Chapter 4-1 : 命約の崩壊
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森から飛び出してきた魔獣は、アトレとラベアを認めると立ち止まった。その、合成獣とも言えない奇妙で不気味な魔獣の上には、暗い緑色のローブを身にまとった死神が座っていた。目が光り、その光はラベアとアトレの間をじっと睨んでいた。アトレはその瞳に会って、背筋を駆け上がるような悪寒を感じたが咄嗟に口をついて出たのはいつもの軽口だった。
「おっと久しぶり。前にも会ったな。今日は女連れじゃないのか?色男」
自分の中に少しの余裕を見つけられて、アトレは束の間安心した。束の間、というのも隣に立つラベアが軽口に反応してくれなかったこともあるし、魔獣に乗った死神のような男が考えられないくらいアトレの軽口に反応したので、流石のアトレも少しだけ残った余裕をかき消されてしまったのである。
「邪魔だ。どいつもこいつも邪魔ばかりしおって…。殺してやる、殺して…殺してやる!」
魔獣の上で、グロージェスが叫んだ。口から泡を吹きそうなくらいに興奮している。目は血走り、痩せた頬は皮膚だけが揺れて動く死体のようだ。
「あらら?どうしちまったんだ一体。色男はまずかったか?」
以前出会ったときはもっと冷静な男だと思った。陰険で、冷静で、自分の中にいつも何か余裕を感じられる策を持っている男だと思ったのだが。それがこんな軽口に過剰反応している。
「貴方は命約を破った!わかっているのですか?」
ラベアが声を張り上げる。グロージェスはその醜い顔を歪めてふん、と鼻を鳴らした。
「命約だと?笑わせるな。どのみちあの悪魔に殺されるのだ。貴様等も道連れにしてくれる!」
「悪魔?」
初対面のラベアもこの男の様子がおかしいことに気付いていた。アトレはラベアの肩に手を置いて囁いた。
「おい、奴はまともじゃないぜ。いかれてる」
ラベアは素直に頷いた。いかれているという表現が正しいかどうかは分からないが、少なくとも理性的だとは言えず、加えて攻撃的だった。戦うしかない、とラベアは判断した。しかし命約を破ることはできない。
「魔術での攻撃はできません。私が補佐に…っ!」
目を逸らしていた瞬間を狙われて、ラベアの腹部に魔法の衝撃波が当たった。
「ラベア!」
不意の魔法攻撃に、ラベアの体が後ろに飛ぶ。アトレはラベアの腕を掴んで引くと、その体ごと抱え込んで地面に叩きつけられた。
「くっそ!いきなり魔法かよ」
無様に飛ばされた姿を見て、グロージェスは血走った目を細めて笑っていた。
「アトレ殿!」
ラベアは下敷きになったアトレの上からすぐに退く。アトレは気楽そうに手を振って答えた。
「大丈夫。あんたよりは体、丈夫なんでね」
そして腹の力だけで起き上がる。もうグロージェスから目を逸らすことはしない。真っ直ぐ前を向いたまま、アトレは言った。
「接近戦でやれば勝てる。援護頼む」
「分かりました」
答えてラベアも立ち上がった。
「庇ってやれる余裕はないぜ」
「えぇ、それはお互い様ですよ」
次の瞬間にアトレが動いた。筋肉をしならせて、まるで野生の肉食獣のようにグロージェスに近づく。ラベアはグロージェスとの距離を保ったまま、雪を媒体として複数の魔獣を造り出す。白い毛に覆われた2足歩行の雪男のようだった。グロージェスは乗っていたグリフォンを消すと、まだ燃え盛る森の火を媒体に、焔の鳥を造り出した。
まずラベアの魔獣がグロージェスに向かう。グロージェスは同じように魔獣でそれに対抗し、雪の魔獣を溶かしていく。アトレは崩れる魔獣の後に隠れながら一気にグロージェスの前に踊り出た。
相手が人間ならば魔法で。
命約を破らないためにはそうするしかない。元々、これらは戦いのために教えられた術ではないのだ。全体の気を手に集中させる。グロージェスの狂気をたたえながらも冷たい静けさを持った瞳と目が合う。崩れる雪。それを踏み台として飛び上がったアトレ。グロージェスの頭部をめがけて手を突き出す。
「いけない!アトレ!」
ラベアの声と、アトレの狙ったグロージェスの頭部に焔の魔獣が重なったのはほぼ同時だった。
やべぇ、当たる!
そう思った瞬間、横から体ごと突き飛ばされていた。手から放たれた魔法は雪の中に消える。体も雪の上に落ち、その衝撃に顔を顰める。受身を取ることが出来ずに、アトレは右肩を打った。それでもすぐに顔を上げ、グロージェスの方を確かめる。グロージェスはラベアの造った魔獣の最後の一匹にとどめを刺していた。多分アトレを突き飛ばしたのはあの魔獣だったのだろう。
「どうした。こんな時に仲間割れか?」
醜い顔が喜びに歪む。いや、もう当人は何が喜びで、何が哀しみなのか理解していないのだろう。
奴にはもう何も関係ねぇんだ。
何も…。魔法も魔術も…。
アトレはそこで気付いた。
魔法も魔術も関係ねぇ。
…そうだ、それが本来の戦いだ。
アトレは不敵に笑った。ラベアが近づいてくる。
「ラベア、向こうが魔法と魔術を乱用するなら、俺達はもっと原始的な方法で対抗してやろうぜ」
アトレは愛用のナイフを構える。
「何か持ってないのか?」
「いえ、ありますよ。こちらも接近戦用ですが」
ラベアは腰から短刀を抜いた。アトレのナイフよりは大きな物だが、多分護身用だろう。
「トドメを刺すのはあんただ、ラベア。良いな」
アトレのナイフでは致命傷を与える事は難しい。ラベアにもそれは十分理解できたので、彼は頷いた。自分は術師だから、などとは言っていられない。
「はい」
打ち合わせている暇はなかった。グロージェスはまたも魔獣を造り出し、魔獣は2人を襲った。アトレのナイフが踊る。しかしナイフは有限。魔獣はグロージェスがいる限り無限なのだ。
奴の体力消耗を待っている時間はねぇ!
アトレは魔獣を消すことを止め、魔獣の間を抜けるように走った。グロージェスがそれに気付いて気を溜める。ラベアは少し離れた所でその様子をうかがっていた。やがてアトレの後に魔獣が殺到するのを見て走り出す。呪文を唱え、魔術で魔獣を破壊する。
アトレがグロージェスの前に辿り着く。気を溜めていたグロージェスの両手から魔法が放たれた。アトレはナイフを投げた。それはグロージェスの肩をかすっただけで、アトレは魔法を全身に受けて後へ飛んだ。ラベアはアトレを避け、魔法を放ったばかりのグロージェスへ向かって行った。両手でしっかりと短刀を構えたまま、その刃はグロージェスの心臓へ向かっている。
しかしグロージェスは恐ろしい男だった。ラベアの攻撃に一瞬怯んだものの、すぐに立ち直ると魔術を使った。グロージェスの一歩手前で、ラベアは地面に造られた魔獣の口に、右足を膝まで噛まれていた。
「ああぁ!」
「ぐっ、ラベア!」
噴き上げるように魔獣の口からラベアの血が溢れた。震えた手から、短刀がこぼれ落ちる。グロージェスがそれを拾った。
「くくっ、これで終わりだな。悪魔の贄になるが良い!」
グロージェスの瞳は狂気そのものだった。何故このようになってしまったのか、振り上げられる短刀を見ながらラベアは思った。
「ラベア!」
アトレが立ち上がる。しかし全身の痛みに走ることができなかった。スローモーションで、グロージェスの手にある短刀が、ラベアの胸へ下りていく。
「やめろぉ!」
一瞬アトレの頭にウィザーズやセライド、そしてリフェルの顔が浮かんだ。自分は死んでも、ラベアを死なせるつもりはなかったのに。
「ぐっ。な、何故だ」
聞こえたのは鈍く肉に刃が突き刺さる音と、くぐもったグロージェスの声だった。アトレは全身をどうにかして奮い立たせ、足を引きずりながら二人に近づいた。ラベアの足元にいた魔獣が消えていく。グロージェスの体が痙攣して、その手からラベアの短刀が落ちた。ラベアはグロージェスに寄りかかるようにして何とか立っていた。足と、手から血が流れている。しかし手の方の血は、ラベアのものではなくグロージェスの血だった。
何故?
とアトレは思った。ラベアはあの短刀以外に武器は持っていなかったのに。
ラベアが手にしたものを引き抜くと、大量の血が雪の上に飛び散ってグロージェスの体が後に崩れた。両目を見開いたまま、グロージェスは死んでいた。
「ラベア…」
アトレはラベアの手元にあるものを見た。短刀の鞘だ。何故かその先から鋭い刃が突き出ていた。アトレの視線に気付いて、ラベアは青白い顔で苦笑した。
「陛下から頂いた物なのです。仕込みになっていて、こんな風に役立つ時が来るとは思いませんでした」
「あのおっさん…」
アトレが呆れた声を出すと、二人同じに雪の上にへたり込んだ。
「今回ばかりは感謝しとこう。あんたが死ぬんじゃあないかと思ったとき、あの姫さんの顔が浮かんで胆が冷えた。足、大丈夫か?」
足を伸ばしたラベアの右腿からは血が流れて、まだ止まっていなかった。
「えぇ、何とか。止血しないと貧血で倒れそうですが」
そう言うが、止血するために腕を動かすことも億劫なのだろう。それはアトレも同じだった。
「大丈夫、担いで行ってやるよ…と言いたい所だが、俺も肩をやってる。…お、レンヌ達の気が近づいているぜ」
アトレが空を見上げた。ラベアにはまだ分からないが、気配に強いアトレはもうすでにレンヌの力を感じているようだ。ラベアはお互いの姿を見ながら笑って答えた。
「間に合って良かった。お互いボロボロですがね」
「あぁ。もう、眠りてぇ…」
アトレはそう言ってばったりと雪の上に上半身も倒した。闘いで火照った体に雪の冷気が心地よい。このままでは逆に寒くなってしまうな、とぼんやり思いながらも、アトレは起き上がることができなかった。空は森からの煙と雪雲で暗かった。目を閉じかけたとき、アトレは異様な気配を感じて飛び起きた。
「おい、嘘だろ…?あの出血で生きていられるはずねぇ…」
その視線の先には、全身を血で染めたグロージェスが虚ろな瞳で立ち上がろうとしていた。ゆらりと動くその体は一体どこに力が入っているのかさえ分からない。ラベアが隣でようやく声を絞り出した。
「馬鹿な…これは、魔術です…」
「何だって?死体を操っているってのか?」
そう言って、アトレも詳しく気配を探った。確かにもうグロージェス自身に気配を感じることはできなかった。この体を動かしている力の気配はグロージェスの遥か背後にあった。それはフォリン王国の方向。
「こんな…こんなことが許される訳がない」
ラベアがそう言った。アトレの頭にグロージェスが言った言葉が浮かぶ。
悪魔―。
背景にある暗い気配は確かに悪魔と呼んでも良い。
「ラベア、まだ、いけるか?」
こちらに近づいてくるグロージェスだった男の体に向かって、アトレはゆっくりと手を挙げた。
「魔法ですね」
厳しい目をしながら、ラベアも手を挙げた。
「あぁ。仕方ねぇ。せめてもの慈悲だ」
二人は同時に息を吸うと、その手に自らの気を集めてグロージェスに向かって放った。赤く燃えるような魔法は、そのままグロージェスに当たってその体を燃やした。既に息絶えていたグロージェスは、悲鳴さえ上げず、ただたんぱく質の燃える嫌な臭いをさせながら灰になって崩れ落ちた。
ラベアとアトレは無言だった。灰が風に舞い、篭った炎が赤く輝くのを見て、ようやくラベアが言葉を漏らした。
「とうとうこんなことまで…」
ラベアはアトレと同じ言葉を噛み締めていた。
悪魔。
それが半分とはいえ、あの人間味あふれる王子と繋がっているのだ。二人は同時にこの先の戦いを思った。元より戦いは優しいものではない。しかし、不健全な戦いは、健全な戦いに比べて歪んだ、大きな傷を残すものだ。そしてこの戦いは決して健全ではない。少なくとも向こう側は。
風に吹かれて、人の声が聞こえた。しかも耳慣れた声。ラベアとアトレは暗い空を仰いだ。海側から大きな魔獣の姿が見えた。その背で手を大きく振っているのはあの王子だ。アトレは軽くその手に振り返した。魔獣が近づくと、その羽音と風圧で耳が聞こえなくなる。小さな風を巻き起こして、魔獣はアトレとラベアの前に降りた。そして先ほど手を振っていた少年がさっとその背から飛び降りる。
「アトレ、ラベア!大丈夫か?村のエルフ達は?」
駆け寄ってくるウィザーズに、ゆっくりと魔獣の背から降りるレンヌとバルド。
「シーザス城ってとこに避難させた。全員無事だ」
ウィザーズにだけでなく、後ろの二人にも聞こえるようにアトレは答えを返した。
「ラベア殿!出血を?」
近づいてきたバルドが真っ先にそれに気付く。ウィザーズが慌ててラベアの方を見た。死体が動いたことで咄嗟に立ち上がったが、酷い出血でラベアは動くことができなかった。それでもウィザーズの視線を気遣って、軽く微笑んで返した。
「えぇ、多少」
しかしその真っ青な顔は誤魔化しきれない。
「多少って…。酷く出血しているじゃあないか!レンヌ」
「うん」
ウィザーズの呼びかけに、レンヌがさっと前に出てラベアの傷を治す。血を補充できるわけではないので、ラベアの顔は青いままだが、これ以上の出血はそれで防げた。
「悪いなレンヌ。俺の肩も頼むわ」
レンヌはそれに頷いて、アトレの肩に触れる。脱臼していた様子の腕がすぐに軽くなる。
「グロージェスと戦ったのか?」
腕を回して感覚を確かめるアトレに、ウィザーズが厳しい顔をして尋ねる。
「あぁ…そう。奴さん妙に興奮しててさ。戦う以外なかった」
アトレはウィザーズに、というよりはレンヌに向かってそう答えた。
「…グロージェスが森を?」
レンヌが呟いた。ちらりとウィザーズを見ると、燃えて黒くなった森を見ないようにしていた。それを不思議に思いながらもアトレはレンヌに答えた。
「そうだ。奴は、命約を破った。悪かったな、仕事取っちまって」
レンヌは黙って首を振った。しばらく全員が押し黙って、燃える森を見詰めていた。ウィザーズだけは視線を地面に落として。
何かあったのだろうか、とアトレは思った。ウィザーズは起きたことから目を逸らすような人間ではない。むしろこの光景を目に焼き付けようとするタイプだと思っていた。
「セライド達は後から来るのか?」
気分を変えさせようと発したアトレの言葉に、ウィザーズはあからさまにほっとして答えた。
「あぁ。とにかくシーザスへ行こう。シーザス王に会わなくてはいけないから」
「えぇ、そうですね。と言っても、私もアトレも疲弊しています」
ウィザーズの提案に、ラベアがすぐに答える。どうやらラベアもアトレと同じようにウィザーズの異変に気付いていたらしい。ここを離れたがるウィザーズの言葉に自然に乗ってみせた。
「黒竜と白竜を呼ぶわ」
レンヌもどこか暗い顔でそれに加わった。