Chapter 99 : 無翼の天使

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 それは銀色の月がもっとも満ちた晩のことだった。ここのところ毎夜、水妃の元を訪れて他愛のない話をしていた月姫は、今夜も水妃の部屋を訪ねていた。大した話題もないのに、こうして毎夜訪れる自分を、水妃はどう思っているのだろうか。森の中でしか過ごさない月姫には、風が語ってくれる話しか手にすることのできる情報はない。しかしそれはもう水妃も知っているようなことで、わざわざ月姫が語って聞かせるようなことではないということは重々承知していた。

 けれど最近の水妃の様子が気になって仕方がない。憂いに沈んだ顔。歴代の水妃がそうだったように、今の水妃も寡黙な人だ。だが、そうは言ってもこちらが話しかければ聞いてくれるし、相槌も打ってくれていた。最近では、どこか心ここにあらずといった風で、遠い目をしている。

 月姫はとにかく不安で、だから水妃の側になるべくいたいと思っていた。月姫が長い月色の髪を揺らして、水妃の部屋の前まで来たとき、丁度水妃が部屋から出てきたので、月姫はそこで足を止めた。

 黒い髪。月姫よりも少しだけ背の高い水妃は、青白い顔をしながら月姫の姿を見止め、小さく貝のような唇を動かした。その時、呟きというよりも小さな声が、石造りの薄暗い神殿に静かに響いた。

「……え?」

 それだけだった。薄暗い神殿の中では、何事かを呟いた水妃の顔さえよく見えなかった。たったそれだけで、艶やかな漆黒の髪を揺らし、水妃は身を翻して月姫に背を向けた。月姫は慌てて長い月色の髪と青白いドレスの裾を引きずりながら、水妃の背に呼びかけた。

「待って! 水妃。待って下さい!」

 けれどまるで月姫の制止など聞こえていない様子で、水妃は歩き続けた。やがて建物の外まで出ると、黒い髪をひらめかせて水妃はようやく立ち止まった。それを見た月姫は少し外へ出たかっただけだったのだ、と安心して歩調を少し緩めた。

 銀色の月に照らされて、夜の空は闇よりも明るい青だった。水妃がその空に向かって、細い腕を伸ばす。月の光に、その指先の爪が反射して光っていた。

「……水妃……?」

 何かを請うようなその仕草。月姫が抱いていた不安がぐっと大きくなる。その時、月の光を何かが遮り、月姫は夜の青と同化してしまった水妃を、一瞬見失った。

 そして突然の風に細い体をあおられ、月姫は壁に背を打ちつけた。何かの羽音。丸い月を見上げ、月姫はその大きな蒼色の瞳で頭上をぐるりと見渡した。銀色の月と、それに照らされて今夜は瞬きも微かな星達。そして一匹の青い竜が、羽根を広げて森を出ようとしている。その竜の背に水妃の姿を見た月姫は、呆然とその場に膝をついた。

「水妃!」

 叫んでも水妃は月姫のことを見ようとしなかった。そのまま一度も振り返ることなく、青い魔獣と共に夜の森を後にしてしまう。何故、と月姫は繰り返した。何故この時になってこの森を出て行ってしまうのか。一体何を憂いていたのか。その心を、何故打ち明けてくれなかったのか。自分の不甲斐なさに涙がじわりと溢れる。その時だ。

「どうした、月姫」

 背後から聞こえた凛々しいその声に、月姫は涙を拭き、髪をなびかせて振り向いた。

「陽王!」

 そこに立っていたのは、就寝前だったのか少しだけ服を着崩している陽王の姿だった。陽の王である彼の姿はしかし、この銀月の夜にも美しく映えている。

「陽王、水妃が……。後を追わなくては」

 水妃と聞いた途端に、陽王の顔が厳しくなった。月姫には気付かないくらい微かに。

 陽王は慌てふためく月姫の髪をすくった。早く行かなければ、もう二度と見つけ出すことはできないような気がする。焦る月姫に対して、陽王はあくまで冷静だ。ゆっくりと月姫の正面に膝を折り、月姫の目線にあわせるようにして合わせて座った。

「水妃は、何か言っていたか?」
「よく……聞こえませんでした」

 大切な言葉だっただろうに、と思うとそれを聞き取れなかった自分が情けなく、月姫の目がまた熱くなった。そんな月姫をじっと見つめながら、陽王は優しく促す。

「聞こえたところだけで良い。言ってみろ」

 陽王に促されて、月姫は涙ぐみながら水妃の言葉を復唱した。


 月姫……。


水妃は切なそうに顔を歪めながら月姫を呼んだ。そしてその続きは判然としない。


 私は――を、……してしまったのです。
 ごめんなさい……。


追いついて謝らないで、と言いたかった。何をしたのだとしても、そしてこれから何をしたとしても、謝らなければならないことは何一つないはずだ。自分達の間では何一つ。

「それだけしか……」

 水妃が去って行った方角を見つめ、月姫は水妃の魔獣の気配が遠ざかっているのを感じていた。もう一度、今度はきちんと水妃の言葉を聞きたい。それが最後となっても、今度は謝罪の言葉など言わせずに送ってあげたいと月姫は思った。

「陽王、月の出ている今なら私の魔獣で追いつけます。水妃は……何か思い詰めているようでした。最近は溜息ばかりで……心配……」

 突然、月姫は陽王に抱きしめられていた。咄嗟のことに月姫は驚き、身を強ばらせた。陽王は決して大柄な方ではなく、たくましくもなかった。だが月姫の体よりは力もあり、大きかったので腕を押しのける訳にもいかず、月姫は頬を赤く染め、陽王の胸に向かって呟いた。

「陽王……聞いていらっしゃらなかったのですか? 早く追わなくては……」

 くすっと悪戯に笑う陽王の息が、月姫の耳にかかった。それはくすぐったいという感覚と同時に、自分では制御できない鼓動を激しくさせた。月姫はますます顔を赤くし、俯いた。

「君は、そういうことには鈍感だな」

 そういうこととは、どういうことなのか分からない、と月姫は陽王の顔を見つめた。歴代の陽王の中でも珍しく、現王は穏やかな気質だった。あくまでも歴代の中で幾分まし、という程度ではあったのだが。

「月姫……水妃は、もうここへは戻ってこない。やり残したことがあるのだ」

 戻ってこない。そんな気はしていたけれど、陽王の口からはっきりと聞いてしまうとその分衝撃だった。月姫には分からない。もう一族は誰一人として他の土地にはいないというのに。一体何をやり残したというのだろう。

「俺と二人では、不満か?」

 陽王が苦笑した。そして太陽の様な黄金色の前髪を掻き上げると、立ち上がって夜の月に背を向けた。月姫も慌てて立ち上がる。

「追ってはならん。諦めろ、月姫。水妃の心は、もはや此処にはないのだ」

 陽王の命令は絶対だ。月姫にはそれに反する権利があるけれど、その権利を行使しようと思ったことは一度もなかった。この時もそれだけ言って白い石の建物へ戻ろうとする陽王に反論する気は起こらなかった。何となく、水妃も追ってきて欲しくないと思っているのだろうと感じだからだ。けれど陽王が入っていこうとしている建物。今まで三人で暮らしていた場所。そこにはもう水妃の姿はないのだ。それを思うと悲しみが増す。

「……私は、それでも三人でいられたらと……」

 そう零すと、もう止まらなかった。月姫は仄かに桃色に上気する顔を両手で覆った。闇の中で木々のざわめきと、月姫のすすり泣く声が木霊する。しばらく陽王は月姫に背を向けたまま立っていたが、一度目を瞑り、再び開くと振り返り、月姫の両肩に手を置いた。

「月姫、君は俺のことをどう思っている?」

 そっと、陽王は月姫の手を握り、顔を覆っている両手を離させた。

「俺が悲しんでいないように見えるのか?」

 月姫はまだ涙のにじむ瞳を大きく開き、懸命に首を横に振った。陽王は強い人だけれど、感情を捨てたわけではない。元々一族を統率する力と優しさを持った人なのだ。月姫は知っている。一族がひとり、またひとりと死ぬ度に陽王がその端正な顔を曇らせていたことを。

「では、泣くのではない。君に泣かれてしまったら、俺は泣くことが出来ないだろう? 俺が泣くまでは、君も泣いてはいけない」

 陽王の言う通りだ、と月姫は思った。水妃がいなくなってしまった今、ここにはもう二人だけしかいないのだから。月姫が泣いたら、陽王は当然月姫を慰めるために泣かないでいようとするだろう。今、そうしているように。陽王の優しさに対して、月姫の瞳から最後に一粒。大きな雫が落ちた。

「最後なのだから、水妃の思うままにしてやろう。月姫、君も同じだ。悔いの無いように……ここを離れたいというのなら、好きにすればいい。俺は何も言わない。ただ……君や水妃の幸せを願うだけのことだ」

 陽王は身を翻し、冷たい建物の中へ入っていた。今度はもう、立ち止まることはない。

 月姫は、陽王に掴まれた手首を胸に押し当てた。最後なのだから、と陽王は言った。

 俺と二人では、不満か?

陽王は月姫にそう問うたけれど、陽王自身はどうなのだろう。月姫と二人だけになってしまって、不満はないのだろうか。この狭い森の中で、他の誰かを想うことはないのだろうか。月姫以外の、誰か別のことを――。


 陽王は、何年も前から水妃に想い人がいることを知っていた。それが同族ではなく、性別をもつエルフだということも。

 一族がだんだんといなくなり、とうとう三王だけになってしまったある日の夜、陽王はそのエルフの男と水妃が会っているのを目撃した。水妃の愛した相手は、一族に仕えていてくれた神官の一人で、何度か神殿で見かけたことのある男だった。エルフ特有の美しい金の髪に、尖った耳。すらりとした長身の森の民は、よく仕えてくれていた熱心な神官であったことを覚えている。

「一緒に来てくれないか。陽王はお怒りになるだろうけれど……。もう君には時間がないのだろう? せめて最後の時だけでも……一緒にいたいんだ、エリィ」

 水妃はその言葉に戸惑っている様子だった。まだ残った者の役目を果たしていない。最後の水妃としての役目を全うしていない。そのことが水妃を縛り付けていることは明らかだった。

 エリィ、か。

王達につけられる名前はない。三人の王は必ず前王の死後に生まれるように定まっているからだ。一人の陽王が死ねば、次に生まれた者はその時から陽王以外の何者でもない。

 だが男は水妃に名前を与えた。その時点で水妃は、男の前だけでは水妃ではなくなったのだ。そして男も、水妃の前では仕える者としての自分を捨てた。お互いそれが、簡単に許されるようなことではないと知っていながら。

 陽王は二人の前へつかつかと歩み寄った。いち早くそれに気付いた水妃がはっとなって、エルフの男を庇うように男の前で両手広げて見せた。

「陽王……お叱りは私が受けます。この人は……」

 水妃は言ったが、陽王はそれを遮った。

「お前には何も訊くことはない。部屋へ戻れ、水妃」

 一族の中での陽王の命は絶対だった。反論できるのは唯一月姫だけで、水妃には反論をする権利は与えられていなかった。けれどこの時だけは、水妃は足を微かに震えさせながらも陽王に反論した。

「……嫌です、戻りません。この人を罰しようとなさるのですか?」
「答える必要はないな。もう一度言おう、部屋へ戻るんだ、水妃」

 エルフの男が水妃の背を軽く押して促したのが分かった。覚悟を決めたということだろうか。

「水妃」

 駄目押しをするように陽王が言うと、水妃は涙を押さえるようにして顔を伏せ、その場を去った。

「……お叱りはお受けいたします。陽王」

 水妃の姿が見えなくなると、エルフはその場に膝を付きひれ伏した。陽王はその姿を見下ろし、口調を和らげて言った。太陽の光に似た月の、よく見える夜であった。

「エリィというのが水妃の名か」

 咎められたのだと思ったのか、男はますます頭を低くし、額は地に押し付けられた。金色の髪が地について広がる。

「申し訳ございません、陽王」

 陽王は決してエルフの王ではない。だがエルフ達はそれ以上の存在として陽王を崇めていた。自分達がどうやって産まれてきたのかを知っている陽王にとって、エルフとの関係はいつも複雑な想いを抱かざるを得ないものだ。

「……何も謝る必要はないが……。森を出ろ。もう二度とこの森に足を踏み入れることはならん」

 男は何も答えなかった。肩が小刻みに震えていて、泣いているのだろうか。森に入れないということは、水妃に会うことが出来ないということだ。陽王の言葉は絶望の響きとなって男の身を打った。だが陽王は同じ言葉で水妃の心を握りつぶしてしまうつもりはなかった。

「水妃を浚う気があるのなら、今夜より七回、月が上がった日に、森の外で待っているがいい。水妃以外に、愛せる者がいないというのならな」

 男は顔を上げた。信じられないものでも見るかのように陽王の顔を呆然と見上げている。

「……陽王……」

 俺がこんなことを言うのは、おかしいのだろうか。

驚きの表情が消えない男を見て、陽王は内心笑った。威厳と強さの王。それが歴代陽王の変わらぬ性質だった。神官として近くに仕えていたからこそ余計、この男もそんな陽王の性質を感じ取っていたのだろう。だが陽王は決して頭が固いわけではない。

「行け。水妃にもそう伝えておく」

 男が水妃を迎えに来ない可能性はないだろう。こうして陽王が近くにいることを承知していて、なお森に踏み込んだほどの男だ。何よりあの思慮深い水妃の選んだ男なのだから。

 陽王には水妃が部屋に戻らずにいるのが分かっていた。男が立ち去ると、水妃が木の陰から駆け出してきて、陽王の前で膝を付いた。手はしっかりと胸の前で結んでいる。

「……陽王……申し訳ありません。このような時に……」

 深い闇色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それは懺悔の涙であり、そして喜びの涙でもあった。

「……このような時だから許したのだ。俺はお前にも、月姫にも幸せになって欲しいと思っている。最後の使命は俺一人でも果たせるからな。森を出たら、もうここに戻ることは無いと思えよ。月姫には俺からうまく伝える」

 本当はそれが一番気の重い仕事なのだが、と陽王は苦笑した。そして陽王は水妃の細い手を取って立ち上がらせた。漆黒の髪が月光の下で輝いている。美しいな、と陽王は素直に思った。心に誰かを住まわせた水妃は、これまでになく美しく見えた。

「幸せになるんだ。男でも女でもなくて良いという奴は、そうそういるものじゃあないぞ」

 そう言って珍しくおどけて笑ってみせる。すると水妃もようやく笑顔を取り戻した。

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