渡せなかった鍵
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やぁ、皆さん。僕の名前はジェームズ・ポッター。ホグワーツ一の美女、リリー・エヴァンスと目下熱愛中の世界一幸福な男だ。折角の機会だからリリーの魅力をとくと語ってあげたい気分だけれど、まぁ、語らなくても誰にだって彼女の魅力は分かるだろう――いや、むしろ分かれ――からやめておく。僕の口からぜひ聞きたいという人はふくろう便で僕にアポイトメントを取ること。最低1週間、不眠不休の覚悟で手紙をよこすように。
さて今僕がどこにいるのかというと、ホグワーツ特急の始発駅であるあの有名なキングズ・クロス駅だ。僕の隣には勿論、恋人であるリリーがいる。彼女と駅で待ち合わせて、僕らはバスでロンドンのチャリング・クロス通りへ向かう。そこでリーマスとシリウスと待ち合わせているのだ。え? どうしてデートを2人で楽しまないのかって? 勿論楽しむさ。とりあえず彼らとはお昼を一緒するだけだ。ポールというパン屋がちょっとしたカフェテラスを持っている。そこで軽い昼食を摂った後、僕らはシリウス達と別れて熱々のデートをするというわけ。予定としては映画を観て、しばらくリリーの買い物に付き合い、その後またチャリング・クロスへ戻ってきてシャーロック・ホームズという店で夕食を摂る。僕は彼女を家の近くまで送って行って、そこでとりあえずさよなら。どうだい? 健全だろう? シリウスとリーマスは僕らと別れた後どこへ行くのか決まっていないようだけれど、夜はブラック家の別荘に泊まるみたいだ。ピーターは学生最後の夏休みを家族と過ごしている。明後日にはまた皆でダイアゴン横丁へ集まり、ホグワーツ最後の年のために教科書やらを揃えるのだ。
そう、来年はもうホグワーツで過ごす最後の年なのだ。この僕でさえ、少しセンチメンタルになる。“卒業”。僕らは“卒業”するのだ。様々なことから。
「ジェームズ? どうかしたの?」
「ん? いや、リーマスはもう待っているかなと思って」
今日の彼女は白地に小さな赤い花をちりばめた大人っぽいシルエットのワンピース。広いつばの帽子がとてもチャーミングだ。そして学校では絶対見られないむき出しの腕と素足にヒールのついたサンダル! 眩しいよ、リリー。僕は叫びたい。世の男性諸君! この女神のように美しい女性は僕の恋人だ! しかも恋仲はすこぶる良好! さぁ、うらやむが良い!
バスが停まって、僕はリリーの手をとって降りる。少し歩けばポールが見えてくる。外のカフェで座っているリーマスを見つけて、僕は片手を挙げた。リーマスは白いチャイナ系の服に、下は紺の綿のパンツを履いていた。夏でも長袖なのはうっすらと残ってしまっている古い体の傷を気にしているからなのだろう。でも白い薄手の上着は涼しそうに見えるし、細身のリーマスの体にピッタリで良く似合っている。
「シリウスはまだ?」
僕はリーマスに声をかけつつ、リリーのために椅子を引く。
「ありがとう、ジェームズ」
いえいえ、君の笑顔のためなら。それに君とリーマスの間に僕が座れば、僕は両手にお花の幸福状態? あぁ、シリウス。君はもう来なくても良いくらいだ。悦に入った僕の席に、さっとボーイが近寄ってきて注文をとる。シリウスのためにも僕らは飲み物だけを注文することにした。心地良い夏の日差し。灰色のロンドンの空。そして両手にお花のこの状態。
素晴らしすぎる。
誰にだって邪魔はさせないぞ、と思った僕の耳に不快なエンジン音が響いた。僕はいまいち、音だけではそれが車なのかバスなのかバイクなのか判断することはできない。そのエンジン音は僕らの近くで止まる。次に聞こえたのは人のざわめきだ。よくよく判別してみると、女性の嬌声と、男性の賞賛又は不満の声だった。何となく分かったぞ。何が現れたのか。
「あら、あれって……」
「シリウス?」
あぁ、お花さん達、その通りだろうとも。僕は顔を上げて、もうすでに注目の的になっている男の方を見た。瞬間、僕の体に緊張が走る。そして僕は咄嗟に腰に触れて杖を探した。全人類のためにも、奴をそのままにしてはおけない。だが待てよ。落ち着け、ジェームズ。僕は未成年だ。ホグワーツの外で魔法を使ってはいけないんだった。しかもこの場所ではマグルの恋人達が大勢、楽しそうにお茶をしている――奴の出現で仲の良いカップルも数時間後には別れ話をすることになりそうだが――。そうだ、落ち着いて考えよう。手元に杖はない。あるのは丁度運ばれてきたアイスコーヒーのグラスだ。これを投げてやろうか? いや、いけない。グラスが割れてしまう。弁償するのは僕だ。楽しいデートの前にそんな面倒は起こしたくない。
そうして僕が真剣に悩んでいる間にも、その男はバイクから降りて――降りる時にもその長い足が目立つことといったら! ――周囲の視線を独り占めしつつこちらに歩いてくる。その熱い視線に気付かないあの鈍感さだけは一生直りそうにない。黒壇のように艶のある髪。ジーンズにTシャツというラフな格好の癖に、育ちの良さが分かるその堂々とした歩き方。長い足と骨ばってはいるけれどしなやかな筋肉のついたむきだしの腕。本当に救いようがないくらい、格好良い。この僕が言うんだからホントのホントだ。
「よぉ、遅れた」
止めろ! 笑うな! ほら、何人かのお嬢さんが腰を砕かれているじゃあないか!
「シリウス、本当にバイクの免許を取ったのね?」
奴が僕の向かいに座ると、リリーが路上駐車されたバイクに目を向けながら言う。確かに奴は去年からずっと言っていた。夏休み中にマグルのバイクの免許を取ると。別に免許まで取らなくても良いのではないか――ブラック家の敷地は十分広いし――と思ったのだが、どうやらマグルの街で乗り回すことがお望みだったらしい。こうして乗りつけたからには本当に免許を取ったのだろう。僕は満面の笑みでシリウスを迎えてやった。
「天下のシリウス・ブラックがマグルに混じってバイクの講習かぁ。見たかったよ」
「うわっ。何で君そんなに機嫌悪いんだよ」
鈍感大王の癖に僕の機嫌に気付くなんて生意気だ。路上駐車されている君のバイクにコインで傷をつけてやろうか。
「君のことだからハーレイとか、どでかいものを乗ってくると思っていたけれど。あれはベロセット? もう倒産した会社だ」
皆でバイクの方を見ると、男性が何人かそのバイクを遠巻きに眺めていた。何か有名なモデルなのだろうか。全体的に黒のボディ。オイルタンクの部分に金字でVelocetteと書かれている。排気パイプは銀色で上品な作りだった。ベロセットは確かこのイギリスの会社だ。
「1949と1950年にワールドチャンピオンシップで優勝したモデルだとよ」
特に自慢するでもなく、シリウスは言った。なるほど、やはり有名なモデルだったみたいだな。盗まれないようにしろよ。
「だとよ、って。君が買ったんじゃあないのか?」
「いや。今日行く別荘に置いてあったんだ」
そこで奴はちらりとリーマスを見た。しかしお花さんはまだ珍しそうにバイクを眺めている。視線が合わなくて残念だったな。
「祖父さんのものだよ。単に観賞用に買ったらしいけど、勿体ないし、格好が気に入ったから使っているんだ。多少改造もしたし、結構使えるぜ」
マニアが泣くぞ。そういうものは当時のままの部品が良いんだから。それにただの地上を走るだけのバイクでシリウスが満足するはずは無い。僕はそれを良く知っている。可哀想に、リーマス。
とりあえず、視線が集中する中で居心地の悪い思いをしながら僕らは昼食を摂った。視線の集まる原因を作った男だけが1人飄々とおいしいパンをいただいていた。一番視線に敏感なリーマスは少し落ち着き無く、パンを1つだけ何とか胃に入れていた。これから目立つシリウスと2人きりだなんて、本当に可哀想過ぎる。しかし、いくらリーマスでもリリーとのデートには連れて行けないし、シリウスに少しは自覚しろと言っても無駄だ。僕はもうすでに何度もその言葉を奴に伝えている。勘弁しておくれよ、お花さん。
食べ終わるといよいよ別行動だ。支払いを済ませてからリリーがシリウスのバイクに興味深そうに近づいていく。リーマスも一緒だ。もっとも2人にはベロセットなんて会社は分からないだろうけれど。僕はこの絶好の機会を見逃すほど愚かじゃあない。シリウスの腕を掴んで引き寄せる。そして奴の鼻先に人差し指を突きつけて言ってやった。
「シリウス。君に言いたいことは様々あるが、今はこれだけにしておく。言葉は慎重に選ぶ、でも素直になること」
これからのことを考えて、リーマスと仲良くしてきたまえという僕なりの応援だ。シリウスは酷く難しそうな顔をして答えた。
「……努力する」
努力する、か。正直者の君の、精一杯の答えだな。
「頑張ってくれ」
肩を叩いて、恋人を迎えにいく。映画の時間が迫っているので長居はできない。リリーを促して、リーマスと別れる。まだまとわりつく視線に、リーマスは恥ずかしそうにしていたけれど、きっとシリウスは気付かないだろう。本当に、少しは敏感にならなければ。僕は隣のリリーに微笑んで見せた。彼女が不思議そうに笑い返してくれたので、僕はもう2人のことは頭の隅に追いやって、この素晴らしい休日を楽しむことにしたのだ。薄情だなんて言ってくれるなよ。世界一の恋人を持った僕は、僕なりに大変なんだからね。