Aconite
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彼の名前はミシェル=フォードといった。代々薬師を営んでいる家系で、腕の確かさを認められて王宮へ出入りしていた。先代が死に、彼が家を継いだのが十年前。うちの娘を嫁に、という月並みな言葉は多く掛けられているものの、どれも断り続けている。男が二十五を過ぎて結婚していないというのは、それこそ女に興味がないと言っているようなものだ。しかし、女に冷たいのかというとそうでもない。王宮では愛想良く多くの女性に接している。
運命の女神でも待っているのか。とにかく謎めいた雰囲気とその顔の美麗さ、物腰柔らかな仕草とその話し方によって多くの女性を魅了しているのだけは確かだ。たとえそれが故意に行った結果ではないとしても。
そんな彼が、半年前に一人の少女を家に引き取ったことは、王宮では全く知られていない。私的なことを訊かれるのを極端に嫌がる性格上、ジュリアのことも秘密にしているのか。それともジュリアが思っている通り、ジュリアのことを王宮に知られて、何らかの形で恥をかくのが嫌なのか。とにかくジュリアのことは国王にでさえひた隠しにしている。王宮でジュリアのことを知っているのは唯一、彼より二つ年下の友人であるこの国の一番若い将軍だった。友人と言うよりは腐れ縁で、ジュリアのことも教えたと言うより、たまたま屋敷に乗り込んできたその男に見られてしまっただけのことだ。彼にとっては不覚だったとしか言いようがない。口止めはしているので心配していないが、どういう訳かジュリアが懐いてしまい、その友人が屋敷にやってくる機会が多くなってしまった。一気に騒がしくなる屋敷に、彼は頭を抱えていた。子供の面倒を、なぜ一気に二人も見なければならないのか。
さて、ミシェルの住み、仕えている国の名はタルソス王国。存在する四つの大陸のうち第二大陸カルデアス中部の、海に突き出た半島を治めている国である。その領内には一つの大きな島も含まれている。彼の屋敷はどちらかというと内陸寄りで、王都は海寄りにあった。
蒼い空の下に白く輝く王城。彼は王城に着くと勝手知ったる我が家のように、迷いもなく広い城内を進んでいく。手にしているのは薬の入った木箱だけだ。途中出会った貴婦人方に軽く挨拶をしながら、真っ直ぐ国王の部屋へ向かう。時間は九時半。銀製の懐中時計で確認する。失礼になるような時間ではない。
「ミシェル、久しいな」
銀時計から目を上げると、ミシェルより先に国王の部屋に入りかけていた大柄の男が、手を軽く挙げて笑いかけてきた。ミシェルは優雅に一礼して返す。
「ご無沙汰しておりました、カルロス将軍」
「ご無沙汰か……城を空けていたのは儂の方だがな。お主は毎日王宮へ来ていたのであろう?」
六十になるこの男だが、歯を見せてニッと笑うとずっと若く見える。この国を守る五人の将軍の中で最も古参で、言うなれば将軍の中の大将。病気で亡くなった前の将軍の代わりとして一年前に将軍となったミシェルの友人は、将軍の中の下端である。
「いえ、ここ三日は薬の買い付けで留守にしておりました」
ミシェルの友人を将軍へ推したのが他ならぬこのカルロスであった。その点に関して、ミシェルはカルロスの目を疑っている。
「丁度良い。お主に薬を頼もうと思っていたところだ」
「……お体の具合でも?」
いやいや、とカルロスは苦笑しながら否定した。
「ある方に頼まれてな」
言いながらカルロスはノックもせずに国王の部屋の扉を開けた。
「ご機嫌伺いに参りましたぞ、陛下」
開口一番にそう言うと、カルロスは豪快に笑った。ミシェルはその後ろから控えめに入っていく。
「お主の笑い声のせいで気分は最悪だ、カルロス」
そう言いながら国王、ジョン三世もまた豪快に笑っていた。王は従者にマントを持ってこさせ、それを羽織ると従者を退室させた。
「薬の買い付けに行っておったそうだな、ミシェルよ」
ジョン王は将軍より、先にミシェルに話しかけた。
「はい。陛下のご病気の具合はいかがでしょうか」
「うむ、お主の薬のおかげですっかり治ったわ」
病気といっても単なる風邪である。しかし、一国の王の病気ともなれば風邪でも大騒ぎなのだ。ミシェルは夜中だというのに屋敷から呼び出され、王宮の医者は総動員であった。
「カルロス、お主の方はどうであった。薔薇姫の様子は?」
『薔薇姫』とは、聞いたこともない名前であった。王宮では確かに色々な通り名のようなものが使われているが、ミシェルはその名を聞いた覚えがない。これでも王宮内の情報には詳しい方なのだが、とミシェルは疑問に思った。しかしそれでも口を挟むことはできず、じっと黙って二人の会話を聞いていた。
「陛下に宜しくと。それと仕事ができそうなので、近いうちに王都へ参られるそうですぞ」
「仕事ができそう? 詳しいことは聞いておらんのか?」
「仕方ありませぬ。薔薇姫の仕事は全て姫の意志で、儂や陛下の権限ではどうにもなりませんからな」
二人のやり取りを聞きながら、ミシェルは頭の中で考えた。将軍はまだしも、国の者で国王の意志に従わなくて良い者がいるだろうか。王妃はなかなかの恐妻であると国王自身が言ってはいる。つまり彼女がその枠に入りそうだが、仕事ということに関しては違うように思われた。
「そう、その薔薇姫から言付けを賜りました」
「何?」
カルロスの言葉に、国王が嬉しそうに椅子から身を乗り出す。もしかして国王の愛妾だろうか。そうだとしたら、自分はあまりこの話には耳を貸さない方が良さそうだとミシェルは判断した。身分の高い者達の色事は、王宮内でのトラブルの元だ。
「残念ながら陛下ではなくてですな、ミシェル、薬の注文だそうだ」
先程第三者を決め込もうと考えたばかりだというのに、早くも自分に鉢が回ってきてミシェルは正直驚いた。だがよく思い出してみれば、将軍は先程も薬を頼みたいと言っていたではないか。
「お主の話をしたら、えらく興味を持たれてな。改めてお主に会ってから正式に注文なされるそうだが、できれば用意をしておいて欲しいということだそうだ」
将軍は懐を探って一枚の紙を取り出す。差し出されたそれをミシェルは受け取り、中身を確認した。綺麗だが他に特徴のない文字が、流れるように並ぶ。
日常的に使われている風邪の薬。外傷用の塗り薬。薬の名をそのまま指定してくるところからすると、どうやら先方も薬の知識があるようだ。さっと目を通した彼は、最後の注文に我が目を疑った。
トリカブト……。
何故こんな物を……。
その植物は美しい紫色の花を咲かせる。だがその根や茎葉、花には強い毒性があり、人に中毒を起こさせ死へと誘うことも可能である。こうした植物の中には毒性を利用して薬として使用するできる植物もあり、トリカブトもその種ではある。しかし一般の人間が使用するようなものではない。薬として注文したからには花を愛でたいということでは勿論ないのであろう。薬の知識を持っているのなら尚更のことである。
「どうしたミシェル。揃えられない物があったか?」
「あ……いえ。ただ少々時間がかかる物がございますので、申し訳ありませぬがここで失礼させていただきます」
言えようもない不安を感じて、ミシェルは退室するとすぐに待たせていた馬車に乗り込んだ。急いで屋敷に帰るように指示し、馬車の中でもう一度薔薇姫と呼ばれる人物の書いた紙を広げてみた。美しく流れるような文字は変わらない。よく見れば紙には薔薇模様の透かしが入っていた。質のよさそうな紙に書かれた薬の名で、一つだけ異質な最後の注文。
……半年が限度だったのか?
ミシェルは懐に隠し持っている三本のナイフを、服の上から探った。暗い影が、いつも彼を追っていた。限界だったのは、彼の精神だったのだろうか。
こんな薬一つで、心を乱されるなんて……。
ミシェルは舌打ちした。どうかしているのだ。いつも背中合わせにいる黒い影に、怯えすぎている。ミシェルはそう分析し、不安を振り払おうとしたが、無駄だった。目を閉じると、真っ赤な薔薇が頭の中に広がった。それは見たことのある血溜まりを連想させるイメージだった。こみ上げてくる嫌悪感をどうすることもできずに、それでも馬車は屋敷へとただ進むだけだった。
ミシェルが帰ると、出迎えたのはアルスとベティだけだった。予定よりも早い主人の帰りに、出迎えた二人も困惑気味である。
「ジュリアは?」
しまった、と口から出かけた言葉をベティは呑み込み、そのかわりに口元を両手で塞いだ。ジュリアの言う通り、ベティは正直者だ。アルスが微笑むと、ミシェルも自然に苦笑していた。先程の不安や嫌悪感が、少し薄らぐ。こんな日常が、それをもたらしてくれるこの家が、彼は好きだった。
「私が予定よりも早かったせいだ。今日は構わないよ、ベティ」
優しい主人の言葉に胸をなで下ろし、まだ結婚前のベティは、ミシェルの微かな笑顔に頬を桃色に染めた。主人がこうして穏やかな笑顔を見せるようになったのも、ジュリアが来てからの事である。ベティが仕えるようになってから三年。彼女は今年で十九になるが、優しくても表情のあまり無かった主人が、少しずつ変わり始めているのを見て嬉しく思っている。
「旦那様。先程ルイス様がお見えになりまして……」
アルスの言葉に、ミシェルはすぐに顔を顰めた。
「ルイスが? ……ジュリアと一緒か……。庭にいるな?」
「お呼び致しましょうか?」
ミシェルは手を振った。
「私が行こう。部屋にお茶を。それと昼食も部屋に持ってきてくれ」
手にしていた手紙を懐にしまい、ミシェルは庭に出て行った。
屋敷の庭には元々この土地に自生していた植物の他に、ミシェルが植えた植物と先代の妻、つまり彼の母親が植えた植物とが入り交じっていた。ミシェルはこの場所を庭というよりも薬草園として扱っているため、一般に庭園と呼ばれるような均整のとれた造りにはなっていない。今はアプリコットの花が終わりを迎え、実がなり始める時期だ。種を薬として使用するためにミシェルが植えた物である。アルスの手入れのおかげで実をつけるまで大きくなったアプリコットの下に、ルイスが立っていた。張りのある声が、ミシェルの耳にも届く。
「ジュリアちゃんは良いなぁ。この木に登れるくらい軽くて」
……木に、登るだって?
耳に入ったルイスの言葉に、ミシェルの眉がつりあがる。そのルイスの視線は上に向いていた。木の隙間から見えるのは、今朝も目にした浅葱色のスカート。ミシェルはやっと状況を理解し、急いで駆け寄った。二人は彼の姿に気付いていないようで、悪戯っ子のように笑いながら会話を続けていた。
「そうね。ルイスが乗ったら枝が折れちゃうわ」
ころころと笑うジュリアの手にはアプリコットの実が握られていた。よく見ると、ルイスも一つ手にしているではないか。
「ジュリア! このおてんば娘が! 庭の物には手をつけるなと言っておいただろう」
「ミシェル!」
嘘でしょ、とジュリアは小さく漏らした。
いつもは四時に帰ってくるのに!
驚いたのはジュリアだけでは無かった。ルイスも子供のように罰の悪そうな顔をしている。なぜなら自分もアプリコットの実を一つ手にしているのだから。
「ミシェル、俺がジュリアちゃんに採ってくれるように頼んだんだ。ほら、もう熟れていたし、腹が減った……から……」
ジュリアを庇うように口を開いたルイスは、ミシェルに睨まれて語尾を濁した。熟れていたというのはすぐに分かる嘘だ。まだ熟れるには時期が早すぎる。そのことを庭の主人が知らないわけもない。
「何の用だ。ルイス」
答えを渋るルイスを一瞥すると、ミシェルはジュリアに向かって両手を差し伸べた。
「降りてきなさい。ジュリア」
「い・や・よ! どうせ私はおてんばだもの!」
小さな口を人差し指で両側に引き、ジュリアは彼に白い歯をむき出した。ミシェルも先程の不安が手伝って少し取り乱してしまったことを反省した。しかし、女という生き物は子供も大人も多少の事でへそを曲げる。嫌いなわけではないのだが、苦手なのは確かだ。
「言い過ぎた。さっきの言葉は私がいけなかったな。とにかく降りてきなさい」
本当に謝っているのかしら。高慢な男ね!
まだ不機嫌そうに頬を膨らませながら、ジュリアは差し出された手に従って木を降り、ミシェルに抱えられた。手にはしっかりとアプリコットの実を握りしめている。まだ熟すには早い実の柔らかに甘い香りが、ミシェルの鼻を刺激した。その様子を見ていたルイスは思った。
結構甘いよな、ミシェルも。
ルイスは此処に来る度に、ミシェルにジュリアを甘やかすなと言われているのだが、彼に言わせればミシェルも十分甘い。まぁ、十四の娘を持つにはミシェルは若すぎるし、姉妹もいなければ妻もいないのだ。年の離れた妹に対するようについ甘くなってしまっても、それは仕方がないのかもしれない。屋敷から出さないという奇妙な方針だけは、ルイスもミシェルにさんざん抗議しているのだが、未だに取り合ってくれないでいる。
「そういえば、ルイスの用事は何だったの? 私に会いに来てくれただけ?」
大人の女に言われたらくらりとくるような言葉も、ジュリアが言うと微笑ましい。勿論だよ、と言いかけてルイスは詰まった。ジュリアを抱えたままのミシェルの視線が痛い。台詞が読まれているらしい。観念したルイスは本当のところを打ち明けた。
「いや〜。実は、二日酔いの薬が切れて……」
「……薬は一週間前に七日分調合してやったはずだぞ」
今度はジュリアも加わり、二人の視線がルイスを刺した。
「毎日二日酔いだなんて、お酒は少しにしておかないと体に毒よ」
十二も歳の離れた少女に言われてはルイスも立つ瀬がない。茶色の髪で飾られた頭を掻くだけだ。
「どうやら薬は出さない方が良いようだな、ルイス。薬で治してしまうからまた飲むのだろう」
ミシェルは苦笑して言った。
「飲まないとやっていられないんだって……。ミシェル、聞いてくれよ」
ルイスは哀願したが、ミシェルはさっと背を向けて屋敷へ戻り始めた。
「あ! おい、ミシェル」
「聞いてやるよ。だが昼食を摂ってからでも良いだろう」
ジュリアはミシェルに抱えられたまま、後ろから追ってくるルイスに手を振って笑った。
「ルイス! お昼は一緒に食べましょう。私がお茶を淹れてあげるわ」
ルイスはニッと破顔して手を振り返した。
「ミシェル、下ろして。どうせ貴方はお部屋で食べるのでしょ?」
ミシェルは苦笑してジュリアを下ろした。身を少しかがめた時、胸にしまっていた手紙が抜け落ちた。封筒にも入っていない二つ折りのその手紙を、ミシェルよりも先にジュリアが拾った。紙の隙間から覗いていた美しい字に、ジュリアは敏感に反応した。
女の人だわ!
胸にしまって大切にしているなんて、恋人からかもしれない!
好奇心からジュリアが手紙を開こうとすると、ミシェルがそっとその手を止めた。
「薬の注文書だ。見ても面白い物じゃあない」
「でも、見ても構わないでしょ、私だって薬の勉強したいもの」
何でもないと言うのなら、見せてくれるでしょうね、ミシェル。
そう心の中で言って、ジュリアは挑戦的にミシェルを見つめてみせた。答えを待つほんの少しの間に、ジュリアの胸は急激に高鳴った。ミシェルがなんと答えるのか。その口元をじっと見つめる。聞きたいけれど、同時に何故か耳を塞ぎたいという衝動に駆られもした。やがてゆっくりと、ミシェルの口が開く。
「……良いだろう。見てみなさい」
ほっ、とジュリアは息をついた。そして手紙を広げてみる。追いついてきたルイスもジュリアの後ろから覗き込んだ。紙には確かに女性の筆跡で、薬の名が簡潔に示されていた。死んだ義父が医者であったため、ジュリアも薬には多少の心得があった。書かれた薬はどれもありふれた物で、さほど珍しい物はない。しかしジュリアは最後の一行に一つだけ、他とは異質と思われる名前を見つけた。
「ミシェル……これ、トリカブトって毒草でしょう?」
「良く知っているね、ジュリアちゃん」
首を傾げ、手を組んでいるルイスを見上げてジュリアは説明した。
「花言葉の本に載っていたの。美しい輝きっていう花言葉なんだけど、毒草だって書いてあったから……何だか怖いなって……」
その花言葉が、毒々しさをより強調しているようだった。それを知ったミシェルの心の中に、更に暗く重い雲がかかる。
「……ジュリア、トリカブトは確かに毒草だが、薬としても使用できるのだよ。そういう植物はたくさんある」
自身を慰めるようにして、ミシェルはジュリアの頭を撫でた。暗く、固まったミシェルの表情に気付いたのはジュリアではなく、ルイスの方だった。
「ルイス、昼食を摂ったら私の部屋に来い。話を聞いてやる」
妙に高圧的な余裕のない言い方に、むしろ話を聞くのは自分の方なのではないかと思いながらもルイスは頷いた。
あいつ、ジュリアちゃんが来てから変わったよな。
それは良い意味でも、悪い意味でもだった。表情の変化は顕著だった。それはとても良いことだと、ルイスは思っている。しかし、ミシェルはジュリアを引き取ってから、一段と秘密主義になった。元々何でも話せる親友という間柄では無かったし、ルイスの方が一方的に自分の秘密を打ち明けていただけなのだから、ミシェルにとってはただ邪魔な存在なのかもしれなかった。しかし屋敷への出入りが許されている同年の男は、仕事の客以外ではルイスだけだ。その点では、もう少し近づかせてくれても良いのではないかと、正直思う。
ジュリアちゃんの事なら、俺だって力になれると思うけどなぁ。
成り立てではあるが、ルイスもこの国の将軍なのだから。
「ルイス、お昼食べに行きましょう」
昼の日差しの下、ジュリアの笑顔が眩しい。どうやら男の心配をしているよりも女の心配をしている方が性にあっているらしい。ルイスは先程までは真剣に悩んでいたミシェルのことをすっかり放棄した。
十二歳違いならお嫁にもらえないこともないし、やっぱり可愛いしな、ジュリアちゃん。
「何? どうしたの、ルイス。楽しそう」
「ん? 何でもないよ。ジュリアちゃんと食事できるのが嬉しいだけ」
王宮での悩み事を吹き飛ばしてくれる。ジュリアはルイスの天使だった。無口でつれない友人が、彼女を家に引き取ってくれた事を、ルイスは心から感謝しているのだ。