紅茶とホットケーキ
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Case 1:キャラメル
“リーマス・J・ルーピンは歩きながら見えない蝶を追っている”。
クラスメイト達はこの間までそうやって彼を揶揄していた。
それと言うのも、とにかくリーマス・J・ルーピンはよく転ぶ。運良く転ばなかった時とは、イコール上手く人にぶつかった時である。そうは言っても友人達と一緒に歩いている時、リーマスは滅多に床と仲良くなることはなかった。
例えばシリウスがリーマスと一緒に歩く時は、彼は常にリーマスの三分の一歩後ろを歩いて、リーマス側の手を空けている。リーマスが転びそうになった時、すぐに手を伸ばして後ろから体を支えるためだ。ジェームズはシリウスの逆で、常にリーマスの三分の一歩前を歩いている。リーマスが転びそうになった時には、彼の体の前に手を伸ばして支えられるようにしているのだった。ピーターは前触れなく転ぶリーマスを咄嗟に支えるにはいたらないので、常にリーマスの前を歩いている。そうすれば、リーマスが転んだらピーターの背に掴まることができるからだ。4人で歩いていれば、3人がかりでリーマスを支えることができる。
しかし彼らがどんなに努力しても、リーマスが1人で歩いている時には助けることなどできない。相変わらず時々廊下でぼんやりと床と仲良くしているリーマスを見て、クラスメイト達は近頃こう言うようになった。
“リーマス・J・ルーピンは転ぶ合間に歩いているのだ”と。
しかし今年は特別で、廊下でぼんやりしている生徒はリーマスだけではなかった。妙に浮き足立っている生徒は殆どが同級生で、彼らは廊下でぼんやりするかそわそわするかで、両者共に注意力が散漫になっており、廊下では人間同士の交通事故が相次いでいた。落ち着きないのはリーマスの友人ジェームズやピーター、リリーも同じことであった。
リーマスは皆が浮き足立つ理由を知っていた。ホグワーツでの社交界デビューといったところだろうか。クリスマス休暇前には4年生以上が参加できるダンスパーティが開かれるのだ。男女は年頃の興味以上にお互いを意識して当然だった。誰が誰を誘うのか、誰が誰に誘われるのか、毎日がそんな情報のやり取りで埋め尽くされている中にあって、ジェームズは今年見事恋人同士となったリリーを誘うに決まっているし、ピーターも新学期早々に彼女ができて万々歳だった。リーマスはというと、今年は不幸なことにダンスパーティ前日に満月が重なって、体調のことを考えると参加はまず無理だった。容姿抜群のシリウスは、同級生のみならず上級生からも引く手あまたであるが、まだ誰とも約束を取り付けていなかった。
シリウスにはもう、別の予定が入っていたからだ。
それを知っているのは今のところリーマスだけだろう。どうして数々の誘いを断るのかと不思議に思って尋ねたリーマスに、シリウスが無邪気に答えた言葉。リーマスは自分しかとっていなかった数占い学の授業の帰り道、また例のごとく何もないところで躓いた。あ、また転ぶな、と思った時にはすでに遅く、両膝をしたたかに床に打ち付けて、床と握手していた。そのままリーマスはしばらくぼんやりと考える。これはいつもと違って、本当に考え事をしていたから転んだのだ。考え事さえしていなければ無事に寮まで辿り着いただろう。両膝が痛んで歩き方が変になったとして、転んだことに気付かれても今日はそうやって言い訳ができそうだ。
そんな考えに満足して、リーマスはにこりと笑った。そしてようやく立とうとすると、背後から脇の下に手を入れられて、ぐいと持ち上げられた。
「リーマス、床と仲良くなるなとは言わないけれど、あんまり長話は良くないよ」
後ろを見るとジェームズが苦笑していた。
「あ、ジェームズ。今日は考え事をしていたんだ」
「廊下に座ってかい?」
折角用意していたリーマスの言い訳に、ジェームズはさらりとそう答えた。
「違うよ。考え事をしていたのは転ぶ前だ」
リーマスが憮然とそう答えると、ジェームズはわざとらしい溜息をついてリーマスの汚れたローブを丁寧に払った。
「リーマス、廊下で考え事をするなら立ち止まった方が君のためだ。足は大丈夫?」
念入りに膝の部分を払うジェームズに、リーマスは慌てて自分もローブを払った。人にやってもらうなんて子どものようだ。
2人がかりでローブの汚れを落とすと、ジェームズはリーマスの背に手を置いてそっと歩き出した。リーマスも背後に回されたジェームズの手に押される形になって歩き出した。特に膝が痛まないのは幸いだった。
「さて、じゃあ何を考えていたんだい? 僕の小鳥さん」
自分よりも少しだけ高くなってしまったジェームズの瞳に覗き込まれて、さらにおかしな台詞で呼びかけられるとリーマスは憮然とした顔を引っ込めて笑うしかなかった。
「何だい? それ」
「リリーに借りた恋愛小説の中で、主人公の恋人がそう言っていたんだよ。真似してみたんだけど、気に入らない?」
「そうじゃないけど、変だよ……」
小説の中でそうだったのなら、それは恋人にかける言葉であって同い年の男にかける言葉じゃあない、とリーマスは心の中で続けた。言わなくても分かるものだと思ったからだ。しかしジェームズは首を傾げて眉を眉間に寄せ、とても難しそうな顔をするとこう言った。
「そうかな。じゃあ今度は別の言葉を考えるよ。君の気に入るやつを」
そういうことじゃあないのだ。リーマスは自分の思考回路が狭くて時々渋滞するのを知っていたが、ジェームズの思考回路には脇道がいっぱいあるのだとしか考えられなかった。その脇道はリーマスの想像を超える場所に繋がっていて、さらに常識といったものをあえて避けて通っているのだろう、とリーマスは思った。
リーマスはジェームズの何か根本的な間違いを正そうとしたけれど、こんな時に限って思考回路が渋滞して上手く言葉が出なかった。それでなくても根本的な間違いというものはそれを正すのが容易ではない。ジェームズの脇道がどこに繋がっているのか予想できなければ、説得しても無駄なような気がしたもの確かだった。
そんなことを渋滞した思考回路でのろのろと考えていたものだから、リーマスはまた転びそうになった。ジェームズはいつものようにリーマスの前に腕をさっと出して、床とリーマスの仲を引き裂いてくれた。ジェームズに支えられながら床を見下ろし、なるほど望んでもいない相手と仲が良すぎるというのは問題だな、とリーマスは思った。
「リーマス、考えながら歩いても構わないから、せめて僕と腕を組もう」
ジェームズは真剣な顔でそう提案したけれど、リーマスは自分とジェームズが仲良く腕を組んで廊下を歩いている姿を想像して、失礼ながらも丁重に辞退した。じゃあ手を繋ぐ、で我慢するよ。ジェームズはそう言ってリーマスの意思も確認せず勝手に手をとると、うきうきと髪の毛先を動かした。単に手を繋いだだけなのに、ジェームズはまるでこれからピクニックにでも行くかのようにはしゃいで見えた。
「それで? 結局何を考えているの? 僕に言ってご覧よ、リーマス」
ジェームズは繋いだ手を前に後ろに、と大きく揺らした。その反動だけでリーマスはまた転んでしまいそうだ。
「あの、ジェームズ、君からも言ってくれないかな、12月のダンスパーティのこと。シリウス、行かないって言うんだ」
よろよろしながらやっとそう言ったリーマスに対して、ジェームズは合点がいったという風に微笑んだ。その笑顔はシリウスがパーティに参加しないのは当然だ、とも言っているようだった。そしてシリウスが参加しない理由について、ジェームズは正確に言い当てたのだ。口ぶりからするとシリウスに直接聞いたわけではないようなので、リーマスは改めて2人の見えない繋がりに驚いた。
「君に付いているって言うんだろ? 良いじゃあないか。君が参加できないのは残念ながら確実だし、皆が踊って食べて楽しんでいる間、君1人だけなんて寂しいだろ? 何なら、僕もリリーを誘うの止めるよ?」
さっと顔を青くして、シリウスとジェームズの強い繋がりなんて今更驚くことでもなんでもない、とリーマスは考えた。それよりも驚くことをジェームズはあっさりと言ってのけた。何故か慌てるのはリーマスの方だ。
「だ、駄目だよ、そんなの!」
「リリーは怒らないと思うけど」
だから、そういう問題ではないのだ。
「それでも駄目だって! リリーが可哀想だ」
リーマスはリリーがジェームズの誘いを楽しみに待っていることを知っている。実はジェームズより先に彼女のドレスローブをすでに見せてもらっているのだ。それを披露した時のリリーの顔。いくら思考回路が複雑多岐で常識に繋がっていないとしても、こればかりはきっちりと説得しなければならない、とリーマスはこれ以上ないくらい必死になった。しかしジェームズは続く一言で、リーマスのあれやこれやという言葉をきっぱりと止めてしまったのだった。
「でも僕からしてみれば君も可哀想だ。疲れきってベッドに1人きりだなんて。だからシリウスが君に付いていてくれると言うなら、僕は大歓迎だ」
疲れきってベッドに1人きりなのは別に毎月のことだし、これは仕方のないことだと思っていたリーマスは、勿論そんな状況にいる自分を可哀想だと思ったことなどなかった。それを寂しいと思ったことも。
なかった、と言うことができるだろうか。
また思考が渋滞しそうだと感じたリーマスは、ジェームズの強い言葉から逃れるように自分の問題から話を逸らした。
「でも、女の子の方からシリウスを誘いに来ているのに、シリウスは全部断っているんだよ? あんなに一生懸命なのに……」
「彼女達が可哀想?」
ジェームズに言葉を先取りされて、リーマスは黙って頷いた。
普通ならダンスには男の方から誘う。女性はあからさまに自分の方から誘うのは避けるべきなのだ。しかし暗黙の了解でもあるそれを破ってまで、女生徒達はシリウスにアタックしてくる。そんな彼女達を健気だ、とリーマスは正直に思うのだ。しかし何度か目撃したその必死の誘いの告白に、シリウスはいつも小さく溜息をついて首を振る。その後の女生徒達の反応は様々だ。顔を赤くして涙を溜めて走り去る者、断られても懸命に縋り付く者。シリウスは去って行く人を追いかけたりはしないし、慰めたりもしない。一度の断りで諦めない女性にはそれ以上何も言わずに背を向ける。一度など、上級生の女の子に頬を平手で叩かれている現場を目撃してしまったこともある。
リーマスはその場面を思い出して、自分も頬が痛くなった。あの時もシリウスは無表情で、叩かれた頬の痛みも、叩いた女の子への怒りも感じさせなかった。それを考えると、さらに頬が痛くなる。そっと頬に触れて黙り込んだリーマスの耳に、ジェームズの困ったような声が流れてきた。
「でもね、リーマス。彼だって誘ってきた女の子全員を相手にすることは出来ないんだよ。何と言っても、向こうは数が多すぎる。彼女達だって自分達の中から1人だけが彼に選ばれたら、そっちの方が悲しくないかな? 自分の手は取ってもらえなかったのにさ」
シリウスだって、彼女達の懸命な姿を理解しているはずなのだ。その考えに辿り着くと、リーマスは先程彼女達を健気だと思ったことが、彼女達の告白を断り続けているシリウスを暗に非難することに繋がっていたことに気付いて驚いた。そうではないのだ。ジェームズの言う通り、シリウスが誰かを選べばそれで済む問題ではなかった。シリウスはそれを知っているのだ。
「うん……。そうかもしれないけど。シリウスは楽しみじゃあなかったのかな……」
可哀想なのはシリウスの方かもしれない、とリーマスは思った。特定の女の子を選ぶこともできず、結局リーマスに付き合って医務室で過ごすしかないなんて。ジェームズはそんなリーマスの思考回路など熟知しているようだった。リーマスを慰めるように優しく放たれた言葉は、確かにリーマスの罪悪感のようなものを少し解消した。
「リーマス、彼が彼女達の誘いを断るのは、何も全部君のためってわけじゃあないんだよ。仮に満月じゃあなくて、君が誰か女の子を誘ってパーティに出たとしても、シリウスはやっぱり参加しなかったと思う」
リーマスはジェームズの言葉に首を傾げる。
「シリウスは、パーティが嫌いなの?」
「あんな風に騒ぐのは嫌いじゃあないと思うよ。ただ、彼が正装して出たりしたら、それこそ女性陣が大騒ぎだろう? あれは苦手みたいだから、彼を救うつもりで当日は彼に付き合ってあげてよ」
リーマスがシリウスに付き合ってあげる、とリーマスに考えさせるのはジェームズの優しさだった。勿論リーマスが素直にそんな風に考えられないことを見越して言っているのだ。それでもそう言ってもらえることで、リーマスの心はほんわりと軽くなった。
ジェームズは迷惑な顔ひとつせずに、リーマスが廊下で転べば支えてくれるし、こうしてリーマスの思考を計算した上で優しい言葉をかけてくれる。必要とあらば、手だって繋いで、隣を歩いてくれる。
「ねぇ、ジェームズ。君は僕に甘すぎないかな」
リーマスが困ったように笑うと、ジェームズは一瞬目を丸くした。そして歩きながら、繋いだ手を大きく振り上げる。
「良いじゃあないか、君は甘いもの好きだろ? まだまだ甘くできるよ、僕は。君はこれくらいで甘すぎるなんて言ってちゃいけない」
もっと貪欲になりなよ、リーマス。
ジェームズはそう言って楽しそうに笑った。