Chapter 0 : 森の幻想
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それは元来、性の区別を持たぬ種族であったという。
彼らは魔術や魔法に長け、自然界の全てを意のままとし、人やエルフは彼らを畏れ、また神の姿を重ねた。故に彼らは世の覇者となり神となる。
しかし、彼らはある時を境に地上から姿を消した。彼らから魔術、魔法の知識を受け取った人かエルフ、又はその両者が彼らを殺めたとも、彼らが自ら神として住まう世界に還ったのだとも云われる。
だがそれは人の記憶の中には残らぬ遠い昔のこと。人とエルフはやがて別れ、その伝承ももはや人の中では殆ど途切れていた。今は一部の人間と、森の中でひっそりと暮らすエルフ達の中に、おとぎ話として伝わっているのみである。
序章 森の幻想
疲れた、と掠れた声で呟いて男は座り込んだ。随分森の奥に入ってきた気がする。国の地図にさえない、大きな湖まで辿り着いたのだから。男はもう一度、疲労の溜息をついた。四十代くらいの体格の良い男は、大振りの太刀を背に負っている。
荷物は他になく、後は身に着けられた鉄製の鎧と所々汚れたマントだけだった。流れの傭兵、賞金稼ぎの風ではない。きつく結ばれた口元と、広いわりには力のこもらない肩には哀愁に似たものすら漂う。力無くだらりと垂れる右腕が風に揺れた。二の腕から下が全く無いのだ。
「ちっ、風がしみやがる…」
男はマントを掴み背を丸めた。湖の上を通ってくる風が顔を刺した。木々の間から覗く空が陰り、男はますます体を縮めた。
「ここは人の来る場所ではありません」
突然浴びせられた言葉に、男は背負った太刀を握り顔を上げた。そんな男に驚きもせず、それはまた言葉を紡いだ。
「人が立ち入る事を許さぬ聖域。立ち去りなさい、と言いたいところですけど、何か訳ありのようですね」
白いシンプルなワンピースをまとった少女が、スカートを広げて彼の隣に座る。突然のことに驚いて剣を握ったが、少女には全く敵意は感じられない。言葉は何か厳しいものだったが、声と口調には優しさが溢れていた。
とにかく彼は剣から手を離した。
彼の白髪混じりの黒髪とは対照的に、少女の髪は美しい銀髪で、瞳は彼の灰がかった水色に赤を混ぜたような紫。無防備な子供のような、それでいて何処か妖艶な微笑みは一瞬で彼の目を捕らえた。
「あ…、すまない」
ずっと凝視していたことにふと気が付き、彼は赤面した。
「森の中で暮らせそうな場所を探していたんだが、知らぬうちに奥へ…」
どうやらあまり話し上手ではないらしく、彼は恥ずかしそうに頭をかいた。
「森に?エルフでもないのに、珍しい人。それによくこんな奥まで…」
「訳ありでな。人の目の届かぬところに住みたくて」
彼は言葉を濁した。無意識のうちに無くした腕を動かそうとしている事に、憤りを覚えた。
「理由を聞いても良いですか?」
穏やかな彼女の申し出に、彼は肩を跳ね上げた。
聞いてどうするというのだろう。
堅く口元を引き締める彼に気付いていないのか、彼女は続けた。
「誰かと話すのは久しぶりなんです」
少女は水をすくうような自然な動作で彼の、何も入っていない右袖を手に取る。花の名前も知らぬ彼だったが、何か呪縛から解かれたように口元を緩めた。
花のようだ。
見たこともない、と言うより今まで気付かなかった。華やかで必ず人の目に付くような花でさえ、彼の記憶にはなかった。美しいという形容詞だけが、彼の頭の隅にかろうじてあっただけだというのに。今確かに、この少女を花のようだと思った。
そして袖を弄ぶ少女の耳に注目する。一般に知られるエルフ特有の長い耳ではない。容姿的にも多分違うし、だからといって人間の雰囲気でもないように思われた。まぁ…、と彼は心の中で呟き口を開いた。
「儂はこれでも騎士団にいてな。騎兵団隊長の補佐であり策士。それに第二王子の剣術指南もしていた」
少女は真剣に彼の話を聞いていた。難しそうに顔をしかめて、ついにそれは苦笑に変わった。
「ごめんなさい…よく分からない。騎士団くらいは分かりますけど…」
これには彼も困ったように苦笑した。
「あー、馬に乗って戦う部隊にいて、まぁ偉かったのさ、それなりにな」
彼は寂しそうに笑った。また憂いを帯びた広い肩に少女も肩を落とす。
「けれど、先の戦いで右腕を失って、馬に乗っても戦えない。ただ無駄に年を取った男になってしまった」
「家族…家族はいらっしゃらないの?」
彼は首を振った。
「いない。親はとうに死んだし、妻も子供も…。戦に明け暮れて、気付いたときにはもうこんなに年を取っていた。城で世話になるには役立たずでな。何より…自分自身情けない」
奥歯を強く噛んで彼は言葉を吐き出した。
この手を血で染めて、
それだけで今まで生きてきたのか。
真っ白な少女と自分とを比較して、彼はさらに肩を落とした。今まで自分を綺麗だと思ったことは無かった。だが、この少女と自分とでは思っていた以上に、自分は汚いように感じる。
「人間て、難しい…。どうしてかしら」
くるくると少女は彼の袖をねじる。人に今の姿を見られるのが嫌でたまらなかったのに、不思議と苦痛ではない。汚いと感じても、この場を立ち去りたいとは思わない。仕方がないのだ。
今までそうやって生きてきた。
汚くても、今ここに自分がいる。
そしてこの少女は自分を傷つけない。本能だろうか、そう感じた。
「そうだわ。私が、家族になってあげます」
彼女は得意げにそう言った。良い考えだと無邪気にはしゃぐ。
「私も一人ですから、ね?良い考えでしょう?なんて呼んだら良いでしょう。お父様?名前が良いかしら」
顔を覗き込まれて、彼は言葉に窮した。
「名前よりは…の方が…」
自分で言うには少し恥ずかしい言葉だった。ただ戦うだけの今までの生活。周りにいるのは男ばかりで、それでも他の男達は結婚して、子供をもうけていたのに。彼は不器用だったのかもしれない。戦いと、他のことを両立できなかった。
「儂はバルド。君の名前は?」
少し冗談じみたゲームのような感覚だった。楽しい。この少女と話すのは、楽しい。本当に娘だったら、ずっとこういう会話を交わせるのかと思うと、余計に楽しくなった。
「名前…あったような、なかったような…。忘れてしまいました。もう随分、名前を呼んでくれるような人はいなかったから。バルドが考えて下さい。あ、お父様でしたね」
はにかむように笑い、それから少女は一瞬止まった。それに気付かずに、バルドは名前を考え始めている。本当に、いきなりこんな大きな娘が出来てしまうとは考えもしなかった。
― 姫 ―
すっと、少女は目を閉じた。バルドは戦略を考えるときよりもずっと、難しげな顔だ。ふとバルドが顔を上げると、少女はまた先程のように明るく微笑んだ。
「その前に…お父様は娘が良いですか?それとも…」
「?」
「息子が良いか?」
一瞬の変化に、バルドは声を失った。戸惑いながらも答える。その答えは、娘の一言だった。息子が出来ても、譲るような地位も、何もないのだ。
「なんだ、そうか。でも、できれば男でも女でも良い名前にして下さい。お父様」
呆気にとられてしばらく何も言えなかった。今は小首を傾げて少女らしい表情をしているが、一瞬確かに少年の様な言葉遣いになっていた。声は、どちらも対して差異はないが、少し低くなった様な気もする。声の高低は口調にも左右されるのだろうが。
「君は…一体…」
しばらくその表情で誤魔化そうとしていたようだがバルドが不審そうな表情をやめないので、ちっ、と舌打ちをして少女はまた少年の表情になる。
「私の一族は無性体でな、私もそうなのだ。人間はもう忘れたかもしれないな。かつて人間とエルフが神と呼んでいた者の生き残りだ」
「それでさっきから少年のような少女のような…」
とは言っても一概には納得しかねる。もうとうに途絶えた種族で、大体おとぎ話だとしか思っていなかった。目の前に実物がいるとは言っても、会ったときは少女だと思ったし、今だって顔は確かに女だ。
「二親の影響が強くてな。人間でいう父のような存在と、母のような存在の影響を均等に受けているらしい。こんな家族では嫌か?」
まぁ、本当はもっと複雑なんだがな。肩に掛かる髪を手で払いのけ、ワンピースの肩紐が落ちそうになるのを引き戻した。
「嫌、ではないが…娘でいてくれるとありがたい」
少し不思議な人間と暮らすのだと思えば、気の重くなるような話ではなかった。その実、信じていないのだ。伝説が現実となるのはそうそうないことで、まして自分がそれに出会うということなどありはしない。バルドでなくとも思ったであろう。
「ふふっ、本当変わっていますね、お父様。よろしくお願いします」
「よろしく。そうだ、君の名前はレンヌにしよう。よろしく、レンヌ」
小さくその名前を復唱して、レンヌは満面の笑みを浮かべた。
「素敵な名前。ありがとう、お父様」
ためらいなく胸に飛び込んでくるレンヌに一瞬躊躇するが、それでも割れ物に触れるかのようにそっとレンヌの髪を撫でる。嬉しそうに胸の中ではしゃぐその姿が、柔らかな髪の感触が心地よかった。家族とは、娘とはこういう風に愛おしいものなのかと、初めて理解し、バルドは笑みを浮かべた。
汚れた儂には、過ぎた贈り物だ。
そう思っても、もはや手放すことなど出来なかった。愛おしい家族。もし出来ることならこのままで、と。
全てが始まったことも知らずに、これで、ここで終われるのだと、バルドは思ったのだ。