帰郷
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日が地平線から頭を出しかけた時になって、リーマスがようやく目を覚ました。犬になってしまった目ではよく分からないが、きっと空の色が朝焼けに染まっている。冬も近づいたこの時期に外で寝てしまって風邪をひかなかったろうか。俺は用心深く顔を上げた。ハタハタと無意識のうちに尻尾を振っていた。昔のように体を温める努力をしたが、効果はあっただろうか。リーマスは俺の背を撫でて立ち上がった。
「中に入ろうか」
そう言ったのが分かる。ただやはり耳の感覚も犬に近くて、随分と声が違って聞こえた。俺は少し離れてリーマスの後を追った。戸口のところでアニメーガスを解くと、明るい光彩に少し目が眩んだ。人の目に戻ると、今まで音や臭いで判別していた友人の姿がより鮮やかに見えた。犬の目は酷い近眼なのだ。
「シリウス? ……あぁ、髪を短くしたんだね。自分で切ったんだろう。長さがバラバラだ」
そう言ったリーマスは、最後に会った時よりも幾分髪が伸びていた。1年前はまだディメンターに奪われた記憶が戻って来なくて、自分の顔にも彼の顔にも違和感を持たなかった。それ以上に必死だったのだ。奴を殺すことのみを考えて生きていた日々は、あまりに長すぎた。
そしてこの1年も決して楽しいことばかりではなかった。ハリーと連絡を取り合える状況は俺を救ってくれたが、アズカバンの後遺症は夜毎に俺の前に立ち塞がった。俺の中で時間を経ていたのはピーターに対する恨みの感情だけで、他の俺はまだ牢に入れられる前の、20代前半の若造のままだった。牢の中で失っていた感情が戻ってきて、それは喜びと苦しみを同時に運んできた。今まで無だったものが1になるのは想像以上の衝撃だった。様々な感情の強さにブレーキをかけながらの逃亡は、非常に困難な生活だった。ある意味ではアズカバンでの生活よりも。幸福だった時の思い出も少しずつ返ってきて――正直まだ空白の部分があるが――それに対して俺はまさに一喜一憂しながらの1年だった。
そんな風に振り回されていたこともあって、自分の顔に慣れるのにも時間がかかり、正直今、リーマスの顔にも戸惑っている。昔の面影は確かにあり、彼であることは疑わないのだが、やはり少し不思議だった。戸惑っていることを正直に告げて、慣れるのを待ってもらうしかないだろう。まずは謝らなくては。
「……リーマス」
声を発しただけで、リーマスは目を鋭くして俺の言葉を遮った。
「シリウス、侘びの言葉なんて言わないでくれよ。言ったら家から追い出すからね」
それは困る。そろそろ人間らしい生活が送りたい。犬の姿で戸口に立って、哀れっぽく鳴けばリーマスは負けてくれるかもしれないが、そんな手段を取るようになった時点で俺が人として負けている。とりあえず追い出されないように一歩中に踏み込んだ。
「その……」
どうしようか、と目を泳がせる。ふと美しい――多分前からそう思っていたのだろう――瞳と目が合うと、胸の奥にある大切な何かが疼いた。そしてその曖昧な何かは掘り返さないようにして――そうしないと恥ずかしい思いをすると本能が告げていた――俺はゆっくり腕を広げた。
「何だい? それ」
ごもっとも。
「いや、君から抱きついてきたのは、あれが初めてだったと思って」
リーマスはぽかんと口開けた。気持ちは分かる。俺だって何を言っているのだろうと、自分自身に呆れている。
「あぁ……ショックでどうにかしていたんだ」
「もう治ってしまったのか?」
何だかとても複雑だった。両手を挙げて喜び踊りたい気分でもあったし、蹲って泣きわめきたい気分でもあった。結局どちらも抑え込もうと苦心している俺の顔は、リーマスには酷く滑稽に映っただろう。
「いや、治らないよ。治したくないんだと思う」
小さな子どものように、慰められている気分になった。背に回されたリーマスの腕は、触れ合うことを望んでいた昔では考えられない現実だった。嬉しかったし、そこに見えたリーマスの決意に胸が苦しくなった。俺の方から抱きしめていた頃とは全く逆だった。俺の手は、リーマスの背に触れることができなかったのだ。空気が重くなった。正直に言ってしまおうと思っていたことも、言い出せる雰囲気ではなくなってしまった。リーマスもそうだったらしく、彼は身を離すと唐突にジェームズとリリーの墓参りに行かないかと言い出した。
「俺には、墓参りする権利がない」
彼を傷つけると思って言わないつもりだった言葉がつい口をついて出た。
「シリウス、悪いと思っているのならなおさらお墓参りにいくべきだ。私も、随分行っていない。1人ではやはり辛くてね。一緒に行こう」
12年時が止まっていた俺と違って、リーマスは成長して強くなっていた。俺の言葉を軽くいなしてしまった彼にこれ以上置いていかれるのが嫌で、俺はコクリと頷いていた。
俺は再びパッドフットの姿になって街へ出た。もうディメンターも俺に構っている余裕はないだろうが、まだ無実が認められたわけではないので我慢しなければいけない。リーマスが店に入っている間、俺は店先に座って大きく欠伸した。リーマスは迷っているのか花屋に入ってしばらく出てこなかった。やがて強い香りを持つ花を抱えてリーマスが出てきた。記憶に間違いがなければ、それは百合の花の香りだった。他には思いつかなかったのだろう。何の花でも食べてもおいしくないことだけは確かだ。犬になるとどうもそういうことを一番に考えてしまう。
「おいで、パディ。ぐずぐずしていると捕まってしまう」
首輪を辞退したのでそんなことを言うのだろう。俺は唸りもせず大人しく彼に従った。
ゴドリックの谷に入った俺達の足取りは決して軽いものではなかった。俺は人の姿に戻り、ずっとリーマスの後ろを、少し離れて歩いた。彼は俺を振り返ることなく、俺は彼に並びそうになるとそのたびに足を止めて――並んで歩く勇気がなかった――距離を保った。そこで初めて、リーマスの買った百合が白と黄であることを知った。昔のような図々しさがあれば、隣に並ぶこともできただろうに。今では彼の周りにも、そして俺の周りにも、薄いガラスのような壁が出来てしまっていた。そして昔なら苛々とさせられたであろうその関係に、今の俺は少なからず安心している。ブレーキの利かない感情で彼を傷つけることがないのだったら、こうしてこの距離を保っているのも良いのかもしれない。しかし生前ジェームズは俺の強気を最大の欠点であり、最大の利点であると言っていた。両方を一気に失ってしまった俺に、ここにいる価値があるのだろうか。情けないな、シリウス。ジェームズならそう言っただろう。しかし、君は分かっていたのだろうか。リーマスが一番信頼していたのはシリウス・ブラックではなく、ジェーム・ポッターだった。俺はずっとそれを羨ましく思っていたのだ。
リーマスがジェームズとリリーが住んでいた家の前を通り過ぎようとした。今はもう家はなく、枯れた草がその跡さえも消してしまっていた。思い出すのは事件直後の家主のいない瓦礫の山と、1人額に忌まわしい傷跡を残して泣いていたハリーの姿。俺は立ち止まった。ここでハリーを抱え上げた。泣いているハリーをあやすこともせずに、俺も一緒に泣いた。少し離れてリーマスが立ち止まる気配を感じた。心配そうな顔に、俺は笑って首を振った。心配はいらない。ここで立ち止まるつもりはないのだ。ただ、どんな形でもいい。ハリーのようにジェームズやリリーに会えたら、そんなことを考えてしまった。
「行こう」
そんな考えを振り切るように俺は言った。本当に少しだけリーマスの背に触れて押すと、俺達は再び歩き出した。
リーマスの後について、家の裏手にある丘の上に向かった。俺達の距離は変わらない。俺は2人の墓がどこにあるのか知らなかったから――そういえばそんなことも知らなかった――リーマスの後を付いて行くしかなかった。丘を登り始めて、俺は何の気なしに丘の上を見上げた。
その時白い蝶が丘の上から飛んできたのを見て、俺はまた足を止めた。リーマスも立ち止まり、また寂しそうな顔で俺の方を見た。立ち止まった理由を勘違いしているのだろう。次にリーマスは何かに身を震わせて、俺と同じように丘の上を見上げた。白い蝶はひらひらと舞いながらリーマスの頬に張り付いた。リーマスは頬に触れて、蝶をつまみ上げた。形が違う。どうやら蝶ではなく花びらのようだ。禁じられた森でよく皆で昼寝をしていた場所があった。綺麗な池のある場所で、そこはジェームズのお気に入りの場所だった。そこに咲いていた白い花を思い出した。一枚の花弁では分からないが、同じ花のような気がした。
リーマスは丘の頂上に向かって歩き出した。俺もそれについて行く。丘の上に登りきると、下からの強い風に、俺は目を瞑った。風が通り過ぎると目を開けて、俺は墓の前にしゃがみ込む姿を見止めた。枯れ草色のローブを身に纏った人。俺はその人を知っていた。今の今まで忘れていたけれど、俺がアズカバンに入れられたすぐ後に、俺はこの人に会っていた。ディメンターがすべてを支配するあの牢獄で、唯一あの人だけがその支配を受けずに俺の前に現れて、大切なことを教えてくれた。
人にとって絶対的な“時”にも支配されないその人は立ち上がり、こちらを向くと微笑んだ。優しさも悲しさも喜びも怒りも含んだ賢者のような笑みは変わっていなかった。
「……先生……」
リーマスが言った。少し掠れた、俺よりも高い声。また胸の奥の何かが疼いた。教師は笑みを濃くして、あの優しい声で応えた。
「シリウス、リーマス」
教師の声は、こんな声だったろうか。何故かジェームズの声にもリリーの声にも聞こえた。教師は一歩二歩と俺達に近づいて、両腕を大きく広げて言った。
「2人とも、お帰り」
そんな言葉をもらったのは一体いつ以来だろう。多分その言葉を一番多くくれたのはジェームズ・ポッターだった。休暇から帰るたびに――こう言うとホグワーツの方が俺の家のようだが、実際俺はそういう風に思っていた――“お帰り”といって抱きしめてくれた、魂の片割れ。親との繋がりが希薄だった俺は、そんな小さなことに救われていたのだ。多分、リーマスも。ジェームズの存在は俺達にとって大き過ぎた。そしてこの人はずっと、それを知っていたのだ。
リーマスが駆け出して、腕を広げた教師の胸に飛び込んだ。そして声を上げて泣き出した。こんなに無防備なリーマスは初めて見たような気がする。その間リーマスの背をずっと撫でている教師を羨ましく思った。俺には涙を流すリーマスを、あんな風に受けとめる強さはないのだ。ずっとそうだった。アズカバンですべてを打ち砕かれる以前から。
やがてリーマスが涙を止めて、教師から離れた。恥ずかしそうに教師に微笑んだリーマスの顔。その赤らんだ目元。その奥には懐かしい花と真白に輝く墓がある。教師がリーマスから離れる姿がぼんやりと目に映った。そして名前を呼ばれる。目の端ではリーマスが、何か驚いた顔をしている。俺はただ、離れても目に入るジェームズとリリーの名前に見入っていた。
「シリウス、よく耐えたね。あの場所、あの時を。そして良く帰ってきてくれた」
その瞬間、何故自分がハリーの名付け親という立場に非常な価値を見出しているのかが分かった。それは単に彼がジェームズとリリーの子だからというだけではなかったのだ。俺はずっと親になりたかった。自分の理想とする親になりたいと思っていたからだったのだ。例えばそう、この人のように子どもを理解する親に。嗚咽が漏れそうになって、俺は口元を押さえた。教師は俺の反応に驚きもしないで、それが当然のことのように手を伸ばしてくれた。もう自分よりも低くなった彼の肩に顔を埋めて、俺は泣いた。
「君達は皆、素直に泣けない子どもだね。本当に、手がかかる」
そして一度泣き出したら止まらないのは、アズカバンの後遺症の1つだ。そういうことにしておこう。やがて涙がようやく止まると、急に恥ずかしくなった。リーマスの目元はまだ赤かったが、きっと俺も赤くなっているだろう。照れ隠しに笑うと、リーマスも微笑んだ。2人の間のわだかまりが、少し解消された気がした。
「ジェームズ、リリー。君達の友人が帰ってきたよ」
リーマスが墓の前に両膝をついて、白と黄の花束を供えた。俺は今なら許される気がして、リーマスの隣に片膝を付いた。緊張はない。初めての墓参りは、案外鈍い痛みしかなかった。遅くなったけれど、こうして君達の前に戻ってきた。想いは様々あるけれど、先に進まなくてはいけないから。
「……ただいま、ジェームズ、リリー」
石に刻まれた2人の名前を指でなぞりながら、俺は言った。
「遅くなってすまない。ジェームズ、リリー……ただいま」
リーマスも告げた。あるべきものが、あるべき場所に帰ってきたような、そんな気持ちだった。しばらく俺は2人の名前をなぞる指を止めずに、リーマスはそんな俺を隣で見ていた。やがて背後のくすくすという忍び笑いに、リーマスも俺も振り返った。教師は失礼、と言って片手を挙げながらなおも笑っていた。
「先生?」
訝しむようにリーマスが尋ねると、教師はひとつわざとらしい咳払いをして悪戯っぽく指を立てた。
「君達、それで落ち着いてしまったら2人に怒られるよ。一番帰らなくてはいけない場所がすぐ隣にあるだろう?」
俺達はお互いに隣を見合った。お互い複雑な顔をしている。
「生きている君達は、これからも言い合わなくてはいけないことがたくさんある。今日はそのつもりだったのだろう? それなのに、君達は今ここにいる。悪いことではないよ。ジェームズもリリーも君達が帰ってくることを望んでいた。でもね、優先順位というものがあるだろう? リーマス、君がどんな風に思っても、今シリウスの隣にいるのは君だよ。そしてシリウス、君の隣にいるのはリーマスだ。どんな感情で誤魔化しても仕方のないことだよ。君達はそうやって妙に遠慮する。それは悪い癖だ」
リリーには不器用だと言われた。ジェームズにはすれ違ってばかりいると。そして教師は遠慮していると表現した。どれもが的確に俺達の関係を表していた。
「さぁ、2人とも、私の前で誤魔化しはきかないよ。お互い、今言わなくてはならないことをきちんと言い合いなさい」
リーマスがあの真っ直ぐな、そして穏やかな薄紫の瞳で俺を見つめた。正直に言いたいことがたくさん、喉元まで一気に駆け上がってきた。しかし俺はその殆どを呑み込んだ。この時、この場で一番言わなくてはいけないことだけを慎重に選び出して、俺はリーマスとしっかり目を合わせた。
「……ただいま、リーマス」
「お帰り……シリウス」
俺がそう言うと、リーマスが応えて笑った。俺達が立ち上がると、俺達の緊張を解いてくれた教師はまず俺と、次いでリーマスと握手を交わした。手の皺の感触さえ、昔と変わらない。
「シリウス、リーマス。思い出してごらん。私は13年前、君達にとって大切な想いを君達が生き延びるために封印した。これからは生きるために、その封印を解かなくてはいけないよ。お互いの手をとって、2人でアルバスを助けてあげてくれるね?」
リーマスも、何かを封印したのだと教師の言葉で知った。俺がそうしたように。
そのうち分かるよ。
だから無理には訊かないように、と教師の目が言っていた。俺は苦笑しながらそれに答えた。
「はい、先生」
隣で頷いたリーマスは、教師の言葉に気付いたのだろうか。真っ直ぐ教師を向く横顔を見ても、俺には分からなかった。昔から、表情を読むのは下手くそだ。教師は俺達の反応に満足そうに微笑んで“Good!”と言った。そして墓の方へ歩く。俺達は逆に墓から離れた。
「それでは行きなさい。いつかまた、今度はハリーを連れてここに帰っておいで」
俺達は頷いた。そして教師と墓に背を向けて、踏み出した。しかしリーマスがすぐに振り返って教師に尋ねた。
「その時は、先生もここにいらっしゃいますか?」
リーマスの問いに、教師は微笑んで答えた。
「君達が望むのなら」
「……先生は?」
続けられたリーマスの言葉に、教師は一瞬驚いたような顔をした。そして次にはとても嬉しそうに微笑む。俺は知っていた。この教師は、同じ闇に生きるリーマスをいつも特別心配しているのだ。
「……成長したね、リーマス。私はまた会いたいと思うよ。君達は私の大事な生徒で、可愛い子どもだから」
言葉と共に優しい風が俺達を撫でていった。それはあたかも教師の手が頭を撫でてくれたかのようだった。
「行きなさい」
リーマスを、よろしく。
最後に俺の背に向けて、そんな言葉が投げられた気がした。