砂時計 - Reverse

---------------------------------------------------------------------------------

 悲しいことにも見慣れた天井がリーマスの視界にあった。頭はまだぼんやりとしていて、リーマスの脳には見たままの光景がただ情報として入ってくるだけだった。天井。そして重い首を動かすと引かれた水色のカーテン。そしてカーテン越しには女性の人影。ただ入ってくる情報をそのまま受け入れるだけの状態だった。そしてカーテンが引かれて、見慣れた女性の顔が目に入る。

「リーマス」

 マダム・ポンフリーがリーマスに駆け寄る。彼女は身を屈めてリーマスの頬に手を当てた。

「マダム、僕……」

 上手く声が出なかった。続ける言葉も思い浮かばない。

「良かった、本当に……」

 リーマスはマダムの瞳に光る雫を見た。彼女は泣いていた。どうしてなのかリーマスには分からない。しかし彼女を泣かせてしまったことに――原因が自分であることは全く疑わなかった――酷く胸が痛んだ。まるであの時の。そう、狼に噛まれたあと母親が泣いてみせた、あの時感じた胸の痛みに似ていた。

「マダム……」

 マダムは泣きながら良かった、と繰り返していた。それは母の言葉とは違う。母はあの時良かったとは決して言わなかった。生きていてくれて良かった、とは絶対に。マダムが泣いていると、リーマスも泣きたくなった。おずおずと手を布団から出して、頬に触れているマダムの手に重ねた。そうしたらマダムは泣きながら笑ってくれた。リーマスは安心して笑った。何となく全身が自分のものではないような重く、鈍い感じがしたが、とにかく自分は生きているのだと思った。

 扉をノックする音がして、マダムは立ち上がった。涙を拭って彼女は扉を開けた。小さい声で会話が交わされる。そしてぼんやりとしたリーマスの視界に入ってきたのは、リオン・グリスだった。彼は微笑みながら近づいて、リーマスの横たわっているベッドの縁に腰掛けると水色のカーテンを引いた。

「頭がはっきりしていないようだね。気分は悪くないかい? リーマス」

 リーマスは咄嗟に起き上がろうとした。しかしリオンは必要ないといった様子で、リーマスの肩に手を置いた。

「少し話しても平気かな?」

 リーマスの額にリオンの手が置かれた。その手はとても安心できる温度で、リーマスは目を閉じた。そうするとぼんやりとしていた頭がはっきりとする。

「はい。……先生、ダンブルドア先生は? 僕、3人に……。ジェームズ達はどうなったんですか? 僕、彼らを……」

 リオンの手が額から離れると、リーマスの頭を昨夜の記憶が一気に駆け抜ける。叫びの屋敷の、いつもの部屋に入った時。マダムが部屋を出て鍵を締めて、服を脱ぎかけて、そしていつものようにあの狼化が始まって。

 そこに立っていた3人の友人達。

 叫んで、彼らを逃がそうとした。咄嗟にベッドの足に手を縛り付けて。しかし彼らが逃げきったのかどうか分からないところで獣の思考へ変化してしまった。ただ血を求める汚らわしい精神へ。

 リオンの腕を掴んで、リーマスは必死にリオンを問い詰めた。彼らを噛んだのだとしたら、もう自分は生きていけない。リオンは興奮するリーマスの両肩にそっと手を置くと優しい声で言った。

「落ち着きなさい。ダンブルドア先生には私が連絡したよ。まだ魔法省にいらっしゃる。それから、3人は無事だ。君は誰も噛んではいないよ」

 リオンの言葉に全身の力が抜けた。

「……良かった……」

 そう漏らした瞬間に、リーマスは全身に痛みを感じた。体に巻かれた包帯の感覚。特に首元を押さえている包帯の存在を、ようやく意識した。

「君に付いているときかなかったけれど、今日は授業に行かせた」
「先生、彼らはどうなるんでしょうか。まさか退学なんて……」

 夜中に寮を抜け出すことは禁じられている。そして叫びの屋敷に近づくことも。彼らの普段のいたずらは危険のない、他愛のものだったが、回数が多すぎた。今回のことで重い罰が下されることもあるかもしれない。

「君がそうして欲しいのなら、そうしようかとも思っているよ」

 リオンの答えに、リーマスは頭の中が真っ白になった。この教師は一体何を言っているのだろう。

 僕がそうして欲しいと思うなら?

何故リーマスの意思などを問題にするのだろう。リーマスは悲鳴を上げた。リオンの考えは、リーマスの理解を超えていた。この教師はどこまでも、リーマスを他の生徒と同じように扱う。そんなこと、ありえないことだった。

「どうして? 彼らは悪くありません。僕がいけなかったんです。僕には彼らと一緒にいる資格なんてなかったのに。彼らが気付くと分かっていて……。退学が必要なら、僕を退学にして下さい!」

 それが一番良いのだ。彼らの前から姿を消せば、それで全てが元あるべき姿へと戻ることができる。リオンはリーマスの叫びに、明確にYesともNoとも言わなかった。

「組分け帽子は、君に何て言った? 君はここでやり抜くだけの力があると、そう言わなかったかい?」

 リーマスはシーツごとぎゅっと拳を握った。1年前の、組分けの儀式。そこで起きたことを忘れかけていた。

「言いました」

 そう、確かに組分け帽子はリーマスにここで学ぶ資格があると言った。

「ではそれが、君がここで彼らと一緒に学ぶための資格だ。君が望むのなら、君にはここで学ぶ権利がある。それとも、彼らと一緒に学ぶことが苦痛になってしまったかな?」

 リーマスは黙って首を横に振った。リオンの瞳は慈愛にも似た輝きを放ち、リーマスは神にでも見つめられているような気分になった。

「……ウエテイルと」

 声が裏返る。喉もとの痛みが増して、喉が痙攣を起こしているようだった。

「うん」

 ただ崇高な意思だけが、リーマスを見ていた。リオンの前で、リーマスはちっぽけだった。きっと彼の前では誰もがちっぽけな存在に違いない。

「組分け帽子は僕が飢えていると」
「君が飢えていると、組分け帽子は言ったんだね?」

 リオンはリーマスの言葉を丁寧に繰り返す。リーマスは頷いた。

「昨日、僕は彼らを噛もうとしました」

 リーマスの頬を涙が伝って、枕にしみこんでいく。

「狼の血が人を求めたのだよ」

 リオンの指がリーマスの涙を浚っていく。リーマスは重く、痛い腕を持ち上げて、両手で顔を覆った。

「でも、あれは僕です! 組分け帽子は知っていたんです。僕は血に飢えている! 僕は彼らの血を求めた。あんなに優しくしてくれた彼らを……。僕は汚い。この学校で、僕だけが! ……必要のない闇もあります。僕は、人狼はこの学校に必要無いんです!」

 その時リーマスは指の隙間から、リオンの酷く傷ついたような表情を見た。リーマスはその瞬間、リオンの中にとてつもなく大きな闇を感じた。恐怖の闇ではない。それは不安や哀しみや、リーマスには分からない色々な感情が作り出した混沌だった。その時だけで、リオンは見た目の何倍も年を取ったように見えた。

「君は飢えている。組分け帽子の言ったことは正しいよ。君は、愛情に飢えている」

 リオンの手がリーマスの顔を覆う両手を掴んで、そっと引き離す。

「え?」

 リーマスが見たリオンは、先ほどの闇を巧妙に隠して、微笑んでいた。

「君は自分を卑下するけれど、もしジェームズが同じように自分を卑下していたら、君はどう思うだろう。彼がもし『僕は駄目な人間だ』といったら、君は何て返すだろう。『そんな事はない』と、そう返すと思わないかい?」

 リーマスは言われた通りの状況を思い浮かべた。ジェームズが――そんな場面に遭遇することもないだろうけれど――自分を卑下していたら。そうしたら自分は、リオンの言った通りの言葉をジェームズにあげるだろう。

「だって……それは本当のことだもの」

 リオンはリーマスの答えに軽く首を振った。

「リーマス、君が自分を悪だと思っているのと同じように、ジェームズやシリウス、ピーターだって、確かに自分を悪だと思っている部分があるのだ。それは私も、ダンブルドアだって同じことだよ」
「……先生も?」

 リオンは深く頷いた。きっとそれは嘘ではない。あの混沌とした何かの中に、リオンの悪も紛れているのだろう。

「だから、君は知らなくてはいけない。君が彼らを愛しているのと同じように、彼らは君を愛しているのだということを。彼らの愛情を信じなさい。君は飢えを癒されるだろう」

 リオンはそっとリーマスの胸に手を置いた。その手からリオンの声が伝わってくる。微小な振動が胸に心地よかった。

「ねぇ、リーマス。ジェームズが『僕は駄目な人間だ』と言った時、『そんなことはない』と君が言っても、彼が信じてくれなかったとしたら、君はとても悲しくなるのではないかな。君が思う事を、彼らも思っているのだよ。……あぁ、ごめん。説教が過ぎたね。さ、入っておいで」

 リオンはカーテンを開けた。そこにはマダムと、3人の友人達が立っていた。一様に傷ついた表情をしている。リーマスはその時初めて理解した。何故自分だけが彼らを傷つけたくないと思っていると、そう考えていたのだろう。彼らだって、リーマスを傷つけたくないと思っていた。そして彼らは自分を卑下するリーマスに、悲しみに似た憤りや怒りを感じていたのだ。彼らは自分達と対等にリーマスを扱いたいと思っていた。そして自分は、彼らと対等になりたかった。

「私は出ていよう。ゆっくり話しなさい」

 リオンはベッドの縁から腰を上げ、マダムを促して事務室へ引っ込んだ。


 4人はそろって、事務室へと退却するリオンとマダムの背を目で追った。マダムが肩越しに一度こちらを振り向いたが、2人の教師は扉の奥へと消えてしまった。ジェームズはシリウスと、ピーターと視線を合わせるとそれぞれ頷いて、リーマスが横になっているベッドへゆっくりと近づいた。それに合わせてリーマスは上半身を起こす。白く細い腕と、薄い胸、所々に巻かれた包帯が痛々しい。リーマスは畳まれていたシャツを広げて肩にかけた。ジェームズ達は示し合わせたように立ち止まった。先に謝ってしまおうと思っていた。許されることではないけれども、どうしても最初に言いたかった。しかし、リーマスの瞳を直視することさえできなかった。3人は一様に俯いて、卑怯にもリーマスに裁かれるのを待っていた。

「……怪我、しなかったんだってね」

 少し掠れた、小さな声がジェームズ達の鼓膜を揺らした。弾かれたように顔を上げる。リーマスは微笑んでいた。それはジェームズ達が悲しくなるような笑顔では決してなく、本当に心の底から喜んでいる、そんな笑顔だった。

「良かった、皆が無事で」

 その言葉に泣きそうになった。ジェームズは、ただ彼に裁かれるのを待っていただけの自分を恥じた。

「リーマス……。どうして怒らないんだ。僕達がしたことは、許されないものだった」

 吐き出すようにして言ったジェームズに、リーマスは静かに答えた。

「怒っているよ」

 全くそんな様子を感じさせない声色で、リーマスは言った。どんな顔をしているのか知りたくて、ジェームズはようやく俯いていた顔を上げた。リーマスは言葉の通りに怒ってはいなかった。少なくともジェームズにはそう見えた。ただ何が、とは分からないが、リーマスは確かに満月の前とは違っていた。

「勿論怒っている。君達を信じていた。それなのに君達は約束を破ってあんな危険なことをした。でも、許されないことではないよ。君達は上手く逃げて、こうして謝りにきてくれた」

 リーマスは綺麗だった。儚さを少し克服して、強さに変えていた。リーマスは成長したのだ。

「僕らは! 君を死なせるところだったんだ!」

 置いていかれたような気がして、シリウスが叫んだ。しかし風に靡く柳の枝のように、リーマスはその怒りとも悲しみともつかない叫びをあっさりと流してしまった。

「でも僕は君たちを殺すところだった。……怖かったろう?」

 それはリオンの研究室で、あの教師にかけられた言葉であり、その口調やひとつひとつの言葉の音までそっくり同じだった。あの教師の中にある崇高な、慈愛に満ちた精神が、リーマスに宿ったようだった。

「リーマス、僕……」

 ピーターが言葉を詰まらせた。その目にはもうすでに涙が浮かんでいる。しかしピーター自身も、何のために泣いているのか分かっていなかった。かろうじて分かるのは、泣く必要など本当はないのだということだけだ。

「良いんだよ、僕も怖いんだ。あの姿も、精神も。はっきり言う勇気のなかった僕もいけないんだ。僕は君達があの姿を見て、僕から離れてしまうとは思っていなかった。君達を信じていたよ。僕はただ、自分でも怖いと思っているあの姿を、見られたくなかっただけなんだ。僕が怖くて、嫌だったんだよ。君達に、見せたくなかったんだ」

 他に何も言いようがなくて、ジェームズはただ言わなくてはと思っていたことを口にした。しかし、それは何の意味もないことに思えた。リーマスはジェームズのことも、シリウスのことも、ピーターのことも全て受け入れていた。

「ごめん……リーマス。僕らは君を裏切ったんだ」

 今日この時だけは、言葉など必要なかったのかもしれない。ジェームズは思った。

「ジェームズ、過ぎたことだよ。僕は今とてもほっとしているんだ。満月の前までは本当に君達に見て欲しくないと思っていたけれど、でも、あの恐怖を分かち合って欲しいと思っていたことも確かなんだ。だから、君達が僕を見て恐怖を抱いたとしても、僕は悲しくなんてないんだよ」

 そう言って、リーマスは微笑んだ。その精神は高潔で、しかしリーマスの表情はこの時初めて年相応の少年の顔に見えた。

「……リーマス、君はどうしてそんな……」

 ジェームズは膝をついてリーマスの右手を取った。リーマスの小さな手を両手で包むと、全く常識では考えられないけれど、ジェームズはその手にキスしたいと思った。神に許しを請うように。

「ジェームズ……」

 リーマスの左手が、ジェームズの手に重ねられる。許しを得られたことにピーターが安堵して泣き始めた。

「ピーター、泣かないで」

 本当に困ったようにリーマスが呼びかける。

「うん……。うん」

 ジェームズが立ち上がってピーターの涙を拭ってやる。ピーターは泣き止むと少しは恥ずかしそうに笑って見せた。リーマスもそれに返す。

「……もう一度、信じてもらえるのか?」

 シリウスだけがまだ硬い表情をしていた。リーマスの瞳を真っ直ぐに見つめながらそう言ったシリウスに、リーマスは視線を逸らさずに答えてくれた。

「これからも一緒にいてくれるのなら」

 シリウスはゆっくり息を吐いた。そしてようやくリーマスに笑いかけることができた。ジェームズもシリウスを見て、ようやく心から微笑むことができた。リーマスの成長に助けられ、自分達も成長できたとジェームズは思った。

「そんなの、僕らからお願いするよ。リーマス」

 ジェームズが右手を差し出すと、リーマスは少し戸惑って、しかし自らジェームズの手をとって握った。次にピーター。次にシリウス。硬く握られた手が、これからの彼らの友情をより強固なものにしてくれた。


 この世界が砂時計で測られているとしよう
 その砂時計は砂の落ちきる一瞬に
 上下を反転させられているのだ
 人の知らない大いなる意思によって
 永遠に

Back / Top