紅茶とホットケーキ

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Case 2:メープルシロップ

 そう言われても、元々が謙虚の固まりのようなリーマスは今でも十分貪欲になったと思うのだ。ジェームズにこれ以上ないくらいに甘やかされた次の日、リーマスは薬学の補習を終えて、また廊下を1人でぽてぽてと歩いていた。途中何度か躓いたけれど何とか持ちこたえて、リーマスはその日何度目か分からない溜息をついた。結局リーマスがどんなに一生懸命考えてシリウスを説得しようとしても無駄だし、そもそもシリウスが望まないのなら無理に説得することはない。それにシリウスは自分の決めたことを曲げようとはしないだろう。リーマスはただ、シリウスがもし良い相手を見つけてパーティに参加したいと思った時、快く送り出してあげれば良いだけなのかもしれない。

 そう結論付けたリーマスはまた大きく溜息をついて、階段の上で一度立ち止まった。廊下の床とは大変仲の良いリーマスも、流石に階段と仲良くなるのは命に関わる問題だと分かっていたので、今まで友達になることを頑なに拒否していた。特に1人で階段を下りる時、手摺に掴まってそろそろと下りるリーマスの姿は他から見たら滑稽なのだろう。

 けれど、本人はいたって真剣だ。廊下で歩く時よりもずっと速度を落として――ちなみに彼は廊下を歩く速度も他の人よりずっと遅い――ちょこちょこと階段を半ばまで下りた。ホグワーツの階段はとても意地悪なので、毎年新入生を中心に怪我人が5・6人発生する。リーマスがその中に一度も入ったことがないのは、殆ど奇跡と言って良かった。

 リーマスが今下りている階段は途中の段が一段抜けており、さらには時々気紛れで動いたりする凶悪な階段だった。そのためいつも以上に慎重になり、リーマスはずっと下を見て歩いていた。そろそろ問題の段かな、と思ったとき、リーマスの脇を女生徒が駆け上がって行った。その勢いに驚いて顔を上げたリーマスは、顔を赤くした女生徒の頬に光る涙をかろうじて見止めた。何かしらの予感を抱いたリーマスが、走り去る女生徒の姿が消えてから階段の下にある踊り場を見ると、そこには案の定、シリウスが俯いて小さく溜息をついていた。

 また見てしまったと気まずく思ったリーマスは、引き返すか、何も見ていないふりをするか、これをネタにからかうか、という3択問題を解くことになってしまった。その間にすっかり手摺を放してしまっていることには全く気付いていなかった。

 シリウスが前髪を後ろにかき上げて顔を上げたとき、リーマスは咄嗟にやぁ、と片手を挙げた。これで選択肢1が消えた。こういう状況に弱い自分が情けない。シリウスの方から黙って立ち去ってくれると助かるのだけれど、と思ったリーマスの想いに反してシリウスは顔を強張らせるとリーマスの方へ階段を駆け上ってきた。

「リーマス! 足元見ろ!」
「え?」

 叫ばれてから踏み出しかけていた足元を見る。

 そこに階段はなかった。あれだけ気をつけていたのに、とリーマスは緊張感なく思った。前に傾いだ自分の体はもう制御することはできず、手摺に再び手を伸ばしても遅かった。怪我人リストに名前が載ることは確実そうだ、とリーマスは少し残念に思った。

 覚悟して目を閉じたリーマスだったが、しかし階段の隙間から下へ落ちることはなかった。床よりも柔らかいけれど、ベッドよりは硬い、やんわりとした温かさのあるものに持ち上げられて、空いた段を飛ばして次の段に何とかつま先を乗せていたのだ。

「……君なぁ」

 頭の上から聞こえた声に、自分を受け止めたのがシリウスであることを知ったリーマスは、心拍数が一気に上がった。落ちるなと思った時には緊張感など欠片もなかったのに、助かったと思った途端に心臓が飛び出しそうなくらい脈打ち始めたのだ。耳元に来たシリウスの胸からも大きな鼓動が聞こえた。余程驚いたのだろう。それでも咄嗟に駆け上がって、リーマスを受け止めるシリウスの反射神経には脱帽してしまう。

「ご、ごめん」

 心音があまりに早く、大きくて泣きそうになった。助かったと同時に先程の女生徒のことも思い出して、リーマスはパニック状態だった。見てしまってごめん、なのか迷惑をかけてごめん、なのか自分でも分からない。緊張と混乱に真っ赤になったリーマスに、シリウスは自分の息を整えるとリーマスの肩に頭を乗せて呆れたようにこう言った。

「ごめん、じゃあない。こういう時に言うのは“ありがとう”だ」

 まるでそれはシリウスの方から先程のことは見なかったことにしてくれ、と言ってきたようにリーマスには聞こえた。

「うん……、ごめん」

 見なかったふりをするにはあまりに隠し事が下手くそで、結局シリウスの方に気を使われてしまった。何だか本当に情けなくて泣きたくなった。その時肩に置かれたシリウスの頭が小さく震え、くぐもった声でシリウスはさらに呟いた。

「……だから、ありがとうって言えよな……」

 くすくす笑いながらシリウスはそっとリーマスから離れた。別に本当に呆れていただけで、怒ってはいないようだった。リーマスはまだ顔を赤くしたまま、シリウスの言う通りに“ありがとう”と口を開きかけた。

 しかし次の瞬間にはぐらりと足元が揺れて、伸ばされたシリウスの腕に再び体を引き寄せられると、きつく抱き締められた。気紛れな階段がその気紛れを起こして動いたのだと分かったのは、階段から落ちている最中で、目指していたのとは別の踊り場に落ちたのに体が痛くないことに気付いたのは、自分の下になったシリウスが低く呻いた時だった。

「いってぇ……」

 顔を顰めたシリウスは、自分で背中をさすっていた。倒れたシリウスの上に乗っかるような体勢になっていたリーマスは、慌ててシリウスの上から跳ね退いて、おろおろとしながらもシリウスの頭や、腕を確認した。特に血が出ているところは見当たらない。

「シリウス! ごめん、大丈夫?」

 リーマスはとうとう涙目になりながらそう言った。どこを怪我しているのか分からないので、不用意にシリウスに触れることもできなかった。

「シリウス!」
「シリウス! 大丈夫?」

 またパニックになっていたリーマスのところへ駆けつけたのは、ジェームズとピーターだった。どうやらたまたま階段を使うために踊り場近くに来ていて、一部始終を見ていたらしい。床に座り込んでいるシリウスとリーマスの側に、ピーターがさっと膝をついた。ジェームズはシリウスの側に駆け寄ると、ぱっとシリウスの体を眺めて怪我をしていないことを確認した。そして怪我がないことを見て取ると、芝居がかった様子でからかった。

「シリウス! 何て奴だ! リーマスの下敷きになるなんてうらやましい!」

 そう叫ぶと、ジェームズはリーマスの脇に片膝をついてリーマスの手を取った。

「怪我はしていないね? リーマス」
「ジェームズ! 少しは僕の体を心配しろよ!」

 シリウスはまだ腰の辺りをさすりながら叫んだ。ジェームズはそれを聞いて、たっぷり5秒待つと、やっと気付いたというように手を叩いた。

「あぁ! 本当だ。大丈夫かい? 頭を打ってはいないだろうね」

 ニヤリと笑いながらシリウスの後頭部に手をかざすジェームズ。それに応えるシリウスの顔は少し引きつっていた。

「見ていたくせに最初に心配するのが頭かよ……」

 ジェームズのからかいが、実はリーマスの緊張や罪悪感を取り除くためのものだったとしても、この時のリーマスには流石に通用しなかった。

「シリウス、本当にごめん。怪我は? どこを打ったの?」

 潤んだリーマスの瞳が揺れている。そのことに気付いたシリウスは、側に座ったピーターの頭を使って立ち上がった。シリウスはもう痛みに顔を顰めることも、不自然にどこかを庇った動きも見せなかった。にこりと笑って泣きそうなリーマスの前に手を差し出す。

「背中。でも大丈夫だ。君は?」
「え?」
「怪我」

 シリウスが簡潔にそう言うと、隣でピーターが慌てたように声をかけてきた。

「本当だよ、リーマス。足捻ったりしなかった?」
「あ……大丈夫」

 この状況で自分の心配をされるとは思っていなかったリーマスは、差し出されたシリウスの手にぼんやりと自分の手を乗せた。するとシリウスがリーマスの手を引いて、ピーターがリーマスの背を支えて立たせてくれた。リーマスも立つ時にどこかが痛むような素振りは見せず、ジェームズはそれに大いに満足した様子だった。にんまり微笑んだ王様はシリウスの背を思い切り叩いてこう言った。

「よし。よくやったぞ、騎士殿。褒美に僕のレポートをやらせてあげよう」
「いって! やらねぇよ! むしろ君が僕のをやれ!」

 シリウスはジェームズに叩かれた背中をさすって、少しだけ涙目になっていた。それはジェームズに叩かれた反動からくる痛みのみではないようだった。当然だ、自分だけ落ちた衝撃とは全く違ったものだったのだろうから。

「シリウス! ごめ……」

 リーマスは謝りかけて慌てて口を噤んだ。その様子に、ジェームズとピーターは不思議そうにリーマスを見詰めた。ただシリウスだけは微かに笑ってリーマスの言葉を待っていた。それは以前に図書室で窓の外を眺めていた時と同じ、雪の夜のような静謐さを感じさせる色を帯びていた。

「……ありがとう」

 小さくリーマスはそう言った。するとジェームズとピーターが驚いたように顔を合わせ、シリウスはぱっと破顔した。

「Good!」

 シリウスが滑らかにそう言うと、ジェームズとピーターも破顔した。そしてジェームズがすぐにシリウスの首を捕まえて、反対の手でリーマスの肩に手を回した。シリウスがピーターの頭を引っ張って、4人は肩を組んで横一列に廊下を占領すると、そのまま寮まで帰ったのだった。

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