渡せなかった鍵

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 残された俺達はぼんやり人ごみに消えていくジェームズ達の背を見送った。4年の頃から付き合い始めて――しかも好きになっていたのは3年からだ――卒業までずっと清いお付き合い。ジェームズも本当に、よく我慢できるよな。それもこれも、本当に好きだからなのだろうか。俺には経験の無い感情だけれど、そんな関係が羨ましくないと言ったら嘘になるんだろう。少し溜息。そしてもう見えないジェームズ達の幻影を、まだ追っているリーマスに呼びかける。

「後ろ乗れよ、リーマス」

 そう言って俺が先にバイクに跨る。リーマスはキョロキョロと周囲を見回してから眉を寄せて言った。

「やっぱり?」
「何だよ、やっぱりって。当然だろ。ほら、さっさと乗れって」

 バイクの脇を走るつもりか? それともバイクは置いていけと? 視線でそう言うとリーマスは大きく息をすってから数秒止め、一気に吐き出した。

「君はいいかもしれないけれどね、僕は恥ずかしいんだよ。これで良い?」

 リーマスはそう言って後ろに乗った。頬が赤いので確かに恥ずかしがっているようだが、理由は一体何なのだろう。俺は鈍感なので分からない。

「何が恥ずかしいんだよ、男同士で」
「むしろ僕か君が女の子だった方が恥ずかしくないかもね」

 なんだ、そりゃ。俺だったらバイクで女の後ろに乗ることの方が恥ずかしいと思うが。

「……分かんねぇ」

 そう言った俺にリーマスはまた溜息。

「良いよ。それが君だもの」

 それって馬鹿にしているのか?

「掴まれよ」
「どこに?」

 どこに、って。呆れた俺のシャツの端っこをリーマスが掴む。

「それじゃあ落ちる。俺の腰に腕回せ」

 リーマスは頬を赤くしたままうなり声を上げた。自分からっていうのは、手を握るくらいが精一杯らしい。これだけは一生直らないのだろうか。

「……仕方ないな」

 俺は無理やりリーマスの手を掴んで自分の腰に回させた。

「よし、手離すなよ」

 そう声をかけてからエンジンをかける。寄った人ごみを散らしながらロンドン郊外へ向けて走り出す。

「どこに行くの?」

 エンジン音と風に負けないようにとリーマスが声を張り上げる。これだけ密接していれば、そこまでしなくても聞こえるんだが。

「行きたい所が?」

 俺の問いにきょとんとして、リーマスは少し考え込んだ。やがて軽く首を横に振って微笑む。

「ううん。君に任せるよ」

 とりあえず街中は抜けた。まだまだ人は多いが、家族連れやらカップル、観光客は誰も俺達のことを見てはいない。

「了解。少し時間がかかるぜ。上から行くからスピードは出せるけどな」
「え? 何、上って」
「改造したんだって言ったろ。ただ走るだけじゃあ面白くないから」

 一気に加速してギアをチェンジするとバイクは宙を浮く。速度が速いだけで箒の浮遊感とあまり変わらない。

「シリウス! マグルに見られちゃうよ!」

 リーマスが驚いて腰から手を離そうとする。俺は慌ててそれを押さえつける。こんな状態で手を離したら絶対落ちる。

「あぁ、そうだな」

 すかさず俺は透明ブースタの改良版と、サイレンサーを始動させる。リーマスはそれに気付いて強張った体を元に戻した。

「……呆れた。本当に準備が良いんだから」

 そうかな。ジェームズだってこれくらいはすると思うけれど。それに煩い魔法省に捕まらないようにするためには必要だ。

「箒より安定感があるだろ? 車より風が気持ち良いしな」

 ロンドンの街が眼下に広がる。まずはテムズ川が。バッキンガム宮殿も遠くに見える。細い道を歩く人間が豆粒のように見えるが、その動いている豆粒の中にジェームズとリリーがいるのだろう。

「すごい。マグルの世界をこうして見られるなんて」

 そう、こんなこと法を犯さなければできない。でもそれだけの価値があると思わないか?

「夜も良いぜ。夜景が」

 帰りには見られるだろう。別荘はウィンチェスターだから、少し行き過ぎてロンドンの夜景を見に寄っても構わない。

「どこまで行くの?」

 強いて目的があるというのなら少し遠出をすることと、海を見ることだ。俺は後ろを振り返ってにやりと笑った。

「Land’s End」

 マグルに気付かれる心配がなければサイレンサーは使いたくないな、と俺は思う。エンジンの振動だけでは物足りない。やはりあの体に響く低音が心地よいのだ。ジェームズならうるさいと言って顔をしかめるところだろうけど。

 ソールズベリのストーンヘンジを飛び越えて、コーンウォールに入る。やっと海が見えてきた。上空はさらに風が強くなったので、あとは地上を走ることにした。下に人気がないことを確認して細い道に降りる。周囲に木々がないので人がいたらすぐに見つけられるはずだ。もう一度誰もいないことを確認すると、透明ブースタとサイレンサーを解除した。突然再開されたエンジン音に、後ろでリーマスが身をすくめた。それでも手を離さなかったのは、俺がきつく言ったからだろうか。

 しばらく地上を走って、俺達はようやく島の終わりまで来た。バイクを止めてエンジンを切ると、波の音だけが強く岩を打つ。リーマスが先にバイクを降りた。俺は鍵を抜いてスタンドを立てる。重いバイクで良かったと思った。下から吹き上げる風は人を飛ばしてしまいそうに強かったからだ。波の音に合わせて白い泡が散る。海は好きだ。その先にあるものを想像させてくれるから。そう言えば、俺はこの島から出たことはない。今の状況が改善されない限り、ここから動くことはできないだろう。隣を見ると、リーマスは強すぎる風を避けて腰を下ろしていた。視線の先には、リーマスの故郷がある。俺も黙って腰を下ろした。草の緑、海の蒼、少し傾きかけた太陽の光。そして傾きかけた太陽のおかげで薄紫の色に染まった空。ぽつんと置かれたバイクは、それでも結構この風景に溶け込んで見えた。長い沈黙があったと思う。その間に俺の視線はバイクから海へ、海から空へ、そして結局リーマスの横顔へと落ち着いた。リーマスは優しい目で、世界を見ていた。

「綺麗だね」

 視線はこちらに向けぬまま、リーマスは一言だけ囁いた。

「何が?」

 俺が訊くと、リーマスはようやくこちらを向いて微笑んだ。薄い色の瞳が、小さな星のように輝いた。

「何もかもが」

 昔だったら、こんな場面には必ずジェームズの姿があった。俺は少し寂しいのだろうか。双子の片割れが側にいないことが。

「何もかもが?」

 リーマスは頷いた。

「うん。グリス先生がおっしゃっていた通りだ。世界は美しい。僕が目にできるのはその一端だけだけれど、それでも分かるよ。世界は美しいんだ」

 そう言える君の心が美しいのだ。俺には到底、世界が美しいとは思えない。世界はもっと、酷く陰険で、汚くて、残酷だ。そしてそうとしか思えない自分はもっと汚い。

「ほら、君の星も綺麗だ」

 空はまだ薄暗いという程度のものだったのに、俺と同じ名前を持つ星はもう空に輝いていた。ふと思う。リーマスも寂しいのかもしれない。結局、俺達の中心にいたのはずっと、あの破天荒な男だったのだから。リリーを恨む気になんてなれないけれど、うらやむ気持ちならあるかもしれない。俺は子どもだ。

「あの2人、結婚する気だろうな」

 そう呟いた俺に、リーマスは幸せそうに微笑んで答えた。

「……うん」

 あんまり幸せそうで、俺はちょっと釈然としない。

「嬉しそうだな」

 自分のことでもないのに。

「シリウスは嬉しくないのかい? 素敵じゃあないか。2人が結婚して、いつか子どもが生まれて、その子はホグワーツに通うんだよ。きっと素晴らしい家族になる」

 他人のことだけじゃあなくて、もっと自分のことも考えろよ。出かけた言葉をまた呑み込んだ。何となく、すぐギスギスしてしまう自分が情けない。別に彼を傷つけたいわけではないのに。でも神サマ。もっと彼は自分だけの幸せを欲して、それが叶えられても良いんじゃあないか? 幸せを得るための苦しみも、他の人間よりずっと長く、多く耐えただろうに。


 卒業したら、一緒に暮らさないか?


 駄目だ。まだ言えない。多分、今この言葉を口にしたら、リーマスの答えはこうだろう。


 ありがとう。でも君がいなければお母さんは1人きりじゃあないか。
 僕は大丈夫だから。


 分かっている。当主になってしまった今、そしてあの秘密を抱えている今、リーマスと暮らせたとしてもブラック家の役目を放り投げることなんてできやしない。本当に、満月の夜だけでもリーマスの側にいてやれる、そんな確証さえない。問題は、山積みだ。

「どうしたんだい? シリウス。難しい顔をして」

 そう言ってリーマスは楽しそうに笑う。海から吹く風に、リーマスの髪が揺れる。お互い少し寒いよな、と思って俺はバイクに取り付けたバッグを開ける。帰りは夜になるだろうと予想して、ローブを持ってきていたのだ。それをリーマスの肩にかけてやる。

「君は?」
「俺はいい。寒くない」

 嘘だ。単に頭を冷やしたかっただけだった。何故昔のように、簡単に答えが積み上がらないのだろう。昔はもっと自分の思考はクリアだったと思う。成長していたはずなのに、何故今こんなに俺の思考は混沌としているのだろう。反対に退化しているみたいじゃあないか? 言葉は慎重に、でも素直にはなれない。仕方ないだろう? 素直な、本当に素直な気持ちなんてどこにあるのか、自分でも分からない。家からは開放されたい。でもそれはリーマスと暮らすための言い訳ではないはずなのだ。多分、リーマスにはまだ俺が、アニメーガスになれる友人が必要だからだ。でもその理由が、俺の本当に素直な気持ちから出たものなのか分からない。分からないことだらけになってしまった。せめてリーマスがはっきりと言ってくれれば。それできっとこんなモヤモヤした気持ちはなくなるのに。

 君は今、何を思って俺の隣にいるんだろう。

「……帰るか。いい加減寒くなったし」

 もっと素直になれたら良いのに。そうすれば、何か簡単な一言だけで、すべての問題が解決するような気がするのだ。何か1つだけ、小さな鍵が見つかればそれだけですべてが。その最後の鍵が見つからない。ジェームズが埋めていた分の、俺達の友情が。その代わりになるはずの、小さな鍵1つだけが。

 手元にある鍵を挿して、エンジンをかける。
 その日黒い闇の中で、音の無いバイクが空を飛んでいた。

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