Aconite
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――来なさい。
その言葉と共に手を差し出され、戸惑いながらもその手を握り返す。
冷たい。
いや、温かい。
――分からない。
この手の人が、誰だか分からない。
今日からここが、お前の家だ。
ぼんやりと、覚醒を促す女性の声が聞こえた。だがベッドの中の心地よさに、彼女はまだ当分の間身を任せるつもりだった。そんな彼女の肩を、女性は容赦なく揺すり、耳元で彼女の名前を呼ぶ。
「ジュリア様。お嬢様、起きて下さいませ」
ジュリアと呼ばれた少女は、唸り声を上げながら薄目を開けた。山吹色のカーテンが開かれているためか、白い光が目を突き刺してくる。あまりの眩しさに、彼女はまた目を瞑った。
「ん〜。もう少し……」
ごねて布団で頭を覆い、もうしばらく惰眠を貪ろうとしたのだが、紺色のスカートに白いエプロン、可愛らしい白のレースのリボンを頭に付けたこの家の召使い兼ジュリアの世話係のベティは、それを許そうとしなかった。布団を無理矢理引っ張り、ジュリアから引き剥がすと、腕を引いてジュリアの上体を起こさせた。
「ベティの意地悪。もう少しくらい良いじゃない」
眠気眼をこすりながらジュリアは最後の抵抗を試みたが、ベティはその間にもジュリアの服を用意し、髪を飾るリボンを選び出しながらいつも以上に急かす。
「何をおっしゃっていらっしゃるのですか! 急がないと旦那様がお帰りになりますよ」
そう言えば昔の夢を見たわ、と大して昔でもない半年前のことを思い出していた。結局あの時取った手は、冷たかったのか温かかったのか。そんなことをぼんやりと考えていたジュリアは、ついベティの言葉を聞き逃してしまった。
「え? 今、何て言ったの、ベティ」
ベッドから引きずり落とされて、ジュリアは急いで着替えさせられた。今日の服は彼女お気に入りの浅葱色のドレス。瞳の色と同じで、亜麻色の髪がよく映えるのだ。満足そうに微笑んで、姿見の前でくるりと後ろを向いてみたりする。後ろ姿も十分可愛い、とジュリアはベッドで渋っていたことも忘れて一気に上機嫌になった。
これから朝食をゆっくり摂れば、なかなかいい朝になるわ。
抜けるような青空を窓越しに眺めて、ジュリアはそう思った。
「あぁ! もう、お嬢様ったら。きちんと聞いて下さいな。旦那様の馬車が見えましたわ! 早く一階へ下りてお迎えしないと!」
ここまできてものんびりとしているジュリアに、ベティは地団太を踏みながらそう言った。ジュリアはこの時のベティの言葉が幽霊の声であったらよかった、と後に振り返ってからそう思った。今日は幽霊の声が聞こえるくらい調子が悪かったのだとか言って、苦しいながらも言い訳ができただろう。しかし実際には、ジュリアに幽霊の言葉を聞く能力はなかったし、この場でベティを幽霊にしてしまうわけにはいかなかった。
「嘘! 今日帰って来るんだったの?」
「昨日の夜にそう申し上げましたわ! とにかくお急ぎ下さい、お嬢様!」
言われるまでもなく、ジュリアは部屋を飛び出した。いつもは眺めの良い二階の部屋を自慢にしているのだが、こういう時は憎らしいとしか言いようがない。ドレスの裾を掴んで階段までひた走る。ベティが後ろから追いかけてくる足音が朝の廊下に響いた。
階段に着くと、踊るようにして階段を降りていく。この屋敷に来てからというもの、こういう緊急事態には慣れてしまっていて、ジュリアは踊り場で一度立ち止まると、ひらりと階段の手摺りに飛び乗った。腰掛けると、そのまま手摺りを滑り降りていく。ベティもこの光景には慣れたもので、お気をつけてと声をかけるだけで別段止めに入るようなことはしなかった。階段の終わりでジュリアは素早く手摺りから飛び降りる。ジュリアのスカートがふわりと舞い上がった。
馬の声がする。ジュリアとベティは息を整えようとして、そろって深呼吸した。それからめくれたスカートの裾を直し、顔を向き合わせて同時に片目を瞑って見せた。どうにか間に合ったらしい。屋敷の主人はまだ玄関の扉を開けてはいない。
馬車のドアが閉まる音がして、次いで重々しく玄関の扉が開かれた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
ベティがスカートの両端を持ち上げて恭しく一礼した。
旦那様と呼ばれるにはまだ若い男が、朝日を背にして入ってくる。特別な感慨もない様子で、男は手にした春物の上着を執事に渡す。純金の柔らかな髪と、露草色の瞳。すらりとした体に整った顔立ちは、等しく万人に与えられるというような代物ではなかった。
「朝食は如何致しますか? 旦那様」
初老の執事、アルスが尋ねた。
「部屋にお茶を。八時には王宮へ向かうから、そのつもりで準備をしておいてくれ」
「承知致しました」
声も良く通るテノール。これほどの美青年は女が放っておかないだろうに、二十八にもなってこの男は独身だった。それは、血縁でもない十四の女の子を引き取ったために遠慮しているのではないか、とジュリアは密かに気にしていた。しかし男がジュリアを引き取ったのはたかだか半年前のことで、それ以前に結婚していなかったというのだから、単に女嫌いなだけなのかもしれない。
「留守中、何か変わったことは?」
「いいえ、何も」
主人と執事は歩きながら会話して、段々と階段前のジュリアに近づいてくる。この瞬間がやけに緊張して、ジュリアは大嫌いだった。半年かけても、この言葉がぎこちない。それでも相手に促されてから言うのが嫌で、ジュリアは小さく呟くように声を出すのだ。
「……お帰りなさい」
上目遣いで相手を見て、決して笑わない。むしろ憮然とした表情でそう言うと、相手は困ったように苦笑する。
いつも同じね。
それでもしつこく、顔を上げて言いなさい、とか少しくらい笑いなさい、と言わないぶん気が楽だった。この屋敷に引き取られたとき、この男に突きつけられた条件の一つがこれだった。
私が外へ出て、帰ってきたときにはきちんと出迎えるように。
言う言葉は「お帰りなさい」だけで構わない。
他にも引き取るにあたっての条件はいくつかあった。先に述べたのが一つ。二つ目は朝の起床時間。七時に起きるというのが二つ目の条件だった。しかし、優しい家の者達は、主人が留守の間はジュリアが七時過ぎまで寝ていても起こさない。現に昨日は九時までたっぷりと寝ていた。就寝時間は特に決められてはいない。そして三つ目、これが最後の条件なのだが。
私の許可無しに屋敷の敷地内から出てはいけない。
というものだった。しかし、半年間の中で外出の許可が取れた試しは一度もない。つまりこの屋敷に来てからというもの、ジュリアは街へ出たことが一度もないのだ。一人で抜け出してやろうかと考えたこともあったが、この屋敷、何とも辺鄙な所に建てられており、家の使用人も全てこの家に寝泊まりしているくらいなのだ。小高い丘の上に建てられ、周りは森、下を川に囲まれた館から抜け出そうという気は、この半年ですっかり消えてしまった。訪ねてくる者も殆どおらず、ジュリアは一日中部屋で読書か、庭でベティと遊ぶという退屈な日々を繰り返していた。
きっと私が外に出たら、自分が恥をかくとでも思っているんだわ。
私は貴族ではないものね!
とにかく、第一条件は果たしたのだから、もうこの場に用はない。ジュリアは朝食を摂るべく早々にきびすを返した。
「待ちなさい、ジュリア」
呼びかけられ、後ろから両肩を掴まれたかと思うと、上から顔を覗き込まれた。子供扱いされているようで、又身長差を改めて思い知らされて、ジュリアは気分が悪かった。
「何よ、ちゃんと出迎えて挨拶したじゃあない」
それに対して困ったように苦笑するだけの相手の心情なんて、ジュリアには分からない。
悔しいけど、本当に顔は良いのよね、この男。
美麗な顔を近づけられて、思わず赤面してしまうのは女の性なのか。
「もう一つの条件を守っていないみたいだな。今日は何時に起きたんだ?」
ベティが後ろで肩を跳ね上げた。ジュリアは見ていなかったが、何となくこういう時のベティの反応は想像できた。
ベティは正直者だもの。
でも私は嘘をつくの上手よ。
そう、ジュリアは心の中で言ってやった。
「どうして? きちんと着替えて出てきたわ」
素知らぬ顔で服の裾を持ち上げて、上から覗き込む彼に見せつける。彼はそんなジュリアのふてぶてしい態度に、やはり困ったような笑みを返した。
「服を着替える時間だけか? 約束通り七時に起きていれば、髪を梳かす時間もあっただろうに」
はっとしてジュリアは自分の髪を掴んだ。
「寝癖が付いている。嘘をつくのなら、もう少し上手につきなさい、ジュリア」
彼はそっと頭の上に手を置いて寝癖を直すと、ジュリアの体から離れて後ろで畏まっているベティに声をかける。
「あまり、甘やかし過ぎないようにしなさい、ベティ」
何度も同じ事を言い聞かせているのだが、この屋敷の小さな女主人は使用人達に好かれていた。長い間彼しかこの屋敷の主人はおらず、半年前に連れてこられた小さな女主人は華やかな彩りをこの屋敷に添えてくれたのだ。
分かっているので、彼も強く咎めるようなことは言わない。深々と頭を下げるベティの横を通り抜け、先程ジュリアが滑り降りた階段を昇っていく。
嘘をつくのは上手だと自負していたジュリアだが、実はその嘘はどんなに小さなことだって彼に通じた試しがない。
本業はスパイか何かなんだわ!
二階へ消えていく彼の後ろ姿を、ジュリアは赤い舌を出して見送った。そして何事もなかったかのように朝食を摂りに食堂へ行く。朝の一悶着など、もはや日常だ。もっとも、悶着だと思っているのはジュリアだけかもしれないが。
食堂では執事のアルスがお茶の用意をしていた。主人に届けるためのものであろう。この屋敷の使用人は決して多い方ではない。それというのも、先代から仕えているというアルスが、館の雑務から主人の供、さらには庭の手入れまで全てこなしてしまうからなのだ。五十一歳、初老の執事はまだまだ健在である。
「お嬢様、朝食の準備は出来ておりますよ」
ジュリアに気付いたアルスは椅子を引いてくれる。縦長のテーブルにはジュリアの分の朝食がちょこんと用意されていた。
自分と養父とで生活の何もかもを行っていた半年前のことを考えてみると、ジュリアは一転してお姫様のような生活をしている。朝食は自分で用意しなくても、朝起きればこうやってテーブルに並べられているし、毎日お風呂にも入れて、何着もある服の中から好きなものを選べる。お嬢様、と本来はそんな呼ばれ方をされる身分ではないのに。
たった一人の家族であった養父を半年前に病気で失い、これからの生活のあてもなく途方に暮れていたジュリアはしかし、養父の知り合いだというミシェルに引き取られて今この屋敷に住んでいる。ミシェルは爵位こそ持たないものの、代々の広い土地と屋敷を所有する資産家だ。だからこそジュリアも、こうして働くこともなく優雅な生活を送れている。
だから外に出られない籠の中の鳥であっても、それで十分幸せなのかもしれない。外の恐ろしさを知らずに生きていける。同時に、外の楽しさも知ることはないのだけれど。
席について、ぼんやりとそんなことを考えながら食事をした。おかげでその日の朝食がおいしかったのか、メニューは何だったのか、覚えていない。ただ、ベティの入れてくれたお茶がジャスミンティーであったことだけは、その強い香りとともに覚えていた。
ジュリアが朝食を終えたのが八時。丁度彼が王宮へ出掛ける時間だった。たったの三十分、屋敷へ戻ってきただけでは落ち着かないだろうに、それでも彼は出掛けの時は七時半前には帰ろうとはせず、又夜中のうちに帰ってくることもしなかった。アルスの入れたお茶を飲み干すとすぐに、彼は出掛けの準備を整え、再び一階へ降りてきた。ジュリアは入れ違いになるように、二階の自室へ向かおうとしていた。出迎えは条件だったが、見送りは条件に入ってはいない。ジュリアは彼の脇を通り抜け、何も言わずに二階へ駆け上がっていった。
帰ってきたと思ったらすぐに王宮へ行くんだもの。たまには家でゆっくりすればいいのに。
しかしそれは彼の仕事で、養ってもらっている手前ジュリアは何も言えないでいた。
いつか……。
ジュリアは生活の面ではなに不自由ない生活を送りながら、それでも一日たりとも死んだ養父を思い出さない日はなかった。養父と暮らした、笑い溢れる日々を。
いつかパパみたいな人と結婚して、そうしたらこの家を出て行くわ。
どんなに豊かでも、ここに私の欲しいものはない。
私が一番欲しいのは、『家族』なんだから……。
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