Chapter 4-1 : 命約の崩壊

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 「お呼びでございますか、陛下」

 部屋に入るなり、男は恭しく頭を垂れた。わざとらしくもったい付けて。しばらく頭を上げない『家臣』に『王』は冷たく一瞥をくれただけだった。

 『王』の部屋は相変わらず暗い帳に仕切られており、揺れている蝋燭の火が、金色の髪にちらちらと当たる。しばらく二人は無言だった。『王』は手元の古い書物を捲っている。読んでいるような気配は感じられない。『家臣』は『王』の言葉をじっと待った。

「グロージェス。貴様、あの古代神族の声を聞いたか?」

 やっと口を開いた『王』の言葉は、ひどく重苦しかった。

「…いいえ、私めは…。古代神族など、もはやこの世には存在し得ない者。その声を聞くことなど、有り得ませぬ」

 その言葉に、『王』は微かに口元を引き締めた。『家臣』にはそれが何の意味を持つのか理解できない。笑ったのか、それとも不興を買ったのか。

 『王』は書物に向けていた体を、椅子ごと『家臣』に向けた。ページを捲っていた手を、体の前に引き寄せ、両手を組む。蝋燭の火にあてられても、尚『王』の顔は青白い。

「それでは、この世の覇者と成り得るのは一体、誰と思う?」

 『王』は笑っていた。少なくとも『家臣』にはそう見えた。

「何を今更その様なことをおっしゃいます。それは…」

 『家臣』の『あ』の字で開いた口から声帯を使って声が出る前に、『王』は『家臣』の言葉を継いだ。

「カトラスか?」

 『家臣』は顔に出てこようとする動揺の色を、完璧に隠した自信があった。今までそうやってこの地位を守り抜いてきた。けれど『王』の笑みはそれすら見透かしているように見え、冷や汗がどっと全身から溢れる。

 何かが違っている。そう、メロサ島へ出かけてから、『王』は確かに何処かが変わった。理知的な『王』ではあったが、今まではもっと体から『生』の力を感じられたはずだ。だが、今は違う。死人のようだ。

「貴様が何を考えているかなど、気付かぬ私だと思うのか?グロージェス。古代神族を手にしたカトラスに、私が敵うはずがないと思っているのではないか?腹の探り合いはなしだ。正直に申せ」

「恐れながら陛下。この世を統べるのは陛下を除いて他に誰がおりましょうか。古代神族など、あやつの浅知恵、虚勢にございましょう。恐るるに足りませぬ。早くあの罪人を処罰下さいませ」

 上手く切り返した、と『家臣』は心の中で思った。しかし、『王』の呆れたような乾いた笑いが頭を掠めていく。生きた心地がしない。彼はまさに『王』なのだ。少なくとも、今この場においては。全て見知っている。例えそれがこの場に限ったことであったとしても、それが『家臣』にとって大きな恐怖であることに代わりはない。

「神などいないと、そう申すのだなグロージェス。この世の覇者となる者は、この私だと」
「御意にございます」

 『家臣』は深い穴に落ちていくような感覚に襲われた。『王』の視線がまとわりついて、離れない。

「カトラスを、殺せとな」
「…はい」

「面白いことを言うてくれるわ、グロージェス。私の思っていた通りの答えだ」
「は?」

 不安を覚えたことに『王』は気付いたのか、唇の端で皮肉な笑みを浮かべた。けれど次に続く言葉が『命』であることに、『家臣』は安堵する。

「グロージェス、シーザスを攻める。準備を進めろ。マジェンダも奪われてこちらも切り札が無くなった。早急に決着を付けてやる」
「承知致しました」

 深々と下げたと表現されるであろう頭を、更に深く下げて、『家臣』は身を翻す。しかし、『王』の言葉がその背中を鋭く突いた。

「グロージェス。私は裏切りを許す男ではない」

 その言葉が、『家臣』の体に深手を負わせることはなかった。所詮『家臣』にとって『王』はただその立場に生まれたというだけの存在。欺く手腕も、へつらい通す自信も『家臣』にはあるのだから。

「陛下は、私が裏切りの大罪を犯すとでも?」

 その言葉に対する早急な応答は無かった。ただ、不敵な笑みが返ってきただけだ。そして『王』は『家臣』が思いもしなかった言葉を返してくる。

「…お前はある薬を飲まないと、体が保たないようだな」

 そして『王』は紙に包まれた薬を『家臣』に掲げて見せた。

「これだ。…麻薬だな、グロージェス。知っているか?この薬に魔術を施した場合、体内に吸収されてもその魔術の効果というのは失われないのだ。昔、神官はそれを利用して病気治療や予防に使っていたそうだ」

「まさか…」

 元々血色の良くない『家臣』の顔は、益々血の気が引いて、死人のようになった。

「お前は、いつもこれを持ち歩いているな」

 反射的に『家臣』は胸の上を探った。『王』が手にするそれと確かに同じ物。くっ、と漏れる苦悩の声は、もう隠す努力さえ虚しい。

「…アゼル…」

 『家臣』の口から歯軋りする音が響いた。大きく。

「貴様は最初からただの駒に過ぎなかったのだ。貴様だけではない。カミーラも同じだ。上手く私の目の届かぬ所で動いていたつもりだったのか?自惚れるな。カトラスと私を対峙させたり、いらぬ所で動きおって…。バイオスでもカミーラと組んで、それでも失敗するとはな。…これが最後だ。カトラスを殺せ。古代神族は私の物にする。奴は…邪魔だ」

 『家臣』は何も応えなかった。『王』は静かに言葉を継ぐ。

「否とは言えまい。お前の命は我が手にあるのも同然。駒が上手く動かないのは、駒のせいか?それとも、この手のせいか?私の躰は正しく動く。お前は動くか?動かなければ、床に叩きつけて壊すまでだ。代わりは、いくらでもいることを忘れるな」

 『家臣』が唇を噛んで見守るのを察してか、『王』はチェスの駒を投げるようにして、手に持っていた薬を投げ捨てる。それを見ていた『家臣』は、やがて最敬礼をして頭を垂れた。

「…シーザスへの進軍の準備を致します。国王陛下」
「良いだろう。その前に、迷いの森をつぶせ。エルフを何人か捕まえて、残りの者は殺せ」
「はっ…」

 『家臣』はようやく身を翻し、部屋を脱した。けれど尾を引く死への恐怖は拭うことができない。隠されていただけで、彼の背後に今もぴったりとついて離れない、恐ろしい脅迫感。


 ことっ、と扉を開け、入る部屋には誰もいない。そう、彼のペットも、誰も。
 バタンと自分のベッドに倒れ込む。


 わかんねぇ…。
 アゼルはあんな奴だったか?
 何かが違う。
 明らかに、チェルットで会った奴とは…。


 ぎゅっと両の拳を握り締めた。憎んでいる。ロジスを殺した義兄を。母を幽閉した男を。しかしウィザーズは、あの暗い瞳の中に大きな悲しみを見てしまった。正義などないことは分かっている。だとしたら、あの男を悪だと言えるだろうか。

「アゼル…」

 心に汚泥が溜まって、苦しかった。すべて吐き出してしまいたかったけれど、何故だかそれもできなくて余計苦しかった。


「落ち着いた?レンヌちゃん」

 優しく宥める声に、レンヌは頭を上下させる。メロサ島でアゼルと対峙してから、レンヌは少し不安定な精神状態だった。心配するサフォムは、ミデュクに帰ってきてからずっと、レンヌの世話を焼いてくれていた。

「…えぇ、ありがとう、サフォム」

 微かに笑うレンヌにサフォムも笑顔を返したけれど、すぐにその顔を引き締めた。

「彼を、どうするつもりだい」

 レンヌは弾かれたように顔を上げたが、すぐにまた顔を伏せた。

「まだ、決められない…」

 囁くように言ったレンヌに、サフォムは少し顔を歪めた。そして椅子に座るレンヌに視線を合わせるように腰を屈めると、諭すようにして言った。

「ねぇ、それは君だけの問題じゃあないよ。王子にだって、いや、一緒に戦ってきた皆の問題だ。君は決して一人じゃあない」
「…サフォム…」

 見上げたレンヌの顔に、すっとサフォムの手がかかる。親指が顎にかけられ、半開きになった薄桃色の唇に、サフォムの顔が近付く。彼の考えを悟って、レンヌは拒絶の言葉を漏らして彼の手から逃れるために体を突き放す。

「駄目!サフォム…」

 さっと椅子から立ち上がって、レンヌは窓際に走り寄った。サフォムは悲しげにその背を見詰めて言った。

「…俺のこと、嫌いかい?」

 訊くと、戸惑いもなくレンヌは首を振る。ならば素直にそれを信じよう、とサフォムは思った。

「じゃあ、どうして?俺は君が人じゃあないって事を、初めて会った時から知っていたよ。性別がなくても良い。君を愛しているんだ」

 確信を持って言える。これはレンヌの魔性とは関係のないことで、確かにサフォムは彼女を―彼を―愛していた。霧に霞む空のような瞳。鱗を光らせる魚よりも輝く銀の髪。その容姿だけでなく、たった一人で、神として、一族の王として生き、その責任を果たそうとしている強い意思。細い肩にすべての重荷を背負おうとする、その哀しい姿さえも。

「駄目…」

 そんなサフォムに、レンヌはただ首を振ってそう繰り返した。

「俺が人だから?」

 レンヌはすぐにサフォムの言葉を否定した。

「違うわ。お父様も水妃とエルフの結婚を許した。私だって、人だとかエルフだとか、関係ないと思っている」
「俺だから、駄目?」

 更にサフォムが問うと、レンヌはまた迷うことなく首を振る。自分が嫌われている、というわけではないらしい。それが理由でないとしたら、レンヌを縛っているものは果たして何なのだろうか。

「誰でも駄目なの。私には、他の人を愛する資格なんてないわ」

 サフォムには小さく見えるその肩を、レンヌは両手で掻き抱いた。まるで自身を縛り付けているように、サフォムには感じられる。それはとても哀しい光景だった。

「どうしてそんな事を思うんだい?君が神だから?」

 レンヌは振り返ると寂しそうに笑った。

「お父様はお母様を愛した。いくら特殊な存在であっても、私達は神ではないわ、サフォム。愛することを禁じられることはないの」

 その真摯な眼差しに、サフォムはそれ以上言う言葉が見つからなくなった。言葉を封じ込めるような、神々しさ。レンヌの言葉とは裏腹に、サフォムは彼女が神だと思った。彼女と自分との間にある大きな溝が見えてしまったのだ。

「レンヌちゃん。…俺は本気だ。それは、分かってくれるかい?」

 それは頼りない、ちっぽけな人間の言葉だった。悔しくて、サフォムは唇を噛んだ。レンヌはサフォムから目を逸らさずに応えた。

「勿論、分かっているわ。でも、ごめんなさい…」

 重くなった空気を押し退けるようにして、サフォムはできるだけ軽く溜息をついた。演技は得意な方なのだけれど、今度ばかりはそれが上手くいっていると思えなかった。

「…仕方がない。でも、一度で諦めるつもりはないから。こんなに好きになったのは初めてだからね」

 鏡があったら見てみたい。随分情けない作り笑いをしているのだろう、という自覚がサフォムにはしっかりあった。レンヌはやはりサフォムから目を逸らさずに、不意に懐かしそうに笑った。

「…サフォムはお父様に似ているわ」
「え?」

 少し遠い目をして、レンヌは囁いた。

「優しいところ、そっくり」
「はは、お父様…ね」

 サフォムは彼女に気付かれないように、痛んだ胸を右手で押さえた。

 気付いてないね、レンヌちゃん。
 その言葉が男の胸をえぐることを。

優しい言葉で遠ざける。

 それは立派に完全拒否ということだよ。

大変な人に恋をしてしまった、とサフォムは改めて思った。完全な拒否も受け入れることができないくらい、彼女を好きだった。しかし同時にサフォムは分かっていた。自分は彼女が望むようには、彼女を理解してあげられないだろう。見えない傷から、全身の血が溢れていく気がした。

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