帰郷
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日が地平線から頭を出しかけた時になって、私はようやく目を覚ました。枕代わりにしていた手が少し痺れている。冬も近づいたこの時期に外で寝てしまうなんて、本当に馬鹿なことをした。私の下敷きになっていた黒犬が、顔を上げてハタハタと尻尾を振った。ずっと私の体を温める努力をしていてくれたようだ。私は黒犬の背を撫でて立ち上がった。
「中に入ろうか」
私の後ろを足音もなく黒犬がついてくる。家というよりも小屋だが、久しぶりに友人を迎えられるくらいの食料はある。まずは紅茶でも淹れよう。昔から私よりも彼の方がおいしく淹れたけれど。
私は戸を開けて中に入る。床板が少し軋んだ。自分の足音だけが響くので、私は不審に思って後ろを振り返った。シリウスは黒犬から人の姿に戻って、ただ戸口に立っていた。入るのに戸惑っている様子だ。
「シリウス? ……あぁ、髪を短くしたんだね。自分で切ったんだろう。長さがバラバラだ」
久しぶりに友人に再会した言葉としては、とても間が抜けているような気がした。入らないのか、と訊こうとしてできなかったのだ。昨日と同じように、彼の戸惑いが分かったから。実際、彼は私が最後に彼の姿を見たときよりも髪が短かった。学生時代の髪型に近いが、それよりは少し長かった。綺麗に揃えたら昔と同じようになるだろう。まだ痩せていて顔色も良くなかったが、1年前よりは随分ましになっていた。
「……リーマス」
戸惑い、後悔の念が混じった呼びかけ。それだけで十分だった。
「シリウス、侘びの言葉なんて言わないでくれよ。言ったら家から追い出すからね」
私は先手を打って彼の言葉を止めた。彼は戸口に立っているだけなので、追い出そうと思えばすぐにできた。彼もそう思ったのか、ようやく家の中に一歩踏み出した。
「その……」
沈黙に耐えられなかったのか、はっきりとしない言葉を発してシリウスはただ腕を広げてみせた。
「何だい? それ」
どこからでもかかって来いということだろうか。それとも一発殴ってくれと? 私は、そんなことは望んでいない。そう思ったが、シリウスが考えていたのはもっと別のことだった。
「いや、君から抱きついてきたのは、あれが初めてだったと思って」
私は思わず口を開けて呆けた。彼の方こそ、久方ぶりの再会に際してそんな言葉を発するのは間が抜けている。私達はどうやら揃って間抜け同士のようだ。暗い意味はなく、本当に単純な意味で。
「あぁ……ショックでどうにかしていたんだ」
今も充分ショック状態だけれど。
「もう治ってしまったのか?」
彼はどんな感情を持って、こんなことを言うのだろう。
「いや、治らないよ。治したくないんだと思う」
私は1年前にそうしたように、彼の背に腕を回した。研究室で忍びの地図を見ていた時。そしてそこにシリウスと、ピーターの名前を見た時。何か箍が外れたように、研究室を飛び出して、柳の下を通り、階段を駆け上がってあの部屋で彼を見つけた時。すべてが激流のように流れて、私は彼を抱きしめていた。まだジェームズが生きていた時、彼にできなかった分も。
しかしあの時のような激しい感情の波は今はなく、私は少し居心地の悪い思いをしていた。シリウスの手がそっと、本当に触れるか触れないかくらいの位置で私の背の上に停止していた。家に入るまでは、きちんと椅子に座って向かい合って、昔のことやこれからのことを話し合おうと思っていた。しかしその勇気も、今は萎んでしまっていた。私も、彼も。私はゆっくり彼から離れるとすべてを誤魔化すために、墓参りに行かないか、と切り出した。ジェームズとリリーの墓はゴドリックの谷にある。彼は一度も墓を見たことがないはずだ。1日過ぎてしまったけれど、と私が言うと、彼は言った。
「俺には、墓参りする権利がない」
そう言うと思っていた。
「シリウス、悪いと思っているのならなおさらお墓参りにいくべきだ。私も、随分行っていない。1人ではやはり辛くてね。一緒に行こう」
沈黙は長かった。シリウスは内側の何か色々なものと戦って、ようやく頷いてくれた。私はほっと息をついた。今日が晴天で本当に良かった。雨でも降っていたら、勇気のないままこの家で彼と向き合わなくてはいけなかったから。
私達はまず街に出て花を買った。再び大きな黒い犬の姿になったシリウスは店の前に行儀良く座り、子どもの注目を浴びながら大きく欠伸をしていた。私は花屋でしばらく何の花を買おうか悩んだが、結局白と黄の百合を買った。花を持って店を出ると、私を見上げた友人の顔が「芸がないな」と言っていた。仕方がない。いちいち行動に含みを持たせられるほど私はエンターテイナーではないのだ。
「おいで、パディ。ぐずぐずしていると捕まってしまう」
ディメンターのことを心配して言ったのではなかった。首輪もつけずにこんな大きな犬が街を歩くことはできないからだ。面倒なことにならないうちに、私達は街を出た。向かうのはゴドリックの谷。
谷に入った私達の足取りは決して軽いものではなかった。シリウスは人の姿に戻り、ずっと私の後ろを、少し離れてついてきていた。私は彼を振り返ることなく、彼は私に並びそうになるとそのたびに足を止めて――彼の歩幅の方が私より大きい――距離を保った。手元の百合の花を眺めながら、私は思った。これが私達の関係なのだ。そして私はその関係を悲しく思い、どこか安心してしまっている。例えば私がここで立ち止まって、彼に並んで手を取って歩けば少しはましになる関係なのかもしれない。変わることを望んでいないわけではないのに、私にはそれができない。抱きしめることはできるのに手を繋ぐことができないなんて、随分おかしな成長の仕方をしたものだ。臆病さだけが増えた。私はずっと思っている。彼の隣に並んで、彼の手を取って歩く権利は昔から、そしてこれからも、いつか彼を幸せにしてくれる女性と、兄弟で親友で相棒であるジェームズ・ポッターその人しかいないと。
私達はジェームズとリリーが住んでいた家の前を通り過ぎようとした。今はもう家はなく、枯れた草がその跡さえも消してしまっていた。結局、彼も私も美しい白い家を完全な姿で見ることはなかった。私達が見たのは、事件直後の家主のいない瓦礫の山だけだった。シリウスが立ち止まった。少し離れて私も立ち止まると、彼はこちらを見て悲しそうに笑って首を振った。ジェームズがハリーの前に現れたことは、ダンブルドアから聞いて知っていた。それをシリウスはハリーの口から聞いたのだ。どんなことを想っただろう。私なら、どんな形でも良い、ハリーの側で彼らに会いたいと望むだろう。
「行こう」
そんな考えを見透かしたように、ゴドリックの谷に入って初めてシリウスが口を利いた。背を押されて、私達はまた歩き出した。枯れ草色の風に髪や頬を撫でられながら、13年前にこの道を歩いた時のことを思い出した。寂しい、哀しい葬式だった。あの時も私は白い百合の花束を抱えて、呆然と立ち尽くしながら世界が終わったと感じていた。真新しい白い墓の下に横たわる2人の体は、今も私の思い出の中では美しく、ただ眠っているだけだった。ずっと墓参りに来ることのなかった薄情な私を、ジェームズもリリーも怒っているだろうか。
家の裏手にある丘の上に、2人の墓があった。私達は悲しい距離を保ったまま、丘を登っていく。こうして死者のことを考えられるようになったのも、時のおかげなのだろう。時は優しく、そして残酷だ。忘れられないと思った光景も、その時感じた胸の痛みも、知らないうちに時の流れによって丸められ、ぼやかされて違うものになってしまった。
またシリウスが立ち止まった。
まだ自分には墓参りをする資格がないと思っているのだろうか。手を引いてやりたかったけれど、私は弱すぎた。やはりジェームズでなければ――。
私はそうは思わないけれどね。
その言葉が耳元で囁かれたような気がして、私は驚いて身を震わせ、丘の上を見上げた。白い雪のようなものが風に流されて私の頬に触れた。私はそれを手にとってみた。雪ではなかった。見たことのある、小さな白い花びらだった。ジェームズが好きだと言っていた花だ。禁じられた森に咲く、名前も知らない花。私は丘の頂上に向かって歩いた。シリウスもついてくる。丘の上に登りきると、下からの強い風に、私は目を瞑った。風が治まると目を開けて、私は墓の前にしゃがみ込む人の姿を見止めた。枯れ草色のローブを身に纏った人。私はその人を知っていた。しかし名前を思い出せない。ずっと会いたいと思っていた、とても大切な人だったはずなのに。
君達の時は流れる。私は時の流れの外で、同じ場所に留まっている。
そういう存在なのだよ。
誰の記憶にも長く留まることはない。
いつか私はその時代の人々の記憶からは完全に消え去る。
リーマス、私はそういう存在なのだ。
息苦しくなるほど、胸が痛んだ。墓の前のその人は立ち上がり、こちらを向くと微笑んだ。私は知っていた。この人はこうして笑う。ただ1人取り残され、流れの中にいるあらゆる人を――愛した人も憎んだ人も――見送り、その墓を参りながら。
「……先生……」
私が言ったようにも、シリウスが言ったようにも聞こえた。その人は笑みを濃くして、あの優しい声で応えた。
「シリウス、リーマス」
やっと思い出した教師の声は、何故かジェームズの声でもリリーの声でもあった。教師は一歩二歩と私達に近づいて、両腕を大きく広げて言った。
「2人とも、お帰り」
涙が溢れて止まらなくなった。私は、もう私よりも若くなってしまった教師の胸に飛び込んだ。帰る場所などないと思っていた。いつかは闇の中で1人消えてしまう存在だと、そう思っていたのに。教師はそっと私の背を撫でながら、私の泣きたいままにさせてくれた。墓の下ではジェームズとリリーが微笑んでいた。ふと私はハリーを想った。あの子も泣けないでいるに違いない。それなのに私だけ泣いても良いのだろうか。しかし涙は止まらなかった。13年前も、私はこの人の腕の中で泣いた。この人の腕の中でなら、すべて許されるような気がしたのだ。私はすべての生きるものに開かれた、優しい家に帰ってきたことを知った。
私は背に置かれた手にすっかり安心して、涙を止めた。激流のように流れ出た感情の後に、ようやく私は冷静さを取り戻した。昨日から泣いてばかりいることに気付いて恥ずかしくなった。教師はそんな私の顔を覗き込んで笑った。そしてそっと私から離れると、シリウスの名を呼んだ。私はずっと後ろに立っていたシリウスを見た。きっと子どものような私の行動に呆れているだろうと思ったのだ。しかし、彼はどこかぼんやりとしたまま、ただ静かに涙を流していた。自分が泣いていることにさえ、気付いていない様子だ。
「シリウス、よく耐えたね。あの場所、あの時を。そして良く帰ってきてくれた」
その言葉で漏れそうになった嗚咽を、シリウスは手で抑えた。教師はゆっくりシリウスに近づき、腕を伸ばしてその頭を撫でた。シリウスは教師にすがりつくようにして、声を殺しながら泣き続けた。
「君達は皆、素直に泣けない子どもだね。本当に、手がかかる」
そう言った教師は困ったように、しかしとても嬉しそうに微笑んでいた。そして教師ははっきりと言わなかったけれど、その“皆”の中にはハリー・ポッターも含まれているように私は感じた。
やがてシリウスの嗚咽も小さくなり、教師の体から離れたシリウスは目元を赤くして私の方を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。私も微笑み返すと、私達の関係から悲しさが少し消えた。
「ジェームズ、リリー。君達の友人が帰ってきたよ」
教師は白い墓石に話しかけた。13年も経っているのに、墓石は昔同様白かった。その周りに植えられた小さな花。きっと私達が来なかった分、この教師は墓を守り続けてくれていたのだろう。私は膝をついて手にした花束を墓の上に置いた。するとシリウスが私のすぐ側に片膝をついて、その手で石に刻まれた2人の名前をなぞった。ハリーの体験から、2人の魂がここにないことは分かっていた。しかしそれでも、この声が届けば良い。私は心からそう思った。
「……ただいま、ジェームズ、リリー」
シリウスが静かに言った。
「遅くなってすまない。ジェームズ、リリー……ただいま」
私も告げた。あるべきものが、あるべき場所に帰ってきたような、そんな気持ちだった。しばらくシリウスが愛しそうに2人の名前を指でなぞる様を、私はじっと見ていた。やがて背後のくすくすという忍び笑いに、私もシリウスも振り返った。教師は失礼、と言って片手を挙げながらなおも笑っていた。
「先生?」
訝しんだ私が尋ねると、教師はひとつ咳払いをして悪戯っぽく指を立てた。
「君達、それで落ち着いてしまったら2人に怒られるよ。一番帰らなくてはいけない場所がすぐ隣にあるだろう?」
私達はお互いに隣を見合った。お互い複雑な顔をしている。
「生きている君達は、これからも言い合わなくてはいけないことがたくさんある。今日はそのつもりだったのだろう? それなのに、君達は今ここにいる。悪いことではないよ。ジェームズもリリーも君達が帰ってくることを望んでいた。でもね、優先順位というものがあるだろう? リーマス、君がどんな風に思っても、今シリウスの隣にいるのは君だよ。そしてシリウス、君の隣にいるのはリーマスだ。どんな感情で誤魔化しても仕方のないことだよ。君達はそうやって妙に遠慮する。それは悪い癖だ」
リリーには不器用だと言われた。ジェームズにはすれ違ってばかりいると。そして教師は遠慮していると表現した。どれもが的確に私達の関係を表していた。
「さぁ、2人とも、私の前で誤魔化しはきかないよ。お互い、今言わなくてはならないことをきちんと言い合いなさい」
シリウスがあの真っ直ぐな、燃えるような赤の瞳で私を見つめた。昔と同じ強さがそこにあった。
「……ただいま、リーマス」
そう言って、一番穏やかにシリウスは笑った。
「お帰り……シリウス」
私も笑った。今朝萎んだ勇気が、また大きく膨らんだ気がした。今度は、少しのことで萎んだりしないだろうと私は確信した。私達が立ち上がると、私達に勇気を戻してくれた教師はまずシリウスと、次いで私と握手を交わした。
「シリウス、リーマス。思い出してごらん。私は13年前、君達にとって大切な想いを君達が生き延びるために封印した。これからは生きるために、その封印を解かなくてはいけないよ。お互いの手をとって、2人でアルバスを助けてあげてくれるね?」
シリウスがそれに答えた。
「はい、先生」
教師の目を見て、私も頷いた。教師は満足そうに微笑んで“Good!”と言った。そして墓の方へ歩く。私達は逆に墓から離れた。
「それでは行きなさい。いつかまた、今度はハリーを連れてここに帰っておいで」
私達は頷いた。そして教師と墓に背を向けて、踏み出した。しかし私はすぐに振り返って教師に尋ねた。
「その時は、先生もここにいらっしゃいますか?」
私の問いに、教師は微笑んで答えた。
「君達が望むのなら」
同じ言葉を、私は聞いたことがあった。それなのに、私はずっと忘れていたのだ。例えこの人がそういう存在だったとしても、この人に救われ、多くのものを与えられた私はもう二度と忘れてはいけない。そのためには。
「……先生は?」
この問いが必要だった。言葉にして聞く必要があったのだ、この人の望みを。教師は一瞬驚いたような顔をした。そして彼は言った。きっと言いたくても言えなかった言葉。教師という同じ立場を経験した私には分かる。教師はとても嬉しそうに――私の己惚れかもしれないけれど――微笑んで言った。
「……成長したね、リーマス。私はまた会いたいと思うよ。君達は私の大事な生徒で、可愛い子どもだから」
言葉と共に優しい風が私達を撫でていった。それはあたかも教師の手が頭を撫でてくれたかのようだった。
「行きなさい」
もう一度背を押されて、私達は丘を下っていった。行きよりも私の近くを歩いてくれるシリウスに、私は悲しみがまた少し消え去るのを感じていた。