Chapter 4-1 : 命約の崩壊

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 雪の上を走っているためか、普通の陸上よりも馬の蹄の音が小さく響いている。それでも十数人の隊で移動すれば、何もないこのシーザスの大地には騒音だった。ラベアは必死に馬を飛ばしながら、隣にしっかりと付いてくるキースに目を向ける。彼の口元には絶えず笑みが浮かんでいて、その様子があの外交官に似ていると、ラベアは思った。その笑みが、いつも頼もしく感じる。

「大丈夫なのですか?軍師である貴殿が城を空けて」
「えぇ、将軍がおりますしね。実際に戦うのは私ではない。飾りのようなものですから」

 益々笑みを濃くしたキースに、ラベアは曖昧に返す。飾りなど、そんな程度のものであるはずがない。軍で国力を保っているシーザス。確かに実際に戦うのは将軍の率いる兵士達だが、闇雲に戦って国を維持するだけの成果を挙げられるはずがないのだ。この策士の力が、どれだけ国に、戦いに貢献していることか。

「この雪馬が速くて助かりました。昨日の夜に出て、もう国境まで着いてしまうのですから」

 ラベアは誤魔化すようにそう言って馬を打った。キールもその誤魔化しを追及することなく、同じように馬に鞭を入れた。シーザスの雪馬は速く、そして雪の中でも体力を維持する力を持っていた。

「何故魔獣を使わなかったのですか?その方がずっと早かったのではないかと思うのですが」

 キールに尋ねられて、ラベアはどうしてそんなことを考えたのかと想像した。そしてキール達が目の前で術士と術を初めて見たときのことに思い当たり、悪いと思いながらも苦笑した。

「あぁ…以前来られたレンヌさんの事ですね。彼女は私達よりもずっと強い力を持っているのです。私達に彼女が使っていた魔獣を造り出すことは出来ません。それを維持し続ける力もありません」

 彼女は規格外なのだ。と言外に含ませて言ったラベアに少し笑い、キールはしばらく沈黙した。先程から小雪が舞っていて、ラベアもキールも鼻の頭が真っ赤になっていた。

「…馬鹿なことをお聞きするようですが…彼女は人間ですか?」

 声を落としてキールが言ったその言葉に、内容に、ラベアは内心焦った。彼女の外見だけを見て、そう言っているのだろうか。それとも、他の何かを感じてなのか。

「…何故ですか?何かおかしな振る舞いがあったでしょうか」

 ラベアが訊き返すと、キールは慌てたように首を振った。

「いいえ、そのようなことは…」

 それきりキールは黙り込んで、レンヌの話を続けようとはしなかった。ラベアは正直ほっとして、部下とともに馬を急がせた。やがて前方に森が見えてきた。枝にほんのり雪化粧をした木々が風に揺れている。

「あの森ですね」

 キールに尋ねると、キールは頷いて答えた。ラベアは森の前で馬を止める。そして背後の部下達に指示を与える。

「全員位置に着け!手順通り、私が合図を送ったら始める」

 ラベアの部下達はそれぞれ馬を進めて、森の周りに散っていった。

「何を?」

 今度はキールが尋ねてきた。ラベアはじっと森を見詰めながらそれに答えた。

「結界を張るのです。森全体に」

 森自体はこの人数で挑めばあまり大きくないと言ってよかった。しかし、とラベアは拳を強く握る。そして森の周りに散っていく部下達を見詰めながら独り言のようにして呟いた。

「術者の力もかなり高い…。あまり長い時間はもたないでしょう」

 キールはその時、ラベアの優美な横顔に暗い影を見た。

「風に流れし旋律を我等のものに」

 浪々とラベアが声を張り上げると、設備の良い舞台のように森の周りに散った部下達の声がラベアの声に重なって響いた。実際には外の、反響の少ないこの場所で離れた場所にいる複数人の声がこうして重なることは有り得ないだろう。

「我等出でる陽の力に従い、陽の昇りし唱を喜びと共に謳う。風よこの唱を運び、我想いし者へ伝えよ」

 鼠色の空に差し出されたラベアの手。その先にはキールが入ったことのない、常盤色の森が広がっていた。それは、見た目にはとても静かな森だった。


 アトレはエルフの結界とは別の、もっと大らかで攻撃性のない気配を感じた。それはしかし、何かの緊張を孕んでいて、肩から背にかけて重い衝撃を中にいる者達に与えるものだった。

「何だ?」

 男達が騒ぐ。アトレはヤージェに視線を合わせた。ヤージェはすでに額に流れ落ちる汗を拭って、立ち上がっていた。

「森全体が別の結界で覆われたわ!」

 ヤージェはレムを抱えるようにして立たせた。そして男達はそれぞれ疲れきった女達に駆け寄った。アトレは上空を見上げた。そこには舞い降りた天使のように淡い光を発している蝶がいた。

『森を出てください。魔獣は使わずに。北へ!』

 ラベアの声が響き、蝶はすぐに消えた。

「よし、行くぞ!」

 アトレはレムを前に抱えて、背に年老いた老女を一人背負うと先頭を走った。ちらちらと後ろを振り返る者はいたが、誰も立ち止まらなかった。必死に北を目指して走ると、視界が急に開けた。ずっと森の中で暮らしてきたエルフ達は、その雪の白さに驚きと戸惑いの声を上げる。

「ラベア!」

 アトレの姿を認めても、ラベアは結界を解かなかった。虚空へ手を挙げた姿勢のまま、アトレに笑いかける。

「全員無事ですか?」
「勿論!」

 ヤージェが疲労を隠しながら答えた。しかしラベアにはヤージェや他の女性達の疲労がすぐに見て取れた。そこで首を巡らせてキールに呼びかけた。

「キール殿、村の方達を王城へ」
「しかし馬が…」

 少ない数といっても、エルフは二十人以上いた。予備の馬は六頭しかいない。全員を乗せて走ることはできない。

「馬の魔獣くらい造れる余裕はある。ラベアが早く来てくれたおかげでな」

 アトレはラベアに向かって片目を瞑った。キールはその様子に言うほど余裕がないのを見て取ったが、何も言わなかった。そして初めて目にするエルフという種族を何人も前にしながら、特別な感情は見せないように努めながら言った。

「…それでは私に付いてきてください。…ラベア殿?」

 結界を保っていたラベアの手が震え出した。アトレは急いで森の方を見た。透明なはずの結界が、赤黒い渦を巻きだしていた。

「くっ…。結界を解け!全員退避するんだ!」

 ラベアが叫んだ。

途端に赤黒い渦が異様な形に膨れ上がり、森が爆発した。

「なっ!」
「森が!」

 エルフ達の中から悲鳴が上がる。長老は目を両手で覆って泣き出した。レムが急いで長老に駆け寄り、その背を撫でる。ラベアの部下達が馬を急がせ、こちらに逃げてきた。

「何て奴だ。結界の中へ入り込んで…俺達の力が手に入らないなら殺しちまえってことだな」

 アトレは燃え盛る炎の塊と化した緑の森を、呆然と見詰めながら呟いた。ラベアは魔術を破られた衝撃に、しばらく身を折っていたが、立ち上がると額の汗を拭いながらアトレに並んだ。

「しかも…今のは魔法だった」

 ラベアとアトレは無言で視線だけを交し合った。同時に二人で頷くと、ラベアはキールに、アトレはヤージェに向き直った。

「キール殿、なるべく早く逃げてください。部下を護衛につけますので、どうかお早く」

 エルフを救出しただけで終わりだと思っていたキールは、先程結界を張ったときよりも緊張したラベアの声に戸惑いを隠せない。

「貴殿は?」
「やることがあるのでここに残ります」

 ラベアははっきりとそう言った。一方アトレはヤージェの肩に手を置いて、悲嘆に暮れるエルフ達を見やりながら告げた。

「ヤージェ、あと頼んだぞ」
「アトレ?」

 くしゃり、とヤージェの顔が心配そうに歪んだ。アトレはそれを見て苦笑し、ヤージェの頭を乱暴にかき回した。

「馬鹿、そんな顔すんなって。余計ブスに見えるぞ」
「馬鹿はあんたでしょ!…何をするつもりなのよ」

 アトレは一瞬、ヤージェの潤んだ瞳に見惚れた。その感覚を胸にしまい、アトレはニッ、と口の両端を上げた。

「兄貴の意地を見せてやるのさ。行け!」

 今度は男達が先に我を取り戻し、女達を励ましながら魔獣を作り出した。馬よりも小さいが、家族を乗せるだけならば十分な大きさだった。ヤージェもレムと長老を乗せる魔獣を作り出す。

 ラベアはキールに頷いてみせると、キールは馬に乗って配下の数名と先頭を走り始めた。ラベアは逃げてきた自分の部下に命令を下す。

「全員城に戻るんだ。エルフの人達を守れ!」

 アトレとラベアを残して、雪の上を馬と、魔獣が群れを成して走って行った。残った二人は同時にまだ炎の柱を上げる森を見詰めながら言った。

「あのおやじの後継ぐなんて、あんたにできるのかと思ってたけど、充分過ぎるな」

 アトレの賞賛をくすぐったそうに受けながら、ラベアは笑って返した。

「光栄です。私の目標はいつも陛下でしたから」

 アトレもつられて微笑んだ。しかしすぐに顔を引き締めると、眉を顰めてナイフを取り出した。

「感じるぜ。こっちに来る」

 臨戦態勢のアトレに対して、ラベアはついと空を見上げた。炎の上げた煙がそのまま雲になったかのように、空を凄い勢いで翔る雲は不穏な色に染まっていた。

「雲行きが怪しくなってきましたね。彼女には、もう悲鳴が届いているはずだ」

 ラベアの呟きにアトレが応じる。

「姫さんの仕事、増やしたくねぇんだよな、俺」
「同感です。弟達の仕事もね」

 どちらも声だけは軽い響きを保ちながら、目を合わせる。その目は二人ともこれからの戦いへ向けて静かに輝いていた。

「頑張っちまうぜ。お兄様達はよ!」

 アトレが決意を滲ませてそう叫んだ次の瞬間、森の炎を抜けて、一匹の魔獣が飛び出してきた。


 同じ時、ミディク城の一室で母親と今までのことを話し合っていたウィザーズは、突然体の周りを取り囲むように発生した炎に驚いて立ち上がった。

「何だ!これは!」

 驚いたと同時に、的確に状況を判断したウィザーズはまず母親の側から離れた。母を巻き込むことを懸念したのだが、その母は呆然とウィザーズを眺めている。その瞳に、炎の形は映っていない。それに疑問を感じる前に、今度はウィザーズの頭に大きな叫び声が響いた。

『熱い!殺される!熱い!』

 声に呼応するように炎がウィザーズの体を駆け上る。頭が割れるくらい大きく響く声と、肺まで焼き尽くすような炎の熱さがウィザーズを襲った。

「うっ、わあぁ!」

 突然叫んだかと思うと次には頭を押さえて床に転がったウィザーズに、その場にいたマジェンダは慌てて息子に駆け寄った。

「ウィザーズどうしたのです?」

 マジェンダがその体を抑えようとすると、ウィザーズは床を転がって悶えた。その騒ぎを聞きつけたのか、リフェルが部屋に飛び込んできた。続いてイルシーが。

「ウィズ!」

 リフェルもウィザーズの傍らに座り込んだ。ウィザーズはそれに気付いて、リフェルに助けを求めようと口を開いた。

「熱い!苦し…」

 声を出すと、炎はウィザーズの喉を焼いた。余計苦しくなってウィザーズは咳き込む。

「ウィズ!」
「どうしたのですか、ウィザーズ!」

 リフェルとマジェンダは必死になってウィザーズの背を撫でたが、二人にはウィザーズが何故苦しみだしたのか見当もつかなかった。今日は風も吹いて涼しいくらいの陽気なのに。

「焼ける!うわあぁ!」

 暴れだすウィザーズに、マジェンダとリフェルは思わず立ち上がった。近くにいると危険だった。

「ウィズ?水を…」

 何が起きているのか、何も分からない状態で、リフェルはとにかく熱がっているウィザーズに水を与えようとした。イルシーがそれを察してすぐにコップに水を入れてリフェルに差し出す。しかし、ウィザーズは悶えながらリフェルの差し出した水を弾いて床に散らせた。

「王子?」

 あまりに叫び声が大きかったためか、サフォムも顔を出した。

「ウィザーズ様!」
「一体どうしたと言うのだ?」

 続いてバルドとワンド、そしてセライド。サフォムが暴れるウィザーズをとりあえず押さえつける。ワンドの問いにはマジェンダが青い顔をして答えた。

「分かりません。突然熱がって」

 演技だとは誰も思わなかった。荒い息で、声の限り叫び、サフォムの腕から逃れようともがくウィザーズは狂人のようだったが、ウィザーズが狂人になるなんてことはありえないという認識がこの場の全員にあった。誰もが困惑する中、部屋の扉を開けてレンヌが走り込んできた。レンヌは一直線にウィザーズの元に駆け寄り、座り込む。

「ウィズ!」

 それまでただ叫んで暴れていたウィザーズが、レンヌの声に反応した。

「レンヌ…熱い。森が…俺、焼けるようだ!」

 レンヌには見えていた。ウィザーズの目に映る燃え盛る炎。そして遠くの土地で燃える現実の炎が両方。

「ウィズ!駄目よ、聞いちゃ駄目!耳を塞いで!」

 レンヌの手がウィザーズの耳を塞いだ。しかしウィザーズは泣きながら首を振った。

「塞いでも聞こえる!…熱い!」

 声はレンヌにも聞こえていた。ただレンヌはそれを心と切り離して聞いていたのだ。感情を出していればウィザーズのように引きずられるのを知っていたから。

『助けて…!姫!王よ!』

 レンヌは唇を噛んだ。その様子を、サフォムが見ていた。レンヌの紫の瞳がいったん閉じられ、ウィザーズの耳を塞いだまま、次にレンヌが目を開けると、そこに炎の形がサフォムにも見えた。サフォムは息を呑む。人にはありえない輝きがレンヌの体を覆った。

「眠りなさい、ウィザーズ!」

 サフォムにも分かる衝撃があって、ウィザーズはがくりと全身の力を抜いた。支えるサフォムの腕にウィザーズの体重がかかる。

「ウィズ!」

 セライドが膝をついて、サフォムと一緒にウィザーズを支えた。サフォムはまだ体から淡い光を放つレンヌの瞳を覗き込んだ。

「レンヌちゃん、大丈夫?」

 こくりと頷いたレンヌは数回深呼吸した。呼吸するたびに光が薄くなっていく。そしてレンヌはそっと瞳を閉じた。小さく掠れた声が揺れた。

「盟約が、…破られたわ」
「え?」

 潤んだ瞳が開かれる。これで諦めろというのは、本当に残酷なことだ、とサフォムは思う。

「森が焼かれた…」

 セライドが息を呑んだ。この場で事の重大性を一番感じられるのは魔法を使うセライドなのだろう。

「同調したのか?ウィズがそれで…」

 レンヌはその言葉を聞いていないようだった。ただ酷く沈んだ声で告げた。

「北へ…シーザスへ行かなくては…」

 気絶したウィザーズは、先程までの騒ぎが嘘のように穏やかに眠っていた。

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