落花流水
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最初から彼は強烈な印象を私に与えたけれど、それが恋になるなんて、その時には想像もしなかった。
その最初の強烈な印象だって、ドキドキするような甘い恋の予感なんてものじゃあなかった。男の子達は最初、それが魔法使い出身であってもマグル出身であっても、女の子よりずっと子どもだった。中でもジェームズ・ポッターとシリウス・ブラックは本当に子どもだったのだ。目をキラキラと輝かせて悪戯をして回る。学校で騒ぎが持ち上がれば必ず中心にいるのはその2人だった。他の男の子達だって目立ったことはしなくても皆同じ、男の子同士でくっついて、笑い合って、喧嘩して。女の子達だって確かに女の子同士でくっついて、笑い合って、喧嘩してだけれど、話題はクィディッチのことなんかじゃあなくて、使っているシャンプーの話とか、新しい髪の結び方だとか。たまにはそう、好みの男の子の話とか。
もっとも、その手の話題になると私はいつも聞き役。どんな人が理想か、なんて訊かれても困ってしまう。どんなタイプだって良い。ロマンチックに言えば、私はきっと運命の人を待っているのだ。その人に会ったら、一目で恋に落ちる。そう思っていたことは、今でも私だけの秘密。だって、結局彼には一目では恋に落ちなかったのだから。
初めはきっと、彼がクィディッチの試合に初めて出場したとき。同じチームの上級生より滑らかに空を滑り、グリフィンドールの朱色のユニフォームが彼をずっと大人に見せた。私はそれまでのグリフィンドールの試合とは打って変わってクィディッチに夢中になり、試合中ずっと彼の姿を追っていた。
でも周囲の女の子はそれに気付かなかったみたい。彼女らは寮に戻ると私を取り囲んで、シリウス・ブラックと何を話していたのかということを聞きたがった。何のことはない。私とシリウスは、彼の話しかしなかったのだから。シリウスと私は同士なのだ。ジェームズ・ポッターという男の魅力に気付いてのめり込む、一種の戦友。シリウスは確かにハンサムだけれど、間に彼がいる限り、私はシリウスに恋心を抱くことはないのだろう。
正直私は、ホグワーツの英雄である彼が私を見ていてくれたなんて思わなかった。だから彼の“駆け落ちしてくれ”という告白に、本当はすぐさま“はい”と答えたかった。後になって彼は“かなり舞い上がっていたんだ”と照れ笑いしたけれど、それは私も同じ。いいえ、きっと彼以上に舞い上がっていた。
大人が見たら性急だと非難しかねない恋を、私はしている。この新しい世界で。
そして私はこの新しい世界で素晴らしい恋を得て、古い世界でひとつの情を失った。捨てる覚悟をした、というのが正しいのだろうか。私は他にいい場所を知らなくて、危険な森へと突き進む。誰にも見られたくない、1人で泣くところなんて。その声も聞かれたくなんてない。
「リリー? 危ないよ、森に入るのは」
ドキリとした。彼らがここに出入りしているのは知っている。だから誰もいない時を狙って足を踏み入れたはずなのに。声のした方を振り返ってみると、彼が私を見て目を丸くしている。茂みで寝転がっていたに違いない。ぼやける視界に、私は慌てて目尻を指で拭った。見られた、と顔が赤くなる。
「……貴方達はいつも入っているわ。自分達だけ特別だなんて言わせないから」
何も言って欲しくなかった。追いかけてくれなくても良い。私は彼を無視して森の中へどんどん入って行った。こんな可愛くない顔、彼にだけは見せたくなかったのに。
それなのに私が草を踏む音に加えて、背後から私を追いかけて草を踏む音が聞こえる。
「リリー」
追いかけてこないで欲しい。声なんてかけないで、私の名前を呼ばないで。
「何よ」
返した声は裏返っていて、とても情けなかった。苛立ちだけではなく、私は涙が溢れそうになった。私は彼に甘えてしまいたいのだ。ジェームズの声は優しすぎる。そんな弱い自分が情けなかった。
「目を瞑って」
絶妙のタイミングでジェームズは静かに言った。彼のおかげで、私はヒステリーを起こすタイミングを見失うことができた。
「どうして?」
尋ねると、ジェームズはそっと私の手を握った。
「道を覚えて欲しくないんだ。1人で行くようになったら困るから。瞑って」
私は何か意味のないことを言って彼を困らせようとしそうになった。でも彼が私の手を握る力を強めてくれたおかげで、私は咄嗟に息を吸って、同じように大きく息を吐いた。彼はいつも私を冷静にさせてくれる。私は大人しく目を瞑った。ジェームズは私の隣を、手を繋いだまま歩き出した。私はそれに引っ張られる形で、遅れて彼の後を付いていく。
「着いたら言うから。シリウス達には内緒だよ。僕らの秘密の場所だから、いくらリリーでも入れたのが分かったら、僕は大目玉だ」
耳元で囁くような声に、私はただ頷いた。目を瞑った状態で歩くのは怖い。手を繋ぐだけでなく、腕に縋って歩きたかったけれど、流石にそれは甘えすぎだと思って自重した。
ジェームズは私の足元を気遣って、時々足を止める。小さな声で段差を注意されると、とてもくすぐったかった。やがて彼が足を止める。
「着いたよ、リリー。目を開けても良い」
そう言うと、ジェームズの手がゆっくり離れていった。私はそれを追おうとして踏み止まった。そしてゆっくり目を開ける。最初眩しさに目を数度瞬いたけれど、やがて光に慣れて、私は目を開けるとすぐに飛び込んできた光景に思わず首を廻らせて周囲を確認した。
「ここ……、禁じられた森なの?」
信じられない、と私は思った。自然と足が前に進んでいた。奥の森と違って、開けた明るい清浄な池の辺。木々の間から照らす陽は柔らかく、暖かい。ここが昼間でも暗い禁じられた森の中にあるなんて。
「そう。綺麗だろう? じゃあ、僕は木の上にいるから。帰っても良いと思ったら呼んでよ」
その言葉にはっとした時には、ジェームズはすでに手足を器用に使って木に登り始めていた。
「猿みたいね」
どんどん上へ登っていくジェームズの姿を見て、私は思わず笑ってしまった。彼は枝のひとつに腰をかけると、笑う私を見下ろしながら言った。
「君達女性に比べたら、僕らはよほど猿に近いんだよ」
「それって、女性を馬鹿にしているの?」
からかうような彼の口調に、咄嗟に怒ったような声を出してみたけれど、顔が笑ってしまっていることは自分でも分かっていた。
「そう聞こえたのなら謝るよ。そんなつもりはないんだ。言葉の通りとって欲しい。ただ、僕は猿なりにイギリス紳士だってことを知っておいて欲しいな」
猿なりにイギリス紳士って、矛盾していないかしら、と思いながらも私は笑って答えた。
「分かったわ」
「じゃあ、なるべく夕飯に間に合うように呼んでね」
そう言うとジェームズは手を頭の後ろで組み、木の幹に寄りかかった。そして目を瞑ってしまう。私はしばらく彼を見上げていたけれど、彼は柔らかそうな髪を風に揺らすだけで身じろぎひとつしなかった。
気を使わせてしまったな、と思いながら私はその場に腰を下ろした。怒りとか、憤りとか、悲しみとか、とても暗い感情とか、森に入ってジェームズの手に引かれるまでは確かにあった嫌なものがすべてどこかへ行ってしまっていた。池の水は青、草の緑、空は水色、木の茶色。当たり前だけれど、その当たり前が私の心を落ち着け、慰めてくれた。ジェームズはしばらく私の意識から消えていた。私は1人きりでこの池の辺に座って、今はもっとずっと冷静に、自分の心の中を整理することができた。大切なものは何か、大切な人は誰か。私が与えたいと思い、相手も私に与えたいと思ってくれる。そんな関係を築けるのは一体誰なのか。捨てられるもの、捨てられないもの。
「……ジェームズ」
呼びかけと言うよりは呟きだった私の声に、木の上のジェームズは律儀に反応した。
「何?」
ジェームズの存在をすっかり忘れていた私は慌てた。
「そのまま聞いて」
咄嗟にそう言ったのは、彼が身じろぎする音がして、そのまま降りてくると勘違いしたからだ。ジェームズは降りてこなかった。再び身じろぎひとつしなくなった彼に安心して、私は前々から疑問に思っていたことを尋ねた。別にここで訊かなくてはならないことではなかったけれど、他に言うことが浮かばなかったのだ。
「貴方は、どうしてイタズラをするの? 単に楽しいから、それだけじゃあないでしょう?」
ここでしなければならない質問ではないと分かっていたし、あまりに不躾だという自覚もあった。だから少し驚いたように動いたジェームズに、今度は何も言わなかった。
「ねぇ、リリー。君の足元に咲く花と、君との違いって何だと思う?」
気まずくてジェームズの方を見上げられない私に、ジェームズはそう問いかけた。私は慌てて自分の足元を見た。ローブに隠されそうな場所に、小さな白い花が咲いている。それまで全く気付かなかった私は、気付かないで潰してしまわなくて良かったと思った。そしてローブを引き寄せるとジェームズを見上げた。もしかしてはぐらかされたのだろうか。それならそれで構わないけれど。
「共通点はすぐに見つかるだろう? 両者はともに綺麗だ」
いつまでも答えなかった私に、ジェームズはそう言ってからかった。
「ジェームズったら」
口調だけは真剣だったから、私は思わず笑ってしまう。
「ほら、違いはそこだよ。君は笑う。花は風に揺れるだけだ」
笑っている私に、ジェームズはそう指摘した。私は彼の言った言葉の意味を探ってみたくなり、笑いを引っ込めて真剣にその意味について考えた。私とこの小さな花の違い。私は笑って、花は笑わない。
「人には感情があって、花にはないっていうこと?」
ジェームズは黙った。どうやら答えが違ったみたい。沈黙が長く感じられて、私はこの時ほどジェームズの考え方を知りたい、彼と同じ考え方をしてみたいと思った時はなかった。
「少し違う。花に感情がないかなんて、話のできない僕らには分かりようのないことだから」
それでは一体答えは何なのか、と私は目で続きを促した。貴方の考えを、もっと教えて欲しい。そして私はそれを理解したかった。
「リリー。人は感情を表現できる。今、君は笑った。僕の言葉がそれをもたらした。僕はそれが嬉しいし、誇りに思うよ」
私を見ないでそう語るジェームズは、言葉の通りとても誇らしげで、幸せそうに見えた。
「僕はね、嬉しいときには笑いたいし、怒ったときには怒鳴り散らしたい。子どもっぽいと思うかもしれないけれど、僕が僕であるためには、僕なりにそれを表現する必要があると思うんだよ」
その時のジェームズの表情。私は初めてジェームズとシリウスが似ていると思った。私はシリウスが同じような表情をする時を知っている。それは決まって――。
「自分を、探していたの?」
その問いに対して、こちらを見ないままにこりと笑ったジェームズに、私はそれが的外れの問いでないことを確信した。
「今も探しているよ。そうして、そんな僕の考えを、僕は皆に押し付けているんだ。僕らのイタズラで、笑う人もいれば怒る人もいる。その人達はきっと、自分だけの感情を表してくれている。何てね、僕の希望。僕は自分のできることを、やりたいようにやるんだ。これは僕の野望。僕は結構野心家なんだよ、リリー」
最後はそうおどけてみせたジェームズは、ついでとばかりに、木の枝に両足を引っ掛けて逆さまにぶら下がった。彼の顔が突然近くにくる。
「心に留めておくわ」
いくら子どもと大人の間の年頃だからと言って、彼はその切り替わりが予想できない。厄介な人、と思った私は、自分も悪戯心を起こして彼の眼鏡を奪ってやった。すると彼の顔が見知らぬ人のようになった。私は思わずまじまじとジェームズの顔を覗き込みそうになったが、それが恥ずかしかったのか、彼は眼鏡を返す前に木の上に戻ってしまった。そして珍しくおずおずと切り出した。
「僕からも質問して良いかな」
「私が泣いていた理由?」
むしろ今まで質問しないでいてくれたジェームズの忍耐強さに、私は感服してしまう。
「言いたくなかったら、良いよ」
おまけにこの配慮。人間よりも紳士な猿っているのかしら、と私は思う。ジェームズは私の表情を見ようとしてか、目付きがいつもより悪い。だけどそれは眼鏡を取ったせいだろうと判断できる。私はジェームズの眼鏡を玩びながら彼の質問に答えた。
「いいえ、聞いて欲しいわ。私ね、妹がいるの。昔は、と言っても本当に昔よ、仲が良かったわ。私はそう思っているの。でも、自分で言うのも何だけど、私は妹より出来が良かったのよ。今でもそう。私はこうして魔女になって、両親は喜んだけれど、妹は私を、そして魔法使いを軽蔑したわ」
森に入るまでは泣きそうになっていたことを、私は自分でも驚くくらいあっさりと口にできた。
「去年までは、私に妹に対する配慮が足りなかったと思っていたの。だから私、努力したわ。それこそ、私にできることをした。でも気付いたの、そうして妹のご機嫌をとって、私が得られるものは何だろうって。妹はもう私個人を通り越して、魔法使いもこの世界も嫌っている。私はもうこの世界と離れることはできないわ。やろうと思えば出来るけれど、しなくないの」
魔法は私の一部になっていたし、それに捨てることのできない人がこちらの世界にできてしまった。
「僕も、君にはずっとここに居て欲しいよ」
優しい言葉を、絶妙なタイミングで入れてくれる優しい人。貴方は気付いているのだろうか。私がこの世界を離れたくないと思う理由に。
「ありがとう。……だからね、私、妹との関係はきっとこのまま。良くはならないし、悪くもならないと思うわ。それは、きっと不道徳なことだと思うの。血の繋がり、とか言うのは好きじゃあないけれど、やっぱり家族は特別だわ。私のこんな決意、両親は喜ばないでしょうね。だから、泣いたの。悔しいのとか、悲しいのとか、色々なことで……」
家族は特別。でも私は知っているのだ。私もいずれは別の家族を持つことを。新しい家族を手に入れたら、私はきっとその家族を優先するだろうし、それは妹も同じことだ。だから私は決意する。妹との関係は時にすべて任せてしまおうと。時はこのわだかまりを解いてくれるかもしれないし、解いてくれないかもしれない。
「でも君は、後悔しないだろう?」
「後悔はするわ。でも、戻ろうとはしない」
誰に答えるでもなく、私はそう断言した。
「……君は……」
ジェームズが呟いた。私はジェームズの眼鏡を両手で持ち上げて、レンズ越しに木の上にいる彼を見た。
「何?」
私の視力には関係なく、レンズ越しのジェームズは歪んで見えた。私はそんな彼の顔を見て笑った。ジェームズは相変わらずピントを合わせるために眉を中心に寄せて、厳しい顔つきをしていた。
「僕は、君の妹が悪いと思う。だって、君がそんなに真剣に考えているのに、彼女は考えようともいないんだろう? 不道徳なのは、彼女の方だよ」
「それでも私の妹よ。悪く言うのは止めて」
そうやって軽く注意をする。とても複雑だけれど、妹はずっと私の家族で、いつか私が新しい家族を持ったからといって、彼女が私の妹でなくなることはないのだから。
私の口調に怒りの色でも見つけてしまったのか、ジェームズは慌てたように再び木の枝からぶら下がると、顔の前で両手を合わせた。
「ごめん。でも、君もそう思ったほうがずっと良いと思う。家族だから、だから恨んじゃあいけないなんて、僕はそういう考えは嫌いだ」
私を余計怒らせたかったのかしら、と一瞬思ってしまうような言葉だった。ジェームズもしまった、という顔をして目を瞑った。私は彼の期待通りに手を挙げて、そしてジェームズの額を軽く叩いた。
「私も嫌い。でも、これは口にすることではないわ」
口元に指を立てて当てた私を見て、ジェームズは思い切り目を見開いた。そして次には自分も同じ仕草をして応えてくれた。
「じゃあ、僕らだけの秘密だ。君は妹が嫌い。僕も彼女が嫌い。でも、君は好きだ」
さらりとした告白に、一瞬ビクンと心臓が跳ねた。何でもないような顔をしているジェームズに、私は負けないように何でもないような顔を作った。
「良いわ、貴方だけに教えてあげる。私の妹は、頭が固くて、器量が悪くて、とっても嫌な娘なの。でも、私の妹なのよ」
ジェームズは神妙そうな表情を作って、その言葉に頷いて見せた。
「最後の部分は、とても重要だね」
「そうなの。だから、これは2人だけの秘密」
この言葉に、今度は貴方の心臓が跳ねてくれれば良いと私は思う。
「さ、帰りましょう。降りてきて良いわよ、ジェームズ」
私の言葉の効果のほどは、木の上からぶら下がって会話を続けていたジェームズの顔からは読み取れなかった。彼の顔は、重力に従って移動した血が溜まって、すでに真っ赤になっていたからだ。
私の1人で泣くという愚かな決意を優しく拭ってくれたジェームズが、一旦木の枝に戻り、するすると木の上から降りてきた。私はジェームズから奪った眼鏡を、それが見納めのようにして大切に眺めた。そんな仕草を気付かれたくなくて、私はジェームズより先に歩き出す。
「ねぇ、どうかな、リリー。僕、君と駆け落ちするために、ここら辺でもう一歩前に進みたいのだけど」
40点。何て台詞かしら、ジェームズ。眼鏡がないと口も上手く回らないというのだろうか。
「はっきり言ってくれないと分からないわ、ジェームズ」
本当ははっきり言わなくても分かっている。でも言って欲しいと思うのはきっと、私がジェームズに恋をしているから。私はジェームズから奪った眼鏡を彼に返した。するといつもの見慣れた彼に戻る。
「そうだね。えぇ……」
言いよどんで頭をかくジェームズは、ちょっと照れているように見えた。
「僕と、付き合ってもらえませんか? リリー・エヴァンス」
ジェームズが手を差し出し微笑むと、私はその上に自分の手を置いて、彼に釣られるように笑った。
「喜んで、ジェームズ・ポッター」
帰り道も、彼は私の半歩手前を歩いて私を引っ張った。帰りは手だけの繋がりだけでも、私は恐怖を感じることはなかった。
私たちは対等な恋人になった。寮の前でジェームズと別れてから、夕食、就寝に至るまでの間、私が夢見心地だったからといって笑わないで欲しい。その日の夜、胸の高鳴りが治まらなくて私はよく眠れなかった。