Requiem−Libera me

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行人
 まるで小さな子どもに戻ったようだった。

 精神は回復しても、今まで無理を通してきた体は思うようにいかず、ベッドの上か、椅子の上で過ごす日々が続いた。食事も他の家事もすべてリオンに頼ってばかりで、そのリオンもまるで子どもを心配する親のように、買い物に出る以外はリーマスの側を離れなかった。

 ずっと昔、リーマスがまだ人狼になる前のこと。母や父は眠りの浅いリーマスのために、夜になるとリーマスの傍らで色々な話を聞かせてくれた。時々夢に魘されるリーマスのために、リオンがイングランドの昔話を聞かせてくれたのが始まりで、それからというものリーマスは幼い子どものようにリオンに話をねだるようになった。リオンはリーマスの要求に苦笑しながらも様々な物語を語った。ある地方に伝わる伝説。マグルの世界で言う中世時代に、本当にあった恋物語。東洋のお伽話。リオン自身の昔話。

 時間を忘れてしまうような生活だったが、そんな時にもリーマスを現実へと引き戻すのは空に浮かぶ満月。満月日の狼化だった。「地下室があるから」とリオンに言われ、リーマスが変身する前に地下室へ降りようとした時、リオンはリーマスを引き止めた。そしてリーマスの目の前で、優美な黒い豹へと変身したのだった。過去に一度だけ見たことがある。その黒い姿はもう一匹の獣を思い出させるが、それよりは小さい。前に一度だけ見たときは、リーマス自身が小さかったから大きく感じたのだろう。他に見たことはないけれど、多分普通の黒豹と同じくらいの大きさだ。前に会った時は夢だとばかり思っていたけれど、現実にいたのだ。優しい獣は。

 黒豹はリーマスより先に地下室へ降りて行った。リーマスはそれを追い、その日の夜は当初心配していたよりもずっと穏やかに過ごすことができた。

 そしてまた、リオンの話す物語に耳を傾ける日々が始まる。ずっとこうしていられたら、と思う幸せな生活だった。やがて体が回復したら、リオンと旅に出る生活はどうだろう、とリーマスは眠る前に想像してみることがある。もしリオンが許してくれたら、彼に付いてイギリスから出てみたい。見たことのない国を巡って、美しい世界を見てみたい。彼の物語る世界の断片を、この目で。勿論満月の時にリオンが側にいてくれれば、という期待もある。体が段々と回復していくに従って、その欲求は強くなっていった。

 リオンはすべて分かっていたのかもしれない。満月を2回迎えた後のある日、少しずつ家事を手伝うようになっていたリーマスと一緒に夕食を作り、2人きりの食卓でそれを味わった。食べ終わると食器を片付けようとするリーマスを呼び止めて、椅子に座るようリオンは言った。

「ダンブルドアから手紙が来た。君の様子を尋ねる手紙だったよ。セブルスはホグワーツの教員に迎えられたらしい。彼なら上手くやるだろう」
「セブルスが……」

 あのセブルスが子ども達にどう接するのだろう、とリーマスは想像したが、どうにも怒り狂って生徒を追いかけている姿しか浮かばなかった。追いかけられているのは勿論、とリーマスはそこで思考を停止した。微笑むにはまだ辛い想像だ。

「君はもう回復した、と返事を返しても構わないね? リーマス」

 頷くことは、この生活が終わることを意味していた。リーマスはそれを思って頷くことができなかった。

「……先生は、この次はどちらへ?」
「そうだね。スペインへ行こうと思っている。サグラダ・ファミリアの進行具合を知りたいから」

 一緒に行かせてもらえませんか? リーマスはそう言おうとして何度か口を開きかけたけれどできなかった。途方に暮れた顔をしていたリーマスに、リオンは静かに語りかけた。

「今夜はここを出る仕度をしなさい、リーマス。ここは仮宿だ。いつでも戻ってくることはできるけれど、いつまでもいることはできない。明日の朝、私も君も出発する。行き先を決めておきなさい。……分かったね?」

 リーマスは頷くしかなかった。リオンはリーマスが頷くのを見ると皿を片付け始める。リーマスが慌てて立ち上がって手伝おうとすると、荷物をまとめるために部屋に戻るように言われた。

 リーマスはしばらくの間寝床になっていた自分の部屋へ戻った。ダンブルドアが送ってくれた自分の旅行鞄が部屋の隅にある。ここに来てから、それを空けたことは一度も無かった。入れる荷物は殆どない。リーマスはぼろぼろのトランクを開けた。中にリーマスの杖がしまわれている。久しぶりに杖を握ってその感触を確かめると、リーマスはベッドに倒れ込んだ。

 行き先を決めておきなさい。そう言われたけれど、どこにも行く当てなんてなかった。ここを離れて、この楽園を離れてどこへ行けと言うのだろう。リーマスは突然の決定に戸惑っていた。何も頭に浮かばない。そして枕に頬を擦り付ける。一緒に行きたいと言えば、教師は連れて行ってくれるだろうか。行き先は尊公と一緒だと言ったら。

「リーマス、最後の晩に風邪を引くつもりかい?」

 夕食の片づけを終えたリオンが部屋に入ってきた。薄暗い部屋の暖炉に火を点す。そしてベッドの側に置いてある椅子に座った。リーマスが話をねだるものだから、就寝前の彼の定位置がそこだった。

「……先生、尊公と一緒に行くことはできませんか?」

 リーマスはベッドの上で枕に顔を埋めたままそう尋ねた。リオンはまずリーマスの体に毛布をかけてから答えた。

「それは私にとっても心躍る提案だ。君が私を“先生”ではなく“リオン”と呼んでくれるのなら良いかもね」
「え?」

 リーマスが驚いて顔を上げると、リオンはくすくすと悪戯っぽく笑った。

「だって、マグルから見たら私と君は殆ど年齢が変わらないのだよ。なのに“先生”はおかしいだろう?」

 確かに、とリーマスは思った。納得すると、何故か笑いがこみ上げてくる。ひとしきり笑うと、リーマスは思い切ることができた。そして思い切ると、同時に新たな欲望が湧いた。

「一緒に行くことは諦めます。いつかは……、いつかは一緒に」
「そうだね、いつかは」

 リオンが繰り返す。リーマスはベッドの上に起き上がった。そしてリオンとしっかり見詰め合うと、リーマスはリオンに告げた。

「アズカバンを見に行こうと思います。見えないかもしれないですけれど、アズカバンに一番近い海に」
「……そうか」
「それからのことは、またその時に考えたいと思います」
「そうだね、それが良い。ダンブルドアには、そう伝えておこう」

 リーマスはその決意を告げると、またベッドに横たわった。リオンがまた捲くれた毛布を掛け直してくれる。リーマスは窓から覗く一等星を見ながら、リオンに最後のわがままを言った。

「……お話を、していただけませんか」

 リーマスの言葉に、リオンは嬉しそうに目を細めた。


 翌朝は早かった。リオンに起こされて目を覚ますと、もう朝食が出来上がっていて、リーマスもリオンも何も言わずに2人きりの食卓を味わった。そして荷物を外に出し、2人で戸締りを確認する。窓をすべて閉めると、2人は外に出てリオンが家の玄関を閉めた。そしてリオンは杖を取り出すと、家に特定の人間にしか見えないようになる魔法をかけて、さらに特定の人間しか開けられないように鍵をかけた。

 リオンが杖をしまうと、リーマスはぼろぼろの鞄を手に取った。リオンも大きなトランクを1つ手にした。2人はここから別の道を進む。リーマスは近くの町までの地図を今朝のうちにリオンに渡されていた。

「先生、またお会いできますよね」

 向き合うリオンに、リーマスはそう尋ねた。

「そうだね。君が望むのなら。その時まで、生きなさい、リーマス。笑うことも泣くことも、忘れてはいけない」
「はい」

 そしてリオンはリーマスが行くべき道を指差した。握手も抱擁もない別れ。リーマスはリオンの指した道へ向けて身を翻した。しばらくしてリオンの足音が聞こえ、段々と遠ざかっていった。


 そのとき、ホグワーツの研究室でセブルスは前任の教師が残したものを処分していた。
 数日前にダンブルドアの元にリオンからの手紙が届き、ダンブルドアはセブルスにリーマスの回復を告げた。
 セブルスは不完全な脱狼薬の研究成果をまとめて、燃える暖炉の火にくべた。


 そのとき、牢獄のシリウスはただ自分の内にある生を見詰めていた。
 何か、微かに錠が揺れるような音がしたけれど、それは幻聴だろうとシリウスは思った。
 外は雪が降っていて、激しい風と波の音が牢に響いていた。


 そのとき、リーマスは冬の海岸に1人立っていた。
 冬の海は黒く、荒い波が白いレースのように波の上を飾る。
 遠くに灯台の赤い光が見えた。
 それは世界の果てにある牢獄島を示す光。
 リーマスは心の中でその牢獄に住む囚人に呼びかけた。


 死ぬな。生きて、もう一度その姿を見せて、その時には――。


 粉雪が舞い始めた。リーマスはホグワーツの学校ふくろうが飛んでくるのを見上げた。その嘴にダンブルドアからの手紙を携えている。リーマスはそのふくろうを迎えた。手紙を受け取り、それを読むと冬の海へ流した。荒い海は数枚の紙をすぐに呑み込んでしまった。リーマスは鞄を持ち上げて歩き出した。白い浜に点々と足跡を残して、リーマスは旅に出た。

 いつか仮宿ではなく、永遠の楽園へ辿り着くことを心の隅で願って。

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