Chapter 99 : 無翼の天使
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そして今日、水妃は森の外へと旅立った。きっと水妃は振り返らなかっただろう、と陽王は思う。心はすでに森の外で待っているはずの男の元にある。旅立つ水妃は、以前に見たときよりもさらに輝いて見えただろう。
だが実際にその姿を見ることなく、陽王は一番気の重い仕事をし終え、自分の部屋へと戻った。天井から下がる薄布に囲まれたベッドで休もうと、陽王はそのまま倒れ込んだ。本当に気が重かった。涙もろい月姫をどうにか泣かせないようにと思っていたのだが、言葉で取り繕うことの苦手な陽王ではやはり無理だった。
一番苦手なのにな、月姫の泣き顔が……。
部屋でまた、ひとりで泣いているのだろうかと思うと陽王は体まで重く感じられるようになってしまった。
布を引きずる音がする。続いて石造りの重い扉の開く音が。陽王は目を瞑っていた。案外夢だと思っていたのかもしれない。弾力性のあるベッドに、体を埋めていた。虚ろげに、自分に近づいてくる気配を感じ取っていた。
「……陽王……」
横で響いた美しい声に、陽王ははっとなって目を開けた。すぐ横に、月姫がいる。目元が赤く腫れていたけれど、もう泣いてはいなかった。
「……月姫……。どうか、したのか?」
何と言う馬鹿げたことを訊いているのだろうと、陽王は恥ずかしく思った。先程のことに決まっているではないか。やはり水妃を探しに行くと言うだろうか。
いや、それはあり得ない。
月姫にはそんなこと、出来はしない。
そう思うと、今度は別の答えが去来する。陽王は月姫に言ったのだ。ここを離れても良いと。それが月姫にとって良いことであるというのなら。
自分で言っておきながら、いざ月姫が彼の元を去ろうとしたときに、陽王には月姫を素直に行かせる自信がなかった。最高の力を持っていても、思う様にならないものがある。抗いがたいのは自分の本心。なびくことが無いのが自分以外のありとあらゆるもの。
「陽王……もう、おやすみになりますか?」
本来ならば、彼らに睡眠というものは殆ど必要なかった。しかし人やエルフに会わせているのか、彼らはたいがいが夜になると眠りについた。薄布の張られたベッドは部屋から隔離された別世界のようだった。陽王は月姫の質問に即刻肯定したかった。何を言われるのか、それだけが気がかりで、不安だった。
「……いや」
口をついて出た否定の言葉は、陽王の中のあくまでも冷静な部分であったのかもしれない。いつかは聞かなければいけない言葉を、いつまでも先送りにしていくのは卑怯ではないかと。
「どこか、行きたいところがあるのか。止めはしない。言ってみろ」
陽王は邪魔になっているわけでもないのに、前髪を掻き上げる仕草をした。水妃のことは分かっていたが、月姫に愛おしいと思う相手がいるかは陽王には分からなかった。気付かないだけだったのか、それとも気付きたくなくて無意識に顔を反らしていたのだろうか。
「……側に……」
ためらうように月姫は声を発したが、陽王には聞き取れなかった。二人の間は一メートルと離れていなかったから、聞こえた部分だけしか喋っていないのかもしれない。
「誰の側に?」
白い月姫の人形のような顔が、赤く染まっているように見える。やはり、そういう相手がいたのか。
「……貴方の、お側に……。ご迷惑ですか? 陽王」
その言葉を聞いた瞬間に、陽王は月姫を抱き寄せていた。決してたくましくない体で、本当に華奢な肩を抱き、何か言おうとした月姫の口を、自分の口で塞いだ。はじめは強ばっていた月姫の体からゆっくりと、少しずつ力が抜けていく。そんなに長い間唇を合わせていたわけではなかったのだが、二人にはとても長く感じられた。
月姫と同じ銀色の髪をした子どもは、鈴の音のように軽やかな声で笑いながら、外で森の鳥達と遊んでいた。陽王はそれをしばらく見守っていたが、やがてうとうとと眠り始めた。
だが目を閉じたのはほんの数秒のことだったようで、陽王は先程まで外で遊んでいた子どもに抱きつかれ、驚いて目を覚ました。
「お父様、もうお休みなの?」
遊んでくれと、その薄紫の瞳が言っている。陽王はまだ小さいその体を両腕で持ち上げた。そうすると、嬉しそうにはしゃぐ。まるで羽のように軽い体。体温が低いのは何も姫だけではない。けれどどこかその冷たさが悲しく感じられる。陽王はそれを誤魔化すようにして微笑んだ。
「毎日綺麗なるな、姫。母上にそっくりだ」
「お母様の方が綺麗? お父様が一番好きなのはお母様なのでしょう?」
陽王はそのまま姫を膝に乗せた。羽のようだとは言うが、最初に腕に抱いたときよりも確かに重くなっているのだ。それは嬉しいことであり、さきほど感じた体温と同じように悲しく感じられることでもあった。これからも毎日、姫は美しくなっていくのだろう。
「今はまだ月姫の方が綺麗だな。姫ももう少し髪をのばすと良い」
「髪が長いと綺麗なの?」
それは少し違うかなと陽王は思ったが、反応の仕方がこの姫と月姫とで似ているので思わずからかってしまった。苦笑を隠しつつ頷いてみせると、姫はそれでも十分に長い髪を掴んで意気込んだ。
「じゃあ、もっと髪伸ばすね」
月姫のように長く髪が伸びる頃に、姫の側にいるのは一体誰だろうと陽王は考える。少なくとも、自分はいないのだ。日々更新されていく美しさも、見ることはできなくなる。
「地面についたら切らなくてはいけないぞ、汚れてしまうからな」
「何のお話ですか?」
あまりにも楽しそうに姫が話していたので、近頃では寝ていることの多くなった月姫も中から顔を出した。
「お母様!」
歩み寄る姫を抱き、月姫はその額に口づけた。嬉しそうに姫も月姫の頬に返した。そして月姫が姫を下へ降ろすと、姫はまた外へ駆け出した。
「……子どもとは言え、目の前でやられると少し妬けるな」
陽王は月姫を引き寄せた。恥ずかしそうに月姫が俯くが、陽王はその顔を上げさせ、桜色の唇に自分の唇を重ねた。性別のない彼らにとって、その行為だけが愛し合っている証なのだ。
「君を残してはいけない。逝くのなら、月姫……君が先に逝ってくれ」
陽王が抱きしめた口元にくる頭に唇を寄せると、月姫はそっと目を伏せた。お互いの顔を見ながらでは、辛くてとても言葉にできない話題だ。
「月の光は弱い……。私は貴方より先に逝くでしょう。けれど陽王、あの子はどうなるのですか? 貴方もいつか陽の光だけでは体が持たなくなってしまう。あの子は一人残されるのですか?」
「君は、俺に生きろと言うのか?」
月姫は言葉に詰まった。同じ時代に二人の王が存在してはいけないことは分かっている。今こうして次の王である姫と陽王が存在するということは、本来なら許されないことなのだ。そして何よりも。
私は陽王を愛している……。
もし叶うのであれば一緒に死にたかった。
でも、全てをあの子だけに押しつけて、
それで……いいのかしら。
外ではしゃぐ姫は陽王の『全てを制し、圧する力』と、月姫の『全てを癒し、守る力』を完全に受け継いでいる。今は亡き一族の中でも、いやこれまでの過去を含めて現在、世界で最も強大な力を持っているのだ。
でもその力に見合うだけの体が……もう作れない。
数少ない一族の中で子どもを創り続けていれば、それは当然のことと言えただろう。親よりも子が、その子よりもさらに強い子が産まれてくる。親同士の力を掛け合わせたものが、子の力となる。しかし器はあくまで一族が最初に創られた時のままなのだ。人やエルフに習って創られた彼らの体は、機能的には人やエルフよりも劣ってしまっている。いくら自然が支えてくれていても、その力に見合わない体にかかる負担は大きい。それでも、自然は人とエルフに対して彼らの仲介を望んだ。
こうして一族の限界が来るまで。
やがて姫も成長し、月姫に最後の時がやってきた。結局一族の選んだ結末に対する疑問には答えを出せずに、月姫は傍らに寄り添う陽王の手を握った。
「陽王……」
月は森中を照らしていたが、この建物の中まではその光は届かない。森の、自然の気を食べて生きている一族。
陽の光を命とする者達と、
月の光を命とする者達。
そして水の輝きを命とする者達。
最初の者達は攻撃的で、人間の男に近い。その中で陽王の称号を持つ者は『全てを制し、圧する力』を持つ。
次の者達は平和的で、人間の女に近い。攻撃に関する力を一切持たず優しげである。その中で月姫の称号を持つ者は『全てを癒し、守る力』を持つ。
最後の者達は先の二者達の常に中間にいる。水妃の称号は陽王と月姫の認めた者にのみ受け継がれるのである。
「……お別れだ、月姫」
陽王の搾り出した言葉に、月姫は哀しそうに頷いた。滅びを決めてから、何年の月日が過ぎたことだろう。まず一族は自然から気をもらい受けるのをやめた。最初にいなくなったのは月の者。そして水の者。水の者達は自ら水との接触を断った。最後は陽の者。彼らは月と水を見届け、その後に陽の光の届かぬ所へ行った。陽と月と水の長は一族全ての死を見届けてから、自然との気の交流を絶った。最初に死を迎えるのは月の者である月姫と決まっていた。
「私達は……正しかったのですか? あの子に全てを残して。あの子だけが苦しみを背負うことになるかも知れない」
月姫はその言葉を陽王に言いながら、同時に神に対しても問いかけていた。彼らを創った自然、それに向かって。
「正しいか、正しくないかはあの子が決めてくれる。一族全ての王、あの子の意志に従おう。月姫……苦しみだけをあの子に残したと思わないでくれ。むしろ俺達が苦しみを背負うのだよ。あの子には何も残さない」
陽王は月姫に口づけた。月姫はその口付けに応えると弱々しく陽王の手を握って言った。
「この服を、あの子に着せてあげて下さい。貴方の苦しみ、悲しみ……喜びが、全て…………私にも届くように……」
そうして最後の吐息を漏らして、ゆっくりと月姫は目を閉じた。その長い銀色の睫毛に、陽王はもう一度心を込めて口づけた。
「……愛しているよ。月姫……」
けれどその言葉に応える柔らかな声は、もうなかった。その日、陽王は愛した人の体が消えていくのを眺めながら、陽王として生まれて初めて涙を流した。
その静かな月姫の死から、何年の月日が流れただろうか。陽王も、広い円形のベッドに横になる日が多くなってきた。数日前に水妃の気が途切れたことを感知していた。とうとう、一族は二人になった。
残された者の役目……。
陽王はまだ、それを果たしていなかった。重くのしかかるのは、運命という言葉。すべての流れに従って、この世界は「生きて」いるのだろうか。月姫に似てきた子どもを呪縛するような言葉だけを残し、自分は死ねるのだろうかと、陽王は思った。
「……お父様……」
部屋で眠っているとばかり思っていた姫が、陽王の部屋へ遠慮がちに入ってきた。まだ大きい月姫のドレスを引きずって、戸口に立っている。
「……おいで、姫」
呼びかけると、嬉しそうに顔を輝かせ、小走りに駆け寄って来る。
「眠れないのか?」
尋ねるとコクンと頷く。陽王は布団をめくり、姫を中へ入れてやった。月姫が死んでから、姫が甘えることのできる相手は陽王ひとりだった。そしていずれはそのひとりの相手さえ失ってしまうのだ。
「姫……良く聞くんだ。大切なことだから。良いね」
言い聞かせるようにしてそういうと、姫は大きな紫の瞳で陽王を見上げ、やはりコクンと愛らしく頷いて見せた。
「私はもうすぐ死ぬ」
陽王のその一言で、大きな紫の瞳はもっと大きく見開かれた。明らかに傷ついた表情で、姫は叫んだ。
「お父様!」
それは姫に対する最大の裏切りだろう。民を知らないまま生まれた王。そしてその孤独な王は、母を失い、父を失おうとしている。引き止めるその姿はいじらしく、息が詰まりそうなほど愛しかった。
「すまない。せめて姫がこの森を出る、その時までは一緒にいてやりたかった。だが、私の役目は終わってしまう。それを取り戻すことはできないのだ」
月姫を生き返らせることができないように。
「私達は創られた存在だ。人ともエルフとも違う。自然に支配されながら、けれど私達は不自然に命を繋ぐことしかできなかった……。姫がひとりになってしまうことなど、もう何代も前から分かっていたことだ」
それでも、この最後の王を生み出してしまった。悲しい瞳をした小さな王を。
「私は、どうすればいいの? お父様」
「必ず時が動く。だからその時には南を目指して行くんだ。海の底に、私達の記憶が沈んでいる」
「……そこへ行けば、全て分かる?」
始まりの場所。そこで姫を、最後の王を待っているのは、自分よりも長く愛した月姫と離れなければならなかった人のはずだ。そしてその人も、全てを知っているわけではないはずだ。
「それは分からない。私達が生まれてきた理由、こうして姫を残していかなければいけない理由。姫の役目が何なのか……私には分からない」
けれど自分の役目は分かっている。この身に残った力の全てを与えて、せめて強すぎる力を少しでも抑えてやれるように。
「姫、君になら分かるだろう。君になら決められる。私達が生まれてきた理由、それがどういうものなのか。……泣かないでくれ。姫に泣かれると、私も辛い」
頬に触れると、それを振り払うようにして姫は首を振った。真珠のように丸い涙の雫が宙を舞う。
「ひとりでは決められない。お父様、一緒にいて」
「一緒にいる。見えなくても、月姫だってお前の側にいる」
例え姫が望んでいる形ではないと分かっていても、陽王はそう答えることしかできなかった。
願わくば、神になれなかったこの子の孤独に気付いてくれる誰かがいるように――。
その夜から一年後に陽王は死に、一人残された姫は森の中で、静かに時が動くのを待つ日々を過ごす。時を動かすのは、神の望んだ通りに人間と、エルフの二人の男だっ