Chapter 4-3 : 最後の別れ
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血を流して硬直し始めたレグシェスの体を、アゼルは上半身だけなんとか持ち上げた。脇の下に手を入れて、足を引きずりながら動かなくなった体を移動させると、長椅子の上に乗せた。上半身だけまず長椅子の腕置きにもたれさせると、続いて下半身を持ち上げて反対側の腕置きに膝裏が当たるように置いた。たった数分のこの作業で、アゼルは額に汗をかいていた。自然と息も上がったが、顔は青ざめていた。
一呼吸おいてから、アゼルは部屋の窓を覆っている暗幕をもぎ取った。そして部屋の中で無様に倒れているアンデレの体を、その暗幕ですっぽりと覆ってしまった。死体を部屋の外まで運ぶ力はアゼルにはない。それにもう時間がなかった。
再び長椅子に横たえたレグシェスの亡骸に近づくと、アゼルは騎士の剣を、彼の体の上において両手にしっかりと握らせた。狭い長椅子の上でも、レグシェスは不平も何も言わない。青白い顔は、最後にアゼルに微笑みかけたままの形で固まっていた。
アゼルは微笑むレグシェスの頬を撫でて、レグシェスに応えるようにして微笑んだ。疲れの滲む顔だったが、今までになく穏やかな微笑だった。だが惜しいかな、それを目にした者は死者以外には誰もいない。
「すぐに私も逝く。レグシェス……すまなかった」
そう言うと、アゼルは唯一自分のために殉じた騎士の額の上に屈み込み、そっと口付けた。信用の置ける召使にでも言い渡して、この戦いが終わった後にでも彼の亡骸だけは丁重に葬ってくれるように取り計らってもらおう。レグシェスに罪はないのだから。
すべては、私が引き起こしたことだ。
神がいてもいなくても、アゼルがとった道は変わりなかっただろう。もし母が生きていても、同じことだ。アゼルは自分で選んだのだ。
アゼルはレグシェスの髪をひと撫ですると、屈んでいた身を起こした。そして微笑むレグシェスを振り返ることなく、重い体を動かして部屋を出た。
もう、終わりにしましょう。
その声は静かにアゼルに語りかけていた。アゼルは人気のない長い廊下を歩きながら、軽い眩暈を感じつつも一人頷いた。
あぁ、そうしよう。
やるべきことはただひとつを除いて、すべて終えたのだから、この命を終えることに何の未練もない。
私も一緒に逝ってあげる。
それを望んで始めたことではないが、無理に拒むことでもないだろう。アゼルは自分の心に、孤独な死への恐怖があることを知っていた。けれどそれも、彼女が共にきて、レグシェスが待っていることを思えば綺麗に消えてなくなる。
アゼルは歩いた。もう二度と座ることのないであろう王座に落ち着くと、知らず重い溜息がもれた。
「シーザスを攻める」
その言葉に積極的に賛成の意を示す者も、逆らう者ももういなかった。青ざめた王の顔に気づく者もなく、皆ただ頭を垂れて孤独な王の言葉に従ったのだった。
海を隔てたミディク王国では、海へ面した回廊をリフェルが歩いていた。先ほど父王からの使いに執務室へ来るように伝言を受けて、リフェルは今そこへ向かっている途中だった。
外を見ると青い空。しかし海を隔てた第一大陸までその青空が続いているかどうかは分からない。雲が覆っているだろうか。それとも雨が降っているのだろうか。風は強くないだろうか。何よりもリフェルの心にある関心ごとはひとつだけだ。
ラベアはどうしているかしら?
彼のことだ、何も心配はいらないとリフェルは知っていた。シーザスに対してウィザーズに協力するように要請するだけのことで、何の危険もないはずだ。フォリンとの戦いが始まるには早すぎる。せめて明日。長くて三日は待たなければいけないだろう。それが分かっていながらも、心が揺れる。一国の王女として、いまは恋人の心配だけをするべき時ではないと知っているのに。
父王の執務室の前で、リフェルはすっと息を吸った。このままではふがいない自分の姿を、父王は一瞬で見抜いてしまうだろう。皮肉げに唇を引き上げる姿が目に浮かぶようだ。そういうところは父親だからこそ腹立たしい。扉の奥はちょっとした戦場だ。いつもだらしない父親に対して、自分の弱さを見つけられるのは避けたい。リフェルは精一杯王女の風格と気概を見せようとして背筋を伸ばした。
そうして防御を固めたリフェルは、父王の執務室の扉を叩く。しかししばらく待っても、中から父王の入室を許可する声が聞こえない。不審に思っていると、やがて内側から扉が開かれた。父が自ら出迎えるとは考えにくい、とリフェルが咄嗟に判断すると、案の定、中から出てきたのはウィザーズの母でありリフェルの叔母であるマジェンダだった。
彼女は戸口でリフェルに向かって品よく微笑むと、珍しく慌しい様子で自室の方向へ歩いていってしまった。その横顔は頬を高揚させた若い顔で、リフェルは彼女が父の執務室で良い報告を受けたと信じて疑わなかった。きっと彼女は忠実な従女にその報告の喜びを分けてやるつもりなのだろう。
リフェルはマジェンダが開けた扉から、父王の許可を待つことなく中へと滑り込んだ。父はソファの肘掛にだらしなく肘をつき、さらには行儀の悪いことに前におかれたテーブルに足を乗せていた。まるでベッドの上にいるかのような寛ぎようだ。リフェルは先ほどまでマジェンダが腰掛けていたのであろう、父の向かいのソファに無言で腰掛け、テーブルに載っている父の足を遠慮なく払い落とした。リフェルの容赦のない仕打ちに対して、王は太い眉を器用に上下させ、大人しく伸ばしていた足を折った。
「シーザスはこちらに付くぞ」
父の口から出た言葉は、リフェルにとって意外でも何でもなかった。朗報、と言えばそうなのかもしれないが、実際にはシーザスはこちらに付くしかなかっただろう。
「他に選択肢はありませんもの」
ミディクという大国はそれだけの影響力がある。例え別の大陸の国であれ、この国の意向を無視することはできないだろう。戦い後の関係を考えれば、シーザスはミディクに――ウィザーズの戦いに――協力せざるを得なかったのだ。
だからリフェルはそんなことよりも、もっと今の状況が知りたかった。襲われたというセライドの村はどうなったのだろう。そこへ向かったラベアとヤージェは? ウィザーズ達は無事にシーザスへ着いたのだろうか。それに、それに――。
「ラベアが心配か?」
十分にからかいの色を込めた父の問いかけに、リフェルは思わず頬を薄く染めた。何もラベアのことばかり考えていたわけではないのだけれど、結局一番心配しているのは指摘の通り、ラベアのことだったからだ。それでも素直に言うには憚られる。リフェルは鼻を鳴らしてから――あまり上品ではなかったかもしれない――父のからかいに応えた。
「えぇ、勿論。ラベアだけでなく、ウィズや皆のことを心配しておりますわ。そうおっしゃる父上はご心配ではありませんの?」
図星を当てられて八つ当たり気味にそう言った娘を楽しそうに見つめていた父親は、ふと真顔になって娘の問いに答えた。
「心配はない。この戦いに勝利することを疑う心は全くない」
その父の答えにリフェルは正直驚いた。父は状況を冷静に分析できる男だ。それが、まさかレンヌという特殊な存在がいるからといってそこまできっぱりと勝利を確信するだろうか。アゼルという男はリフェルにとってはいまだ未知数の可能性を持っているように感じる。何をしてくるか分からない危険な人物だとも思える。そんな相手に対して、何故こちらの勝利を確信できるのだろうか。
「……それは、ウィズ達を信じていらっしゃるからそうおっしゃるのですか?」
それだけの理由であるはずがない、と思いつつもリフェルは他に特別な理由が思い浮かばなかった。
「違うな。ウィザーズ達にレンヌ殿がついているから、というわけでもない。儂にはただ、ウィルス王……アゼルがとろうとしている道が判る。そういうことだ」
アゼルがとろうとしている道。それは戦いの道ということだろうか。けれど、戦いの道ならばそれが行き着く先が勝利か敗北かは判断できないはずだ。それなのに父は、アゼルは負けると言っている。
「私には……よく、分かりません」
レンヌがいれば、確かに勝利する可能性の方が高いように思う。けれど父はレンヌがこちら側にいるから、という理由で勝利を確信しているのではないと言う。分からない。父がどうしてそう感じるのか。
「一国の王としてアゼルが何をしてきたのか。それを見ている者は少なかったな。見ていれば、簡単に分かることだ」
膨れている疑問を隠そうとしない娘に対して、父は苦笑しながらそう答えた。
「一国の王として?」
ミディク王は頷いた。あるいは、フォリンがこのミディクと同じ大陸にあり、二国の関係がもっと密なものであれば運命は違う方向へ向いていたかもしれない。ミディク王はそう考えた。
だがそれも、所詮は仮定の話だ。
ウィザーズはマジェンダの子どもで、王とも血縁だが、アゼルはそうではない。けれど、王は王として、アゼルのとった行動を分析することができた。その結果、導き出された答えは疑う隙もないこちらの勝利。
「アゼルは敗れ、そして死ぬ。儂に分からないのは、その死がアゼルにとってどのようなものになるか、それだけだ」
リフェルには父のその言葉自体が理解できなかったけれど、父はそれ以上の説明は必要ないと考えたらしい。納得できない顔をしているリフェルをさっさと執務室から追い出してしまった。
アゼルにとっての死?
父王を殺し、そして継母であるマジェンダを幽閉し、弟を国から追い出し、さらに傷を負わせることまでした男の死を、何故ミディク王が気にかけなくてはならないのだろう。分からない。ラベアなら分かるのだろうか。そしてリフェルの心は、また遠く離れた婚約者の元へと飛んでいった。
マジェンダが兄であるミディク王に呼び出されて部屋を出て行ってしまったので、イルシーは一人で部屋に残っていた。一応ここではイルシーも客人だ。マジェンダの個人的な用向き以外で言いつけられる仕事はない。はっきり言えば暇だったが、それに文句をつけるほど贅沢ではなかった。
イルシーは窓から外を眺めた。フォリン城からは見えなかった海が、この部屋からはよく見える。北の海に比べて、南の海の色は明るい気がした。
イルシーはその窓辺に椅子を持ってきて、そこに腰掛けた。海の向こう、故郷の近くではウィザーズ達が戦いの準備を進めているはずだ。いや、もう戦っているかもしれない。ミディクは暖かく豊かな国だ。マジェンダにとっては故郷でもあるところで、彼女が精神を痛めつけられたフォリンからこの国へ来て順調に回復しているのはとても良いことだとイルシーは思っていた。
けれど、イルシーはどことなく落ち着かなかった。故郷に帰りたい。嫌な経験もしたけれど、フォリンは彼女が生まれ、成長し、そして結婚した土地だ。
離婚もしてしまったけれど。
自嘲気味に微笑んで、イルシーは癖のある髪を指に絡めた。夫は決して悪党ではなかった。妻に対して暴力も振るわず、家に帰ることを嫌がらず、子どもが好きで、自分とイルシーの間の子どもも欲しがっていた。夫としては十分に善良な人だった。
イルシーは彼を愛していた。だからこそ、マジェンダ王妃とイルシーが不当に塔へ囚われたときに、彼女達の味方をして欲しかったのに。
あの人は一歩踏み出すことさえしてくれなかった。
戸惑いなど感じて欲しくなかったのだ。ただ一歩でもこちらに足を踏み出して欲しかった。それはそこまで高い望みだったのだろうか。
そうじゃあない。
レグシェスという人間にとっては、それは決して高い壁ではなかったはずだ。彼は真正直な人間だった。イルシーは彼の誠実で優しいところに惹かれたはずだ。
そして、今でもまだ?
考えても分からない。ここに彼はいないのだ。それだけが事実。ここではないところに、彼はいる。それもまた事実。
イルシーは窓を開けた。柔らかな海風が潮の香りを運んでくる。イルシーは目を閉じた。フォリンでは身近に感じなかったその潮の香りが、どうしてかとても心地よい。
イルシー。
風に名前を呼ばれた気がした。ゆっくりとイルシーが目を開けると、明るさに一瞬目が眩んだ。
「レグシェス……?」
そんなはずはないのだけれど、彼の声に似ている気がしてイルシーは呟いた。そして次の瞬間、イルシーは自分の目を疑うことになった。
レグシェスが立っていた。窓の向こう側、宙に浮くような形で彼の姿が目の前にあった。いつも自宅でしていたような気楽な服装。淡い金色の髪。けれど表情が少し、イルシーの知っている彼とは違っていた。
いつも見せていた穏やかな顔とも、塔で見た自信のない青ざめた顔とも違う。悲しそうではあるけれど、とても強い表情だった。まさに、イルシーがあの塔で彼に望んだ表情だ。
「イルシー、ごめん」
そう言ったレグシェスの透明な腕が伸びて、イルシーの頬にその手が触れた。まるで風に撫でられたような感覚。その声も、風のようにイルシーの耳に吹き込んでは出て行く。
「ごめん。勝手だってことは分かっている。全て僕が引き起こしたことなんだ。陛下は……。アゼル様は寂しい方だったのだよ」
恐ろしい方、レグシェスがアゼルを評するならばそんな言葉が出てくるのだろうとイルシーは思っていた。けれど、彼はアゼルを寂しい方だと言った。まるで萎縮することなく、レグシェス自身寂しそうにしてそう言ったのだ。
「レグシェス、貴方……」
何かが変わった。あの塔でイルシーが離婚を宣言した時から、レグシェスの中で何かが変化したのだ。それが表情にも表れている。怯えのない、落ち着いた顔。けれど何故半透明なのだろう。何故体を通して海が見えるのだろうか。
「僕が消えて残るものは何もない。ただ、本当に勝手だけれど……。ただ、君を愛していた。それだけは、真実だと信じて欲しいんだ」
言わないで欲しい、とイルシーは思った。胸が熱く、イルシーはまだ自分がこの人を愛しているのだと実感した。そして穏やかだけれど寂しそうに微笑むレグシェスもまた、イルシーを愛していたのだ。そんなこと、いまこの状況で知りたくなかった。
イルシーは胸の前でぎゅっと自分の右手を左の手で握り締めた。自然と目には涙が溢れ、唇が戦慄いた。レグシェスの口がゆっくりと開かれる。風の音。口付けがしたい、とイルシーは無性にそう感じた。何も言わせたくない。唇を塞いでしまいたい。けれど、そうできるような状態に、いまのレグシェスはいなかった。遠い。手が触れるほど近くにいるようで、やはりフォリンとミディク、二つの国と同じだけの距離があった。
「さようなら、イルシー」
結局、その言葉を言われてしまった。先に言ったのは多分、イルシーの方だったのに、今更これほどの悲しみを受けるとは思わなかった。
「レグシェス!」
行かないで欲しい、とイルシーは手を伸ばした。窓の外へ。けれど小さな風の流れを産んで、レグシェスは姿を消してしまった。跡形もなく、イルシーの前から消えてしまったのだ。
それからまずイルシーは理解した。レグシェスはもういない。イルシーの前にも、故郷のフォリンに戻ってもどこにもいない。彼は決めてしまった。自ら選んだ主君と逝くことを。皮肉にも彼女がそうして欲しいと思った通り、レグシェスは心から仕えるべき主君を見つけたのだ。次にイルシーの手が、レグシェスにとって欲しくて伸ばした手が震えた。溢れる涙は勢いを増し、そしてとうとうイルシーの両足が震えて、彼女は椅子に座り込んだ。苦しい嗚咽が漏れて、イルシーは何度もレグシェスの名前を呼んだ。
けれどレグシェスは戻ってきてはくれなかった。
「イルシー、シーザス王はウィザーズ達に協力してくれるそうです」
兄の部屋を軽い足取りで出てきたマジェンダが、自室へ残っていた従女のもとへ吉報を届けに舞い戻ってきたとき、気の強い忠実なイルシーは窓辺に寄せた椅子の上で身を折って泣いていた。
「まぁ、イルシー。どうしたの?」
吉報を得た喜びも一瞬にして驚愕に変わり、慌ててイルシーの元へ駆け寄ったマジェンダは、両手に顔を埋めて泣き続けるイルシーの背を撫でた。
「イルシー、一体何があったのです?」
ここに彼女を悲しませるようなものは何一つなかったはずだ。あの塔から抜け出して、この暖かなミディクではずっと穏やかな日を過ごしていたのだから。
「マジェンダ様、あの人が……。レグシェスが、いま……」
恥ずかしいことに、むせび泣くイルシーの口から途切れ途切れに切り出されて初めて、マジェンダはイルシーの夫であった男性のことを思い出した。
「レグシェスが? イルシー、レグシェスは……」
どうしているだろうか。あの大人しい男性のことは、イルシーの口から離婚したと聞かされてそれ以降何も知らない。そしてその男性の名前がこうしてイルシーの口から漏れることを、マジェンダは正直意外だと思った。きっぱりと離婚したのだ、しかも自分から、そう言ったイルシーはすべて割り切ったように見えていたけれど、実際はそうでもなかったのだろう。
「あの人は死んでしまいました。馬鹿な人……さようならなんて、言わないでいてくれた方が良かったのに」
どうして海を越えた場所にいる人の死を彼女が知っているのか。それは当然疑問だったけれど、イルシーの言うことに嘘や思い込みは感じられなかった。イルシーだから、知っていても不思議ではないのかもしれない。
「さようならなんて……言って欲しくなかった」
言われてしまえば、それが最後だと思い知らされるから。
「イルシー……」
マジェンダは泣くことを止められないでいるイルシーの背を根気強く宥め続けた。さようならだけでも、正直に言いに来てくれたのなら、イルシーはきっとまた笑うようになるだろう。あの塔でマジェンダとイルシーを見捨てたあの男性にとって、それはせめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。