀色に輝く手のひらサイズのカメラだ。それを男は青年の手をとって仰向け、その上に置く。
「……カメラ……ですか」
じっくりと手の平の上にあるものを眺めてから、青年は言った。そんなにじっくり見なくたって、一目見れば分かるだろ、と神無は心の中で青年に突っ込んでやる。
「そう、なるべくたくさん撮ってやってくれ。少ないとうちの親父さんががっかりするから。あいつにピント合わせれば、変なものは写らないはずだから。よろしくな」
そう言うと、今度こそ男は身を翻して足早に階段を上り始めた。男は去り際に悪戯っぽく笑って、ずっと聞き耳をたてていた神無を見やり、腹の辺りで小さく手を振った。神無がその行為に面食らっている間に、男はさっさと観客席を下りて行ってしまった。
「……誰?」
その姿も霊気も感じなくなったころ、立ち上がっていた青年が再び椅子に座ったところを見計らって神無は尋ねた。青年は風呂敷に包まれた重箱を神無と同じように足元に置き、カメラを大事そうに持ったまま神無の問いに警戒なく答えた。
「試合に出る知り合いの、お兄さん」
やはり友達とは言わないのだな、と神無は思ったが言わなかった。何となく、言ってはいけない気がしたからだ。
「……神社か、お寺の人?」
「どうして?」
「そういう感じがしたから」
祖父と同じ匂いがしたとでも言うべきか。神無はあの男の力を見抜いたし、あの男も、一瞬で神無の力を見抜いたようだった。
「お祓いとか、そういう仕事をしているって聞いているけど……そう、陰陽師って言ってたかな?」
「あんたは違うの?」
「俺?」
「祓えるんでしょ?」
確信的に尋ねた神無に、青年は先ほどもそうだったように戸惑いの表情を向けた。祓うも流すも同じことではないかと神無は思ったが、青年には何かこだわりがあるらしい。祓うという言葉には素直に頷けないようだ。
「俺は違うよ。祓うのとは、多分違う」
「多分、って何? 自分で分かんないの?」
「……うん、そう。よく分からない。生まれた時から、ずっと使っていた力だから」
そういう感覚なら、神無にも分からなくはない。神無だって、生まれた時からずっとこの力を自然に使ってきたのだから。
「名前、ミズキっていうの?」
唐突に神無が問うと、青年はどうして知っているのだろうと思案顔になった。やっぱりこの青年はのんびりしすぎているようだ。しばらく考えてから、ようやく自分と知り合いの兄だという男との会話に思い当たったのだろう。よくちゃんと聞いていたね、と小学校の教師がするような馬鹿みたいな笑顔を向けると嬉しそうに頷いた。
「うん。弥栄 瑞樹」
そう言うと、瑞樹は宙に漢字を書いた。それでヤサカ、と読むのかと神無は思って、ミズキというのは女の子みたいな名前だなとも思った。
「あたしは太刀守 神無」
神無が口頭だけで告げると、瑞樹は首を傾げた。
「かむな?」
珍しい名前に、初めて訊く誰もが首を傾げるのだ。神無はそんな反応にはすっかり慣れていて、自分の手に漢字を書いて示してやった。瑞樹は神無の小さな手をじっと見つめ、教えてもらった漢字を自分の手に繰り返して書くとぼんやりと笑うと、感動したように言った。
「……あぁ、不思議な名前だね。君がいると、君に留守を任せてそこの神様は出雲に出張してしまうのかな」
神無は瑞樹の言葉に思わず目をぱちくりさせた。そんなことを言われたのは初めてだ。変な奴、と思ったけれど、不快ではない。ちょこっとくすぐったい、と神無は頬を少しだけ赤らめた。
もぞもぞと剣道着に着替え、防具をつけた馨は防具にしみこむ汗の臭いに思わず顔を顰めた。だから剣道なんて嫌だったのだ。大体夏の暑い時期にこんな防具を身につけている時点ですでに狂人だ。
早く始めて、早く終わらせろ!
早くも焦れ始めている馨に、部長が対戦表を持って近づいてきた。それならもう数日前に渡されていただろうにと思った馨だが、心なしか部長の顔がほころんでいる。何かあったに違いない。
「太刀守、どうやら向こうも一人メンバーを替えてきたみたいだ」
案の定だ。そしてそれを部長が喜んでいるということは、こちらにとって有利な変更だったのだ。馨はそれを確信しつつも思っていることを隠していかにも興味ありげに訊いた。
「へぇ? 強い奴?」
「いや、一年みたいだな。知らない名前だ」
部長は相手選手が見たら気分を悪くするだろうという満面の笑みで、馨に対戦表を見せた。自分のものを誇るわけでもあるまいに、部長はやたら嬉しそうだ。剣士としての誇りも信念も、部の存続という目標の前には土に埋めたのだろう。
馨は肩をすくめて対戦表を見た。馨と同じ大将の役割に、新しい名前が書かれている。ありがたいことに、名前には読み仮名がふってあった。それがなければ名前はまだしも、苗字を何と読めば良いのか分からなかっただろう。
「鞍馬 高佳……か。まぁ、別に良いけど、俺はただの助っ人だし」
そんな他人行儀なこと言うなよ、と部長は悲鳴を上げたが、馨は完全に無視した。この試合は正規部員が頑張るものだし、頑張りが見えなければ馨だって手を貸してやる義理はない。いくら頑張っても負けてしまい、結果馨が5人抜きをしなければ勝てないという状況になったら、馨は竹刀を放り出して会場から逃げだすだろう。5人を抜くまでこの汗臭いものを付けていることはできない。忍耐できる間に試合が終わることを、馨は願っていた。
かくして試合が始まった。両校5人の選手が勝ち抜き戦で対する試合だ。主審にはこちらN校の顧問中谷がつき、副審にはT校の顧問と副顧問がつくことになった。主審の右側にいるN校が赤、左にいるT校が白となり、それぞれ先鋒と次鋒はすでに面と小手をつけ、竹刀をもって整列している。試合前に全員が立礼をすると試合が始まるのだ。
N校の部長は先鋒、次鋒、中堅に入った2年生のいずれかが一人勝ち抜くことを期待していた。体力的にも技術的にも、部長が五人を抜くには無理があるからだ。しかし、予想外に2年生3人はよい働きをしてくれて、3人終えてこちらが3敗、相手が2敗ということで、二人勝ち抜いてくれたのだ。そのため部長はあと3人抜きすれば勝てるという状況に立った。相手校の大将は急遽メンバー変更になった一年生だ。中堅と副将さえ切り抜ければ何とかなる。この時点で馨も、もう自分の出番はないかと思っていた。弱小N校にいながら、部長個人は腕が良い。個人戦ではいい成績を残している男だから、3人抜きも不可能ではないと感じていたからだ。
しかしこれまた予想外、と言って良いのだろう。部長は相手校の中堅には勝ったものの、副将戦に負けてしまったのである。力量的には勝てる相手だっただけに、意気消沈する部長を見ると気の毒な気分になる。馨は元々一勝くらいしてやるつもりだったので、副将戦には3本先取して勝ってやった。ずいぶん剣道とは遠ざかっていたけれど、昔叩き込まれた感覚というのは結構長く残っているものだと感心してしまった。
さて、問題は大将戦だ。部長は横目で勝ってくれと必死に訴えているが、ここで馨が勝てばN校の勝ちが決まってしまう。それではやはり詐欺だと馨は思うのだ。どうしようかと考えたが、主審は馨が考えをまとめるまで待ってはくれない。大将戦を始める仕草を見て、馨は悩みながら立ち上がった。場外で正面を向き、試合場内に入って提刀のまま立礼。顔を上げて、馨は驚いた。今まで感じるだけで見えていなかったものが見えている。雲のように流れる雑霊の塊。会場の隅にはもんぺ姿に防災頭巾を被った女の子が蹲っている。
おいおい、冗談だろ?
何で神無があんな遠くにいるのに“見える”んだよ。
焦りつつも帯刀し、馨は試合開始線まで3歩で進む。3歩目に竹刀を抜きながら蹲踞。馨は相手校の大将に近づくたびに肌が粟立つのを感じていた。急遽メンバー変更となった1年は、向かい合うと馨よりも背が高い。面の奥にある表情は読み取れないが、強い気が馨を圧迫する。
こいつだ。
こいつのせいで“見えて”る!
いくら不自然な存在が目の前にいるからと言って、この場で騒いで試合を中止するわけにはいかない。部のためというより、そんなことを言い出したら馨の方がおかしくなったのだと疑われる。馨がそうして内心酷く動揺している間にも、面のせいで選手の表情なんて読み取れない主審が試合開始の合図をする。馨は相手に少しだけ遅れて蹲踞の姿勢から立ち上がる。
すぐに両者は後ろに下がって距離をとった。睨み合いは長く続かなかった。馨が最初から相手の強い気に押されてしまっていて、足が前に出なかったのである。悔しいことに、馨は身長が高くないので、相手とは15センチほど身長差があった。相手の一歩はとても大きい。最初から面を取りにこられて、馨は上体を捻って辛うじてそれを避けた。カウンターを狙おうと馨が体勢を立て直した時には、相手はすでに馨と十分な間合いをとっていた。
しかも……何だよ、こいつ強ぇ……。
これって、詐欺じゃないのか?
元からの強い気に加えて、今は試合のため剣気とでもいうのか、特別研ぎ澄まされた気迫がひしひしと伝わってくる。こんなもの、経験を重ねた者にしか出せないだろうに、相手は馨よりもひとつ年下だ。ぐっと息を呑んで今は試合に集中すべきだ、と馨は判断した。これはわざと負けるとか、手を抜いて勝てるような相手ではない。幸い相手の気が強すぎて、雑霊は二人の近くには寄ってこない。相手に不自然なことがあったとしても、今は忘れるだけの価値がある。暑苦しい信念とか厳しい教えは嫌いだが、強い相手とこうして対戦するのは、昔から嫌いではなかったのだ。背筋はずっとぞくぞくしているけれど、きちんと分析してみれば悪い感覚だけではない。馨は面の奥でニッと笑った。
一方最終戦となる試合を観客席から見ていた神無は、馨の対戦相手となるT校の選手を見やってようやく気づいた。会場に入ってからずっと気になっていた違和感。その元となる者が、馨の前に立っていた。瑞樹が現れたせいで、違和感は瑞樹の力にあるのだと思い込んでいたが、それは違った。今なら分かる。隣に座っている瑞樹は全く危険な感じがしない。しかし馨の前に蹲踞の姿勢をとって試合開始の合図を待っている男は違う。何か術がかけられていて、上手く目が留まらないとその力を強く感じ取れないようにしてあるのだ。実際、神無は試合が始まる前にもT校の選手達を見ていたが、違和感の元がそこにあるなんて気づかなかった。
「……あいつ、人間じゃあない! 馨が……」
神無は周囲に不審がられない程度の声で呟いた。試合を止めさせなければ、と咄嗟に思った。馨に危害を加えるつもりかもしれない。何食わぬ顔で人の体に入っている奴なんて、きっとろくでもない奴に決まっている。神無は立ち上がろうと腰を浮かせた。しかしそんな神無を、隣に座っていた瑞樹が腕を掴んで止めた。
「待って、彼は人間だよ」
それで分かった。瑞樹の言っていた知り合いとは、今馨と試合をしている選手のことなのだ。瑞樹がその正体に気づいていないはずがない。それなのに神無を止めるなんて、一体何故なのだ。
「だって、体と魂が別物だ。そんな奴、叶以外に……」
いるはずがない。そう言いかけた神無だが、次に聞いた瑞樹の言葉に驚愕して何も言えなくなった。
「確かに魂は本来のものじゃあない。でも、良いんだよ。そのことは家族も分かっているし、彼も人に害は加えない」
家族も分かっている。その通りだ。先ほど弟に、と言って弁当を持ってきたあの小柄な男。あれほどの力を持っている者が、弟の体に入り込んだ者の正体に気づかないはずがない。それなのに普通にその存在を弟と呼び、弁当まで作って、おまけに写真を撮っておいてくれなんて。
一体、どうなってるんだよ……。
瑞樹の言葉を信じて良いのか、神無には分からなかった。人に害は加えないなんて、神様でもあるまいし。そう神無が戸惑っている間にも、試合は進んでいた。
馨はすでに相手の小手有りで一本先取されていた。試合時間は5分あるが、すでに3分経過している。このまま時間がきてしまえば相手の一本勝ちだ。負けるにしても、そんな情けない終わり方では本当に神無に足蹴りされそうだ。せめて一本取り返す。そう負けん気の強い馨が決意したその時、動き回って汗ばんでいた馨の背をぞっとする感覚が駆け上った。
何だ? 何か、おかしい……。
ずっと気になっている相手のことではない。何か別の感覚が、馨の左側からぐんぐん近づいてくる。余所見をしている暇はないと分かっていたが、馨は見えない引力でもって左を向いた。すぐ馨の目に飛び込んできた黒い大きなもや。それはぐんぐんスピードを上げて、馨と試合相手の間を一直線に通り抜けて行った。
犬?
4本足で走り、尻尾も確かに見えた。試合の手が、足も、止まってしまった。馨は呆然と、目の前を駆け抜けていった犬の影を追った。それは馨の目の前を通り過ぎて、主審である中谷の前に迫っていた。
「うっ……」
中谷にはその犬が見えているのだろう。酷く青い顔をして、中谷は試合そっちのけで後ろへと一歩逃げた。犬は唸り声を上げて、逃げる中谷を追い詰める。
「主審? 大丈夫ですか? 中谷先生……」
副審は中谷の異変を察して、試合を中断させ、中谷へと歩み寄った。やばい、と馨は感じた。動いて、副審やあの犬を止めければと思ったが、金縛りにあったように体が動かなかった。
「ち、近づくな! よせ、来るな!」
じりじりと近づく犬に押され、中谷はとうとう顔を真っ白にして叫んだ。
「先生、どうなされたんですか」
近づくなと自分に言われたと思った、副審の足が止まる。しかし中谷は体育館の壁際まで脅えた様子で下がっていく。背が壁に当たり、これ以上逃げ場がないと察した中谷は、決死の覚悟で犬の脇を駆け抜け、何とか逃げようとしたのだろう。しかし実際には足にぐっと力が入っただけで、犬は中谷の次の行動を察して飛び掛っていった。
「来るな! くっ……」
必死に何かを追い払う仕草をしている、とそういう風に会場の人間には見えただろう。実際、中谷は必死になって黒い犬を追い払おうとした。だが黒い犬は中谷の手をすり抜けて、一直線に中谷の首元に噛り付いた。馨は何とか黒犬を中谷から引き離そうとして動いたけれど、黒犬の顎にぐっと力が入れられると、中谷が会場全体に響き渡る叫び声を上げた。
耳を劈く鳥肌が立つような悲鳴。馨は面を脱ぎ落とし、体育館の隅にまで逃げた中谷に駆け寄った。黒い犬は中谷の叫びとともに消え去っていた。馨が中谷の側に膝をつくと、中谷は口から泡を出してもうすでに意識がない状態だった。首元の脈を探るが、それも止まっている。人工呼吸をして間に合うだろうか。
馨だけが中谷の気道を確保しようと動いていた。他の人間は何が起こったのか分からない様子で立ち止まっている。
「何ぼさっとしてんだよ! 救急車呼べ!」
馨の叫びにはっとなって、T校の教師が慌てて救急車を呼びに行った。途端に会場が騒ぎ出す。パニックにまで発展しなければ良いが、と思いながら馨は部長を呼んだ。丸めたタオルを中谷の首の下に置き、気道を確保すると馨が人工呼吸を行い、部長が心臓マッサージを行い始めた。
馨がちらりと空気が肺に入っていることを確認すると、その視線越しに先程まで対戦していた相手が目に入った。今は面を取っているが、表情はまったく動いていない。まるで、蘇生などしても無駄だと言っているように見えた。馨はその表情が気に食わなくて、意地になって救急車が来るまで蘇生を繰り返した。
5分後、救急車が到着して中谷を搬送して行った。馨と部長が行った蘇生は効をなさなかった。中谷は息を吹き返すことはなかったのである。
「馨……」
試合と、人工呼吸の繰り返しからぐったりと床に座っていた馨に、神無が観客席から降りてきて近づいた。離れたところで部長が泣いている声がする。弱小剣道部の顧問を務めてくれていた中谷は、部員からもそれなりに慕われていたのだろう。しかし周りも気にせず泣いている部長に、騙されたな、元々涙もろい奴だったんだ、とぼんやり思いながら馨は橙色の髪を掻いた。汗が指に絡んで不快だった。そして、一瞬のうちに起きたこの出来事も消化不良でかなり不快だ。
「……神無、お前も見たか?」
視線を落としたまま、側に来た神無に尋ねると、サンダル履きの神無の足が少し居心地悪そうにもじもじと動いた。
「……うん。馨も見えてたのか? あんなに離れてたのに」
「お前の影響じゃなくて、そいつの」
顎でしゃくった先には、蘇生法を繰り返していた馨を見ていたままの顔で対戦相手が立っていた。今は神無が近いので余計に良く分かる。正しく生きている人間とはどこか違うのだ。馨の能力ではそこまでしか分からないが、何故か目の前の男がここにいるべきではない存在だということだけは強く感じ取れた。
「お前、何だよ。剣道は強ぇし、霊力も強ぇし、おまけに、お前……何か不自然だ」
馨の指摘に答えたのは、表情の動かない対戦相手ではなかった。神無が背の高い男と馨の顔を交互に見ながら声を潜めて答えた。
「馨、こいつ、魂と体が別の人間なんだよ」
神無が答えても、まだ剣道着を着ている相手は何も言わなかった。それが正しいということを、暗に肯定しているのだろうか。
「はぁ? とり憑いているっていうことか?」
それにしてはあまり邪悪な感じはしない、と馨は分析した。それどころか、困ったことに相手からは悪意を感じないのだ。試合中のピリピリした雰囲気は単にお互いが試合に集中していたからだったのだから。
「ちょっと違う。本来の魂はもう消えてしまっているから……」
別の魂が死体に入って動かしている、とでも言いたいのだろうか。そんな存在が目の前にいると言うのか。目を眇めた馨に、剣道着の相手は相変わらず眉のひとつも動かさなかった。もしかしたら、死体を動かすだけで精一杯で、頬骨筋を動かすことまで気が回らないのだろうか。
そう馨が考えていた時、剣道着姿ででくのぼうのように突っ立っていた男に、綺麗な黒髪の青年が駆け寄ってきた。青年は私服を着ていたが、どうやら同じ高校の生徒らしい。
「高佳! ……試合、中止だって」
「だろうな……」
このとき馨は男の顔が初めて変化するのを見逃さなかった。ほんのちょっとだが、青年に対して好意的な方向に顔が動いたのだ。その微妙な変化だけで、馨はこの男に対する興味が――馨にとってはとても珍しいことに――むくむくと湧き上がってくるのを感じた。
「帰るの?」
試合が中止という言葉を聞いた直後に立ち上がったので、神無がそう尋ねてきた。その声にはまだ帰りたくないという意思がはっきりと表れている。どうやら神無も馨と同じように目の前の奇妙な存在に興味を覚えたらしい。しかしそれを露骨に表すのは格好が悪い。馨は汗でベタベタになったオレンジ色の髪の間に空気を入れるように、ぐしゃぐしゃに掻き回した。
「……折角お前が弁当作ってくれたんだし……。なぁ、この辺で弁当広げて食えるとこあるか?」
それがもう少し詳しく話したいという意思表示であることは伝わったらしい。体育館裏手の運動公園に芝生があるからと、無表情に男が言った。
馨は剣道着から制服へ着替え、まだ男泣きしている部長を2年の部員達に任せて一足先に学校へ帰した。警察が後で事情を聞きに来るかもしれない、とT校の教師に言われて、部員達は脅えたように顔を見合わせていたが、T校の教師が言うことももっともだった。突然の心臓発作というには、中谷の言動は不自然な点が多すぎたからだ。でもまさかあの状況で、N校の生徒達が疑われることはないだろう。馨はそうやって剣道部員を宥め、何とか全員をバスに乗せた。
確かに犬に首を噛まれたのに、中谷の首元には犬の噛み跡は残っていなかった。馨は時間が経つにつれ、あの時のことをしっかりと思い出せるようになっていた。犬が現れたのは体育館の壁のど真ん中。それだけでもあの犬が生きたものではないことが分かる。そして犬は一直線に中谷の前へ駆けていって、中谷はその犬を見て脅えた。ただ犬が現れただけであれほど脅えるだろうか。中谷は、何か襲われる心当たりでもあったのでないか。
馨はそんな風に考えながら、体育館からすぐ裏手にある運動公園まで歩いて行った。公園にはジョギングをしている人や、犬の散歩をしている人、子供を連れてボール遊びをしている家族とたくさんの人がいたが、夏休みなのでこれくらいの人出は仕方ないのだろう。馨は、すでに木陰に陣取って弁当の風呂敷を広げている神無と、その脇に座っている高校生二人――ひとりは制服で、ひとりは私服だ――を見つけて神無の正面に胡坐をかいて座った。
4人の組み合わせはとても不自然だったが、幸い誰も彼らに注目してはいなかった。皆先刻体育館の脇に停まった救急車の方が気になっていただろうし、あるいは周りのことなど何も気にしていなかったからだ。神無が風呂敷を広げて、段になっていた重箱を分解すると、彩りも鮮やかな昼食が綺麗に並べられて姿を現した。作っている最中はキッチンに入れてもらえなかったので、馨は初めてこの日の昼食を眼にした。何となく悔しいのは、その弁当が怪獣の作ったものであるにも関わらずとてもおいしそうだったことと、馨の彼女でこれだけの弁当が作れる女性はいないということだ。
「神無ちゃんが作ったの? そのお弁当」
その何となくの悔しさから、観客席で偶然にも知り合ったという青年が感心したように言った言葉に噛み付いて、馨は笑いをこらえるように口元に手を当て、神無をからかった。
「神無ちゃん、だって。逆ナンでもしたのか、神無」
笑いをこらえるふりをして口元に手を当てると、神無は顔を真っ赤にした。
「馨! 食べさせてやらないぞ! 瑞樹も、気色悪い呼び方するなよ。神無!」
意図して怒らせたはいいが、昼食をとり損ねるのはご免だし、私服の青年にはとんだとばっちりを受けさせてしまったようだ。
「お前の口の悪さは一生直りそうにないな。あ、気にすんなよ。こいつ誰にでもこんな調子だから。俺は太刀守 馨。こいつは太刀守 神無な」
そっちの名前は、と目で問うと先に私服の高校生が名乗った。
「弥栄 瑞樹です」
こちらが名乗ると残りは一人。試合表ですでに名前は知っているのだが、奇妙な存在であると神無に指摘されている男が何と名乗るか少し馨は期待していた。
「……鞍馬 高佳です」
特に落胆はしなかったものの、期待は裏切られた。男は表情も変えず、試合表にあった通りの名前を名乗ったのである。
「ん。まぁ、聞きたいことはあるけど、取り合えず腹ごしらえな。いただきます」
言うだけ言うと、馨はさっと神無の作った弁当に手を伸ばす。箸も使わず玉子焼きを掴むと、ポイと口の中に入れる。それを見ていた神無が、まだ赤い顔をしながら馨に向かって箸を突きつけた。
「馨! 行儀悪いぞ」
「はいはい」
馨は大人しく箸を受け取って、三角形に作られたいなり寿司に箸を伸ばした。その間に、奇妙な存在こと鞍馬高佳と私服の高校生弥栄 瑞樹は二人で話をしていた。
「高佳、これ、四季さんが届けてくれた」
そう言って瑞樹が風呂敷に包まれた重箱を高佳に渡す。高佳は無言でそれを受け取って、一旦脇に置くと瑞樹に尋ねた。
「仕事は?」
「これを届けてから行くって。カメラも預かったよ。あんたを写しといてくれって言われたんだけど……」
最後までは写せなかった、とそう言いたかったのだろう。あの状況では仕方ないが、面で誰かも判断できないような男子高校生の写真を撮って一体どうするのだろう、と馨は正直思わずにいられなかった。
「ありがとう」
瑞樹から手の平サイズのカメラを受け取ると、高佳はやはりちょっとだけ表情を動かして礼を言った。こうしてひしひしと感じる奇妙な感覚さえなければ、高佳はよくいそうな、武道に励む硬派な男子高校生と言えただろう。
高佳は学校指定のスポーツバッグにカメラをしまうと、風呂敷を解いてこちらの弁当よりも一段高い重箱を分解して置いた。そうして現れた弁当に、馨も神無も驚いた。
「……それ、ほんとにあの小さい兄ちゃんが作ったの?」
彩りも鮮やか。和風で統一された弁当の中身は、まるで高級百貨店の地下で売られているもののような出来栄えだった。
「四季さんはお料理上手だから」
そう言って微笑んだ瑞樹と先程の神無の会話を統合すると、つまりこの弁当を作り出したのは男だということになる。それは馨の想像を超えていた。話からすると高佳の知り合い、又は家族ということになるのだろうが、この顔に似た男がせっせと重箱3段分の弁当を朝から作っている姿などどう想像すれば良いというのだ。
「今度レシピ教えてもらおうかなぁ」
感激する神無の横で、馨は考えた。いや所詮男の作った料理だから、きっと見た目が良くても味はそうでもないのだろう。これは確かめる必要があると考えた馨は、さっと箸を伸ばしておかずのどれかを味見してやろうとした。
「こら! 馨にはあたしの作ったので十分だ!」
しかし途中で神無に見つかって、伸ばした手を重箱の上でぴしゃりと叩かれた。襲撃失敗。箸は怪獣に打ち落とされ、馨は痛む手をしばらくさすってやらなくてはならなかった。
しばらくたいした会話もなく、腹の減っていた馨と高佳は無言で弁当を食べた。馨はそんなに食べる方ではないので、神無の用意した弁当でも十分すぎる量だった。それを鑑みると、高佳と瑞樹が食べている弁当は多すぎる、と最初馨は思った。しかし高佳は無表情に弁当の3分の2を平らげて、残りを瑞樹がゆっくりと食べ、結局重箱は3段とも空っぽになった。
神無の用意した弁当はまだ少し残っている。馨は食べ終えた高佳が逃げる気を起こさないように、そろそろ話を始める頃だろうと判断して箸を片手に頭を掻いた。
「俺、面倒なことは嫌いなんだよ。できれば弁当食い終わったらあっさりサヨナラしたい。でも目の前であんなの見ちまったら何つうか……気になるだろ? とりあえずさ、あれ、お前のせいじゃないのか?」
かなりストレートに問い、少しは高佳が動揺することを期待したのだが高佳の反応は相変わらず薄かった。しかもその問いに答えたのは高佳ではない。
「馨、それは見当違いだよ。こいつは何もしなかった。あたしが見てたもん」
馨よりも余程力の強い神無がそう言うのなら、その通りなのだろう。馨が肩を竦めると、高佳が静かに話し出した。
「力の強いものはああいうものを引き寄せやすい。そういう意味で俺のせいと言えなくもないでしょうが。それなら今日はあの場に力が集まりすぎた」
そう言った高佳の視線は神無にある。
「あたしのせいじゃない」
高佳の視線に気分を害したように神無が頬を膨らませた。
「分かってるって。お互いアレについては責任ないってことだ。それで良いんだろ?」
宥めるように神無の頭に手を置くと、神無はそれを煩そうに払った。全く、人の気遣いを察しない奴だなとまた馨は肩を竦める。
「あれは呪詛。兄に聞いたほうが確実でしょうが、あの教師は誰かに呪われたんだと思います」
呪われた。確かにあの禍々しさを表すには適当な言葉だと馨も思う。目の前で死なれた後味の悪さから、その話を詳しく聞きたいのだが、それよりも先に高佳に訊きたいことがあって馨はうずうずしていた。
「ちょっと待て、あの犬みたいな黒いのも気になるが、まずは目の前のことを気にして良いか? 良いよな? お前、その喋り方は地か? それとも中身も俺より年下だからその口調なのか?」
神無はそんなことどうでも良いだろうと言いたげな顔をしていたが、馨は気にせずにはいられない。馨は年下にだってですます調で喋られるのは嫌いで、特に高佳はそれがあまりに達観しているような雰囲気さえ醸し出している。それが本当に年下であるなら、馨の精神年齢は一体いくつだと自問自答したくなるではないか。
「……兄に、見た目に合わせるように言われているので」
「つまり中身は俺より年上なんだな?」
ほっと馨は息をついた。体はひとつ下で、魂は年上という違和感は残るが、魂も年下だと暴露されるよりはずっと気が楽だった。
「多分……1500歳以上は」
「げっ!」
そりゃ人生達観して当然だよ、という年齢だ。それはそれで頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けたのだが。
「そんなに長く……。もしかして、あんたも神様……?」
あんたも、という神無の言葉に引っかかりを覚えた馨だが、それについて問い質すよりも早く高佳がそっと微笑んで神無の問いに答えた。
「いや……俺は、鬼だよ」
酷く寂しげな笑みだった。人にとって恐ろしい存在であるはずの鬼がそんな顔をするなんて反則だ、と馨が思ってしまったくらい寂しげで、どこか自嘲的な笑み。調子としてはあまりにあっさりと言われてしまったので、馨は一瞬それが性質の悪い冗談だと思った。だが、自嘲気味に笑った高佳の隣に行儀良く正座していた瑞樹がさっと顔を青くしたのを見て、それが冗談では済まされない話題なのだと気づいた。
「高佳!」
叱咤するように叫んだ瑞樹に驚いて、神無が箸で挟んでいた玉子焼きを取り落とす。瑞樹はぽとりと落ちただけの玉子焼きに酷くうろたえた表情をした。大声を出すつもりなどなかったのだろう。
「……ごめん、神無。俺ちょっと、飲み物買ってくるよ」
そして瑞樹は俯いたまま、立ち上がって体育館の方へ小走りに去っていった。しばらく高佳の視線が瑞樹の背を追ったけれど、瑞樹を止める気はないようだった。今まで馨達の話を黙って聞いていたということは、瑞樹にも霊を見る力はあるのだ。そして高佳が人ではないということも知っている。知っているが、理解するにはいたっていないということなのだろうか。
「鬼って……角は?」
馨はあくまで軽い口調で尋ねた。瑞樹が帰ってこない間に、聞きたいことはすべて聞いてしまった方が良いように思えたのだ。少なくとも高佳は自分を鬼だといっているのだし、後は馨がどう判断するかが問題なのだ。
「今の時代の人間が思っているような鬼ではなくて、業や念が深すぎて、現世に留まっているうちに人とは違う力を持ってしまったような奴をそう呼んでいます」
それはどうやら高佳一人の認識ではなさそうだ。他にも高佳のような存在がいて自分達をそう定義しているということだろうか。馨がそこを追究しようとして口を開いた脇から、神無が割り込んだ。
「……前は人間だったってこと?」
高佳は神無の方を見て、目を細めながら答えた。どうやら、子供には優しい鬼らしい。
「ずっと昔は。でも今はもう人とは違ってしまったから」
どこか諦めに似た答え。その寂しそうな様子は変わらない。自らそれを望んで鬼になったのではないのだろうか。
「んで? その鬼がどうして人間の体に入ってんだ」
馨が問うと、人の体に入っている当人が困惑したような顔を浮かべた。
「高佳の母親に頼まれたんです。本来の魂は、まだ生まれもしないうちに体から離れてしまって、それでも彩香……母親は子供を産みたがったから」
息子を失いたくない一心でそういう行動に出たのだろうか。鬼であると自ら述べる存在を、息子の成長を見るために利用したのか。
「……父親も承知の上で?」
その問いに、高佳はこくりと頷いた。それを見た馨は思わず天を仰いだ。
「凄い家族だな……。頭がクラクラしてきたぞ。そもそも元は人間だったのに、どうして鬼になったんだ? 業とか念って、つまり未練があったってことか?」
「未練というか執着というか……」
そう高佳が言いかけたところに、飲み物を買いに行った瑞樹が帰ってきた。中途半端だが、ここでこの話題を終えたほうが良さそうだ。
「まぁ、家族公認なら別にいいや。呪詛とやらに話を戻そうぜ」
瑞樹は話題が変わったのを知って、明らかに安心した様子で高佳の隣に座った。高佳は瑞樹から3本の缶の緑茶を受け取って、それを自分に一本とり、残りを神無と馨に回してくれた。馨があえて先程までの話題を切り上げたことに対してだろうか、高佳は緑茶を手渡すときにちらりと馨に感謝のこもった視線を投げてよこした。
「中谷は誰かに呪われたって?」
馨が呪詛の話に戻そうと切り出すと、高佳と神無が続けて肯定した。
「おそらく。呪詛の匂いがしたので」
「あたしも悪い呪の感じがしたな」
おそらくと言っても、馨の感覚よりはよほど正確だろう。
「んじゃ、呪われるようなことをしてたんだろうな、アイツ。その呪詛、中谷を殺したんだからそれで終わるんだろ?」
馨の楽観的な言葉にまず神無が顔を顰めた。
「それは分からないよ。呪詛だとしたら、呪いをかけた術者がいる。術者の狙いがあの中谷って人以外にもいたら……。あれだけの呪だもん。また人が死ぬよ」
「そんなこと言っても、誰が呪いをかけたのかわかんねぇし、だとしたら次があるのかどうかもわかんねぇだろ」
投げやりに馨が返す。これ以上こんな事件に興味はない。興味はない、というより興味を持ちたくない。
「でも……」
「あぁ! よせ、よせ、神無。お前、今は力封印されてんの分かってるか? どうしてもっていうなら、お前が穂を引っ張り出せ。俺はご免だぞ。何かあったとき、俺は役に立たないんだからな」
そう言って馨は歯軋りする。馨には分かる。目の前を駆け抜けていったあの黒い影。それがどんなに危険なもので、そういった存在に関わることでどんな想いをするのか。馨には神無ほど力はないが、あっちの世界に関わって感じた想いは、神無の感じたものとそう変わらないはずだ。何故神無が今回の事件に首を突っ込みたがるか分からない。
馨と神無が睨み合う。神無は目で訴える。大丈夫だから、見逃すことはできないと。一人でもこの事件を調べると。しかし馨は駄目だと訴える。危険なことはさせられない。あの事件で十分ではないか、と。その無言の睨み合いの緊張を解いたのは、静かな声だった。
「……俺、ちょっと調べてみます」
馨と神無は同時にその声の方向を見る。そこにいたのは、きっちり正座して視線を落としている瑞樹だ。
「おい……」
「御免なさい。太刀守先輩の言うことが正しいんだと思いますけど、俺、駄目なんです。次があるかもしれないのに、放っておけない」
典型的お人好しということか。生憎、馨はそんなボランティア精神は持ち合わせていないし、もっと現実的に物事を考えるタイプの人間なのだ。
「だからって、中谷のことすら良く知らねぇお前に何ができんだよ」
馨が当たり前のことを指摘すると、それだけで瑞樹は言葉に詰まった。ほれ見ろ、と馨は思った。何も知らないで手を伸ばすことなんかできやしないのだ。高校生の身分で探偵を雇うわけにもいかないだろうし、出来ることなど何もない。しかし黙り込んだ瑞樹に高佳が助け舟を出した。
「事情を話して、八木さんに占ってもらえば何か分かるかもしれない」
「おい、ちょっと待てよ」
占いでどうにかできる問題か、と問いたかったし、いらぬことに首を突っ込むなとも言ってやりたかった。しかし高佳は先回りして馨に有無を言わせなかった。
「先輩にご迷惑はかけませんから。どうする? 瑞樹」
つまり二人でこの事件を追うというつもりなのだろう。瑞樹は高佳にどうするかと選択を迫られて、しばらく戸惑った。じっと答えを待つ高佳の視線をしばらく避け、しかし結局きっちりと高佳の目を見返してからひとつ頷いた。それを見ていた神無が重箱を片付けながら言った。
「あたしも連れて行け」
「神無!」
馬鹿なことをするな、と馨は訴えた。同じ学校の教師とはいえ、中谷とは面識がないと言って良いくらいの関わりしかない。そしてこの二人とは今日出会ったばかりだと言うのに、何故彼らについて行こうとするのだ。
「別に人助けがしたいわけじゃないけど、二人には興味あるし」
神無の言葉に馨はぐっと言葉を呑む。馨だって、二人にというか、高佳に興味がある。鬼だと、そう言うのに恐ろしさも、禍々しさも感じない。それどころか悲しい瞳をした鬼。その存在に強く惹かれている。だが何かがあったときにはどうするのだ。彼らに付いていって、馨に何ができる。
「お前な……」
せめて穂を呼びたい。自信がないとか、そういう次元の問題ではないのだ。無茶はできない。それが死に直結することだと、馨は十分に理解しているからだ。
「穂に頼る癖もつけたくない」
そんな馨の考えを見透かしたように、神無が小さく言った。その言葉に驚いて、俯く神無の小さな頭の上から覗き込むと、神無の手はきつく握られていた。
「……餓鬼の癖に、気回しすぎじゃねぇの?」
馨は小さくそう返す。むしろ神無はぎりぎりまで他人を頼らなかった。小さな体で、ずっと我慢し続けたではないか。馨は神無の肩に手を置こうと手を伸ばした。しかし神無の手に触れるかどうかというところで、神無は俯いていた顔を上げ、馨のキッと睨み付けた。
「ガキのうちに無茶苦茶やんなきゃ、大人になんてなれないだろ」
生意気な顔で叫んだ神無は、重箱を風呂敷に包むと高佳と瑞樹を急かして立ち上がった。高佳も瑞樹も、神無を連れて行くとは言っていないはずなのに。しかしはやる神無を宥めてくれるだろうと期待した高佳と瑞樹は、お互いに顔を見合わせて、高佳が小さく頷いた。あれよと言う間に、高佳は重箱を重ね、風呂敷で包んで神無の急かすに任せて立ち上がった。そして瑞樹が神無の手をとって同じように立ち上がる。
「何してんだよ。行くぞ、馨」
瑞樹に手を引かれて歩き出した神無が、まだ呆然と芝に座る馨を振り返って言った。
「俺は行くなんて言って……おい! 人の話聞けよ!」
叫ぶ馨に、高佳も瑞樹も立ち止まる気配さえ見せない。神無だけ時折振り返って、早くしろと叫ぶ。段々と小さくなる神無の背に、馨はこれでは単なる誘拐だとか、あのはねっかえりの暴れ恐竜とか、思いつくだけの悪態を吐きながらとうとう立ち上がった。
Prologue / 満