聖誕祭の童話

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 冬、ここと同じくらい雪深い国の話だ。


 1人のマグルが、クリスマス休暇を田舎で過ごすために汽車に乗っていた。男は孤児で、ヴァイオリニストを目指し、奨学金をもらいながら音大に通っていた。男にとっては大学に入ってから迎える2度目のクリスマスだった。1年前のクリスマスは、大学生活の何もかもに夢中で、田舎を懐かしむ余裕はなかったんだ。

 でも今年は違った。2年目にもなると、人間関係や、大学での成績、音楽家としての自分の才能、色々なことが見えてくる。そして男は自分のこと、進路のこと、とにかくこれからのことをたくさん考えるようになった。大学にはヴァイオリニストとして、もっとずっと才能のある奴がごろごろいて、男は自分の才能に限界を感じていたんだ。大学を辞めてヴァイオリニストとしてではなく、ごく普通の会社員になろうかとも考えていた。そんな時だから、今年のクリスマスは田舎に帰って、自分を育ててくれた神父とゆっくり話し合おうと男は思っていた。

 汽車の中は静かだった。

 男のほかには誰も乗っていない。そう、一人も。ただ汽車の走る音と、雪の降り積もる音だけが男の耳に入ってきた。


 何? 雪の降る音がそんなに大きいはずがないって?
 君、知らないのか? 雪の積もる音を聞くにはコツがあるんだよ。
 うん。今度教えてやる。
 ……うん。約束な。続けるぞ?



 やがて駅に着いて、男は汽車を降りた。外はとても寒くて、男はたった1年故郷を離れていただけなのに、その寒さをすっかり忘れてしまっていたようだった。男は雪の降り積もった道を1人、駅から神父の待っている教会まで歩いた。夜の田舎道は街灯のひとつもなくて暗く、雪は歩く男の上にも容赦なく降り積もった。男はじっと下を向いて、ただただ教会へ向かって足を進めた。手には荷物の入ったトランクと、ヴァイオリンのケース。


 歩いているうちに体は心まで冷え切って、トランクを持つ手も、ヴァイオリンケースを持つ手も凍ったように動かなくなった。そんな時、男の視界に教会の聖堂の光が入った。男は心底ほっとして、最後の力を振り絞って教会へ向かって歩いた。本当は司祭館に回って、神父に会おうと思っていた男は、しかし聖堂に光が入っているのを見て取って、神父はそちらにいるのだろうと判断して聖堂へ逃げ込んだ。

 聖堂の重い扉を全身を使って押して、男は中へ入った。聖堂の中は特に暖房器具が入っていたわけではなかったけど、外に比べれば男がほっとするほど暖かかった。でも男がほっと息をつける間も少なかった。

 歌が聞こえたんだ。
 言葉では表現できない声。

聖堂に神父の姿はなかった。あったのは、祭壇の前に膝をつき、祈るように歌う知らない人の後姿だけだ。男は音大にいたから、勿論声楽を学んでいる知り合いもいた。けれどその才能あふれる知り合い達だって、その歌以上に美しく歌える者はいないだろう。全身が痺れるような歌声だ。高音も、低音もよく響いて伸びる。

 天使の歌声だ。

男はそう思った。音楽というものを始めて耳にしたような感銘を受け、男は立ち尽くしたまま、その歌声に聞き惚れた。やがて、その歌が教会の堅苦しいラテン語曲ではなく、誰もがよく知る、どちらかというと俗っぽい曲であることに気づいた。特別な技巧も必要ない。ただ聖誕祭を祝う心だけあれば、誰でも気軽に歌える曲だ。

 短い曲だから、歌はやがて終わった。歌い終えると、祭壇の前に膝をついていた天使は十字を切って立ち上がった。その姿をよく見ると、真冬だというのにずいぶんと薄着だった。男は声も出せず、拍手をするのも場違いな気がして、ただ立っているだけだった。やがて天使が男の存在に気づいて振り返る。
 天使は鳶色の髪に、薄紫の瞳をしていた。


 ん? そう、君と同じだな。
 脚色はしてない。ほんとにそういう話なんだ。
 ほんとだって。あんまり疑うなら先を話してやらないぞ。
 ……そう、大人しく聞いていろ。ケーキ食べながらでも良いから、な?



 振り返った天使は、男に向かってにこりと微笑んだ。もう声変わりはしていそうな年頃なのに、男に呼びかける声は少年のように高かった。

「Merry Christmas」

 呼びかけられて、男はかろうじて応えることができた。

「……Merry Christmas」

 言ってから、男は自分にクリスマス、つまりキリストの誕生日を祝う気持ちなんてこれっぽちもないことに気づいていたたまれなかった。男は自分のことで精一杯だった。自分のこれからのことだけで。しかし目の前の天使はクリスマスを祝うすべての人を想って歌っていた。誰もがこの日を幸せに過ごせるようにという祈りが、確かにその歌声に滲んでいたのだ。

「外は吹雪いていましたか?」

 男が内心自分の身勝手さを恥じていたとき、天使は無邪気に男に微笑みかけて尋ねた。男は自分の肩に残った雪を払いながら、それに答えた。

「いいえ、吹雪いてはいませんが……雪はやみそうにありませんでしたよ」
「吹雪いていなければ良いのです。今日中に次の教会へ回らなくてはいけないので」

 天使は次の教会、というがこの付近に他に教会はなかった。一番近い教会は、山を越えた隣町だった。外はもう暗かったし、雪の積もる山をこれから越えることはできそうにない。無理に山越えをしたら死んでしまうかもしれない、と男は思った。そしてこの天使をどうにかして止めなければと思ったんだ。けれど、天使はそんな男の心を見透かしたかのようにこう言った。

「教会で歌を謳うのが私の仕事です。貴方も音楽を持っていらっしゃる」

 だから分かるだろう、と天使は言うんだ。音楽を仕事としているのだから、歌うことは苦ではないし、歌うためにしなければならない付随的な苦労も厭わないと、そう言うんだよ。男は戸惑った。音楽を止めようかと思って帰ってきた男には、天使の言うような音楽は自分の中にないと知っていた。だから男は正直に答えた。

「ヴァイオリンは持っています。でも、僕の中には貴方のような音楽がない」

 そう男は言ったが、天使は男の言葉に益々その口元の笑みを濃くした。そしてこう言ったんだ。

「そうでしょうか? もしよろしければ、一曲私に聴かせてください」

 男は当然その提案に慌てた。天使の持つ音楽に比べたら、自分のヴァイオリンなど耳障りな騒音だ。聞かせられるはずがない、と男は思ったんだ。

「貴方にお聞かせできるような腕ではないんです」
「腕? いいえ、音楽は貴方の胸にある。私のために弾いてください」

 天使はそう言うと、細い指でそっと男の心臓を指差した。


 こんな感じに。な?
 天使は単なる技術ではない音楽を聴きたいと言ったんだ。
 男が心で奏でる音楽を。



 天使に指差された胸は、すぐに熱くなった。まるで、男の中の音楽が外に出たがって暴れているようだった。男はもう気後れを感じる余裕さえなくなった。ゆっくりと、マグルだからな、まるで魔法にかかったようにっていう修飾語が入るんだ。ゆっくりと、ヴァイオリンのケースを開けて、ヴァイオリンと弓を取り出した。そう高くもないありふれたヴァイオリン。それがこれほどまでに輝いて見えたことはなかった。

「……曲は何でも?」

 男がヴァイオリンを構えると、天使は頷いた。

「えぇ、貴方が弾きたいと……私に聴かせたいと思った曲を」

 その言葉を聞いた瞬間に、男の中でこれから弾く曲がひとつに定まった。天使が先程歌っていた曲だ。別に天使と張り合おうなんて考えたわけじゃあない。でも天使に聴かせたいと思ったのだ。男が奏でるあの曲を。

 男はヴァイオリンの上に弓を置き、すっと息を吸って弾きだした。特別難しい技巧が必要なわけではない。大学で練習している曲よりも、いや、それとは比べものにならないくらい簡単な曲だった。しかし男の手は、胸は、その曲を奏でられることを芯から喜んだ。男の中の音楽は、ずっと人に聴いてもらいたくてうずうずしていたのだ。男はようやくそれを理解した。誰かのために演奏することが、こんなに喜び溢れるものだったなんて。

 そもそも男が音楽の道を歩むことを決めたのは、自分を育て見守ってくれたこの教会の神父が、男の弾くヴァイオリンを嬉しそうに聴いてくれていたからだった。いつの間にか、より高度な技巧、教授に認められる演奏にばかり囚われて、自分が楽しむことさえ忘れてしまっていたのだ。

 男が奏でる曲に乗せて、やがて天使が再び謳いだした。天使の歌声は高く飛翔し、男の奏でるヴァイオリンの音もそれに合わせて聖堂の天井を突き抜けた。それは永遠と思える時間だった。まさに世界中が、この特別な演奏会に耳を傾けていた。生まれたばかりのイエス・キリストでさえも。

「……素晴らしい音楽でしたよ。一緒に謳えてとても嬉しかったです」

 曲が終わって、天使がそう言ってくれた後も、男の胸にあった音楽はじんわりと温かいままだった。

「さぁ、私はそろそろ行かなくては」

 そう言うと天使は男に背を向けて、教会の入口へ手をかけた。男はまだ天使の歌声と一体になって響いた自分の音楽に心を支配されながら、それでも天使の背に向かって呼びかけた。

「毎年……この教会に?」
「いいえ、でもまたいつかは……」

 そう言って振り向くと、天使は微笑んだ。その微笑にうっとりする間もなく、開けられた聖堂の扉から猛烈な吹雪が吹き込んできた。男は目を瞑って、腕で顔を庇った。やがて吹雪が収まると、天使はもうどこにもいなくなっていたんだ。

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