Requiem−Libera me
---------------------------------------------------------------------------------
仮葬
光が目に突き刺さる。ずっと闇の中にいたような気がするので、光が眩しくて仕方がなかった。ぼんやりと目を開けると、薪の割れる音が耳に入った。パチパチと、どこか郷愁を感じさせる音も聞こえ、赤い火が揺らめく影が天井に映っている。起きた時、天井がまず目に入る生活などずっとしていなかったように思う。酷い夢を見ていた。しかし本当に夢だったのは、どの光景だろうか。あのすべてが色褪せた、この世の終わりのような光景が夢だったのか、それとも今、この穏やかな温もりが夢なのか。
何も考えたくない、とリーマスは思った。
どちらが夢であっても、むしろ自分自身の存在が夢であっても構わない。実際、リーマスは自分の体が意識できなかった。すべてが溶けて、無くなってしまっている。脳だけがかろうじてリーマス・J・ルーピンという人物が自分であると言っているが、それもやがては溶けて無くなってしまいそうだった。リーマスは再び目を瞑った。溶けていく感覚。自分を失う感覚を楽しむようにして。
その時自分の寝ている床が揺れて、丁度背の下辺りの部分が凹んだのを感じて、リーマスの脳の中に突然の疑問が浮かび上がった。
今いる、天井のあるここは一体何処なのだろう。
考えようと思ったが、疲れていてできなかった。リーマスは長く息を吐いた。あるいは、そうしたと脳が判断した。するとまた脳が、リーマスの額に誰かの手が触れて、髪を梳いてくれたと言った。
誰?
リーマスはある期待に押されて目を開けた。視界の端に映った、離れていく手の先。大きく骨ばった手。男の手だった。リーマスの期待はさらに膨らむ。
もしかして……。
どちらが夢で、どちらが現実なのか、区別がつけられるかもしれない、とリーマスは思った。そしてその結果は、安心する、幸せなものであるかもしれない。
「リーマス、起きたね」
リーマスの顔を覗き込んだ人は、リーマスの期待していた人――それが誰なのかはっきりとしたことは分からないのだが――とは違う人だった。リーマスは少し落胆したけれど、絶望はしなかった。むしろ現れた人が意外すぎて、しばらく反応できなかった。しかしその人がいる意味を理解すると、リーマスの瞳は輝いた。
「グリス先生? 先生がいらっしゃるのなら、あれはやはり夢だったのですね? ここは医務室ですか?」
リーマスは体を起こして、初めて自分が床ではなく柔らかいベッドの上に寝ていたことを知った。そしてその部屋が見たことのない部屋である――少なくともホグワーツの医務室ではなかった――と分かり、教師の顔が悲しみに彩られていることを察して、リーマスは今度こそ絶望した。
「リーマス、残念だが夢ではなかったのだよ。ここは私の家だ。君が心配で。酷く顔色が悪かったからね」
教師はベッドの縁に腰掛けたまま、リーマスの髪を撫でた。つかの間の喜びはリーマスの顔から消え去り、もう戻ってこないだろうと思われた。夢と現実の区別がついた。しかしその結果は、リーマスの望むものではなかったのだ。
「先生……私は、友を失いました。生涯に渡る友とは、成りえなかった。死んでしまったのです。もう、永遠に会えない……」
両手で顔を覆ったリーマスに、教師はしばらく何も声を掛けなかった。一度ベッドから離れると、盆の上に何かを載せてリーマスの元に運んできた。サイドテーブルに盆を置くと、教師は再びベッドに腰掛けた。教師の体重でベッドが軋む。
「……さぁ、食べなさい。もう2週間も、何も口にしてはいないね。倒れるのも無理はない」
そう言って教師が差し出したミルク粥から上る湯気を見ても、リーマスはそれを温かいとは思わなかった。気付けば厚い布団も、暖炉に灯る炎でさえも、リーマスには薄ら寒く感じられるのだ。
「……食べたくないのです。何も、食べる気がしない」
絶望の淵に沈んだその声は、自分でも分かるほど無感情で、自分を心配してくれる人に対して発して良い声ではなかった。かろうじてそれを判断できても、リーマスにはそれを自分にフィードバックして修正することができなかった。愛想笑いだって、あの戦いの中で随分上手くなっていたのに。何もかもが白紙に戻っていた。いや、リーマスがすべてを白紙に戻したいと思っているのだ。
「それでも食べなくてはいけないよ、リーマス。私が他の人に食事を作るなんて、もうずっとしていなかったことだ」
ツキン、と胸が痛んだ。白紙に赤い血が一滴垂れたようなイメージが脳裏に浮かぶ。
「……先生はこうなることを知っていらしたのですか? あの、私に友を得られると言ったあの時から。あの人が……」
裏切ることを……?
リーマスが視線で訴えると、教師は静かに首を振った。そして粥の入った皿を自分の膝に置き、スプーンで一匙掬うと、湯気の昇るそれにふうと息を吹きかけた。
「リーマス、私は決して預言者ではない。食べなさい。君を任せて欲しいとアルバスに言ったのだ。責任を持たせておくれ」
そう言って教師が口元に運んでくれたそれを、リーマスはおずおずと口を開いて受け入れた。口に広がった刺激は多分熱さが与えたもの。リーマスはそれを吐き戻すことも出来ずに飲み込んだ。教師がゆっくりと間を置いて与えてくれるそれを、リーマスは苦痛に感じながらも飲み下していった。正直、味は分からなかった。異物が体に入り込んでいく、その感覚だけがやけにリアルだった。
まだ皿には半分くらい粥が残っていたが、教師はリーマスの苦痛を感じていたのか、そこで食べさせるのを止めた。教師の気遣いに謝ることも、感謝もできないことに、リーマスは気付いていた。まるで心が凍りついたように動かない。
「さぁ、食べたらもう少しお眠り」
軽く教師が額を押した。リーマスは勧められるがままに、もう一度ベッドに横たわった。今度は少しだけ、布団の重みが気になった。
教師はベッドの縁から腰を上げて、皿を盆に載せて部屋を出て行こうとした。リーマスは天井を見上げたまま、呟いた。教師が聞いているかどうかは気にしていなかった。聞いていても、教師は自分の言うことが分からないだろう。あの場に、教師はいなかったのだから。
「……先生。セブルスはどういう意味で私を馬鹿者と言ったのでしょう。昔とは違っていた。皆……変わってしまったのですね」
教師は立ち止まってリーマスの言葉を聞いていた。
「変わらなくてはいけないところは変わっただろうね。でも、昔のセブルスがいなくなってしまったわけではない。彼は今でも、少し天邪鬼だ。彼がどうして君にそんなことを言ったのか、すぐに分かるよ。今はお休み」
どういう意味だろうか。リーマスが体を起こそうと思った時には、教師はもう部屋を出ていた。扉の閉まる音がして、リーマスは自然と瞼が重くなっていくのを感じた。教師はセブルスとの会話を知っていたのだろうか。それとも、彼はリーマスの言葉だけで、あの時の情景がすべて分かってしまったのだろうか。
――本当に、これは夢ではないのだろうか。
朝から昼にかけて、リーマスは昏々と眠り続けた。夕闇が迫った頃になって目を覚ましたリーマスは、傍らに教師がいる気配を感じて呟いた。窓ガラス越しに、一番星が輝き始めていた。
「先生、何故私だけ生き残ったのでしょう。ジェームズとリリーは幸せでした。彼らが死ぬことはなかった。もっと、彼らはもっと幸せになるべきだったのに。ピーターも」
椅子の軋む音がして、教師はリーマスの横たわっているベッドに椅子ごと近づいた。部屋は薄暗くて、リーマスからは教師の顔がよく見えなかった。ただ赤子をあやす様に、教師の手が2回、布団を叩いた。
「生き残ったのは君だけではない。小さなハリーも、シリウスも生きているよ。多分、ヴォルデモートもね」
その名前のどれもが、別々の意味でリーマスの胸を締め付ける。
「ハリー……あの子には両親が必要でした。これから先ずっと。あの2人でなく、私が死ねば良かったのに。神は残酷です」
また教師の手が布団を叩いた。暖炉の薪が燃える音は聞こえない。天井には炎の影が揺れているのに。自分の声と、教師の声と、そして布団を叩く音がやけに耳に付く。
「神は人を罰することはできない。君が生き残ったのは、君に対する罰ではないのだ、リーマス。死ねば良かったなんて言ってはいけない。ジェームズは怒るだろう。リリーもね」
本当にそうしてくれれば良いのに、とリーマスは思った。ここに現れて、今の自分の姿を見て憤って、なじって勇気付けてくれればいいのに。昔そうしてくれたように。
「でも2人はいないのです。シリウスが……ジェームズ達が一番信じていたシリウスが、2人を裏切った」
窓から覗く一等星と同じ名前を持つ男が。
「本当に?」
ポン、と布団の上で教師の手が跳ねた。
「え?」
「本当にそう思うかい? シリウスが裏切ったと?」
リーマスはのろのろと上体を起こした。その間も、教師の手は布団の上で跳ねている。等間隔にポン、ポンとまるで何かを招くように。
起き上がると、教師の顔が薄闇の中で微笑んでいた。リーマスは急に不安になった。自分がこうして病人のように横たわっている理由も、生きていたくないと思う理由も、教師が奪ってしまうような気がした。教師はずっとリーマスに優しくしてくれたのに。どうして今回はこんなにリーマスを苦しめるのだろう。
「だって……現に2人は死んで、ピーターも殺されて、彼はアズカバンに入った。秘密の守人であった彼が裏切らなければ、2人の居所がヴォルデモートに知れたはずはないのです」
震えた声でリーマスは弁解した。冷や汗が額に浮かんだ。教師はそんなリーマスに気付いているはずなのに、まだリーマスを追い詰めようとしていた。
「もしかしたら何か事情があって、この結果は真実ではないのかもしれない」
リーマスは必死になって首を振った。
「いいえ! いいえ、他に何があると言うのです? もしかしたらなんて、そんなこと有り得ない」
「リーマス、君はとても理性の強い人だ。人狼とか、そんなこと関係なしにね。でもリーマス、君の感情は悲鳴を上げているよ」
左右に振っていた首がピタリと止まる。感情とは、何のことだろうとリーマスは思った。そんなものはもう凍りついて動かないのに。
「いいえ、そんなこと……」
口だけは教師の言葉を否定し続けるけれど、それが自分の理性なのか、感情なのかの区別はつかなかった。そんなリーマスに根負けした様子で、教師はまたリーマスの手をポン、ポンと叩いた。
「では私から言おう。私はシリウスがジェームズを裏切ったという事実を信じてはいない。シリウスがピーターを殺したなんて、馬鹿なことだと思う」
青天の霹靂。本当にそうだろうか。リーマスは確かに教師の言葉に衝撃を感じたが、受けた傷は小さい。
何故?
「……何故です? 証拠はそろっている。違う結果なんて……」
ありえない。リーマスは言った。しかし教師はリーマスのそんな様子を、どこか楽しげに見詰めていた。
「理由かい? 私は過去の彼を信じている。ただそれだけのことだよ。年月が人の全てを変えることなど無い」
「過去の、彼を……」
リーマスは自分の頬を伝う熱いものに気付いた。まるで炎が流れているように熱い。
「彼の正直さ、誠実さ、それは変わることはない。君も知っているだろう?」
知っている。知っていると思っていた。だけれどそれを認めたくない。これ以上自分を追い詰めないで欲しい、とリーマスは思った。頬を伝う熱いものは炎だ。きっと暖炉の火が飛んできたに違いない。リーマスはそう思うことにした。
「セブルスの言葉の意味を教えようか、リーマス。何故泣くことを我慢して、泣くことを忘れたふりをするのだい? 馬鹿なことだよ。君は彼らの友だ。友のために泣くことを何故しない?」
頬を伝っていた炎は顎に至って、そして布団の上に落ちた。炎は布団の上に落ちても燃え上がることはなかった。それどころか、布団にすぐ吸い込まれてしまった。いや、これ以上誤魔化して何になるだろう。
本当に、馬鹿者だ。
そう言ったセブルスは、本当は“泣いても良い”と言いたかったのだろう。リーマスは今更になって彼の気遣いに気付いた。
ごめん、セブルス。
僕は、本当に馬鹿だ。
途端に溢れた涙に、リーマスは口元を押さえた。嗚咽だけになりそうな口から、何とか言葉を搾り出す。
「先生……私は」
何て愚かなのでしょう。
「あぁ、リーマス。分かっているよ。君は泣くことを忘れるほど悲しかったのだ。でも良いのだよ、もう。泣きなさい。ここにいるのは君だけだ」
肩に手を置く教師と、リーマスは視線を合わせた。涙でちらつく視界にも、はっきりと教師の双眸が映る。学生時代に見た、崇高な意思がそこにあった。
リーマスはベッドから転げ落ちるようにして教師の膝に縋った。涙が堰を切ったように溢れ、つられて今まで口にできなかった言葉が次々と口をついて出てきた。それは今まで誰にも言えなかったリーマスの本音だ。
「誰も分かってはいない! ヴォルデモートは死んでいないのに、ジェームズ達が犠牲になったのに、ハリーは1人きりになってしまったのに! 何故こんな、世界が平和になったと騒いで、お祭りのように浮かれているんだ! 何故正式な裁判も行わずに、彼をアズカバンへ送ってしまったんだ……。何故彼に何も言わせず……。何故私に一言だけでも、彼と話させてくれなかった……」
言い切ると、リーマスは声を上げて泣いた。時折涙に咽て、そして嗚咽の間に友人達の名前が呼ばれた。こんなに泣いたのは、3年という期限を決めてアニメーガスを目指した友人達が、実際にリーマスの目の前でそれぞれの獣へ変身してくれた時以来ではないだろうか。そして今は、あの時の喜びの涙ではない。
「リーマス、私に何ができる? 君のために、私がしてやれることは何だろう」
しゃくりあげながら見上げた教師は、薄闇の中でぼんやりと青白い光を纏っていた。
「許しを……。赦しを下さい」
それだけで、教師にはリーマスが求めるものが分かってしまったようだった。先程まで布団を叩いていた手が、膝に縋るリーマスの手の上に乗せられ、ポンと跳ねた。
「リーマス、君の中の悪を話しなさい。全て。君はそれを吐き出す必要がある。そして私は、それを受け止めることができるよ」
教師がリーマスの手を握った。リーマスは涙で濡れる顔を上げ、教師の手を握り返した。そして震えながら自分のすべてを吐き出した。
「私は……私は信じない。彼がジェームズを裏切ったなんて。彼がピーターを殺したなんて……。信じない。たとえ全てが彼を悪だと言ったとしても、私だけは…」
私だけは、シリウスを信じている。
言い切ると同時に、リーマスは全身の力が抜けてしまった。そして、何故かようやく暖炉の薪が燃えるパチパチという音が耳に入るようになった。
「それが、君の中の悪だね?」
ぽつりと教師が言った。リーマスは全身の力が抜けたまま、どこか心も置き去りにして呟き返していた。
「そうです、先生。でも私は弱い。これを抱えて生きていくには、私は弱すぎる」
「……私はそう思わないけれどね。でも、リーマス。君がそう思っているのなら、君を苦しめることは私の本意ではない。だから、目を閉じてごらん」
言われた通りに、リーマスは両目を閉じた。もう分かっている。この教師はやはりリーマスに優しい。
教師の手がリーマスの瞼の上に置かれた。その体温は熱すぎず、冷たすぎず、とても心地よくて、そのまま眠ってしまいそうだった。
「君の中に小さな魔法の箱を作ろう。パンドラの箱だ」
催眠術のようにリーマスの内側に響く声。リーマスのその言葉どおりに、自分の中に小さな宝箱を作った。
「そこに君の中の悪を閉じ込めてしまうことにしよう。約束するよ、リーマス。再び箱が開かれて、閉じ込めた悪が出てきてしまった時、箱の底には希望が残る。絶対に。私を信じてくれるね」
「……はい」
教師に導かれるまま返事をすると、リーマスの中に作られた小さな宝箱は何か、リーマスの悪と呼ばれるものを皆吸い込んでしまった。そしてパタンと蓋が閉じられる。その箱に白い骨ばった手が伸びて、カチャリと鍵が回された。
「さぁ、鍵を掛けたよ。目を開けて」
一瞬何を言われたのか分からなかった。リーマスは床にへたり込んでいて、教師は椅子に座っていた。鍵を掛けた、と教師は言ったけれど、部屋の扉に目を向けても、扉に鍵はついていなかった。窓を見ると、そこには鍵がついて、しっかりと掛けられていた。その外に、“Sirius”という名前の星が輝いている。
リーマスは不意に頬を伝う涙に気付いた。暖かい部屋の中で、頬の辺りの一筋が冷たい。リーマスは呆然としたまま、重い腕を上げて頬をこすった。涙で手が濡れた。代わりに頬は一瞬乾いたけれど、またすぐに涙が濡らしてしまった。
「……先生? 何故でしょう。涙が止まらない」
教師を見上げると、彼は大きな手でリーマスの頬を包み込んだ。
「閉じ込めたものが、それだけ君にとって大切なものだったのだ。良いから泣きなさい。満足するまで」
何を閉じ込めたのか。リーマスは判然としないまま教師の膝に頬を埋めて、そのまま静かに涙を流し続けた。