Aconite

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 ミシェルの部屋は薬や医学の本でいっぱいだった。しかし、几帳面な性格らしく、本棚も机もいつもきちんと整理されていた。昼食を摂り終わり、ミシェルは椅子に腰掛けてくつろいでいた。手にしているのは一冊の本。皮でカバーしてあるその本は、ミシェルが一番大切にしている本だった。ミシェルの恩師、そしてジュリアの義父でもあった高名な医師が記した本だ。

 師の名前はヘンリー=スタンス。隣国のムアストレイ出身の者であった。ヘンリーはムアストレイの学校で医学を教える傍ら、貧しい人々のために無料で診療していた。何年かの周期で国を離れ、他国の人々の世話をすることもあったので、その名は大陸中に広まった。

 ヘンリーがタルソスへやってきたのは今から十年前のことであった。その時はまだジュリアに出会ってはおらず、妻もいなかったヘンリーは気ままな一人旅であった。当時四十歳であったヘンリーは放浪癖が強く、国内においても二日と同じ町には留まらなかった。しかし名の知られていたヘンリーが王宮に招かれぬはずもなく、王の使いに渋々従って王都へ入った。ここでもあまり長居したくなかったヘンリーは、自身としては我慢したつもりで四日間王都に滞在した。

 彼には分かっていたのだ。自分を必要とする人達は、どの王宮にもいないことを。彼を必要としているのは貧しい村や町の人々。満足に医者にもかかれず、日々の暮らしもままならない人達。そういう人達は多くいるのだ。だからどんな土地にも出向き、自分はまだまだ学ぶべきなのだと彼は思っていた。華やかで、満たされた王宮は、彼のいるべき所では無かったのだ。

 ヘンリーは五日目に、王宮を去る準備をしていた。薬と医療用具以外、荷物らしい荷物はなかったので、準備はすぐに整った。引き留めるための数々の言葉をかわし、いざ王宮を出ようとした時、彼の前に突然一人の男が現れ、膝を付き、頭を下げた。見たことのないその男は、髪がやや乱れているものの身なりはきちんとしていて、どこかの貴族家の使用人のようであった。突然目の前で土下座をされて、彼は言葉も出なかった。しかし、彼は自分が必要とされている事に、一瞬で気が付いた。

「お立ち下さい。一体私に何の御用ですか?」

 ヘンリーの呼びかけに頭を上げはしたものの、男は立とうとしない。白髪の混じった同年代の男性は、ヘンリーの言葉を聞くと、又深々と頭を下げた。

「どうか屋敷へおいで下さい。旦那様を……助けて下さい」

 悲痛な叫びにヘンリーは応えた。

「私に助けを求めたということは、貴方のご主人様はご病気なのですか? それとも、何処か怪我をなされたのですか?」
「……両方でございます」

 震える声に、ヘンリーは老いた老人の姿を見た。

「それは大変だ。すぐに参りましょう。怪我の場所は分かりますか?」

 男の腕を引っ張って立たせ、汚れた膝を叩いてやる。屈んだヘンリーの頭に何かが落ちた。顔を上げると、男の涙が彼の頬に落ち、涙は彼の頬を伝い落ちた。

「旦那様は心に深い傷を負われました。……心の病気なのです。どうか、どうか先生のお力で旦那様を救って差し上げて下さい」

 この時、ヘンリーは強い衝撃を受けた。長年各国を周り多くの人々の傷や病を治してきた彼ではあったが、心の治療を頼まれたことはただの一度もなかった。彼自身、病気や傷の具合が当人の気持ちによって大きく左右されることに興味関心を寄せてはいたものの、薬や技術だけでは治らぬ心という分野には今ひとつ足を踏み出せないでいたのだった。

 しかし、この人はいま私を必要としている。
 それに応えることが、私の信念ではないのか?

 ヘンリーは正直に、自分が今まで心の治療をしたことが無いということを話した。もしもそれでも良いというのなら、屋敷へ連れていってくれないか、と。

 男は喜んでそれに応じた。魔法や魔術が昔話となり、医学や薬学が発生して間もないこの世界で、まだ誰も試みていないであろう心の治療。踏み出した足を引き戻す事は出来ない。そしてヘンリーは引き返すつもりは無かった。医者として、患者を診なければいけなかったのだ。

 馬車の中でヘンリーは男に事情を聞くことにした。男の名はアルス。フォード家という貴族の家に仕えているらしい。アルスが語るには、フォード家というのは代々薬師を営む家柄らしい。彼の同業者に近い。その当主というのが、十八歳の青年だというのだ。先代はつい最近落馬事故で死に、一人息子であった青年が家を継いだばかりらしい。

 青年の母親がフォード家の人間で、父親は婿養子であった。青年の祖父母が生きていた頃、二人の夫婦仲はとても良く、息子も順調に出産した。しかし、祖父母が他界すると、婿はその本性を現し始めた。元々賭事や女遊びが好きだったらしく、結婚もフォード家の財産が目当てだったのだ。薬師の仕事を放棄し、あまり明るい性格でなかった妻を家に残して毎日のように街へ繰り出し、娼婦屋入り浸った。家へ帰ってくることは無くなった。残された妻は悲嘆に暮れ、部屋へ閉じこもり、泣き続けるだけだった。息子はそんな中で成長し、毎日泣く母を慰めるために、庭の花を摘み、母の部屋へと通った。少しずつ母が狂い始めているのに気付きながらも、元気な母の姿を見たいという思いだけで、少年は母の側に居続けた。

 事件が起きたのは、少年が十五の時であった。アルスが女主人の様子を見に部屋へ行くと、扉には鍵がかかっている。中で何が起きてもすぐに入れるようにと、部屋の鍵はいつも開けていたのに。そして普段女主人は椅子から動かない。すぐにアルスは合い鍵を持ち出し、部屋の扉を開けた。中では母と子が倒れていた。母は自らの喉に燭台を突き刺し、果てていた。おびただしい血が、床に落ちている。アルスはすぐに他の者達を呼んだ。明らかに絶命している母の、横に倒れる少年の体を抱き起こしてみた。母のように出血はしていない。口元に耳をあてると、微かに息をしていた。すぐに医者が呼ばれ、少年は命を取りとめた。何日間か眠った後、目を覚ました少年は、すぐさまアルスに母の事を尋ねた。アルスには何も答えることが出来なかった。だがそれで全てを悟った少年は、黙ったままのアルスに言った。

『僕は何も言わない。だからアルス、お前も何も訊かないでいてくれ』

 少年の心は深く傷ついた。しかし、更に追い打ちを掛けるようにして、父親が女を連れて屋敷へ戻ってきた。代わる代わる女を連れ帰ってきては酒を飲み、とうとう屋敷の中で仲間達とギャンブルをし始めた。すでに少年期を終えようとしていた息子は我慢が出来ずに、父親を殴り飛ばすと屋敷を飛び出していった。

 それ以来、父親がいる時には息子は屋敷へ帰らず、息子がいる時父親は屋敷へ帰らないという奇妙なすれ違いが続いた。二人を和解させるのは到底無理なことで、結局父親の落馬事故によって、息子が屋敷の主となった。しかし、良い思い出のない屋敷。青年はあまり帰らなかった。ふらふらと一言もなく出かけ、何処で何をしているのか、二・三日、長い時には二週間も戻らない。このままではいけないと、アルスはヘンリーに助けを求めに来たのだ。幸い青年は、家業である薬に関しては興味を持っているということだった。

 何も訊かずとも、アルスはあの日女主人の部屋で何があったのか理解していた。少年が母を殺すはずもなく、母はどう見ても自殺だった。一緒に倒れていた少年に何があったのか、ヘンリーも話の中で悟ったので、あえてアルスを追及しようとはしなかった。

 アルスに連れられて屋敷に着いた時、青年は家にはいなかった。ヘンリーはまず青年と話をするための材料が見つけたくて、アルスに頼んで青年の部屋を見せてもらうことにした。屋敷に居着いていないためか、部屋には生活感というものがなく、整えられた部屋はそれとは反対にちぐはぐな印象をヘンリーに与えた。整理された本棚から、本が一冊だけ抜き落とされて青年の机に置かれていた。やけに見慣れた本の表紙。ヘンリーはその本を手に取った。新しい割に、手垢の付いたページ。短期間の内に何度も読み込まれた様子がうかがえた。ページの間に挟まれた紙には、いろいろな走り書きがされていた。その本に対する批判と付け足し、そして賞賛の言葉も。彼は思わずその走り書きを読むのに夢中になってしまった。見慣れた本は、彼の書いた物だったのだ。薬草の種類と効能についての本だった。彼独自で研究した物が多く、なかなか自信があったのだが、少年の走り書きにある言葉はどれも最もなものが多かった。研究してまとめ上げるのは容易ではない。しかし、多くの人に薬のことを知って欲しくてヘンリーは本にまとめたのだ。

 実際にはヘンリーほど深い知識のない人が読むものとしては、難しい表現が多かったようだ。『よく分からない』『もっと詳しく知りたい』という殴り書きが、彼の材料としてふさわしく思えた。

「誰だ。勝手に部屋に入るなと言っておいただろう」

 部屋に響いた若い張りのある声には、当主の威厳がもう備わっていた。しかし顔はやはり幼さが残っている。此処まで来たからにはこの青年はもはやヘンリーの患者であり、生徒だった。自分が呼んだのではないなどと言わせるつもりは、ヘンリーにはなかった。アルスの憔悴した様子。同年代のヘンリーとしては痛々しく思えた。まずは彼を助けてあげたいと心から思った。それには、まずこの青年をこの家の当主としてふさわしく教育するべきだ。その過程で、必ずこの青年の心の傷にも当たるだろう。それを少しずつ、治療していこうとヘンリーは思った。

「痛烈な批判をどうもありがとう」

 ヘンリーは著書を軽く挙げ、青年に見せた。何も言い返してこない。第一声はなかなか上出来だ。

「ヘンリー=スタンス。この本の著者だ。今日から君の家庭教師になることにしたよ。宜しく、ミシェル君」

 ヘンリーは片手を差し出した。そのまま、しばらく青年と向き合っていたが、手を差し出してこない相手に苦笑し、自ら青年の手を取った。

「薬の勉強がしたくはないかい? 君は頭の良い子だ。きっとすぐに私の知識を呑み込んでしまうだろう。それまで付き合ってくれれば良いだけだよ」

 彼は青年の手を握って軽く上下に振った。握り返してはこないものの、手を振り払うこともしないので、ヘンリーは満足そうに笑った。

 それからヘンリーは何と一年間もミシェルの元に留まった。ミシェルはヘンリーの教えることをすぐに理解し、呑み込み吸収してしまい、一年で教えることはなくなってしまった。大分打ち解けて話すことも出来るようになり、ミシェルはヘンリーの望み通り、フォード家の当主としてふさわしい青年になった。アルスも、家を空けることの無くなった主人に安心し、以前の憔悴した顔は笑顔に変わっていた。教師としての仕事を終えたヘンリーは患者としてのミシェルを診ようとしたが、それがとても難しいことだと知ると、長期の治療に切り替え、自分はまた放浪の旅へ出ていき、手紙でのやりとりが始まった。ミシェルは薬師として自立した分だけ、過去の記憶を封印したいという気持ちが強まっていたのかもしれない。表面上は、心の傷など誰にも悟られることなく過ごしていけるであろう。だがあくまで、表面上だけのことだ。

 ヘンリーは分かっていた。過去を他人にさらけ出す事が出来れば、ミシェルは今よりも大きく成長できる。しかし、結局その心の枷を外すことなく、ヘンリーは半年前に死を迎えた。

 ミシェルは古くなった本を、今も大切に持っている。やりとりした手紙もすべて。そして、今もその心に枷をはめたまま、とれないでいるのだ。

「ミシェル、入るぜ」

 ノック音とほぼ同時に扉を開け、ルイスが部屋に入ってきた。ジュリアとの昼食を終えたようだ。彼は手にした本を棚にしまい、ルイスに席に座るように促した。

「それで? 何の話があるんだ、ミシェル」

 お茶をつごうとしていたミシェルの手が止まった。

「……話があると言ったのは、確かお前だったと思うが」

 一度止めた手をまた動かして、ミシェルは二人分のお茶を注ぎ、鈴蘭の花が描かれたカップの片方をルイスへ渡した。

「俺のことより、お前のことの方が深刻そうだからな」

 ミシェルは何も答えなかった。ただ、自分で淹れたお茶をゆっくりと口に運ぶだけだった。

「ジュリアちゃんのことだろ? いい加減隠すのは止めろよ! 話してくれれば、俺だって力になれる時が来るかもしれないだろ?」

 彼は重い口を開いた。

「……私は、今のところ屋敷の者以外を信じる気にはなれない」
「何だって!」

 ただ煙たがられているならまだしも、自分は彼の敵だったのかと思うと、ルイスは胸が熱くなった。頭にも血が昇り始めて、ミシェルを殴り飛ばそうとする腕を必死に抑えた。

 少なくとも十年は付き合ってる奴に言うことか?

 暴れてやりたい、とルイスは思った。他人の家でなければすぐにでもそうしていただろう。ルイスの心中を察しているくせに、ミシェルはそれを無視して更に火を付けるような言葉を口にした。

「……色事はお前の十八番だな、ルイス」
「手前! 殺してやる! 覚悟しろよ、すかし野郎め!」

 椅子から立ち上がったルイスを、ミシェルは軽く手で制する。

「人の話は最後まで聞くべきだぞ。ルイス、国王に愛妾がいるという話を聞いたことはないか?」

 先程信じる気は無いと言っておきながら、彼はルイスに情報提供を促している。それがミシェルのやり方だ。ルイスの怒りは一気に引っ込む。そういうやりとりを知り合ってからずっと繰り返していたのだ。

「……いや、王妃様が怖くて、外に女は作っていないと思うぜ」
「カルロス将軍には? しばらく城を空けていたが、あれは何の用事だったんだ?」
「あれはキプロス島の警備軍に見回りに行っていたんだろ。将軍に女はいないぜ。時々娼婦屋に通うくらいで、別に贔屓にしている女がいるわけでもないしな」

 キプロス島へ行っていたのか……。

 これは一つ新しい情報が手に入った。まだ役立つものかは分からないけれど。

「間違いはないな?」
「色事は俺の十八番なんだろ?」

 ニヤリと笑ったルイスに、その通りだ、とミシェルも笑った。

「それではもう一つ。薔薇姫という人物に心当たりは?」
「薔薇姫?」

 今度の問いには、ルイスは長いこと考え込んでいた。やがて妙にまじめ腐った調子で椅子に座り直した。

「俺はつくづくお人好しだと思うぜ、ミシェル」

 ミシェルもようやくルイスの向かいに腰を下ろすことが出来た。

「今更嘆くことでもないだろう」
「いいか? 俺はお前を信じるからな。今から言うことは絶対に口外するなよ。国王と宰相、それと俺達五人の将軍しか知らないことで、お前に話したって知れただけで俺の首が飛ぶんだからな」

 話の重大さに驚きながら、ミシェルはそれでも笑って見せた。

「安心しろ、お前と心中する気はない」
「当たり前だ! 誰が好きこのんで野郎と心中するか!」

 思わず叫んでしまってから、ルイスは一つわざとらしい咳をした。真面目な話だったはずなのに、調子が狂う。

「白薔薇というのが何だかは、お前も知っているな」
「国王直属の暗殺者……だろう?」

 彼は暗殺者という言葉を口にしただけで、背筋に悪寒が走った。

「白薔薇家の正体は、さっき言った人達しか知らない。だが、あえてお前には教えてやるよ。お前も一・二度は見たことがあると思うが、国王の親類として出入りしているエアー家が白薔薇家と呼ばれる暗殺一族だ」

 確かに、国王に謁見した折りに何度か目にしている。

「では当主はニックス=エアーなのか?」
「あぁ、そうだ」

 しかし、ニックスは男で、薔薇姫と呼ばれる理由がない。一族の中の女がそう呼ばれているのだとしたら、ミシェルには誰なのか分からない。面識があるのはニックスと、その弟のウィルヘルムだけだ。しかしそんな身近に暗殺者がいたとは、ミシェルは正直思っていなかった。

「白薔薇家の現当主はお前も知っているように男だ。だからお前の言う薔薇姫という人物とは別人だと思う。可能性として考えられるのは白薔薇家の女性か、それともう一つ、赤薔薇が女性だったら、薔薇姫と呼ばれてもおかしくないだろう」
「赤……薔薇……?」
「赤薔薇は白薔薇のように存在を知られていないんだ。お前も聞いたのは初めてだろう?」

 ミシェルはゆっくり頷いた。

「俺も去年将軍になった時に初めて聞かされたよ。でも、俺も顔までは知らないんだ。知っているのは国王とカルロス将軍だけだと思う」
「……その、赤薔薇というのは白薔薇とどう違うんだ。例えば……赤薔薇は国王の制約を受けない……とか」

 ミシェルの声は震えていた。心の中にあるのが恐怖なのか、それとも怒りなのかはミシェルにも分からなかった。ただ、胸の奥で何かが悪い虫のようにうずいている。

「驚いたな、ミシェル。その通りだぜ。赤薔薇は国王の制約を一切受けずに、当主のみが単独で行動するんだ。しかも白薔薇が殺す相手は不特定多数だが、赤薔薇はある一部の人間しか殺さない」

「……それは?」
「同業者だ。赤薔薇は『暗殺者を暗殺する』ためにいるんだよ。ぞっとしない話だけどな」

 殺してくれる……。
 暗殺者を?

 ミシェルはルイスに気付かれないようにさっと額の汗を拭った。

 これは、甘えだ。

 ミシェルは死んだ師を思った。誰からも頼りにされている人だったが、ヘンリー自身が頼っていたのはただ一人だけだった。

 ジュリア……。

 隠れるのはもうよそう、とミシェルは思った。今まではジュリアを屋敷から出させなかったが、女ならばもう結婚相手を見つけても良い歳なのだ。こんなことは、早く終わらせてやらなければ。

「しかし、薔薇姫って人が、どうかしたのか」
「……ルイス、ジュリアは王宮に行きたがっていたか?」

 いきなり話を切り替えられたことに不自然さを覚えたルイスだが、おそらく追及しても答えないだろうと思い、ミシェルの話に乗った。ミシェルは、そういう男なのだ。

「何度も言っているだろうが、屋敷の外へ出たがっているって。お前、聞きもしなかっただろう」

 そうだったな、と不自然にミシェルは笑った。

「夏に王妃の誕生祭があるだろう。そこにジュリアを連れて行こうと思うのだが、面倒をみられるか?」

 天変地異の前触れか、とルイスは思った。今までは街へ連れ出すのはおろか、近くの山までちょっとした遠乗りに連れて行くことさえ断固として許可しなかったではないか。

「そりゃ……お前が良いって言うのなら、俺は大歓迎だけど……。エスコートすれば良いんだろ?」
「……まぁ、そういうことだ。ジュリアにはまだ言うなよ。浮かれて何をするか分からないからな」

 冷めかけた紅茶をすべて飲み干すと、乾いた喉に浸み渡っていくのが分かった。

 薬をもらいに来たことをすっかり忘れたのか、ルイスは夕食までちゃっかりといただいてから自分の屋敷へ戻った。夜空は月と星とに彩られてはいなかった。暗く重い雲が空を覆っていて、雨が降りそうな気配を感じ、ルイスは早々に馬を駆って行った。

 やがて湿った風と共に、雨が降り出した。屋敷の明かりが消える頃には、外は雷鳴が轟く嵐になっていた。明るい夕方の食卓は何処へ行ったのか、暗くなった屋敷は時折雷の光に白く照らされた。

 どうしよう……やっぱり眠れないわ……。

 自分の部屋で、ジュリアは布団を被りながら雷に怯えていた。強い風の音と混じって光り、吠える雷が恐ろしくて堪らなかった。半分泣きそうになりながら、ジュリアは枕を抱えてベッドから飛び出した。裸足のまま部屋を出て、一階にあるベティの部屋へと走っていく。

 一緒に寝かせてもらおう。

 風が窓を揺らす音にビクビクしながら、ジュリアは走った。長く続く廊下。義父が生きていた頃はもっとずっと小さな家に住み、寝る時も義父が側にいてくれたので怖くなかった。ところがどうだろう。この屋敷の一部屋が、前に住んでいた家と同じくらいの大きさで、その中にジュリアは一人きりで寝ているのだ。月の出ている夜は静かで好きだったが、こんな嵐の日に一人で寝るのは今日が初めてだった。

 やっと階段に辿り着いたジュリアであったが、すぐ近くの部屋から明かりがもれているのに気付いて足を止めた。

 ミシェルの部屋だわ……。

 もうすぐ十二時を回る。そんな時間まで、彼は起きているのだろうか。ジュリアは部屋に近づいてみた。ジュリアの影を廊下に映して、ゆらゆらと明かりが揺れる。扉の隙間から、ジュリアは中を覗いた。部屋の中ではミシェルが机の前に立って、嵐で荒れる外を眺めていた。その後姿が強い光に照らされたと思った次の瞬間、光を追うようにして響いた雷鳴のすさまじさに、ジュリアは思わず叫んだ。

 抱えていた枕を落として目を瞑る。廊下に座り込んだジュリアの耳に、静かな低い声が届いた。

「……ジュリア……?」

 悲鳴を聞いて扉を開けたミシェルは、廊下に座り込み涙目になったジュリアを見つけた。ネグリジェ姿のジュリアは、ミシェルと目が合うと、慌てて目元を擦った。

「……雷が怖くて、眠れなかったのか?」

 馬鹿にされた、とジュリアは反射的に思った。まだ少しぐずりながら、枕を抱え直してミシェルに言い返す。

「そうよ、悪い?」
「別に馬鹿にしたわけではない。……そんな所にいないで、入りなさい」

 そう言って伸ばされたミシェルの手を借りようとはせず、ジュリアは何とか自力で立ち上がった。手を拒まれたミシェルはただ少しだけ苦笑を漏らして先に部屋へ入って行った。ジュリアは枕を大事に抱えて、ミシェルに続いて部屋に入って行った。

 ミシェルの部屋ではあまり雷の音が響かない。それはジュリアの気のせいかもしれなかったが、柔らかい蝋燭の火が暖かかった。ミシェルはジュリアに背を向けて、カップに何か注いでいる。ジュリアは立ったまま、その後ろ姿を見つめていた。

「その椅子に座りなさい」

 ミシェルは背を向けたまま、ジュリアにそう言った。ジュリアは隣にあった椅子に腰掛けた。その椅子は高く、ジュリアは宙ぶらりになった足をハタハタと動かした。枕は胸の前でしっかりと抱いたままだ。

「ほら」

 ミシェルはカップを差し出した。湯気が立つそれは、お茶の匂いではなかった。芳しいアプリコットの香りがする。

「酒だから、あまりたくさん飲むんじゃあないぞ」

 口を付けようとしていたジュリアは思わず引いた。そして恐る恐る舌を伸ばして、カップの中に入れる。アプリコットの香りと共に酒の香りが香る。一つ舐めただけで、体が熱くなる。しかし、何故かその後心が落ち着いた。不思議な感覚だった。だからもう一口飲もうとしてミシェルにカップを取り上げられた時、彼女は心底がっかりしたのだ。

「ベティの部屋まで付いていってあげるから、もう寝なさい」

 差し出された手を払いのけ、ジュリアは椅子から飛び降りた。

「もう廊下に出るのはこりごりよ。今日は貴方の部屋で寝るわ」

 そう宣言すると、ジュリアは枕を手にして隣の寝室へと駆け込んでいった。枕を大きなベッドへ投げると、自分もジャンプしてベッドへ倒れ込んだ。ジュリアの小さな体はベッドのスプリングで何度か跳ね上がった。彼女なりの、小さな嫌がらせだった。ミシェルが呆れた様子でこちらを見ている。

「それで? お前は私に長椅子で寝ろと言いたいのか?」
「お好きなように。ベッドで寝るなら端っこ同士で寝るから、別に良いわよ」

 これでは元々誰のベッドであったのか分からない。ミシェルは書斎の灯りを消すと、寝室へ戻ってきて部屋の灯りを消し、ベッドの近くにあるランプに火を灯した。そして長椅子で寝ると思っていたジュリアの予想を裏切ってベッドへ入り込んできた。

「ちょっと、もう少し端へ行ってよ」

 ジュリアは上体を起こしたまま布団へ入っているミシェルの、布団に隠れた長い脚を蹴飛ばした。

「子供のくせに、一体何を気にしているんだ。大体ここは私の部屋だぞ」
「しっ、失礼ね! 私はもう大人よ。子供だって、産もうと思えば産めるんですからね!」

 何て事を口にするんだ、とミシェルが頭を押さえたすきに、ジュリアは布団を被った。絶対に出て行くつもりはないらしい。ミシェルは諦めて枕元の本を手にすると、それを開いた。しばらくしてジュリアはそっと布団から顔を出した。橙色の火の光に映し出されたミシェルの横顔。綺麗な鼻筋と引き締まった口元。何よりも落ち着いた色の瞳が美しかった。

 この人は、どうして私を引き取ったのかしら。

 揺れる灯が、ミシェルの純金の髪をも揺らして見せた。細い首にはこれから寝るのだというのに、包帯のようなリボンが巻かれたままだった。決して他には晒さないその首元は、何かを隠しているように思えたけれど、今更だ。きっと隠されている事なんて山ほどあるに違いない。


 私、何も知らないんだわ。
 この人が、パパとどういう関係だったのか。
 どういう理由で、私を引き取ったのか。


「ミシェル……」


 彼女が呼んでも、彼は返事もしなければ本から目を離すこともなかった。


「私…………貴方が嫌いよ」


 多分、本当はこんな事を口にしたかったわけではないのだ。ただ、本当に言いたかった言葉は、泡となってすぐに消えてしまった。

「理由を教えてあげましょうか」

 高慢な調子でジュリアはそう言った。それでも本から目を離さないミシェルに、ジュリアは少し怒っていた。

「あぁ……」

 本に視線を落としたまま、ミシェルがぼんやりと答えた。ジュリアは体を動かし、背を向けると、今度こそ頭まですっぽりと布団を被った。これでもう、互いがどんな顔をしているのか分からない。


「貴方が……私のことを嫌っているからよ」


 ミシェルは何も言わなかった。ジュリアもミシェルの顔を見る勇気が無くて、黙っていた。しばらく沈黙が続いて、ジュリアはやがて眠りに落ちていった。

 いつの間にか、隣で小さな寝息が聞こえていた。ミシェルはやっと本を閉じ、灯りを消すと隣の少女に布団をかけ直し、自分も布団へ入り、横になった。外の嵐はまだ続いている。

 貴方が……私のことを嫌っているからよ。

 ジュリアの声が頭の中を木霊した。時折雷光が、白い天井を照らす。


 違うよ、ジュリア……。
 ただ私は、勇気が無かっただけなのだ。
 失うことの悲しみに、怯えているだけなのだよ。


ミシェルの心の中で呟かれたその言葉は、深く眠っているジュリアに届くはずもなかった。

中編 / Flower Top