砂時計 - Reverse
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雲が切れたのは結局あの一時だけだった。再び厚い雲が空を覆うと、雪が降り始めた。背にした扉の向こう側で、獣は一晩中鳴いていた。一体どういった感情なのか、獲物を逃がした悔しさと怒りか、閉じ込められた絶望なのか、シリウスには分からなかった。ピーターの泣く声もやがて止み、あとは3人でそろって震えるだけだった。寒さではなく、恐怖に。
受け入れられると思った。リーマスのどんな姿も。そのために勉強して、心構えだってできていたはずだ。受け入れて、そして信用してもらえるようになると思ったのだ。リーマスから離れることなんて有り得ないと。しかし、リーマスの変わっていくあの姿を見て、自分は何を思っただろう。
あれは、リーマスじゃあない!
あの時確かにシリウスは、リーマスの全てを否定した。
拳を握る。爪が手の平に食い込むが、痛みは感じなかった。そんなものよりも自分に対する嫌悪感が刃となってシリウスの心をズタズタに引き裂いた。いっそのことあの爪で、身体ごと引き裂かれて死んでしまえばよかったのだと思った。拳を握る力はどんどん強まり、シリウスの手から血が流れた。
「……シリウス、シリウス止めろ……」
きつく握られたシリウスの拳に、ジェームズが気付いて無理矢理自分の手を握らせた。手を繋ぐと、平に感じる少し粘着質の液体。爪を立てることはもうなかったが、シリウスはやはり震える手でジェームズの手を強く握った。そして搾り出すように喉の奥から声を出す。
「僕は最低だ……」
声が掠れる。
「こんな、こんな感情を抱くなんて。僕を信じろって……言ったのに!」
手を握らせてくれたジェームズが、空いているほうの手で今度はシリウスを抱きしめた。シリウスのローブを掴んだジェームズの手は、シリウスと同じように震えていた。
「シリウス、僕も同じだ。僕も、僕だって……」
言わなくて良い、とシリウスは思った。こんな思いをするのは自分だけで良いと。
「ジェームズ……」
手の平を濡らす血でジェームズのローブを汚してしまうかもしれない。と、そんな平凡な考えが頭を過ぎった。しかしシリウスはジェームズの背に腕を回した。そうしなければいけなかった。
「僕も怖かった。リーマスだと分かっていて、それでも怖くて仕方がなかった」
耳元で響くジェームズの声は上ずっていて、涙を流すよりも確かに泣いているようだった。
「ジェームズ……。僕も、怖かった」
今一番認めたくないことを、シリウスは認めた。それが自分に対する罰だと分かっていたからだ。
「同罪だよ、僕らは。僕らはリーマスを傷つけてしまった」
さらにシリウスは囚人のように手足に枷をはめられた気になった。闇の中へ沈んでいく。それにジェームズを巻き込んでしまったと思った。
2人は抱き合った。涙だけは必死に我慢して。そしてようやく気付く。獣の声が聞こえなくなったのだ。雲が厚くて気がつかなかったが、どうやらもう明け方のようだ。のろのろと3人は立ち上がった。重く閉じられた、否、自分たちが閉ざした扉をじっと見つめる。中からは物音ひとつしない。3人はほとんど無意識に視線を合わせた。これから、どうすれば良いのだろう。立ち上がりはしたが、誰も一歩も動けなかった。
「貴方達! どうしてここに……」
はっとして階下を見た。マダム・ポンフリーが驚愕した瞳で3人を見ていた。
「マダム、僕達……」
ジェームズが真っ先に口を開いた。しかし先が続かない。
一体何を言うつもりなんだ、僕は。言い訳を?
凍ったように動かない3人より、マダムの方が先に状況を理解した。彼女はさっと上がってくると、扉の前に棒のように突っ立っているジェームズとシリウスを押しのける。扉を開けようとして、3人に鋭い視線を送る。
「……そこにいなさい」
厳しく言って、マダムはリーマスのいるはずの部屋の中へ入って行った。再び重く扉が閉まった。3人はやはり立ったまま、本当にマグルの写真のように一切動かなかった。何を考えていたのか。何も考えていなかっただろう。ただぼんやりと、リーマスが冗談だったんだと言って、笑いながら扉を開けて出てくるという幻想を抱いていただけだ。
「……貴方達入っていらっしゃい」
大きな声ではない。ただ静かな屋敷に、一本の矢のようにマダムの声が響いた。ようやく3人は動き出した。ピーターはジェームズのローブにすがりつき、シリウスが重い扉を開いた。外の闇よりも一層濃い闇が、部屋の中に霧のように漂っていた。入った瞬間に香った臭いの正体は、3人には分からなかった。
いつものように、シリウスの瞳が一番にリーマスの姿を見つけた。傍らに跪くマダムが白い清潔な布でリーマスの体を覆っていた。布がリーマスの体に触れた瞬間に、雪のように白い布のあちこちに、わっと広がる赤い花の模様。マダムは必死に何か、まだ3人の知らない魔法の言葉を発していた。赤い模様は広がり続ける。ピーターの頭も、ジェームズの頭も、シリウスの頭も、答えを導き出す速さは同じだった。
血だ!
リーマスの!
体が真っ先に反応したのはシリウスだった。ばっとリーマスの元に駆け寄り、その体に触れようとする。
「リーマス!」
触れようとするシリウスにマダムが怒鳴った。
「触ってはいけません、ブラック! ペテュリギュー、すぐに学校へ戻って校長に……いえ、グリス先生に連絡を。2人は私に付いていらっしゃい。ルーピンを運びます。さぁ、急いで!」
マダムの言葉に、ピーターは一瞬飛び上がると一目散に部屋を出て行った。ジェームズはシリウスと同じようにリーマスの側に駆け寄り、目を閉じているリーマスの顔を見た。
死人のようだった。
この部屋に入ってすぐ感じたあの香り。それはリーマスの血の香りだけでなく、迫りくる死の香りだったのだ。
マダムが一応の止血をする。一刻の猶予もないと、マダムはその場でジェームズにも呪文を教えた。2人でリーマスを治療しながら、シリウスがリーマスの体を運んだ。本当に真っ直ぐ帰ってきたのかは分からない。ただ気付くと医務室にいて、リーマスはベッドで死人のように横たわっていた。マダムは2人を追いやると、さっとカーテンを引いてリーマスの治療を続けた。2人は薄いカーテンで、強固にリーマスと隔離され、ただ立っているしかなかった。シリウスは抱き上げたリーマスの体が、あまりに軽かったことにショックを受けていた。たった半日のうちに、一生かけて経験するような負の思いを全て経験してしまったような気がする。ジェームズはマダムと2人で治療して、なお血の流れるリーマス思って身が凍った。人の体に、あんなに大量の血が流れているなんて知らなかった。あんなに出血して、生きていられるものなのだろうか。
水色のカーテンが開かれ、すぐに閉められた。マダムの顔も青い。しかしそれはまだ血の通っている青さだった。
「マダム、リーマスは?」
ジェームズが尋ねた。マダムはそれに答える前に、椅子を呼び出してそれに倒れこむように座った。
「……眠っています」
その答えはため息と一緒だった。
「……死んだりは」
ジェームズの言葉に、マダムは彼をキッと睨みつけると叫んだ。
「しませんよ! そんなこと……。死ぬなんて……私がさせません!」
ジェームズもシリウスもその勢いに思わず身を竦ませた。震える体を抑えている彼女の瞳は濡れていた。3人は押し黙った。
「マダム、リーマスを見せて下さいますか?」
3人は顔を上げる。医務室の戸口に、ピーターと、ピーターに連絡を受けたリオンが立っていた。マダムはそれに気付くと潤んだ瞳を拭い、入って来るリオンと入れ替わりになるように戸口へ向かった。
「グリス先生……。えぇ、私は、校長とマクゴナガル先生に……」
脇を通りすぎようとする彼女を引き留めて、リオンはいつもと同じ声色で言った。
「マダム、お2人には私が連絡しました。貴女も、少し落ち着かれた方が良い」
一瞬マダムが意外そうな顔をしたのがジェームズには分かった。自分が冷静さを欠いていることにマダムは気付いていなかったのだろう。しかしリオンの言葉に彼女は益々顔を青くすると必死に頷いた。
「えぇ……えぇ、そうですわね。あの子はこちらです、さぁ」
気丈に心を落ち着けたマダムが先に立ち、カーテンで区切られた場所へリオンを導く。リオンは入ってきてからずっと、ジェームズ達には目もくれなかった。
「先生、僕達も……」
脇を通り過ぎようとするリオンを捉まえてジェームズが口を開く。言いかけたジェームズを見据えて、リオンはきっぱりと言った。
「駄目だ。君達はここにいなさい」
強い口調に、ジェームズもシリウスも何も言い返せなかった。
2人が入るとカーテンはまた引かれた。一瞬の間に見えたのは、リーマスの足元。小さな起伏のあるベッドの端だけだった。カーテン越しに2人の影が動いている。大きな影――リオンの方だ――がベッドに横になっているリーマスに覆いかぶさるように身を屈めた。そしてひっそりとマダムに問いかける。
「頚動脈を?」
マダムの影が首を振った。
「いいえ、それていましたわ。今日ばかりは狼の生存本能に感謝しなくては……」
「狼の血が、死を拒みましたか……」
屈んでいた大きな影が動き、2人はカーテンを開いて出てきた。マダムは几帳面にカーテンを隙間なく閉める。リオンは3人の前に進み出ると先程のようにきっぱりと、少し高圧的に言い放った。
「君達は私の研究室へおいで」
そう言うとリオンは彼らの返事を待たないで歩き出した。その背に向かってジェームズとシリウスが叫ぶ。
「先生! リーマスに会わせて下さい」
「お願いします!」
リオンは戸口で立ち止まり、振り返って言った。その瞳は今まで見たことがないほど厳しい。そこで初めてジェームズ達はリオンが怒っているのだと気が付いた。
「彼が起きるまで待ちなさい。まだ君達を安心させるわけにはいかない。分かるね? 夜抜け出した事で寮の点数を引いたりはしない。それが何になるだろう。君達は彼が起きてから、彼に会って、事実を見なければならない。それが今回の罰だよ」
そう言ったリオンの口調はいつもと同じで。ジェームズ達にはその方が堪えた。頭ごなしに怒鳴ってくれた方が楽だったのに。ジェームズは怒りとともに、リオンが失望しているのだと感じた。自分はあんなにも的確に、この教師から忠告を受けたはずなのに。きっとリオンはジェームズに失望したに違いない。
研究室へ向かう3人の足取りは一様に重かった。高揚感など欠片もない。高揚してしまった分だけ落とされた気分だった。
横たわるリーマス。
自分達を信じると言ってくれたリーマス。
傷だらけのリーマス。
リーマスの姿だけが頭に浮かんでは消える。リオンは研究室の扉を開けて、3人を先に中へ入れた。暖炉が燃えていた。揺らめく焔の影を見て、3人はようやく自分達の体がこちこちに固まっていたことを意識した。リオンは後ろ手で扉を閉めると、机に歩み寄ってカップを用意した。3人は直立したままリオンの背をじっと見ていた。3人の考えていることはばらばらで、やがて視線も3方向に分かれた。
「座りなさい」
前にジェームズが訪問したときと同じように、積み上げられた本の隙間から椅子が取り出され、3人の前に並んだ。呆然と椅子を見ているだけの3人に、リオンは再度椅子を勧める。おずおずと3人が着席すると、リオンは微笑んで、3人にカップを渡していく。
「寒かったろう? ずっとあそこにいたのだから」
カップの中にはココアが入っていた。まだ熱いくらいのカップに、それを手にしたピーターが思わず声を上げる。
「あったかい……」
芯まで凍っていた身体がゆっくりと溶けて、何だかやっと自分が人間だと意識できたような気がした。もう一度あそこでの出来事が頭を廻り始める。たまらなくなってジェームズは言った。
「リーマスは、寒かっただろうね」
ぼそりと言ったジェームズの言葉に、ピーターが泣き出す。初めは抑えようと努力していたが、拭って拭っても流れる涙に、ピーターはとうとう声を上げて泣いた。シリウスが弱々しくその頭を小突く。
「泣くなよ、ピーター」
そう言ったシリウスの声も僅かに震えている。じっとココアの入ったカップを見つめて、その湯気で眼鏡を曇らせていたジェームズが、シリウスの隣でぼそりと呟く。
「……泣くよ」
ぐっと壊れるくらいカップを強く握っているジェームズの顔を、シリウスは怖くて覗けなかった。ただ名前を呼ぶ。
「ジェームズ?」
眼鏡の曇りが取れると、レンズ越しにジェームズの瞳から溢れた涙がちらついた。
「僕だって、泣く……」
眼鏡を外すとジェームズは涙を拭う。しかしピーターと同じで、拭ってもそれは再び溢れて、流れて。ジェームズは声を殺して泣いた。
「馬鹿、泣くなって……」
最後まで言えなくて、シリウスも瞳を濡らすものをローブの袖で拭った。唇を噛み締めて、必死に泣きたいのを我慢する。その様子をじっと眺めていたリオンが問いかける。
「怖かったかい?」
リオンの問いに、泣きながら全員頷いた。ココアの中にピーターの涙が落ちた。リオンはしばらく間を空けて、彼自身もココアを飲みながら再度問いかけた。
「忘れてしまいたい?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。やっとリオンの問いを理解すると、ジェームズは立ち上がり猛然と抗議した。
「僕らの記憶を無くしてしまうつもりなんですか? 待ってください! 僕ら誰にも言いません。もう二度と彼を傷つけるようなこともしません! だから……」
リオンが手を挙げてジェームズを制する。ジェームズに続いて立ち上がりそうになったシリウスも視線で止められた。
「待ちなさい。落ち着いて。君達の記憶を消してしまおうだなんて思っていないよ。私も、ダンブルドアもね」
ジェームズはその答えにほっとして椅子に座り込んだ。
「記憶を消しても、君達はまたリーマスに気付いて、結局同じ結果を繰り返すだろう。それならこのまま進む方が良い」
静かに放たれた言葉は矢になってジェームズ達の胸を突いた。リオンはカップを置いてジェームズ達に向き合った。その瞳にあったのは厳しい輝きだった。
「君達は何をしたのか分かっているのかい? リーマスの自傷は、普段あそこまで酷くはない。彼は君達を傷つけてしまいそうな自分が許せなかったのだろう。……頚動脈を爪で切りそうだった。幸い狼の生存本能が強くて死には至らなかったがね」
「死……」
それは今まであまりに漠然とした言葉で、ジェームズ達にはよく理解し得ない言葉だった。しかし今日知った。それはあまりに冷たい響きを持つ、恐ろしい空虚。昨日まで笑って側にいてくれた人が、もう笑わず、喋らず、肌は蝋のように青白く。ただ横たわっているだけの人形のようになってしまう。彼らは知った。それは自分達にも容易に呼び込める代物で、決して遠くにあるものではなかったのだ。
「皮肉なことだ。彼は自身が忌み嫌っている狼の部分に、自分の命を救われたのだから」
リオンの声が一層静かに響いた。若い教師は立ち上がると3人に向かってこう言った。
「3人とも部屋に戻りなさい。リーマスは今日の夜までは目を覚まさないだろう。君達は今日の授業に出なければいけない」
きっぱりと言い渡すと、リオンは3人の手からココアの残っているカップを取り上げた。ジェームズ達は立ち上がったが、リオンの言葉には従わないつもりだった。
「寝る必要はありません。医務室の前に居させて下さい」
ジェームズが言った。3人は少しも眠っていなかったが、眠たくなかった。眠ってはいけないような気がした。せめて少しでもリーマスの近くに居て、彼が目を覚ましたら真っ先に謝りたかった。そのためには冷たい廊下で一日中待つことになっても構わなかった。しかしリオンは身を屈めて3人に視線を合わせると、もう一度厳しく言い渡した。
「マダムの邪魔になるだけだ。もう一度言うよ。部屋に戻りなさい。これは罰だ。さっきも言ったね。君達を安心させるわけにはいかない。部屋に戻って、今日はきちんと授業を受けるんだ。もし授業を休んだりしたら、リーマスに会わせるわけにはいかないよ」
3人にはこの決定に抗議する権利はなかった。リオンの言ったとおり、これは彼らに与えられた罰だったからだ。これ以上ない惨めな気持ちで、3人は寮へ戻った。
ピーターをリーマスのいない部屋に残すのは気が進まなくて、ジェームズはピーターを自分のベッドに迎えた。同室の2人は当然、もう深い眠りの中にいたので、シリウスもジェームズも部屋に戻るとすぐにベッドに入った。シリウスは冷たいベッドの中で制服のまま丸くなっていた。少しも眠くならない。相変わらず雲が厚くて朝なのか夜なのか分からなかったが、もうすぐにいつものような朝が始まるだろう。不意に違和感を覚えて、シリウスは起き上がる。天蓋をめくって靴を履くと、隣のジェームズのベッドを覗く。そこにはピーターだけが眠っていた。シリウスは自分のベッドのシーツを引き剥がしてジェームズを探した。彼は窓際に座ってぼんやりと雪を見ていた。近づいてきたシリウスに気が付いて顔を上げる。
「起こした?」
シリウスは近づいてシーツを自分の肩と相棒の肩にかけた。隣に座ってジェームズと同じように膝を抱えると小さくなった。
「起きていた」
ジェームズは再び視線を窓の外へ向けた。
「ピーターは?」
「寝ているよ。薄情な奴」
ぶっきらぼうに言ったシリウスに、ジェームズが初めて苦笑した。
「泣き疲れたんだよ。休ませてあげよう」
そしてまたすぐに笑いを消すと、外を眺めた。ガラス窓が2人を雪から遠ざけていた。その光景は美しく、そして悲しかった。
「……僕は、眠れない」
シリウスは呟いた。
「うん」
ジェームズは雪を見たまま、少しシリウスに体を寄せて答えた。2人は寮の生徒達が起き始めて、いつもと変わらない日常が始まるまでずっとそうしていた。