Guardians

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 運命なんて信じない。
 出会い以外の運命は絶対に信じない。
 まして恐怖と怒りに彩られた死と別れの運命なんて、絶対に。


 夢と同じだ。走りながらリリーの頭を支配していたのは、その考えだけだった。予知夢だと強く感じたあの夢と、今の状況はすっかり同じなのだ。あの時、悪夢にうなされて飛び起きたリリーを宥めてくれたジェームズに、彼女は嘘をついていた。

「リリー、話してくれるね?」

 優しくそう言ったジェームズ。リリーの負担を少しでも軽くしようとして、真実を求めた愛しい人。リリーはそれに答えた。けれど、その気持ちに真正直に応えることはしなかったのだ。

「……ヴォルデモートが、貴方を…………殺す夢を。貴方が……貴方が死んでしまう夢を見たの」

 嗚咽に喉を詰まらせながら、リリーは夫にそう答えた。


 貴方は私を責めるかしら。真実を求めた貴方に、真実を返すことのなかった私を。


 本当は、リリーは直接“ジェームズが死ぬ”夢を見たわけではなかった。リリーが見たのは、“ジェームズが死んだことを悟った自分”がヴォルデモートから走って逃げる夢だったのだ。そう、今こうして走っているように、ハリーを抱いてただ必死に逃げるという夢を。

 夢の中でリリーはジェームズの死を感じ取り、嗚咽と疲労に息を詰まらせながら走っていた。そしてその夢の結末をジェームズが知っていれば、彼はその運命を決して許さなかっただろう。

 ジェームズの死を感じ取ったリリーは、涙のうちにヴォルデモートに追いつかれ、そして彼女もまた夢の中でヴォルデモートに殺された。腕の中に抱いた愛しい息子も、その小さな命を無慈悲に奪われたのだ。

「ハリーだけは! ハリーだけは!」

 狂ったようにリリーは繰り返した。ジェームズとの間に授かったこの小さく無垢な赤子だけは、と。

「お願い――私はどうなっても――」

 その叫びはむなしく、リリーの目の前で、小さな命の火は圧倒的な闇に呑まれて消えていった。リリーは自分が叫ぶ声を聞いた。言葉にならない。悲鳴にもならない。それはただ、腹の底から、胸の奥の奥から突き抜けるようにして出た、真白なただの音だった。

「――――!!」


 そしてあの悪夢は現実になり、今またリリーに、そして腕の中のハリーに迫っている。

「リリー、ハリーを連れて逃げろ! あいつだ! 行くんだ!」

 ジェームズがそう言ってリリーの背を押したけれど、一体どこに逃げればいいというのか。それとも、とリリーは立ち止まった。あの夢と同じように、ただ逃げるだけではいけないのではないだろうか。運命を変えるためには、ジェームズの元に戻って2人で一緒に戦った方が。そう思ったリリーが、飛び出した家の中へもう一度戻ろうとしたその時だった。

 目を突き刺す閃光がリリーの視界を白く、そして次に赤く染めた。リリーは自分でも意識しないまま、腕の中のハリーをしっかりと抱きなおした。衝撃があったのか、それさえも分からない。気付くと、リリーはハリーを抱えたまま倒れていた。腕の中で、ハリーが泣き出しだ。

「……ハリー、大丈夫よ。……大丈夫だから……」

 それは今まで聞いたこともないような悲痛な泣き声だった。先ほどの衝撃でどこか怪我をさせてしまったのかもしれない。自らも額に痛みを感じながら、リリーはハリーの体を心配した。だがハリーを抱くリリーの両腕は傷ついていても、ハリー自身に怪我はなかった。ではこの悲鳴のような泣き声は、先ほどの衝撃とともに発せられた音に怯えて? いや、そうでもなかった。


 リリー、ハリー。
 僕は君達を――。


 夢の中でそうだったように、リリーは一瞬のうちに多くのことを理解した。
 まず家族3人で慎ましく暮らしていた小さな家が、その土台を残して崩れ去ってしまったこと。
 数メートルと離れていない場所に、あの蛇を思い起こさせる邪悪な男が立っていること。
 そして、その男の足元に伏して倒れている男性のこと。
 ハリーが泣いているその理由。

その人のことをリリーは知っている。当然だ。リリーがその何もかもを全身全霊で愛した特別な人だったのだから。あの自分勝手な方向に跳ねる髪も、今は意志を失ってただ風に吹かれるままだ。動かない。ぴくりと痙攣することさえない。リリーは理解した。自分の力が示した未来は現実になったのだ。


 ジェームズ・ポッターが死んだ。


 身が震えた。しかしそれは恐怖のためではない。激しい、全身が総毛立つほどの激しい怒りのせいだった。倒れる彼に対して、リリーの前に立っている男は、もはや人とも言えないほど醜く痩せた怪物だった。こんな男がこの世界の支配者顔をして、リリーの大切な人の命を奪っただなんて。

 ――許せない。

そして何が何でも認められない。リリーの世界にキングは一人だけだ。誰の犠牲も望まない。いつまでも子どものような優しい王様。理想と現実の間で悩み、苦しみつつも、リリーの手をとって前に進むことを諦めなかった愛しい人。

 ジェームズ――!

駆け寄って抱きしめてあげたかった。けれどリリーの腕の中には今、リリーと同じようにジェームズの死を悟ったハリーが泣いていて。咄嗟にリリーは考えたのだ。もう死んでしまったジェームズよりも、リリーが守らなければならない存在がここにいるのだ、と。吐き気がするほど、嫌な考え方だった。ジェームズは死んでしまった。横たわるただの躯を守るよりは、こうして腕の中で確かに生きている存在を守らなければ。それは至極まっとうで、いまのリリーが最優先にしなければならない事実だった。でも、自分に対する嫌悪感にリリーは心が張り裂けそうだった。

「ハリーだけは……ハリーだけは!」

 守らなくてはいけない。夢は変わった。確かにリリーの見た予知夢は、完全な運命という名の未来ではなかった。夢の中でのリリーの言葉は、ただハリーの命を請うだけの叫びだった。しかし現実では、リリーの叫びは怒りと決意の叫びだった。この腕の中の愛しい子、ハリーだけは守ってみせる。

「お願い――私はどうなっても――」

 どうなっても構わない。だから願う。目の前にある闇を纏った男に対しての言葉ではない。すでに地に倒れ伏し、起き上がることのない大切な人に向かって、リリーは涙を流しながら懇願した。


 ジェームズ、どうか一緒に守って。
 貴方に嘘をついた私がどうなっても、ハリーだけは――。


 リリーが最後に聞いたと思った言葉。それは呪いの言葉を吐くヴォルデモートの声ではなく、確かに息絶えたジェームズの声だった。リリーが泣きながら抱きしめたハリーを、リリーの上からしっかりと抱きしめて、ジェームズはリリーと同じ言葉を口にした。


 ――守りたい。


 そして2人の言葉は、生き残った男の子の額に稲妻型の傷となって残ったのだ。


引用:J・K・ローリング.松岡裕子訳.ハリー・ポッターとアズカバンの囚人.2001.7.18.静山社

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