Guardians
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死は恐ろしい。
そして死ぬのは嫌だと思う。
でももし僕に死を与える者がいたとしても、僕が恐れるのはその者ではない。
甲高い悲鳴が、暗闇を突き破るようにして響いた。深い眠りに落ちていたジェームズは、その悲鳴に無理矢理意識を持ち上げられて、咄嗟に枕元に置いていた杖を握り締め、飛び起きた。起きてすぐには部屋の薄暗さに目が慣れず、闇しか見えなかったが、それでもジェームズの目は敵の姿を探して動いた。
じっと目を凝らして見つめてみるけれど、薄闇の中で動いているものは見つけられない。眼鏡をかけていないことに思い当たって、油断なく部屋を見つめながらもジェームズはベッドサイドのテーブルへ手を伸ばした。左手で眼鏡を探り当てて、そのまま片手で眼鏡をかける。右の手は杖を構えたままだ。部屋の中に動きはない。ようやく耳に残っていた悲鳴の余韻が消えて、部屋の中を注視すると同時に、ジェームズはしっかりと耳を澄ませてみた。
まず聞こえてきたのは自分自身の息遣い。そして窓を叩く風の音だった。嵐というわけではなく、ただ軽くノックするような風の音は、少しだけジェームズの緊張をほぐしてくれた。夢でも見ていたのだろうかという考えが頭を掠めた次の瞬間だ。隣で眠っているはずの人が、隠しきれない嗚咽を漏らして泣いている声を耳にしたのは。
「リリー!」
彼女はまだ夢現の様子だった。けれどジェームズの呼ぶ声にはしっかりと反応して、幼い子どものように細腕を伸ばしてジェームズにすがり付いてきた。
「ジェームズ!」
寝巻き一枚しか身にまとっていないリリーの柔らかな体を感じながら、ジェームズは腕の中に飛び込んできた愛しい人を抱きしめた。彼女はこの寒い部屋の中でうっすらと汗をかいているようだった。ジェームズは震える彼女の背に腕を回して、左手で綺麗な曲線を描く彼女の背を撫でた。
「リリー……大丈夫だ。僕がここにいるよ」
背を撫でるジェームズの手に合わせて、リリーは深呼吸を繰り返した。よほど衝撃的な夢だったのだろうか。彼女の動悸はなかなか治まらない。それでも根気強く、ジェームズは彼女の鼓動を聞いていた。段々と、自分の鼓動に同調するように落ち着きを取り戻していくリリーの心臓が、とても愛しく感じられた。
「ジェームズ……私、見たわ」
しっかとジェームズの背に腕を回してしがみつくリリーが、そのままの体勢で漏らした言葉はとても乾いた声で紡がれた。
「何を?」
答えたジェームズ自身の喉も緊張で渇いていたようだ。出てきたのはリリーを安心させるには程遠い、擦れた情けない声だった。
「予知夢……を」
「予知夢を?」
リリーの様子から言って、それが“良い夢”でなかったことは確かだ。けれど予知夢であったと決め付けてしまうのはどうだろうか。
「待って、リリー。落ち着いて。ただの悪い夢ではないのかい? 落ち着いて、もう一度考えてみて」
ジェームズがそう注意すると、リリーは愛すべき強靭さでひとつ大きく息を吸った。そして目を閉じる。彼女は息が苦しくなるほどの時間を置いて、ようやく息を吐き出すと、目を開けてジェームズを見た。
「駄目よ、ジェームズ……。ただの夢であればと心から思うけれど……」
「そうではないと君の理性が言っている」
その言葉にリリーは潤んだ瞳でこくりと頷いた。ならば確かにリリーの見た夢は予知夢なのだろう。ジェームズはもう疑わなかった。
「リリー、話してくれるね?」
ジェームズが促すと、リリーはぎゅっと唇を噛んだ。話したくない。そうリリーが思うような内容の予知夢だったのだろう。ジェームズはちらりとベッドの横を見た。そこには木製のベビー・ベッドが置かれていて、彼らの一人息子は母親の叫び声に邪魔されることもなく健やかに眠っている。
もし自分達を取り巻く環境が違っていたら、ジェームズはリリーに無理やり口を割らせたりはしなかっただろう。誰が好き好んで、愛する人に辛い言葉を口にさせるものか。言わなくて済むのなら、言わせずに済むのなら喜んでそうする。しかしやはりそれは仮定の話だ。
「話してくれるね?」
再度促すと、リリーは泣き出しそうな目をしながらも首を縦に振った。そしてリリーから語られたのは彼らの数ある未来の中のひとつ。年を経るにつれて、より確実性を増したリリーの能力は、信じて秘密を託した友人の裏切りと、ジェームズの死を夢の中で示したのだ。唇を震わせながら夢の内容を語ったリリーが、語り終えて俯くと、その場には重い沈黙が流れた。やがて、ジェームズはリリーの肩を叩いてすっと息を吸った。
「……リリー、僕は君の能力を疑わない。でも僕は運命を信じない」
人の出会いという運命以外は決して信じない。ジェームズはリリーの能力の高さを知りながら、夢の示した内容を聴いてなお、そう繰り返して言った。ジェームズのその態度は、リリーにはただの強がりに見えただろうか。リリーを安心させるためだけの虚勢だったと思っただろうか。
リリーがジェームズの言葉をどう感じたかは置いておいても、結果としてはリリーの見た夢の通り、秘密の魔法で守られていたはずの家にヴォルデモートがやってきた。ジェームズの信じていないはずの“死の運命”は、確かに目の前に立ちはだかり、今ジェームズを飲み込もうとしている。けれどそれを前にしてもなお、思っていた通りだという想いがジェームズの胸に浮かんでいだ。迫りくる死は身を凍りつかせるほど恐ろしい。けれどその恐怖は死に向けられたものであって、殺人者に向けられたものではない。
僕はヴォルデモートを前にしても、恐怖は覚えない。
ただ、迫りくる死を感じると体が震えた。愛しい妻リリー、幼い息子ハリー。そして自分の半身シリウス、決してひとりにしないと誓った友人リーマス。こうなるかもしれないと分かっていて、止めることのできなかったピーター。小さな友達。
彼らにもう何も言ってあげることができないかもしれない。彼らに笑いかけることも、彼らの笑顔を見ることもできなくなるかもしれない。それが、それだけがジェームズの心を恐怖に震えさせた。自分が彼らに関わることのできなくなる未来。それが恐ろしくてたまらなかった。
「リリー、ハリーを連れて逃げろ! あいつだ! 行くんだ!」
ジェームズは自分の声が震えていることを知っていた。こういう時には、恐怖で震えている自分と、それを冷静に見つめている自分とが存在する。クィディッチの試合と同じだ。スニッチを追っている、あのスピードの中での背筋をピリピリと刺激する恐怖と、そしてどんなスピードでもスニッチを逃さない冷静さ。
「ジェームズ!」
リリーとハリーは逃がしても、ヴォルデモートは逃がさない。自分はグリフィンドールのエース・シーカーなのだ。一度狙いを定めたら、決して逃がしはしない。
「早く! 僕が食い止める――」
いや、食い止めるだけでは足りない。すべてを、これまで続いてきた苦しみのすべてを、ここで終わらせることができるはずだ。他の誰でもない。ジェームズ自身の手で。
怖くはない。むしろ不謹慎にも喜びさえ覚えた。ずっと秘密の魔法で守られながら、そうすることが妻や子どものためなのだと分かっていながら、ジェームズは心の中に燻っていた想い。盤上のキングではいたくない。誰が犠牲になるとか、自分が犠牲を払うとかそういうことではなくて。升目にとらわれずに動ける強いキングでいたかった。ただ守られるのはキングの役目ではない。無条件に他を守るというのが、本来のキングの役目のはずだ。
「ヴォルデモート、この世界のキングはスリザリンでも、グリフィンドールでもお前でもない。この僕、ジェームズ・ポッターだ」
だから守る。それこそがホグワーツに入学し、皆に出会う以前からずっと、ジェームズの望んできたことだったのだ。すべてとは言わない。けれどそう、ホグワーツ時代からシリウスが選び続けていたように、ジェームズもまた選んでいた。せめて、自分の見出した人達だけでも、守ってみせる。
リリー、ハリー。
僕は君達を――
死の恐怖にさらされて、それに侵食されながらもジェームズの心にはその想いがいつまでも残った。そしてそれは結果的に、ジェームズの心臓を凍りつかせて去った死よりも確実に、この世界に残ることになったのだ。
――守りたい。
ただそれだけの、尊い想いが。
引用:J・K・ローリング.松岡裕子訳.ハリー・ポッターとアズカバンの囚人.2001.7.18.静山社