落花流水
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最初に彼女を見つけたのがいつで、何処だったのかは覚えていない。
強烈な印象があったわけでもない。ただ彼女という存在は、落ちる雫が岩を削るように少しずつ、確実に僕の心に落ちてきて、いつの間にか僕の心の中に彼女の場所が出来ていた。それが恋なのだと定義したのは、僕ではなくてシリウスだった。今では僕もこれが恋だと思っている。ただもっと劇的に――例えば世界が薔薇色になるとか――変化することを期待していたので、あまりに静かに訪れたこの感情に、僕は少し戸惑っている。世界は相変わらず雪の白だったり、空の青だったり、森の緑だったり、何も変わらない。ただ彼女のいる場所は、その光彩が少し他と違って見えるだけだ。そう言ったら、シリウスはほんの少しだけ悲しみを交えた顔で笑った。そしてそれも世界が薔薇色であると表現することと大差ない、と彼は言った。
4年生に上がってもなお、シリウスは僕が追いつこうとするのを阻むように、確実に身長を伸ばしている。入学してから現在までで、ある程度僕らの身長差は縮まったけれど、結局お互いの最近の伸び率を考えてみても僕が彼に追いつくことは出来ないようだ。そんなシリウスは、僕がリリーの話をするときには喜んで僕の話を聞いてくれるけれど、この頃その表情に一抹の寂しさのようなものを滲ませるようになった。僕はそれを発見してしまうと、毎回奇妙な不安に囚われる。何故そんな顔をするのだろう。そして僕は、何故彼がそんな顔をするのか、理解できないのだろう。
ただ幼い獣のようにじゃれ合う時期は終わってしまったのだ、と僕は考えるようになってきている。だがその転機をもたらしたのが僕の恋心だということは、ただの偶然だろう。僕が今この恋を捨てても、あの頃に戻ることはできないのだ。そう思うと、シリウスも、リーマスも、ピーターも、僕がこれを捨てることなんて望まないだろうということも容易に想像できるのだ。
そしてもし捨てられるのか、と訊かれた時、僕はYesと言うことはできないだろう。
彼女は水のように、僕の中を巡って、もう随分と深いところまで滲みこんでしまっているから。
たまに1人になりたい時がある。それは恋を自覚してから、以前よりも少しだけ多くなった。シリウス達はそれを理解してくれて、僕がふらふらと1人で出て行くときは何も言わずに行かせてくれた。彼らの優しさに甘えて、この日も僕は森の入り口でまどろんでいた。考えたいこともあるけれど、深みに嵌るといけないので、僕はある程度まで考えてからその思考を放り投げる技術を覚えた。時間を置いてから再び拾って考えると、深みに嵌らずに行けることもある。僕も少し成長したのだ。
そう思ってそっと笑うと、寝転ぶ僕の数メートル脇を人影が通り抜けた。森に入る人間なんて限られているから、僕は身を起こした。シリウス達の誰かが、僕を呼びに来たのだと思ったのだ。しかし足早に森の中へ入って行こうとするのは、長い赤い髪の少女だった。僕は驚いて彼女に呼びかけた。
「リリー? 危ないよ、森に入るのは」
僕の言葉にはっとして、彼女が振り向いた。僕がここにいるなんて思っていなかったのだろう。無防備なその緑の瞳の端に輝く雫に、ドキリとした僕。同じようにドキリと身を強張らせた彼女は、さっと指でその雫を浚った。そして珍しく挑戦的に僕に言ったのだ。
「……貴方達はいつも入っているわ。自分達だけ特別だなんて言わせないから」
リリーはずんずんと森の中へ入っていった。他の場所だったら僕も彼女の邪魔はしなかったのだけれど、流石にここは危ない。僕はもう常連だけれど、リリーは初めてだろう。僕はすぐに彼女を追いかけた。
「リリー」
「何よ」
声を荒げて彼女は立ち止まった。赤い髪が、彼女の燃え上がるような心情を表している。怒っていても、リリーは綺麗だった。
「目を瞑って」
「どうして?」
僕はそっとリリーの手を握った。一瞬彼女はその手を振り払おうと思ったようだけれど、僕が笑うと諦めたように力を抜いた。
「道を覚えて欲しくないんだ。1人で行くようになったら困るから。瞑って」
リリーは大きく息を吸って、同じように大きく息を吐いた。そうでもしないと、弾丸のように僕を言葉で攻撃しそうだったのだろう。彼女はいたって冷静だった。そんなところを、僕は尊敬している。そしてリリーは大人しく目を瞑った。僕は彼女の隣を、手を繋いだまま歩き出した。リリーは半歩遅れてついてくる。
「着いたら言うから。シリウス達には内緒だよ。僕らの秘密の場所だから、いくらリリーでも入れたのが分かったら、僕は大目玉だ」
彼女は頷いた。僕はようやくリリーの身長を追い抜いたところで、こうして彼女と並んで歩くと、その差もわずかなものだった。クリスマス前のダンスに誘う時までには、もう少し差が出て欲しいものだ。
僕は時々リリーの足元を気遣って足を止めながら、目的の場所へ彼女を連れて行った。2年の最後にあの不思議な教師に見つかってしまった、この森で数少ない安全な場所。
「着いたよ、リリー。目を開けても良い」
僕は手を離した。平静なつもりだったけれど、やはり少し汗をかいていた。リリーの手は、何故か以前よりも小さくて柔らかかった。と、その感触が名残惜しくて、僕は拳を握り締めた。彼女はゆっくりと目を開く。最初眩しさに目を瞬いたけれど、やがて大きな緑の瞳が現れた。リリーは首を廻らせて周囲を確認した。
「ここ……禁じられた森なの?」
そう言うリリーの口調には、少しだけ感動が含まれていた。僕はほんの少し得意になる。そしてリリーは数歩、周りを確認するように足を進めた。僕はそんな彼女の後姿を見ながら微笑んだ。
「そう。綺麗だろう? じゃあ、僕は木の上にいるから。帰っても良いと思ったら呼んでよ」
僕は池の畔に生えている背の低い木によじ登り始めた。いつもはシリウスの特等席だが、リリーのために僕が使うことを、シリウスは怒ったりしないだろう。
「猿みたいね」
手足を使って器用に登り続ける僕を、下から見上げながらリリーは笑った。怒っていても泣いていても、彼女は彼女だけれど、笑っている彼女はやはり特別だった。僕は枝のひとつに腰をかけると、リリーを見下ろしながらからかうように言った。
「君達女性に比べたら、僕ら男性はよほど猿に近いんだよ」
「それって、女性を馬鹿にしているの?」
返ってきた口調は厳しいものだったけれど、表情は笑っている。池の水は青、草は緑、そしてローブの黒、髪の赤、肌の白、見下ろした世界は薔薇色ではないけれど、それでも十分美しかった。
「そう聞こえたのなら謝るよ。そんなつもりはないんだ。言葉の通りとって欲しい。ただ、僕は猿なりにイギリス紳士だってことを知っておいて欲しいな」
「分かったわ」
「じゃあ、なるべく夕飯に間に合うように呼んでね」
そして僕は木の上で目を瞑った。風は僕の頬を撫でるくらいに優しく、木の上は日も多く当たって暖かい。彼女の邪魔をする気はなかったから、僕は口笛を吹こうとして止めた。この風に溶けてしまおう。そうすればリリーはここに1人きり。そんな時間はとても大切だ。
下で草が触れ合う音がした。きっとリリーが腰を下ろしたのだろう。エメラルドの瞳は、深くて清浄な池の水を見ているに違いない。それを想像しただけで、胸がすっとする。まるでミントを嗅いだときのように、その情景は爽やかだ。僕はそれを瞼の裏で感じることが出来た。恋って、偉大だ。
「……ジェームズ」
リリーの声が風に乗って上昇して、僕の髪をくすぐった。
「何?」
僕は目を瞑ったまま身じろぎした。リリーは僕が降りてくると思ったのか、慌てて付け加えた。
「そのまま聞いて」
そのつもりだったよ。心の中でそう返した。
「貴方は、どうしてイタズラをするの? 単に楽しいから、それだけじゃあないでしょう?」
これはまた突然の質問だな、と僕は目を開けた。身を起こして下を見たが、リリーは、今度は僕が動くのを止めなかった。僕はリリーの赤い髪を見下ろして言った。
「ねぇ、リリー。君の足元に咲く花と、君との違いって何だと思う?」
そう言われて、リリーは自分のローブに隠されそうな場所に、小さな白い花が咲いていることに初めて気付いたようだった。ローブを引き寄せてその花を潰さないようにしてから、彼女は僕を見上げた。その目は答えられないと言っていた。
「共通点はすぐに見つかるだろう? 両者はともに綺麗だ」
僕が真剣に言うと、リリーは花が咲いたように笑った。
「ジェームズったら」
「ほら、違いはそこだよ。君は笑う。花は風に揺れるだけだ」
僕が指摘すると、リリーは驚いたように目を丸くした。それから大きな瞳をクリクリと動かして、僕の言った言葉の意味を考え始めた。その仕草は、小動物のようで愛らしい。
「人には感情があって、花にはないっていうこと?」
そうきたか、と僕は思った。そして少し考えてから返事を返す。木の上からだと、まるで独り言を言っているようだ。
「少し違う。花に感情がないかなんて、話のできない僕らには分かりようのないことだから」
それでは一体答えは何なのか、とリリーは目で続きを促した。僕は少し自分が教師になったように感じて、得意だった。彼女相手に得意になれるというのは、何だか他とわけが違う。
「リリー。人は感情を表現できる。今、君は笑った。僕の言葉がそれをもたらした。僕はそれが嬉しいし、誇りに思うよ」
僕はリリーから目を離した。次の言葉は空に向かって続ける。これは本当に独り言だったから。
「僕はね、嬉しいときには笑いたいし、怒ったときには怒鳴り散らしたい。子どもっぽいと思うかもしれないけれど、僕が僕であるためには、僕なりにそれを表現する必要があると思うんだよ」
僕が僕であるためには、そして僕という人間が他の何者でもないと感じるためには。空は海のようなマリンブルーをしていた。
「自分を、探していたの?」
静かに、リリーは言った。僕は幸せだ。僕を理解してくれる人を、周りにたくさん持っている。そして、その中にリリーがいてくれるなんて。
「今も探しているよ。そうして、そんな僕の考えを、僕は皆に押し付けているんだ。僕らのイタズラで、笑う人もいれば怒る人もいる。その人達はきっと、自分だけの感情を表してくれている。何てね、僕の希望。僕は自分のできることを、やりたいようにやるんだ。これは僕の野望。僕は結構野心家なんだよ、リリー」
僕は突然木の枝に両足を引っ掛けて、逆さまにぶら下がった。リリーの顔が近くなる。彼女は僕の突飛な行動に驚いて、そして呆れていた。
「心に留めておくわ」
リリーは笑ってそう言うと、僕の眼鏡を奪った。僕は近眼だから、リリーの距離は少し遠くて、彼女の顔がよく見えなくなった。僕は上体を振って、木の上に戻った。これで、もっとリリーの顔が分からなくなった。そこで、僕は思い切って聞いてみる。木から落とされるかもしれないけれど、チャレンジ精神は大切だ。
「僕からも質問して良いかな」
そう切り出されて、リリーはどんな表情をしただろう。眼鏡がなくてぼやけていても、彼女がいると世界は美しいなんて、ただの惚気だろうか。
「私が泣いていた理由?」
その声はいつもと同じ調子で、別に彼女の機嫌を損ねたようではなかった。落下は免れたらしい。
「言いたくなかったら、良いよ」
興味はあるけれど、一応紳士らしく断りを入れておいた。リリーは手元で何かを玩びながら――多分僕の眼鏡なのだろう――あまり深刻な様子も見せずに切り出した。
「いいえ、聞いて欲しいわ。私ね、妹がいるの。昔は、と言っても本当に昔よ、仲が良かったわ。私はそう思っているの。でも、自分で言うのも何だけど、私は妹より出来が良かったのよ。今でもそう。私はこうして魔女になって、両親は喜んだけれど、妹は私を、そして魔法使いを軽蔑したわ」
僕はリリーと、彼女の言う妹の姿を想像した。そうしてみたら、妹はリリーに嫉妬しているのだと容易に判断できた。僕は一人っ子だから、兄弟の複雑な関係についてはあまりよく分からない。兄弟のような相棒は僕をよく理解してくれるから、僕は安心しきっている。
「去年までは、私に妹に対する配慮が足りなかったと思っていたの。だから私、努力したわ。それこそ、私にできることをした。でも気付いたの、そうして妹のご機嫌をとって、私が得られるものは何だろうって。妹はもう私個人を通り越して、魔法使いもこの世界も嫌っている。私はもうこの世界と離れることはできないわ。やろうと思えば出来るけれど、しなくないの」
リリーと妹の関係は、まるで戦いだ。というよりは、妹が嫉妬の感情を膨らませて、リリーに挑んできている。彼女は今まで何とか妹を迎えて、その腕に抱き締めたいと思っていたようだけれど、今は違う。華麗にマントを操って、妹を煙に巻こうとしている。
「僕も、君にはずっとここに居て欲しいよ」
その方法は賢明だ。僕はそう思う。正直言えば、血の繋がりのある妹だからって、リリーを押さえつけて僕のいる世界から奪うなんて、そんなことができるのは理不尽だった。
「ありがとう。……だからね、私、妹との関係はきっとこのまま。良くはならないし、悪くもならないと思うわ。それは、きっと不道徳なことだと思うの。血の繋がり、とか言うのは好きじゃあないけれど、やっぱり家族は特別だわ。私のこんな決意、両親は喜ばないでしょうね。だから、泣いたの。悔しいのとか、悲しいのとか、色々なことで……」
強いな。僕はそう思った。女性は皆強いと僕は思うけれど、リリーの強さは特別だ。シリウスに似ていると言ったら、リリーに失礼だろうか。
「でも君は、後悔しないだろう?」
僕は半ばリリーの答えを確信しながらそう尋ねた。
「後悔はするわ。でも、戻ろうとはしない」
きっぱりと言い切ったリリーの答えは、僕が予想していたものとは違うものだった。
「……君は……」
僕が思っていたより、ずっと強い。そんな面を、次々と見せてくれる。
「何?」
僕は誤魔化した。口に出して言わないほうが良いことだってある。お喋りだ、口から産まれてきたな、とシリウスは言うけれど、開けることができれば、当然閉じることだってできるのだ。
「僕は、君の妹が悪いと思う。だって、君がそんなに真剣に考えているのに、彼女は考えようともいないんだろう? 不道徳なのは、彼女の方だよ」
一度会ってみたい。それこそ僕が、リリーの魅力を不眠不休で教えてあげるのに。
「それでも私の妹よ。悪く言うのは止めて」
怒ったような彼女の口調に、僕は慌てて、また枝に足を引っ掛けてぶら下がった。リリーの表情が、よく見えない。それだけでもとても不安になった。僕は顔の前で両手の平を合わせた。
「ごめん。でも、君もそう思ったほうがずっと良いと思う。家族だから、だから恨んじゃあいけないなんて、僕はそういう考えは嫌いだ」
あぁ、僕はなんて正直な男なんだ? ごめん、だけで止めておけば良かったのに。口は災いの元なんて、僕のためにあるような言葉だ。僕は目を瞑った。リリーが動くのが、空気の流れで分かる。こっそり目を開くと、途端に僕の額にリリーの手がポンと置かれた。これだけの至近距離なら分かる。リリーは笑っていた。
「私も嫌い。でも、これは口にすることではないわ」
口元に指を立てて当てたリリーを真似て、僕も同じ仕草をして応えた。
「じゃあ、僕らだけの秘密だ。君は妹が嫌い。僕も彼女が嫌い。でも、君は好きだ」
「良いわ、貴方だけに教えてあげる。私の妹は、頭が固くて、器量が悪くて、とっても嫌な娘なの。でも、私の妹なのよ」
僕は神妙に頷いて見せたけど、ぶら下がった状態では首は上手く曲がらなかった。
「最後の部分は、とても重要だね」
「そうなの。だから、これは2人だけの秘密」
2人だけの秘密。何て甘い響きだろう。君はそれを意識しているのだろうか。頭がボーっとしてきた。頭に血が上る。
「さ、帰りましょう。降りてきて良いわよ、ジェームズ」
ぶら下がっているのだから、頭に血が上って当然だった。
一旦枝の上に座ると、頭がくらくらした。少し頭の血を戻して、僕はまた猿のように木から降りた。リリーは僕が降りると、先に立って歩き出そうとした。帰り道も分からないのに。僕はそんなリリーの背に呼びかけた。
「ねぇ、どうかな、リリー。僕、君と駆け落ちするために、ここら辺でもう一歩前に進みたいのだけど」
さっき、ドサクサに紛れて告白したことに、君は気付いているのか。気付いていないふりをしているのだろうか。リリーは策士だ。僕以上かどうかは、分からないけれど。
「はっきり言ってくれないと分からないわ、ジェームズ」
リリーはそう言って、僕の耳に眼鏡をかけて返した。世界の輪郭が急にはっきりとする。
「そうだね。えぇ……」
これから何度、僕は君に恋や、愛を告白するのだろう。それはとても気の遠くなる話だ。気の遠くなるくらい、幸せな話だ。
「僕と、付き合ってもらえませんか? リリー・エヴァンス」
僕が手を差し出すと、リリーは当然のようにその上に自分の手を置いて悠然と微笑んで見せた。
「喜んで、ジェームズ・ポッター」
帰り道は、君をリードしているのか、君にリードされているのか分からなかった。
僕らは対等な恋人になった。手を繋いで森から出てきたところを偶然にもシリウス達に見られていて、僕は寮に帰ってから散々彼らにからかわれたけれど、それも彼らからの祝いだと思って許してやることにした。僕はどんどん寛大になっていく。唐突に、僕は思った。将来は大きく、澄んだ河になろう。魔法使いだから、それくらいの目標を持ったって構わないはずだ。僕はその考えと、今日の出来事に大いに満足して、その日はシリウスのベッドに乗り込んで、寂しがり屋の彼と一緒に寝てやった。